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'''栃本関'''(とちもとせき)は、[[埼玉県]][[秩父市]](旧[[大滝村]])にあった[[関所]]。栃本関跡として国の[[史跡]]に指定されている。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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'''栃本関所'''は、武蔵・甲州の間を通じる雁坂峠を越す秩父往還で武州に置かれた山間部の関所である。現在の埼玉県秩父市大滝村栃本に相当する<ref name=":honma643">本間(1988)、643頁。</ref>。菅平宿に接していることから、別称、菅平関がある<ref name="ikoda198">伊古田(1979)、198頁。</ref>。 |
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[[中山道]]と[[甲州街道]]の間道である[[秩父往還]]の関所として設けられた。[[江戸時代]]初期の[[1614年]](慶長19年)に大村氏が番士任じられて以来、[[明治維新]]まで大村家が関守を務めた。 |
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栃本関所の番頭は大村家が勤めていた。栃本関所の警備強化のため、武州麻生村と甲州河本村に加番所が設置され、麻生加番所、川浦加番所とされた。関守は、栃本・上中尾・下納・大久保の四組が栃本関所・麻生加番所の警備を勤めた。 |
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戦国時代は、敵の侵攻に対する要衝とされていたが、江戸時代には警備となっていた<ref name="honma644"/>。寛永8年(1631年)に武州麻生村と甲州河本村に加番所がつけられた<ref name="honma644"/>。栃本関所は、江戸時代成立以前は軍事的な警備を目的としたが、江戸時代には、「入鉄炮出女」の監視の役割を果たした。また、栃本の奧にあった真の沢・股の沢・小荒川の金山の監視が重要な役割であった。 |
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== 歴史 == |
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* [[1970年]](昭和45年)[[11月12日]] - 国の史跡に指定。 |
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関所の廃止は、明治元年(1868年)8月に通達があるが、口留番所の廃止通達がないため、明治2年(1867年)に[[岩鼻県]]へ伺いの上番所を廃止、 |
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== 所在地 == |
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関門を取り払っている。その後関所跡は、1970年(昭和45年)に「栃本関跡」として国の史跡指定されている。 |
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* 秩父市大滝1623番地ほか |
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== 栃本関所の設置 == |
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[[File:元禄年中改定図(秩父郡)新編武蔵風土記稿.jpg|thumb|栃本の位置(「元禄年中改定図」(秩父郡)新編武蔵風土記稿に拠る。)]] |
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===戦国時代=== |
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栃本関所の設置は、「[[新編武蔵風土記稿]]」によると戦国時代、武田信玄の秩父浸入の際設けられたとされ<ref name="saitama667"/>、番士を家臣山中右馬允とし、武州からの侵攻に備えたといわれている<ref name="honma644"/>。 |
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===江戸時代=== |
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[[慶長]]19年([[1614年]])、関東代官[[伊奈忠治]]・[[伊奈忠治|忠治]]が大村氏を関所の番士と、関所廃止まで大村氏が関所番士とされていた<ref name="ikoda198"/><ref name="honma644"/>本間(1988)、644頁。</ref>。 |
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[[寛永]]8年([[1631年]])には、警備強化のため、武州麻生村、甲州河本村に[[加番所]]が指定された<ref name="honma644"/> |
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江戸より西方、秩父郡三峯神社近くに置かれ、甲斐との往来を取り締まった<ref name="ooshima222">大島(1995)、222頁</ref>。 |
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== 栃本関所の位置 == |
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栃本関所の位置は、秩父郡古大滝村栃本に置かれていた<ref name="ikoda198"/>。[[荒川]]が刻んだ深いV字渓谷の急勾配上の要害堅固の地に立地する<ref name="saitama667">有限会社平凡社地方資料センター(1993)、667頁。</ref>。栃本は、江戸から中山道を経て35里、[[川越街道]]を経て31里半、[[青梅街道]]より27里あり<ref name="ikoda198"/>、栃本から[[雁坂峠]]を越える甲州へと通じ、[[三国峠]]、[[十文字峠]]などで信州・上州にも通じていた<ref name="saitama667"/>。 |
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==関所番== |
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江戸時代、栃本関所は関東代官伊奈忠治・忠治が大村氏を関所の番士とし<ref name="honma644">本間(1988)、644</ref>、「大村家累代誌」大村家文書によると大村家が関所廃止まで[[番頭]]を世襲していた<ref name="saitama668">有限会社平凡社地方資料センター(1993)、668頁。</ref>。[[延享]]元年には関守に二人扶持が与えられるようになった<ref name="ikoda199">伊古田(1979)、199頁</ref> |
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[[天明]]8年([[1788年]])の明細村鑑差上帳(山中家文書)には、惣名番組と称された栃本・上中尾・下納・大久保の四組が栃本関所・麻生加番所の警備を勤めた<ref name="saitama666">有限会社平凡社地方資料センター(1993)、666頁</ref>。 |
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===加番所=== |
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[[寛永]]8年([[1631年]])には、[[大岡忠左衛門]]、[[黒川八左衛門]]が巡見し、栃本関所の警備強化のため、雁坂通りの麻生村と甲州川の河本村を栃本関所の加番所に指定<ref name="honma644"/>、麻生村の加番所では名主千島六郎左衛門を頭とし、小西、大久保、梅久保、井上、牛尾の百姓24人を5人組とし番所の勤務を命じたとするものや<ref name="ikoda198"/>、麻生加番所は、古大滝村名主六郎兵衛を頭とし、下納組・上中尾組・大久保組の百姓24人とされているものがある<ref name="saitama667"/>。延享元年に栃本関所では関守に二人扶持となり、麻生加番所でも同様の願い出を出したが認められず、百姓の負担となった<ref name="ikoda199"/>。 |
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== 関所と関所道具類 == |
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栃本関所は、「新編武蔵風土記稿」によると、秩父甲州往還に関門が置かれた。門の北側に名主宅をかねた番所があった<ref name="saitama668"/>。 |
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関所道具類は、[[三道具]]、[[十手]]、[[捕縄]]<ref name="saitama668"/>、[[長道具]]・[[桃燈]]などを最初に下附されたのみだった<ref name="ikoda199"/>。 |
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麻生加番所は、「新編武蔵風土記稿」によると、関門はなく、番所は間口2間、奥行1・5間の箱番所で、番人は昼夜一人交替であった<ref name="saitama668"/>。 |
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天明8年(1788年)の古大滝村明細帳(山中家文書)によると、 |
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関所の造営・修理では諸道具・関門の修復などは番頭の自分入用でおこなわれていた。塀・柵・関所囲は、栃本・上中尾・下納・大久保の四組から人足を出し修理されていた<ref name="saitama668"/>。 |
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== 栃本関所の改め == |
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戦国時代は、敵の侵攻に対する要衝とされていたが、江戸時代には警備となっていた<ref name="honma644"/>。寛永8年(1631年)に武州麻生村と甲州河本村に加番所がつけられた<ref name="honma644"/>。栃本関所は、江戸時代成立以前は軍事的な警備を目的としたが、江戸時代には、「入鉄炮出女」の監視の役割を果たした。また、栃本の奧にあった真の沢・股の沢・小荒川の金山の監視が重要な役割であった<ref name="saitama667"/>。 |
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;武州・甲州間の通行<br> |
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関所の通行は公用を除き、明六つより暮六つまでとした。女性の通行は原則禁止であったが、古大滝村及び近村の善光寺・甲州身延山詣、甲州からの秩父巡礼については許されていた<ref name="saitama668"/>。 |
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この場所の通過は、武州から甲州へは、麻生加番所で千島六左衛門のによる手形を受け、栃本関所に提出し新たな手形を受け、甲州川村番所に提出するものであった<ref name="ikoda198-199"/>。一方、甲州から武州へは、河村番所の手形を栃本関所に提出のみだった<ref name="ikoda198-199">伊古田(1979)、198-199頁。</ref>。 |
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;「あか金山」<br> |
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[[万治]]2年()には、栃本関所の奧の「[[あか金山]]」の発掘の願出が[[江戸幕府|幕府]]に出されると、幕府から関所番へ御金荷物荷札の手形の[[検閲]]の強化が申し渡された<ref name="honma644"/>。 |
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== 関所の廃止と史跡指定 == |
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;関所の廃止<br> |
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「申上書付」(大村家文書)によると、 |
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[[明治]]元年(1868年)5月 |
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[[飯能戦争]]時に甲府警衛総督府の管理下 |
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豊前中津藩主奥平大膳太夫が番所を警備、 |
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明治元年(1868年)8月 |
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関所廃止の通達があるが、口留番所の廃止通達がないため、 |
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明治2年(1867年)に[[岩鼻県]]へ伺いの上番所を廃止、 |
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関門を取り払っている |
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<ref name="saitama668"/>。 |
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;国の史跡指定<br> |
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「栃本は、東海道箱根、中山道横川両関所の中間にあり、江戸から甲州・信州への交通の要所に位置」し、「建物は木造瓦葺切妻造り、一部2階建てであるが、かつては平屋・いろりの間・台所の私宅部分は、江戸時代の関守屋敷の様相」を残し、「御番門・矢来・柵木等の位置も絵図によってわかる」り、その重要性から、1970年(昭和45年)11月12日、国の史跡(史跡名勝天然記念物)に指定された |
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<ref group="✝" name=":1">[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp 栃本関跡]''国指定文化財等データベース''文化庁、(更新日2017年2月5日)、閲覧日2017年2月5日 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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'''注釈''' |
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'''出典''' |
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== 参考文献 == |
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'''書籍''' |
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*伊古田槌恵「第九章 交通の発達」『秩父地方史研究必携』埼玉新聞社、1979年、196-207頁。 |
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*大島延次郎「上恩方・檜原・上椚田関所」『関所』、新人物往来社、1995年、220-224頁。 |
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*有限会社 平凡社地方資料センター編「大滝村」『日本歴史地名体系11巻 埼玉県の地名』初版、1993年、664-673頁。 |
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*本間清利「第5章 交通と流通」、『新編 埼玉県史 通史編3 近世Ⅰ』、埼玉県、1988年、591-704頁。 |
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'''ウエブサイト''' |
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* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp 栃本関跡]''国指定文化財等データベース''文化庁、(更新日2017年2月5日)、閲覧日2017年2月5日 |
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== 関連項目 == |
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* [[甲州街道]] |
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* [[雁坂峠]] |
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* [[関所]] |
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* [[埼玉県の観光地]] |
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== 外部リンク == |
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* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.asp 国指定文化財等データベース] |
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2017年2月5日 (日) 00:46時点における版
栃本関所(とちもとせきしょ)は、 武蔵国と甲斐国の間の雁坂峠を越して通じる秩父往還(別称、甲州裏街道)にあった関所のひとつ[1]。 別称、菅平関がある[2]。栃本関所廃止後、その跡地は、「栃本関跡」として国の史跡に指定された[3]。現在の埼玉県秩父市大滝村栃本に相当する[1]。
概要
栃本関所は、武蔵・甲州の間を通じる雁坂峠を越す秩父往還で武州に置かれた山間部の関所である。現在の埼玉県秩父市大滝村栃本に相当する[4]。菅平宿に接していることから、別称、菅平関がある[2]。 栃本関所の番頭は大村家が勤めていた。栃本関所の警備強化のため、武州麻生村と甲州河本村に加番所が設置され、麻生加番所、川浦加番所とされた。関守は、栃本・上中尾・下納・大久保の四組が栃本関所・麻生加番所の警備を勤めた。
戦国時代は、敵の侵攻に対する要衝とされていたが、江戸時代には警備となっていた[5]。寛永8年(1631年)に武州麻生村と甲州河本村に加番所がつけられた[5]。栃本関所は、江戸時代成立以前は軍事的な警備を目的としたが、江戸時代には、「入鉄炮出女」の監視の役割を果たした。また、栃本の奧にあった真の沢・股の沢・小荒川の金山の監視が重要な役割であった。
関所の廃止は、明治元年(1868年)8月に通達があるが、口留番所の廃止通達がないため、明治2年(1867年)に岩鼻県へ伺いの上番所を廃止、 関門を取り払っている。その後関所跡は、1970年(昭和45年)に「栃本関跡」として国の史跡指定されている。
栃本関所の設置
戦国時代
栃本関所の設置は、「新編武蔵風土記稿」によると戦国時代、武田信玄の秩父浸入の際設けられたとされ[3]、番士を家臣山中右馬允とし、武州からの侵攻に備えたといわれている[5]。
江戸時代
慶長19年(1614年)、関東代官伊奈忠治・忠治が大村氏を関所の番士と、関所廃止まで大村氏が関所番士とされていた[2]<ref name="honma644"/>本間(1988)、644頁。</ref>。 寛永8年(1631年)には、警備強化のため、武州麻生村、甲州河本村に加番所が指定された[5] 江戸より西方、秩父郡三峯神社近くに置かれ、甲斐との往来を取り締まった[6]。
栃本関所の位置
栃本関所の位置は、秩父郡古大滝村栃本に置かれていた[2]。荒川が刻んだ深いV字渓谷の急勾配上の要害堅固の地に立地する[3]。栃本は、江戸から中山道を経て35里、川越街道を経て31里半、青梅街道より27里あり[2]、栃本から雁坂峠を越える甲州へと通じ、三国峠、十文字峠などで信州・上州にも通じていた[3]。
関所番
江戸時代、栃本関所は関東代官伊奈忠治・忠治が大村氏を関所の番士とし[5]、「大村家累代誌」大村家文書によると大村家が関所廃止まで番頭を世襲していた[7]。延享元年には関守に二人扶持が与えられるようになった[8] 天明8年(1788年)の明細村鑑差上帳(山中家文書)には、惣名番組と称された栃本・上中尾・下納・大久保の四組が栃本関所・麻生加番所の警備を勤めた[9]。
加番所
寛永8年(1631年)には、大岡忠左衛門、黒川八左衛門が巡見し、栃本関所の警備強化のため、雁坂通りの麻生村と甲州川の河本村を栃本関所の加番所に指定[5]、麻生村の加番所では名主千島六郎左衛門を頭とし、小西、大久保、梅久保、井上、牛尾の百姓24人を5人組とし番所の勤務を命じたとするものや[2]、麻生加番所は、古大滝村名主六郎兵衛を頭とし、下納組・上中尾組・大久保組の百姓24人とされているものがある[3]。延享元年に栃本関所では関守に二人扶持となり、麻生加番所でも同様の願い出を出したが認められず、百姓の負担となった[8]。
関所と関所道具類
栃本関所は、「新編武蔵風土記稿」によると、秩父甲州往還に関門が置かれた。門の北側に名主宅をかねた番所があった[7]。 関所道具類は、三道具、十手、捕縄[7]、長道具・桃燈などを最初に下附されたのみだった[8]。 麻生加番所は、「新編武蔵風土記稿」によると、関門はなく、番所は間口2間、奥行1・5間の箱番所で、番人は昼夜一人交替であった[7]。 天明8年(1788年)の古大滝村明細帳(山中家文書)によると、 関所の造営・修理では諸道具・関門の修復などは番頭の自分入用でおこなわれていた。塀・柵・関所囲は、栃本・上中尾・下納・大久保の四組から人足を出し修理されていた[7]。
栃本関所の改め
戦国時代は、敵の侵攻に対する要衝とされていたが、江戸時代には警備となっていた[5]。寛永8年(1631年)に武州麻生村と甲州河本村に加番所がつけられた[5]。栃本関所は、江戸時代成立以前は軍事的な警備を目的としたが、江戸時代には、「入鉄炮出女」の監視の役割を果たした。また、栃本の奧にあった真の沢・股の沢・小荒川の金山の監視が重要な役割であった[3]。
- 武州・甲州間の通行
関所の通行は公用を除き、明六つより暮六つまでとした。女性の通行は原則禁止であったが、古大滝村及び近村の善光寺・甲州身延山詣、甲州からの秩父巡礼については許されていた[7]。 この場所の通過は、武州から甲州へは、麻生加番所で千島六左衛門のによる手形を受け、栃本関所に提出し新たな手形を受け、甲州川村番所に提出するものであった[10]。一方、甲州から武州へは、河村番所の手形を栃本関所に提出のみだった[10]。
- 「あか金山」
万治2年()には、栃本関所の奧の「あか金山」の発掘の願出が幕府に出されると、幕府から関所番へ御金荷物荷札の手形の検閲の強化が申し渡された[5]。
関所の廃止と史跡指定
- 関所の廃止
「申上書付」(大村家文書)によると、 明治元年(1868年)5月 飯能戦争時に甲府警衛総督府の管理下 豊前中津藩主奥平大膳太夫が番所を警備、 明治元年(1868年)8月 関所廃止の通達があるが、口留番所の廃止通達がないため、 明治2年(1867年)に岩鼻県へ伺いの上番所を廃止、 関門を取り払っている [7]。
- 国の史跡指定
「栃本は、東海道箱根、中山道横川両関所の中間にあり、江戸から甲州・信州への交通の要所に位置」し、「建物は木造瓦葺切妻造り、一部2階建てであるが、かつては平屋・いろりの間・台所の私宅部分は、江戸時代の関守屋敷の様相」を残し、「御番門・矢来・柵木等の位置も絵図によってわかる」り、その重要性から、1970年(昭和45年)11月12日、国の史跡(史跡名勝天然記念物)に指定された [✝ 1]
脚注
注釈
出典
参考文献
書籍
- 伊古田槌恵「第九章 交通の発達」『秩父地方史研究必携』埼玉新聞社、1979年、196-207頁。
- 大島延次郎「上恩方・檜原・上椚田関所」『関所』、新人物往来社、1995年、220-224頁。
- 有限会社 平凡社地方資料センター編「大滝村」『日本歴史地名体系11巻 埼玉県の地名』初版、1993年、664-673頁。
- 本間清利「第5章 交通と流通」、『新編 埼玉県史 通史編3 近世Ⅰ』、埼玉県、1988年、591-704頁。
ウエブサイト
- 栃本関跡国指定文化財等データベース文化庁、(更新日2017年2月5日)、閲覧日2017年2月5日
関連項目
座標: 北緯35度94分4818秒 東経138度86分2896秒 / 北緯37.90500度 東経140.23778度 座標: 緯度の分が60以上です
座標: 緯度の秒が60以上です
座標: 経度の分が60以上です
座標: 経度の秒が60以上です
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