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「カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン」の版間の差分

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兄のスペイン王[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]は[[嫡出]]の男子を持たず、4度目の結婚で王女イサベルを得たのみであった。[[スペイン・ブルボン朝|ボルボン家]]は[[サリカ法典|サリカ法]]による継承を定めていたため、カルロスが王位を継承する予定であったが、[[1830年]]にフェルナンド7世はサリカ法を廃した。[[1833年]]にフェルナンド7世が死去すると、イサベルが[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]として即位した。
兄のスペイン王[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]は[[嫡出]]の男子を持たず、4度目の結婚で王女イサベルを得たのみであった。[[スペイン・ブルボン朝|ボルボン家]]は[[サリカ法典|サリカ法]]による継承を定めていたため、カルロスが王位を継承する予定であったが、[[1830年]]にフェルナンド7世はサリカ法を廃した。[[1833年]]にフェルナンド7世が死去すると、イサベルが[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]として即位した。


スペインでは当時、[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]の支持する[[自由主義]]派と、教会・貴族地主を中心とする反動派が政治対立を続けていたが、カルロスは後者と結託した。そのため、摂政[[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン|マリア・クリスティーナ]]王太后はブルジョワと結びついた。ここに7年にわたる内乱、[[カルリスタ戦争]]が発生することになった。[[1833年]]、カルロスは[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク]]と[[ナバラ州|ナバラ]]に政府を作ってカルロス5世と称し、{{仮リンク|トマース・デ・スマラカレギ|en|Tomás de Zumalacárregui}}、{{仮リンク|ラモン・カブレラ|en|Ramón Cabrera}}将軍を司令官として、マドリードの政府軍と衝突し、最初は優勢を占めた。一時はマドリードに迫る勢いだった。しかし[[バルドメロ・エスパルテロ]]を将軍に迎えたマドリード軍が逆襲し、カルリスタ内で教会と軍の分裂が生じたため、次第に足並みが乱れ、[[1839年]]にスマラカレギに代わり将軍となった{{仮リンク|ラファエル・マロト|en|Rafael Maroto}}は、単独でマドリードの政府と{{仮リンク|ベルガラ協定|en|Convention of Vergara}}を結んで休戦した。
スペインでは当時、[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]の支持する[[自由主義]]派と、教会・貴族地主を中心とする反動派が政治対立を続けていたが、カルロスは後者と結託した。そのため、摂政[[マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン|マリア・クリスティーナ]]王太后はブルジョワと結びついた。ここに7年にわたる内乱、[[カルリスタ戦争]]が発生することになった。[[1833年]]、カルロスは[[バスク国 (歴史的な領域)|バスク]]と[[ナバラ州|ナバラ]]に政府を作ってカルロス5世と称し、{{仮リンク|トマース・デ・スマラカレギ|en|Tomás de Zumalacárregui}}、{{仮リンク|ラモン・カブレラ (軍人)|label=ラモン・カブレラ|en|Ramón Cabrera, 1st Duke of Maestrazgo}}将軍を司令官として、マドリードの政府軍と衝突し、最初は優勢を占めた。一時はマドリードに迫る勢いだった。しかし[[バルドメロ・エスパルテロ]]を将軍に迎えたマドリード軍が逆襲し、カルリスタ内で教会と軍の分裂が生じたため、次第に足並みが乱れ、[[1839年]]にスマラカレギに代わり将軍となった{{仮リンク|ラファエル・マロト|en|Rafael Maroto}}は、単独でマドリードの政府と{{仮リンク|ベルガラ協定|en|Convention of Vergara}}を結んで休戦した。


カルロスは[[フランス]]の[[ブールジュ]]に亡命した。[[1845年]]にはカルリスタの王位を長男の[[カルロス・ルイス・デ・ボルボン (モンテモリン伯)|カルロス・ルイス]]に譲り、自らは[[トリエステ]]に引退した。
カルロスは[[フランス]]の[[ブールジュ]]に亡命した。[[1845年]]にはカルリスタの王位を長男の[[カルロス・ルイス・デ・ボルボン (モンテモリン伯)|カルロス・ルイス]]に譲り、自らは[[トリエステ]]に引退した。

2022年3月11日 (金) 18:19時点における版

カルロス・マリーア・デ・ボルボン
Carlos María de Borbón
ボルボン家
モリナ伯ドン・カルロス

全名 Carlos María Isidro Benito
カルロス・マリーア・イシドロ・ベニート
称号 モリナ伯
出生 (1788-03-29) 1788年3月29日
スペインの旗 スペイン王国マドリード王宮
死去 (1855-03-10) 1855年3月10日(66歳没)
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国トリエステ
埋葬 オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国トリエステ、トリエステ大聖堂内サン・カルロ・ボッローメオ礼拝堂
配偶者 マリア・フランシスカ・デ・ブラガンサ
  マリア・テレザ・デ・ブラガンサ
子女
父親 カルロス4世
母親 マリア・ルイサ・デ・パルマ
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カルロス・マリーア・デ・ボルボン・イ・ボルボン=パルマスペイン語: Carlos María de Borbón y Borbón-Parma, 1788年3月29日 - 1855年3月10日)は、スペインの王族。モリナ伯。カルリスタの王位請求者としてカルロス5世スペイン語: Carlos V)を称した。

生涯

スペイン国王カルロス4世とその妃マリアの間の次男としてマドリード王宮で生まれた。

兄のスペイン王フェルナンド7世嫡出の男子を持たず、4度目の結婚で王女イサベルを得たのみであった。ボルボン家サリカ法による継承を定めていたため、カルロスが王位を継承する予定であったが、1830年にフェルナンド7世はサリカ法を廃した。1833年にフェルナンド7世が死去すると、イサベルがイサベル2世として即位した。

スペインでは当時、ブルジョワの支持する自由主義派と、教会・貴族地主を中心とする反動派が政治対立を続けていたが、カルロスは後者と結託した。そのため、摂政マリア・クリスティーナ王太后はブルジョワと結びついた。ここに7年にわたる内乱、カルリスタ戦争が発生することになった。1833年、カルロスはバスクナバラに政府を作ってカルロス5世と称し、トマース・デ・スマラカレギ英語版ラモン・カブレラ英語版将軍を司令官として、マドリードの政府軍と衝突し、最初は優勢を占めた。一時はマドリードに迫る勢いだった。しかしバルドメロ・エスパルテロを将軍に迎えたマドリード軍が逆襲し、カルリスタ内で教会と軍の分裂が生じたため、次第に足並みが乱れ、1839年にスマラカレギに代わり将軍となったラファエル・マロト英語版は、単独でマドリードの政府とベルガラ協定英語版を結んで休戦した。

カルロスはフランスブールジュに亡命した。1845年にはカルリスタの王位を長男のカルロス・ルイスに譲り、自らはトリエステに引退した。

この後もカルリスタはスペイン北部で勢力を保ち、19世紀を通じて政治勢力として存続し、王位請求運動を行った。

家族

1816年に、ポルトガル国王ジョアン6世の次女マリア・フランシスカ(1800年 - 1834年)と結婚した。姉カルロータ・ホアキーナの娘であるため、カルロスとマリア・フランシスカとは叔父と姪の関係にあった。2人の間には3男が生まれた。

マリア・フランシスカと死別後、1838年にその姉マリア・テレザ(1793年 - 1874年)と再婚した。2人の間に子供は生まれなかった。

関連項目

先代
スペイン王位請求者
(カルリスタ)
1833年 - 1845年
次代
カルロス6世