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⚫ | [[File:Voelker Europas.jpg|thumb|360px|「'''黄禍'''」({{Lang-de-short|''gelbe Gefahr''}})の名を世界に知らしめた寓意画"''[[:de:Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter]]''"(「[[ヨーロッパの各民族よ、諸君らの神聖な富を守れ]]」)。[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の図案をもとに、歴史画家[[ヘルマン・クナックフース]]が描いたこの絵は、当時の[[ヨーロッパ]]の[[日本]]や[[中国]]([[清|清朝]])に対する警戒心を端的に表した有名なイラストであり、後に様々なパロディも作られるほどであった。またこの絵はヴィルヘルム2世から[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]への贈りものともなった。右手の田園で燃え盛る炎の中に[[仏陀]]がおり、左手の[[十字架]]が頭上に輝く高台には、[[ブリタニア (女神)|ブリタニア]]([[イギリス]])、[[ゲルマニア (擬人化)|ゲルマニア]]([[ドイツ]])、[[マリアンヌ]]([[フランス]])など[[ヨーロッパ]]諸国を擬人化した[[女神]]たちの前で[[キリスト教]]の[[大天使]][[ミカエル]]が戦いを呼び掛けている。]] |
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[[Image:YellowTerror.jpg|thumb|"The Yellow Terror In All His Glory", 1899 editorial cartoon]] |
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'''黄禍論'''(おうかろん / こうかろん、{{Lang-de-short|'''gelbe Gefahr'''}}、{{lang-en|'''Yellow peril'''}})とは、[[19世紀]]半ばから[[20世紀]]前半にかけて[[ヨーロッパ]]・[[北アメリカ]]・[[オーストラリア]]などの[[コーカソイド|白人]][[国家]]において現れた、[[黄色人種]]脅威論。[[人種差別]]の一種。[[フランス第三共和政|フランス]]では[[1896年]]の時点でこの言葉の使用が確認されており、[[ドイツ帝国]]の[[ドイツ皇帝|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が広めた寓意画「{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}」によって世界に流布した<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、58-60頁</ref>。 |
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'''黄禍論'''(おうかろん / こうかろん、{{lang-en|'''Yellow peril'''}})とは、[[19世紀]]半ばから[[20世紀]]前半にかけて[[ヨーロッパ]]・[[北アメリカ]]・[[オーストラリア]]などの[[コーカソイド|白人]][[国家]]において現れた、[[黄色人種]]脅威論。[[人種差別]]の一種。 |
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== 概要 == |
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主な論者に{{Lang-de-short|''gelbe Gefahr''}}(「黄禍」)というスローガンを掲げた[[ドイツ]]の[[ |
主な論者に{{Lang-de-short|''gelbe Gefahr''}}(「黄禍」)というスローガンを掲げた[[ドイツ帝国]]の[[ドイツ皇帝|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が挙げられる。 |
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古来白人は、[[モンゴル帝国]]をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられてきた。そのため黄色人種は、[[ロシア帝国]]においては[[タタールのくびき]]として、また、西ヨーロッパでは[[反キリスト|アンチキリスト]]がアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた。 |
古来[[白人]]は、[[モンゴル帝国]]をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられてきた。[[キタイ]]と言う言葉の直接の意味は、[[10世紀]]頃に[[華北]]にて[[遼]]朝を建国した[[遊牧民族]]「[[契丹]]」を指すが、[[ロシア語]]においては(現在も含めた)「[[中国]]」を意味し、北方への対外侵略を常としてきた契丹と同一視する事で警戒心・畏怖の意味も込められている<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20101030_4461.html]</ref>。そのため黄色人種は、[[モスクワ大公国]](後の[[ロシア帝国]])においては「[[タタールのくびき]]」として、また、[[西ヨーロッパ]]では[[反キリスト|アンチキリスト]]がアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた。 |
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近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に[[中国人]]、[[日本人]]<!--[[朝鮮人]]は中国人や日本人ほどの恐怖の対象だったのだろうか? 欧州にとっては眼中になかったのでは-->である。とくに |
近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に[[中国人]]、[[日本人]]<!--[[朝鮮人]]は中国人や日本人ほどの恐怖の対象だったのだろうか? 欧州にとっては眼中になかったのでは-->である。とくに[[アメリカ合衆国]]では[[1882年]]に制定された[[中国人排斥法|排華移民法]]、[[1924年]]に制定された[[排日移民法]]など露骨に[[反中]]、[[反日]]的な[[立法]]に顕われ、影響が論じられる。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[File:YellowTerror.jpg|thumb|260px|"The Yellow Terror In All His Glory"([[1899年]])と題された、黄禍に関する諷刺画。[[辮髪]]の[[中国人]]が女性を踏みつけにしている。]] |
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=== ヨーロッパ === |
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'''黄禍'''というスローガンは、[[日清戦争]]前後の[[1894年]]から[[1895年]]にかけて[[新聞]]、[[パンフレット]]、[[雑誌]]などのマスメディアに流布するようになった<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、41頁</ref>。その後、[[1900年]]の[[義和団の乱]]勃発まではドイツ帝国国内でさえ「黄禍」という言葉はほとんど無視され、対照的に[[ライン川]]の西の[[フランス第三共和政|第三共和政下]]の[[フランス]]では[[1896年]]から[[1899年]]の間、言論界で「黄禍」が屡々論じられた<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、42-43頁</ref>。 |
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黄禍というスローガンは、[[1895年]]の[[フランス]]で発生したと推定されている。その後、ドイツの皇帝ヴィルヘルム2世が黄禍論をスローガンとして使用したときは、プロイセン国内でさえほとんど無視されていた。ところが、[[1900年]]に[[義和団]]の乱が起こり、[[1904年]]に[[日露戦争]]が起ると、まず、イギリスで黄過論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった<ref>上掲『黄過論とは何か』</ref>。 |
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[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]は著書、『黄禍論とは何か』にて、「'''黄禍'''」は[[1895年]]にライン川の西で発生し、拡散していったと推定している<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、43頁</ref>。 |
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まず、イギリスで黄過論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった<ref>上掲『黄過論とは何か』</ref>。 |
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フランスの[[アナトール・フランス]]は、黄禍論の横行する世相の中、[[1904年]]に発表した[[小説]]『[[白い試金石]]』の中で、ヨーロッパの「白禍』こそが「黄禍』を生み出したのだと主張し、反植民地主義を唱えた<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、168-171頁</ref>。 |
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==== ドイツ ==== |
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「'''黄禍'''」という言葉が生まれる以前の黄禍思想は[[日清戦争]]の[[下関条約|講和条約]]に際して[[ロシア]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]の三国が[[1895年]][[4月23日]]に行った[[三国干渉]]によって広まった<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、45-48頁</ref>。[[ドイツ帝国]]の[[ドイツ皇帝|皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は「'''黄禍'''」を説くことによって、それまでの[[汎スラヴ主義]]と[[汎ゲルマン主義]]の対立によって[[ドイツ]]と敵対していた[[ロシア]]をイギリス相手に[[極東]]に釘付けし、更にロシアと同盟関係にあった[[フランス]]相手にドイツのヨーロッパに於ける立場を有利にすることを画策したのであった<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、48-49頁</ref>。三国干渉と同年の1895年の秋にヴィルヘルム2世は自らが原画を描き、宮廷画家[[ヘルマン・クナックフス]]が仕上げた寓意画「{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}」を[[ロシア帝国]]の[[ロシア皇帝|皇帝]][[ニコライ2世]]に贈呈し、さらにその複製がフランスの[[フェリックス・フォール]][[フランスの大統領|大統領]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ウィリアム・マッキンリー]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]らに配布され、この寓意画のイメージは[[西洋]]世界に黄禍論を普及させるに至った<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、51-53頁</ref>。 |
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ところが、[[1900年]]に[[義和団の乱]]が勃発すると、ヴィルヘルム2世は同1900年[[7月6日]]に[[キール (ドイツ)|キール]]港にて義和団の乱に派遣される[[ドイツ軍]]将兵に対して「[[匈奴演説]]」(フンネンレーデ)と呼ばれる黄色人種排斥演説を行い、7月に行われた幾度かの演説の中でドイツ皇帝は清国の兵士をドイツ軍が[[捕虜]]にする必要はないことなどを訴え、このヴィルヘルム2世の過激な言動は他の西洋諸国からも批判を受けた<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、87-88頁</ref>。 |
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さらに[[1904年]]に[[日露戦争]]が勃発すると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国の[[セオドア・ルーズベルト]]大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の[[人種]]戦争であることを訴えた<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、133-134頁</ref>。[[1905年]][[9月5日]]に日露戦争の講和条約である[[ポーツマス条約]]が締結された際には、翌[[9月6日]]の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて'''黄禍'''を訴え、日露戦争の勝利によって[[列強]]間の[[門戸開放政策]]を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で対抗させようと試みている<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、142-143頁</ref>。 |
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[[第一次世界大戦]]が勃発し、[[中央同盟国]]の一国である[[ドイツ]]に対し、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の一国として[[日本]]が参戦すると、ドイツでは黄禍感情が蘇り、雑誌『[[ルスティヒエ・ブレッター]]』や『[[ヴァーレ・ヤコブ]]』にはヴィルヘルム2世の寓意画、「{{仮リンク|ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!|de|Völker Europas, wahrt eure heiligsten Güter}}」をパロディにした対日諷刺画が掲載された<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、184-189頁</ref>。 |
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==== イタリア ==== |
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[[1934年]]に[[ファシスト党|ファシスタ]]・[[イタリア王国|イタリア]]の[[ドゥーチェ|統領]]、[[ベニート・ムッソリーニ]]は、[[1931年]]の[[満洲事変]]勃発以後の[[イタリア]]の[[中華民国]]支持政策や、[[エチオピア]]への領土的な野心から発した当時の[[日本]]とエチオピアの関係拡大への対抗から、[[日本人]]に対して黄禍論を表明して駐伊日本[[特命全権大使|大使]]の[[杉村陽太郎]]と衝突している<ref>[[岡倉登志]]「第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して――第二次イタリア-エチオピア戦争」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、211頁。</ref><ref>[[古川哲史]]「第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、307-308頁。</ref>。 |
[[1934年]]に[[ファシスト党|ファシスタ]]・[[イタリア王国|イタリア]]の[[ドゥーチェ|統領]]、[[ベニート・ムッソリーニ]]は、[[1931年]]の[[満洲事変]]勃発以後の[[イタリア]]の[[中華民国]]支持政策や、[[エチオピア]]への領土的な野心から発した当時の[[日本]]とエチオピアの関係拡大への対抗から、[[日本人]]に対して黄禍論を表明して駐伊日本[[特命全権大使|大使]]の[[杉村陽太郎]]と衝突している<ref>[[岡倉登志]]「第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して――第二次イタリア-エチオピア戦争」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、211頁。</ref><ref>[[古川哲史]]「第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、307-308頁。</ref>。 |
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=== アメリカ合衆国 === |
=== アメリカ合衆国 === |
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[[File:Yellow peril rupert.jpg|thumb|260px|[[1911年]]に刊行された[[アメリカ合衆国]]の[[キリスト教]][[ディスペンセーション主義|ディスペンセーション主義者]]、{{仮リンク|G・G・ルパート|en|G. G. Rupert}}の著書"''The Yellow Peril''"(『''黄禍''』)の第三版。]] |
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19世紀半ば、[[清|清朝]]が衰退し、[[イギリス]]をはじめ西洋諸国によって半[[植民地]]の状態におかれた[[中国]]では、安定した生活を求め海外に移住する者が出始めた。ちょうどこのころ[[カリフォルニア州]]で金鉱が発見され[[ゴールドラッシュ]]に沸きかえっていた。それもあって西部開拓が推し進められ、[[大陸横断鉄道]]の敷設が進められた。金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの中国人労働者が受け入れられた。 |
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[[19世紀]]半ば、[[清|清朝]]が衰退し、[[イギリス]]をはじめとする[[西洋]]諸国によって半[[植民地]]の状態におかれた[[中国]]では、安定した生活を求め海外に移住する者([[華僑]])が出始めた。 |
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ちょうどこの頃、[[1848年]][[1月24日]]に当時はまだ[[メキシコ]]の一部であった[[カリフォルニア州]]で[[金]][[鉱山]]が発見され[[ゴールドラッシュ]]に沸きかえっていた([[カリフォルニア・ゴールドラッシュ]])。ゴールドラッシュによる好景気の影響もあって[[西部開拓時代|西部開拓]]が推し進められ、[[大陸横断鉄道]]の敷設が進められた。金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの[[中国人]]労働者が受け入れられた([[苦力]])。[[1860年代]]よりカリフォルニアの白人労働者の間で反中国人[[苦力]]感情が高まっており、[[1869年]]には中国人を雇用する企業に対して[[テロ組織]]、[[アングロサクソン保護委員会]]が結成された<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、25-26頁</ref>。 |
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低賃金労働を厭わずに白人労働者と競争していた中国人労働者への反発から、[[1882年]]に[[中国人排斥法]]が制定された<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、148頁</ref>。この1882年の中国人排斥法の成立は[[ドイツ]]と[[オーストリア]]の[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]に思想的影響を与え、『[[新ドイツ民族新聞]]』やオーストリアの政治家、[[カール・ボイルレ]]は[[ユダヤ人]]を「[[ヨーロッパ]]の[[中国人]]」と呼んで攻撃する立場からこの法律に賛同する声明を発表している<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、184-185頁</ref>。 |
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[[1880年代]]より[[北アメリカ]]本土のカリフォルニアに移住した日本人移民は[[1900年代]]初頭に急増し、急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で現地社会から排斥されるようになり、[[1905年]]5月には[[日本人・韓国人排斥連盟]]が結成された<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、148-149頁</ref>。[[1906年]]4月の[[サンフランシスコ地震]]の後に悪化したカリフォルニアの対日感情のもつれは、[[1907年]]に日米当局による日本人移民の制限という形で政治決着した<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、149-157頁</ref>。この事件を契機に、アメリカ合衆国では「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった<ref>[[飯倉章]]『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、169頁</ref>。その後もアメリカ合衆国の対日感情は強硬であり、[[第一次世界大戦]]後の[[1924年]][[7月1日]]に[[排日移民法]]が制定された。 |
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=== オーストラリア === |
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{{See also|白豪主義}} |
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[[オーストラリア]]では[[1860年代]]より白人労働者によって[[反中]]キャンペーンが繰り広げられていた<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、25頁</ref>。オーストラリアでは[[労働組合]]が先頭に立って黄色人種排斥運動が展開され<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、68頁</ref>、オーストラリア植民地政府は黄禍論を出発点に外交政策を立てたため、[[日英同盟]]を結んでいたイギリス本国の外交政策とは大きな隔たりがあった<ref>[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[瀬野文教]]訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、67-68頁</ref> |
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== 脚註 == |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*[[ハインツ・ゴルヴィツァー]]『黄禍論とは何か』[[草思社]]、ISBN 4794209053 |
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*[[飯倉章]]『イエロー・ペリルの神話 帝国日本と「黄禍」の逆説』[[彩流社]]、2004年、ISBN 9784882029052 |
*[[飯倉章]]『イエロー・ペリルの神話 帝国日本と「黄禍」の逆説』[[彩流社]]、2004年、ISBN 9784882029052 |
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* {{Cite book|和書|author=[[岡倉登志]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編著 |others= |chapter=第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して――第二次イタリア-エチオピア戦争 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ68 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷 |date=2007年12月25日 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7503-2682-5 |volume= |page= |pages=206-211 |url= |ref=岡倉(2007)}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[ハインツ・ゴルヴィツァー]] |translator=[[瀬野文教]] |editor= |others= |chapter= |title=黄禍論とは何か |series= |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷発行 |date=1999年8月25日 |publisher=[[草思社]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7942-0905-3 |volume= |page= |pages= |url= |ref=ゴルヴィツァー/瀬野訳(1999)}} |
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*[[ジョン・ダワー]]『容赦なき戦争ー太平洋戦争における人種差別』[[平凡社]]、ISBN 4582764193 |
*[[ジョン・ダワー]]『容赦なき戦争ー太平洋戦争における人種差別』[[平凡社]]、ISBN 4582764193 |
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*[[橋本順光]](編集・解説)『英国黄禍論小説集成』<黄禍論ー英語文献復刻シリーズ①>Yellow Peril, Collection of British Novels 1895-1913, in 7 vols., edited by Yorimitsu Hashimoto, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 9784861660313 [http://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-031-9.html] |
*[[橋本順光]](編集・解説)『英国黄禍論小説集成』<黄禍論ー英語文献復刻シリーズ①>Yellow Peril, Collection of British Novels 1895-1913, in 7 vols., edited by Yorimitsu Hashimoto, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 9784861660313 [http://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-031-9.html] |
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*橋本順光(編集・解説)『黄禍論史資料集成』<黄禍論-英語文献復刻シリーズ②>Yellow Peril, Collection of Historical Sources, in 5 vols., edited by Yorimitsu Hashimoto, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 9784861660337 [http://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-033-5.html] |
*橋本順光(編集・解説)『黄禍論史資料集成』<黄禍論-英語文献復刻シリーズ②>Yellow Peril, Collection of Historical Sources, in 5 vols., edited by Yorimitsu Hashimoto, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 9784861660337 [http://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-033-5.html] |
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⚫ | * {{Cite book|和書|author=[[ |
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* {{Cite book|和書|author=[[古川哲史]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編著 |others= |chapter=第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ68 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷 |date=2007年12月25日 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7503-2682-5 |volume= |page= |pages=307-312 |url= |ref=古川(2007)}} |
* {{Cite book|和書|author=[[古川哲史]] |translator= |editor=[[岡倉登志]]編著 |others= |chapter=第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争 |title=エチオピアを知るための50章 |series=エリア・スタディーズ68 |origdate= |origyear= |origmonth= |edition=初版第1刷 |date=2007年12月25日 |publisher=[[明石書店]] |location=[[東京]] |id= |isbn=4-7503-2682-5 |volume= |page= |pages=307-312 |url= |ref=古川(2007)}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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*[[人種差別]] |
* [[人種差別]] |
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* [[イエロー・ジャーナリズム]] |
* [[イエロー・ジャーナリズム]] |
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** [[ハースト・コーポレーション]] |
** [[ハースト・コーポレーション]] |
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** [[サンフランシスコ・エグザミナー]] |
** [[サンフランシスコ・エグザミナー]] |
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** {{仮リンク|シアトル・ポスト・インテリジェンサー|en|Seattle Post-Intelligencer}} |
** {{仮リンク|シアトル・ポスト・インテリジェンサー|en|Seattle Post-Intelligencer}} |
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* [[排 |
* [[中国人排斥法|排華移民法]]/[[反中]] |
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* [[排日移民法]]/[[反日]] |
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* [[日系人の強制収容]] |
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* [[第442連隊戦闘団]] |
* [[日系人の強制収容]]/[[第442連隊戦闘団]] |
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* [[反中]] |
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* [[キタイ]] - 直接の意味は、10世紀頃に中国北部にて[[遼]]王朝を建国した[[遊牧民族]]「[[契丹]]」を指すが、ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常としてきた契丹と同一視する事で警戒心・畏怖の意味も込められている<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20101030_4461.html]</ref>。 |
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* [[フー・マンチュー]] |
* [[フー・マンチュー]] |
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* [[ジャック・ロンドン]] |
* [[ジャック・ロンドン]] - 黄禍論者。著作もある。 |
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* [[人種的差別撤廃提案]] |
* [[人種的差別撤廃提案]] |
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== 外部リンク == |
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==外部リンク== |
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*[http://1000ya.isis.ne.jp/1423.html 『黄禍論とは何か』ハインツ・ゴルヴィツァー]千夜千冊 連環篇 |
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1423.html 『黄禍論とは何か』ハインツ・ゴルヴィツァー]千夜千冊 連環篇 |
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2014年6月17日 (火) 09:15時点における版
黄禍論(おうかろん / こうかろん、独: gelbe Gefahr、英語: Yellow peril)とは、19世紀半ばから20世紀前半にかけてヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなどの白人国家において現れた、黄色人種脅威論。人種差別の一種。フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が広めた寓意画「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!」によって世界に流布した[1]。
概要
主な論者に独: gelbe Gefahr(「黄禍」)というスローガンを掲げたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が挙げられる。
古来白人は、モンゴル帝国をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられてきた。キタイと言う言葉の直接の意味は、10世紀頃に華北にて遼朝を建国した遊牧民族「契丹」を指すが、ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常としてきた契丹と同一視する事で警戒心・畏怖の意味も込められている[2]。そのため黄色人種は、モスクワ大公国(後のロシア帝国)においては「タタールのくびき」として、また、西ヨーロッパではアンチキリストがアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた。
近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に中国人、日本人である。とくにアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移民法、1924年に制定された排日移民法など露骨に反中、反日的な立法に顕われ、影響が論じられる。
歴史
黄禍というスローガンは、日清戦争前後の1894年から1895年にかけて新聞、パンフレット、雑誌などのマスメディアに流布するようになった[3]。その後、1900年の義和団の乱勃発まではドイツ帝国国内でさえ「黄禍」という言葉はほとんど無視され、対照的にライン川の西の第三共和政下のフランスでは1896年から1899年の間、言論界で「黄禍」が屡々論じられた[4]。
ハインツ・ゴルヴィツァーは著書、『黄禍論とは何か』にて、「黄禍」は1895年にライン川の西で発生し、拡散していったと推定している[5]。
まず、イギリスで黄過論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった[6]。
フランスのアナトール・フランスは、黄禍論の横行する世相の中、1904年に発表した小説『白い試金石』の中で、ヨーロッパの「白禍』こそが「黄禍』を生み出したのだと主張し、反植民地主義を唱えた[7]。
ドイツ
「黄禍」という言葉が生まれる以前の黄禍思想は日清戦争の講和条約に際してロシア、ドイツ、フランスの三国が1895年4月23日に行った三国干渉によって広まった[8]。ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」を説くことによって、それまでの汎スラヴ主義と汎ゲルマン主義の対立によってドイツと敵対していたロシアをイギリス相手に極東に釘付けし、更にロシアと同盟関係にあったフランス相手にドイツのヨーロッパに於ける立場を有利にすることを画策したのであった[9]。三国干渉と同年の1895年の秋にヴィルヘルム2世は自らが原画を描き、宮廷画家ヘルマン・クナックフスが仕上げた寓意画「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!」をロシア帝国の皇帝ニコライ2世に贈呈し、さらにその複製がフランスのフェリックス・フォール大統領、アメリカ合衆国のウィリアム・マッキンリー大統領らに配布され、この寓意画のイメージは西洋世界に黄禍論を普及させるに至った[10]。
ところが、1900年に義和団の乱が勃発すると、ヴィルヘルム2世は同1900年7月6日にキール港にて義和団の乱に派遣されるドイツ軍将兵に対して「匈奴演説」(フンネンレーデ)と呼ばれる黄色人種排斥演説を行い、7月に行われた幾度かの演説の中でドイツ皇帝は清国の兵士をドイツ軍が捕虜にする必要はないことなどを訴え、このヴィルヘルム2世の過激な言動は他の西洋諸国からも批判を受けた[11]。
さらに1904年に日露戦争が勃発すると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はアメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領に対し、日露戦争が黄白人種間の人種戦争であることを訴えた[12]。1905年9月5日に日露戦争の講和条約であるポーツマス条約が締結された際には、翌9月6日の『ニューヨーク・タイムズ』紙のインタビューにてヴィルヘルム2世はドイツ外交当局の意図を超えて黄禍を訴え、日露戦争の勝利によって列強間の門戸開放政策を崩しかねない日本をアメリカ合衆国の力で対抗させようと試みている[13]。
第一次世界大戦が勃発し、中央同盟国の一国であるドイツに対し、連合国の一国として日本が参戦すると、ドイツでは黄禍感情が蘇り、雑誌『ルスティヒエ・ブレッター』や『ヴァーレ・ヤコブ』にはヴィルヘルム2世の寓意画、「ヨーロッパの諸国民よ、汝らの最も神聖な宝を守れ!」をパロディにした対日諷刺画が掲載された[14]。
イタリア
1934年にファシスタ・イタリアの統領、ベニート・ムッソリーニは、1931年の満洲事変勃発以後のイタリアの中華民国支持政策や、エチオピアへの領土的な野心から発した当時の日本とエチオピアの関係拡大への対抗から、日本人に対して黄禍論を表明して駐伊日本大使の杉村陽太郎と衝突している[15][16]。
アメリカ合衆国
19世紀半ば、清朝が衰退し、イギリスをはじめとする西洋諸国によって半植民地の状態におかれた中国では、安定した生活を求め海外に移住する者(華僑)が出始めた。
ちょうどこの頃、1848年1月24日に当時はまだメキシコの一部であったカリフォルニア州で金鉱山が発見されゴールドラッシュに沸きかえっていた(カリフォルニア・ゴールドラッシュ)。ゴールドラッシュによる好景気の影響もあって西部開拓が推し進められ、大陸横断鉄道の敷設が進められた。金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として多くの中国人労働者が受け入れられた(苦力)。1860年代よりカリフォルニアの白人労働者の間で反中国人苦力感情が高まっており、1869年には中国人を雇用する企業に対してテロ組織、アングロサクソン保護委員会が結成された[17]。
低賃金労働を厭わずに白人労働者と競争していた中国人労働者への反発から、1882年に中国人排斥法が制定された[18]。この1882年の中国人排斥法の成立はドイツとオーストリアの反ユダヤ主義者に思想的影響を与え、『新ドイツ民族新聞』やオーストリアの政治家、カール・ボイルレはユダヤ人を「ヨーロッパの中国人」と呼んで攻撃する立場からこの法律に賛同する声明を発表している[19]。
少し遅れて19世紀後半に日本人がハワイに移住を始める。1898年にハワイが米国に併合され、また、カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民のアメリカ合衆国本土への移転が増加する。
祖国では困窮しきっていた彼らは新天地での仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いた。そのためイタリア系やアイルランド系(いずれも熱心なカトリック教徒)などの白人社会では、下層を占めていた人々の雇用を中国人移民や日本人移民などの黄色人種が奪うようになった。それが社会問題化し、黄禍論が唱えられるようになった。
1880年代より北アメリカ本土のカリフォルニアに移住した日本人移民は1900年代初頭に急増し、急増に伴って中国人が排斥されたのと同様の理由で現地社会から排斥されるようになり、1905年5月には日本人・韓国人排斥連盟が結成された[20]。1906年4月のサンフランシスコ地震の後に悪化したカリフォルニアの対日感情のもつれは、1907年に日米当局による日本人移民の制限という形で政治決着した[21]。この事件を契機に、アメリカ合衆国では「黄禍」は「日禍」として捉えられるようになった[22]。その後もアメリカ合衆国の対日感情は強硬であり、第一次世界大戦後の1924年7月1日に排日移民法が制定された。
オーストラリア
オーストラリアでは1860年代より白人労働者によって反中キャンペーンが繰り広げられていた[23]。オーストラリアでは労働組合が先頭に立って黄色人種排斥運動が展開され[24]、オーストラリア植民地政府は黄禍論を出発点に外交政策を立てたため、日英同盟を結んでいたイギリス本国の外交政策とは大きな隔たりがあった[25]
脚註
出典
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、58-60頁
- ^ [1]
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、41頁
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、42-43頁
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、43頁
- ^ 上掲『黄過論とは何か』
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、168-171頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、45-48頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、48-49頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、51-53頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、87-88頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、133-134頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、142-143頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、184-189頁
- ^ 岡倉登志「第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して――第二次イタリア-エチオピア戦争」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、211頁。
- ^ 古川哲史「第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争」『エチオピアを知るための50章』岡倉登志編著、明石書店〈エリア・スタディーズ68〉、東京、2007年12月25日、初版第1刷、307-308頁。
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、25-26頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、148頁
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、184-185頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、148-149頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、149-157頁
- ^ 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』中央公論新社〈中公新書2210〉、東京、2013年3月25日発行、169頁
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、25頁
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、68頁
- ^ ハインツ・ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』瀬野文教訳、草思社、東京、1999年8月25日、初版第1刷発行、67-68頁
参考文献
- 飯倉章『イエロー・ペリルの神話 帝国日本と「黄禍」の逆説』彩流社、2004年、ISBN 9784882029052
- 飯倉章『黄禍論と日本人――欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』(発行)中央公論新社、東京〈中公新書2210〉、2013年3月25日。ISBN 4-12-102210-3{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 岡倉登志 著「第29章 「東アフリカ帝国構想」に抗して――第二次イタリア-エチオピア戦争」、岡倉登志編著 編『エチオピアを知るための50章』(初版第1刷)明石書店、東京〈エリア・スタディーズ68〉、2007年12月25日、206-211頁。ISBN 4-7503-2682-5{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- ハインツ・ゴルヴィツァー 著、瀬野文教 訳『黄禍論とは何か』(初版第1刷発行)草思社、東京、1999年8月25日。ISBN 4-7942-0905-3。
- ジョン・ダワー『容赦なき戦争ー太平洋戦争における人種差別』平凡社、ISBN 4582764193
- 橋本順光(編集・解説)『英国黄禍論小説集成』<黄禍論ー英語文献復刻シリーズ①>Yellow Peril, Collection of British Novels 1895-1913, in 7 vols., edited by Yorimitsu Hashimoto, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 9784861660313 [2]
- 橋本順光(編集・解説)『黄禍論史資料集成』<黄禍論-英語文献復刻シリーズ②>Yellow Peril, Collection of Historical Sources, in 5 vols., edited by Yorimitsu Hashimoto, Tokyo: Edition Synapse. ISBN 9784861660337 [3]
- 古川哲史 著「第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争」、岡倉登志編著 編『エチオピアを知るための50章』(初版第1刷)明石書店、東京〈エリア・スタディーズ68〉、2007年12月25日、307-312頁。ISBN 4-7503-2682-5{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
関連項目
- 人種差別
- 白人至上主義
- タタール
- 反キリスト
- イエロー・ジャーナリズム
- 排華移民法/反中
- 排日移民法/反日
- 日系人の強制収容/第442連隊戦闘団
- フー・マンチュー
- ジャック・ロンドン - 黄禍論者。著作もある。
- 人種的差別撤廃提案
外部リンク
- 『黄禍論とは何か』ハインツ・ゴルヴィツァー千夜千冊 連環篇