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*[[1941年]](昭和16年)[[4月29日]] - この当時、人口約7千6百人の座間町は[[大野村 (神奈川県)|大野村]]、[[新磯村]]、[[上溝町]]、[[麻溝村]]、[[大沢村 (神奈川県)|大沢村]]、[[田名村]]、[[相原村]]と合併し、人口4万人を超える[[高座郡]][[相模原町]]が誕生。座間町の区域は相模原町の一部となる。 |
*[[1941年]](昭和16年)[[4月29日]] - この当時、人口約7千6百人の座間町は[[大野村 (神奈川県)|大野村]]、[[新磯村]]、[[上溝町]]、[[麻溝村]]、[[大沢村 (神奈川県)|大沢村]]、[[田名村]]、[[相原村]]と合併し、人口4万人を超える[[高座郡]][[相模原町]]が誕生。座間町の区域は相模原町の一部となる。 |
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*[[1945年]](昭和20年)[[9月2日]] - [[大東亜戦争|敗戦]]により[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]が[[GHQ|進駐軍]]に接収され[[キャンプ座間]]となる。[[キャンプ座間]]⇔横浜間の進駐軍車両往来の為、既存の町道を県道座間下鶴間線として運用開始<ref>起点:[[相武台前駅]][[踏切]]前 - 江戸街道 - 小池窪 - 鶴間街道 |
*[[1945年]](昭和20年)[[9月2日]] - [[大東亜戦争|敗戦]]により[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]が[[GHQ|進駐軍]]に接収され[[キャンプ座間]]となる。[[キャンプ座間]]⇔横浜間の進駐軍車両往来の為、既存の町道を県道座間下鶴間線として運用開始<ref>起点:[[相武台前駅]][[踏切]]前 - 江戸街道 - 小池窪 - 鶴間街道 - 下鶴間 - 旧[[国道16号]]</ref>。 |
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*[[1947年]](昭和22年) - [[GHQ|進駐軍]]の命により「相武台新道」(現在の[[神奈川県道50号座間大和線|座間街道]])整備拡幅幹線道路化工事始まる<ref>『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』</ref>。 |
*[[1947年]](昭和22年) - [[GHQ|進駐軍]]の命により「相武台新道」(現在の[[神奈川県道50号座間大和線|座間街道]])整備拡幅幹線道路化工事始まる<ref>『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』</ref>。 |
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*[[1948年]](昭和23年)[[9月1日]] - 旧座間町域(現在の[[座間市]]域)が相模原町から分離独立し、[[高座郡]][[座間町]]が再置される<ref>相模原町は残りの区域で、[[1954年]][[11月20日]]に[[市制]]施行して人口約8万人の[[相模原市]]が発足した。</ref>。人口約1万1千人。 |
*[[1948年]](昭和23年)[[9月1日]] - 旧座間町域(現在の[[座間市]]域)が相模原町から分離独立し、[[高座郡]][[座間町]]が再置される<ref>相模原町は残りの区域で、[[1954年]][[11月20日]]に[[市制]]施行して人口約8万人の[[相模原市]]が発足した。</ref>。人口約1万1千人。 |
2024年11月20日 (水) 18:00時点における版
広野台 | |
---|---|
町丁 | |
北緯35度30分03秒 東経139度25分20秒 / 北緯35.500764度 東経139.422356度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川 |
市町村 | 座間市 |
人口情報(2023年(令和5年)8月1日現在[1]) | |
人口 | 2,949 人 |
世帯数 | 1,366 世帯 |
面積([2]) | |
0.681234218 km² | |
人口密度 | 4328.91 人/km² |
設置日 | 1974年(昭和49年)11月1日 |
郵便番号 | 252-0012[3] |
市外局番 | 046(厚木MA)[4] |
ナンバープレート | 相模 |
ウィキポータル 日本の町・字 ウィキポータル 神奈川県 ウィキプロジェクト 日本の町・字 |
広野台(ひろのだい)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名は広野台一丁目から広野台二丁目。住居表示実施済み区域[5]。
地理
座間市の北部に位置し、一丁目北部に1927年4月1日、小田急小田原線が開通、運行しているが最寄り駅はなく、小田急相模原駅と相武台前駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩20分未満。
概略
旧地籍は、現一丁目が大字座間字元広野の大部分・元広野窪全域・上小池・南広野の各一部。 現二丁目が大字座間字元広野残り分・南広野一部、大字座間入谷飛び地の向長窪の西半分・東長久保・長久保・長久保中通である[6]。
広野(ひろの)と呼ばれたこの地域は、厚木から武蔵国国府が置かれていた府中に通じる府中みち[7]、大山道と神奈川往還(国道16号線旧道)が交差する下鶴間宿へ通ずる鶴間街道[8]、遠くは江戸三宅坂へ通ずる江戸街道[9]、これらの古街道が通っており、座間宿や座間入谷の人々が芝原(しばあら)[10]へ耕作に通う往来の地であり、集落は往古から形成されず畑・荒地・雑木林が混在していた[11]。
1974年11月1日、座間市は当該地域の各大字小字を統合し広野台1・2丁目を新設、1999年9月13日には住居表示を実施した。
年表
- 江戸時代
- 1868年(明治元年)- 座間入谷村・座間宿村、神奈川府を経て神奈川県に所属。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により高座郡座間村大字座間・大字座間入谷飛び地となる。
- 1927年(昭和2年)4月1日 - 小田原急行鉄道小田原線開通。
- 昭和12年(1937年)9月30日 - 市ヶ谷より陸軍士官学校が現在のキャンプ座間にのところに移転。
- 昭和12年(1937年)12月20日 - 陸軍士官学校の卒業式(同12月20日挙行)昭和天皇行幸につき、府中みちが改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成(未完の士官学校正門~座間上宿ほか全面完成は翌年11月)。
- 1937年(昭和12年)12月20日 - 座間村が町制施行し高座郡座間町となった。人口約7千人。
- 1941年(昭和16年)4月29日 - この当時、人口約7千6百人の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口4万人を超える高座郡相模原町が誕生。座間町の区域は相模原町の一部となる。
- 1945年(昭和20年)9月2日 - 敗戦により陸軍士官学校が進駐軍に接収されキャンプ座間となる。キャンプ座間⇔横浜間の進駐軍車両往来の為、既存の町道を県道座間下鶴間線として運用開始[15]。
- 1947年(昭和22年) - 進駐軍の命により「相武台新道」(現在の座間街道)整備拡幅幹線道路化工事始まる[16]。
- 1948年(昭和23年)9月1日 - 旧座間町域(現在の座間市域)が相模原町から分離独立し、高座郡座間町が再置される[17]。人口約1万1千人。
- 1954年(昭和29年)10月15日 - 県道座間下鶴間線廃止、神奈川県から座間町へ移管。
- 1954年(昭和29年)10月26日 - 神奈川県道座間大和線(座間街道)全面開通。
- 1955年(昭和30年) - 座間町営水道給水開始。
- 1957年(昭和32年) - 座間町が企業誘致を開始。
- 1962年(昭和37年)4月1日 - 高座郡座間町立座間第三小学校創立(座間中学校体育館内に併設開校)。同年11月19日、本館完成により、現在地の高座郡座間町座間字元広野5054番地に移転、新校舎に全児童入校式。11月25日竣工式、開校記念日とす[18]。
- 1964年(昭和39年)12月 - 高座郡座間町座間字元広野5000番地に日産自動車座間工場が一部竣工・稼働開始[19]。
- 1965年(昭和40年) - 日産自動車座間工場完成。
- 1965年(昭和40年)5月30日 - 座間電報電話局管内[20]の電話、全国ダイヤル自動即時化。市外局番0462・市内局番51[21]。
- 1966年(昭和41年)4月4日 - 相武台歩道橋竣工(座間町内初の歩道橋)。
- 1967年(昭和42年)7月22日 - 座間町立広野プール開設。
- 1968年(昭和43年)7月1日 - 町内の郵便番号が付与される。(〒228)
- 1971年(昭和46年)11月1日 - 高座郡座間町、市制施行し座間市となる。人口約6万2千人。
- 1974年(昭和49年)11月1日 - 当該地域の大字小字を統合し広野台1・2丁目を新設。住所の表記は従来からの地番を使用(例・広野台1丁目xxxx番地の1)[22]。
- 1999年(平成11年)9月13日 - 住居表示実施(例・広野台一丁目x番1号)[23][24]。
- 2001年(平成13年) - 電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化。
- 2010年(平成22年)4月1日 - 相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。
世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
広野台一丁目 | 1,366世帯 | 2,949人 |
広野台二丁目 | 0世帯 | 0人 |
計 | 1,366世帯 | 2,949人 |
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
年 | 人口 |
---|---|
1995年(平成7年)[25] | 2,426
|
2000年(平成12年)[26] | 2,470
|
2005年(平成17年)[27] | 2,844
|
2010年(平成22年)[28] | 3,075
|
2015年(平成27年)[29] | 3,179
|
2020年(令和2年)[30] | 3,037
|
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
年 | 世帯数 |
---|---|
1995年(平成7年)[25] | 838
|
2000年(平成12年)[26] | 925
|
2005年(平成17年)[27] | 1,087
|
2010年(平成22年)[28] | 1,184
|
2015年(平成27年)[29] | 1,248
|
2020年(令和2年)[30] | 1,254
|
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[31]。
丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
広野台一丁目 | 33番~35番 | 座間市立相武台東小学校 | 座間市立座間中学校 |
1~32番 36~50番 |
座間市立相模野小学校 | 座間市立相模中学校 | |
広野台二丁目 | 全域 |
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は、以下の通りである[32]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
広野台一丁目 | 78事業所 | 897人 |
広野台二丁目 | 220事業所 | 8,859人 |
計 | 298事業所 | 9,756人 |
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
年 | 事業者数 |
---|---|
2016年(平成28年)[33] | 142
|
2021年(令和3年)[32] | 298
|
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
年 | 従業員数 |
---|---|
2016年(平成28年)[33] | 5,823
|
2021年(令和3年)[32] | 9,756
|
交通
鉄道
一丁目北部に1927年小田急小田原線が敷設され運行しているが、町内に鉄道駅はない。
乗り合いバス
- 神奈川中央交通東の路線 - 北相武台バス停
- 座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線
廃止路線
道路
- 神奈川県道50号座間大和線 - 1947年(昭和22年)進駐軍の命により既存の農道を整備拡張工事着工、1954年(昭和29年)10月26日に幹線道路として全面開通した[34][35]。通称、相武台新道・行政道路→座間日産通り→座間県道→座間街道。
- 東京都道・神奈川県道51号町田厚木線 - 通称、府中みち・町田街道→行幸道路。昭和12年(1937年)9月30日、市ヶ谷より現在のキャンプ座間に移転した陸軍士官学校の卒業式(同12月20日挙行)昭和天皇行幸につき、府中みちが改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成(未完の士官学校正門~座間上宿ほか全面完成は翌年11月)。
施設
その他
日本郵便
脚注
- ^ a b “町丁字別年齢別人口統計表(令和5年)” (CSV). 座間市 (2023年8月8日). 2023年8月16日閲覧。 “(ファイル元のページ)”(CC-BY-4.0)
- ^ “『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年8月16日閲覧。(CC-BY-4.0)
- ^ a b “広野台の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月9日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ 不動産登記法に基づく地番整理(地番の付け直し)は実施せず。
- ^ 引用元:『座間の地名・付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』
- ^ 現・行幸道路
- ^ 相模野小学校下、江戸街道の小池窪から座間街道イオンモールへ向かい、下鶴間宿で大山道(矢倉沢往還)と八王子道(滝山道)に合流した。
- ^ 相武台前駅踏切を渡り相模が丘に向かう道。相模野小学校下、元広野と元広野窪の境界道である小池窪の坂を直進し農道(現・座間街道)を渡り、相模が丘中部(三丁目と四丁目の境界道路・五丁目と六丁目の境界道路)を縦貫し、上鶴間村(東海大相模高校側)と下鶴間村(相模カンツリー倶楽部側)の境の道で八王子道(滝山道)を渡り鶴間村町谷原(町田市南町田の町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿で江戸三宅坂へ向かう大山街道(矢倉沢往還)に合流。
- ^ 江戸末期の嘉永6年(1853年)芝原(しばあら)と呼ばれた相模が丘から小松原・ひばりが丘・さがみ野・東原にかけて開墾がはじまり、文久年間に地割が完成し耕作が始まった。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・相模台の昔』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
- ^ 座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子
- ^ 引用元:皇国地誌村誌
- ^ 引用元:皇国地誌村誌
- ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
- ^ 起点:相武台前駅踏切前 - 江戸街道 - 小池窪 - 鶴間街道 - 下鶴間 - 旧国道16号
- ^ 『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』
- ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日に市制施行して人口約8万人の相模原市が発足した。
- ^ 相模野小学校五十周年記念誌より
- ^ 座間入谷飛び地向長窪・東長久保・長久保・長久保中通などの古来の小字が事実上不詳になった。
- ^ 座間町(相模台の町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部・新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年5月30日当時
- ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx
- ^ 住居表示は実施せず。
- ^ “広野台地区(平成11年9月13日施行)”. 座間市. 2023年8月16日閲覧。
- ^ 不動産登記法に基づく地番整理(地番の付け直し)は実施せず。
- ^ a b “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
- ^ “小・中学校の通学区域” (2022年12月7日). 2023年8月16日閲覧。
- ^ a b c “経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
- ^ a b “経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- ^ 「座間市史 4(近現代資料編 2・3)基地の町の実情」272頁 昭和二十八年二月「米軍移駐にともなう交通対策につき陳情」より。
- ^ 『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』
- ^ “郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。