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「バッチャーニ・グスターフ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
en:Gusztáv Batthyány 2007-06-26 05:54 UTC より翻訳 - 英語版の方でもen:Gustavus Batthyanyとの記事統合が提案されているので、当記事に追記する形で翻訳しました。
m ページ バッチャーニ・グスターヴバッチャーニ・グスターフ へ移動: この人物はハンガリーからイギリスへの帰化人なので英語名を持っていますが、ハンガリーの歴史においても�
(相違点なし)

2007年7月26日 (木) 13:04時点における版

バッチャーニ・グスターフ(英語名 Gustavus Batthyany, 1803年-1883年)は、1848年ハンガリー独立運動マジャル国民運動)において立憲内閣の首班を務めたハンガリー貴族伯爵位)である。競馬オーナーブリーダーとしても高名。

ハンガリー語の正式な人名表記ではBatthyány Gusztávであり、「バッチャーニ」が姓である[1]。但し、英国に帰化した後は Gustavus Batthyany の名称を用いた[2]


出自と経歴

ウルス - バッチャーニ家の系譜を辿ると、アールパードを首長とする7人の王の一人に突き当たる。

バッチャーニ家の起源は896年アールパード朝成立の時代にまで遡る。その始祖はアールパール朝における(アールパール自身を含めた)7人の王のうちの一人、「ウルス」と呼ばれる者である。バチャーニュ一族はハンガリー西部にあるネーメトゥイ・ヴァール(現在のオーストリア・ギュッシング郡)地方を任されていた。

バッチャーニ・グスターフ伯は、バッチャーニ・カーズメール伯やセメレ・ベルタラン(ハンガリー詩人)らと共に、伯爵の旧友であったウェリントン公メルボルン子爵宛てのエステルハージ・パール公爵による手紙に署名した[3]。手紙にはコシュート・ラヨシュハプスブルク帝国(ハンガリー王位)に対するテロリズム大逆罪)を企てていると糾弾する内容が書かれており、結果として独立運動における英国人の支持者にコシュートに対する不信感をもたらした(英国貴族の間では、市民革命が自国内に飛び火するのを恐れていたため)[4]

内閣の首班を務めた後、政情不安なハンガリーから英国(イングランド)に帰化した。


ブリーダーとしての経歴

英国へと帰化した後、しばらくしてニューマーケットに大規模な牧場を開設した。馬丁と馬に豪華な衣装を着用させニューマーケットの話題をさらったという。年をとるまで殆ど大レースに興味が無く、自分で所有馬に乗って個人的なレースを楽しんでいたとされる。そのため、晩年エプソムダービーに勝利したガロピンが所有した唯一のクラシックホースである。ガロピンはグスターフのお気に入りで、11戦して10勝、種牡馬としても1888,89,98年の英愛リーディングサイアーを獲得した。代表産駒のセントサイモンを抜きにしても、ガロピンの今日における競走馬への影響は大きい。

1883年、グスターフは2000ギニーの直前に、かねてより悪くしていた心臓の発作で急死した。2000ギニーにはガロピンの産駒ガリアードが有力馬として出走しており(結果は1着)、かなり気が高ぶっていたといわれている。その後グスターフの遺産相続人は牧場を閉鎖し、彼の持ち馬を全て売り払った。その中にはセントサイモンが含まれていた。

  • 20代でイギリス留学を経験
  • 1843年 - ニューマーケットに大規模な牧場を開設
  • 1859年 - ジョッキークラブに所属
  • 1873年 - 520ギニーでガロピンを購入
  • 1875年 - ガロピンがエプソムダービーに優勝
  • 1883年 - 所有馬ガリアードが勝利した2000ギニーの30分前に心臓発作で死亡

ジョン・ドーソン(マシュー・ドーソンの兄)を主戦調教師としていた

主な所有馬としては、ガロピンやガリアード及びセントサイモンなどが挙げられる。


レヒニッツ写本の所有者

バチャーニ伯は1838年、ローホンク(現在のオーストリアレヒニッツ市)に保管していた蔵書の全てをハンガリー科学アカデミーへ寄贈した。これらの蔵書の中にはレヒニッツ写本が含まれていた。レヒニッツ写本の名称は、伯爵がこの写本を保管していた地名に由来する。


脚注

  1. ^ ハンガリー人名の表記については人名#構成要素の順序を参考のこと。
  2. ^ そのため、英語版Wikipediaでも表記に揺れが見られる。
  3. ^ The Times, “Prince Esterházy and the Hungarian Government of 1848”, Vienna, published on November 13, 1851
  4. ^ 1848年以降の英国とハンガリー間における国際関係について(PDF)


関連項目

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