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「五・一五事件」の版間の差分

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==「話せば分かる」==
==「話せば分かる」==
時の首相犬養毅が殺害された際の「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りが有名であるがこれは犬養毅の最後の言葉というわけはない
時の首相犬養毅が殺害された際の「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りが有名であ事実ある
元々、犯人の青年将校らは問答などに時間をとられては殺害に失敗する恐れがあるため、犬養を見つけ次第射殺する計画であった。しかし実行時には、表から突入した三上隊が最初に犬養を発見したものの、犬養自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを聞かせられていた。その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて犬養を銃撃、弾丸は顎とこめかみに命中した。それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた家族・側近に「今の若造を連れて来い。俺が話をしてやるから。」と言い残して絶命した。

「話せば分かる」「問答無用」という言葉は[[大正デモクラシー]]の[[護憲運動]]、武力より言論で戦うべきだという運動の高まりから生まれた言葉である。現在はこの言葉だけが先走りしているが、正確な史実は上の通りである。


一方、儒学に博識でもあった犬養自身は、一般国民の教養、討議能力にはあまり信を置いていなかったともされている。
一方、儒学に博識でもあった犬養自身は、一般国民の教養、討議能力にはあまり信を置いていなかったともされている。

2007年10月17日 (水) 10:34時点における版

五・一五事件を伝える大阪朝日新聞

五・一五事件(ごてんいちごじけん、ごいちごじけんとも)は1932年昭和7年)5月15日に起きた日本大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅総理を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退したといわれる。

犯行背景

当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している時代であった。1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻礼次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、民政党は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。

犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点であったと思われる。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

本事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデターテロ事件として扱われるが、軍人の犯人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達され、また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強く、これに対して本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件であるが、後述にあるように、首相官邸、政友会本部、警視庁とともに牧野伸顕内大臣も襲撃対象とされた。しかし「君側の奸」の筆頭格であり、事前の計画でも犬養に続く第二の標的と見做されていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している(『昭和史発掘』)。但し、大川は犬養とも親交があった。

本事件は昭和天皇勅令により失敗に終わった、とするのが定説である。この事件によりこの後斎藤実岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。もっとも実態は両内閣共に立憲民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが立憲政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満州国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

なお、事件前日の5月14日にはチャップリンが来日していて、チャップリンも標的となったが、直前になって犬養との会談をキャンセルしたため、難を逃れた。

「話せば分かる」

時の首相犬養毅が殺害された際の「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りが有名であり、事実である。

一方、儒学に博識でもあった犬養自身は、一般国民の教養、討議能力にはあまり信を置いていなかったともされている。

裁判

海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締規則・刑法殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。

当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われる。二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

その一方で大川周明ら民間人に対する言渡刑は非常に重かった。このことは、二・二六事件でも民間人の北一輝西田税が死刑となったことと共通する。

関係者

実行者

首相官邸襲撃隊

牧野内大臣襲撃隊

立憲政友会本部襲撃隊

民間人

裁判関係

関連項目

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