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* [[嵐]]の[[相葉雅紀]]が2002年、[[気胸]]で入院した際、ブルーハーツの曲を1日中病室で聞いていたという。相葉曰く「元気がもらえる」らしい。
* [[嵐]]の[[相葉雅紀]]が2002年、[[気胸]]で入院した際、ブルーハーツの曲を1日中病室で聞いていたという。相葉曰く「元気がもらえる」らしい。
* 解散して10年以上経ってもなお、ブルーハーツの曲はCMで流れ続けている(「人にやさしく」「キスしてほしい」「リンダリンダ」「1001のバイオリン」「夢」「情熱の薔薇」など)。
* 解散して10年以上経ってもなお、ブルーハーツの曲はCMで流れ続けている(「人にやさしく」「キスしてほしい」「リンダリンダ」「1001のバイオリン」「夢」「情熱の薔薇」など)。
* 映画監督の故・深作欣二が「人生で最も好きな曲」と語った事があり、葬儀の際にも自身が手掛けた映画の音楽に加え、「1001のバイオリン」が流された。


=== その後 ===
=== その後 ===

2008年2月16日 (土) 18:00時点における版

THE BLUE HEARTS
出身地 日本の旗 日本
ジャンル パンク・ロック
活動期間 1985年 - 1995年
レーベル メルダック
1987年 - 1989年
EAST WEST JAPAN
(1989年 - 1995年)
事務所 ジャグラー
公式サイト メルダック
EAST WEST JAPAN
メンバー 甲本ヒロトボーカル
真島昌利ギター
河口純之助ベース
梶原徹也ドラム
旧メンバー 望月正水(ベース)
英竜介(ドラム)

THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)は、日本のパンクロックバンド1980年代後半から1990年代前半にかけて活動し、1995年に解散した。

概要

1985年結成。独特のスタイルで、1987年日本音楽シーンに「リンダリンダ」でメジャーデビュー。以降それまでにないような「劣等感」「反権力」などをテーマとした楽曲を次々と作り上げ、多くの若者らを共感、熱狂させた。解散後も日本音楽界のみならず、様々な分野に影響を与えている。その楽曲は近年もCM音楽やドラマや映画などに多く使われ、今の若者にも評価されている。

来歴

1984年の同時期に、それぞれバンドを解散した甲本ヒロト真島昌利はお互いの音楽性に意気投合し、真島の提案から1985年2月に二人を中心として「ザ・ブルーハーツ」というロックバンドを組んだ。同年、彼らのマネージャーであった河口純之助が前メンバーの替わりにベースとして参加し、翌年に梶原徹也が甲本に加入を懇願し、ドラムとして参加した。結成当初は渋谷ライブハウス(渋谷屋根裏)を拠点として多く活動していた。その強烈なメッセージ性のある歌詞とキャッチーなメロディを併せ持つ歌、また甲本のユニークなライブパフォーマンスはインディーズでも徐々にファンを増やし、1987年2月にシングル「人にやさしく」を自主制作した。同年、メルダックよりメジャーデビューすることが決定し、1987年5月1日にメジャーデビューシングル「リンダリンダ」を発売、同月に1stアルバムを発表した。口コミなどで、彼らの評判は若者を中心に全国的に知れ渡るようになり、第二次バンドブームの先駆けとなった。半年後に発売した2ndアルバム『YOUNG AND PRETTY』も好調、そして1988年に発表した3rdアルバム『TRAIN-TRAIN』が50万枚を超えるヒットとなり、ドラマの主題歌などにも起用されるなど一躍音楽界のトップシーンに登り詰めた。4thアルバム以降は初期との音楽制作方針の違いなどから、以前ほどの売れ行きは見せなくなった。その後も3枚アルバムを出したが、特に晩年はメンバーの宗教問題などもあってバンドとしての機能はしていなかった。1995年にラストアルバムを一枚出し、解散(詳細は後述)。しかし彼らの残した影響は強く、2000年代前半に起こった「青春パンク」ブームでブレイクしたバンドの多くがブルーハーツの影響を強く受けていることを公言(ただしそれらのバンドのメンバーは1980年前後に誕生した世代が多いため、リアルタイムで影響を受けていた者は少数である)。音楽界以外にも、彼らから影響を受けたと語る有名人は多数いる。

基本的にはメッセージ性の強い歌詞がデビューから解散まで貫かれており、そこには人を勇気付けるものも多く含まれ、当時の若者から熱狂的な支持を得た。『THE BLUE HEARTS』から『TRAIN-TRAIN』までの前期三部作はパンクロックやブルースをルーツとしたメッセージ性の強い、独自の日本語ロックの世界を構築していたが、イーストウェスト移籍後からの後期作品は後のハイロウズに繋がる様々なスタイルを取り入れ、意味性を無視した楽曲も多い。

代表曲は「リンダリンダ」、「TRAIN-TRAIN」、「情熱の薔薇」、「人にやさしく」など。また、真島の強烈なハスキーヴォイスによる「チェインギャング」などがある。コード進行は3、4コードを主としたシンプルなものが多いにも関わらず、オリジナリティ溢れる楽曲を多く作り上げた。バンド名は略して「ブルハ」と呼ばれることがある。

メンバー

愛称はヒロト。低音の効いた太い声が特徴。たまに吹くブルースハープは独学でかなりのレベルだが、ベント、トレモロ等の技術は「偶然出来た」と本人。ギターもたまに弾くことがある。TVなどのインタビューで答えるのはほとんど甲本が担当。ちなみに、岡山出身で訛りがある。
愛称はマーシー。常にシャウトしているかのようなしゃがれ声が特徴。他の3人に比べればTV等に出演してもあまり喋らず表情を変えないことが多い。甲本とは半々の割合で曲を創り上げた。
愛称は河ちゃん。本名は宏之(ひろゆき)で、デビュー前は本名を名乗っていたが、デビュー直前あたりから純之助を使用する。ベース以外にも真島とともにコーラスを多く担当し、他の2人に比べ高い音を出せることから、主に高音パートを担当。曲に彩りを与えた。
愛称は梶君。元々はブルーハーツのファンで、ライブのモギリ等をやっていたが、ドラム脱退を知りヒロトの自宅にしつこく電話してオーディションを受けさせ86年4月に正式メンバーとなる。デビュー時からのモヒカンヘアーが特徴。バンド活動後期には腰を痛めたこともあり、この時期にはモヒカンを長髪にして、結っていたこともある。

サポートメンバー

ON TOUR 1989(1989年5月3日 - 同31日)から解散するまでの間、ライブレコーディングでキーボードを担当。サポートでありながらアルバム『HIGH KICKS』の歌詞カードでは顔写真つきで紹介されるなど、「ほぼブルーハーツ」といわれる存在であった。伝説のバンド「めんたんぴん」のメンバー(第4期~)で、浅川マキのバックを務めた事もある実力派だが、ピアノは全くの独学。

略歴

2月、甲本と真島を中心に結成される。結成当時のメンバーは、Vo.甲本ヒロト G.真島昌利 B.望月正水 Dr.英竜介
4月3日新宿ロフトで初ライブ。チケットはドリンク付きで1,000円。
6月、望月脱退、正式メンバー決定までの間、コーツ、グレイトリッチーズ、ディープ&バイツで活動していた山川のりをが一時的にベーシストとして参加。
8月17日 渋谷屋根裏、それまでマネージメントを行っていた河口が正式加入。
12月24日、都立家政スーパーロフトにて初ワンマン・ライブ「世界一のクリスマス」256人動員。全レパートリー21曲を熱唱。
3月21日 目黒鹿鳴館「Bright Lights Beat City」を最後に英脱退。
4月2日 渋谷屋根裏から梶原が正式加入。
6月9日 目黒鹿鳴館にて2度目のワンマン「人にやさしく」、1985を除く全レパートリー24曲を演奏。
2月25日、自主制作シングル「人にやさしく/ハンマー」発表。
5月1日、シングル「リンダ リンダ/僕はここに立っているよ」でメジャーデビュー。
10月1日、初の全国ツアー「ドブネズミツアー」敢行(全40公演)。
8月16日、初の海外ツアー「PORTLAND TOUR'89」敢行。
9月、レコード会社をメルダックからイーストウエスト・ジャパンに移籍。
10月25日、通算17枚目のシングル「夕暮れ」発売。事実上THE BLUE HEARTSとしての最後のシングルとなる。
所属事務所から独立。甲本と真島が代表となって有限会社ハッピーソング設立。
6月1日NHK-FMの音楽番組ミュージックスクエアで解散発表。(出演部分の収録は5月17日)
7月10日、ラストオリジナルアルバム『PAN』発売

解散

解散当時に発売された音楽誌『バンドやろうぜ』の編集局コラムによると、「河口が新興宗教幸福の科学)に没頭し、スタッフファンを勧誘したことに甲本と真島が怒ったために解散に至った」とされている。しかし、甲本がのちに音楽誌に語った内容では「バンドを続けるにはある程度の演奏技術が必要。それがあのメンバーでは出せないから解散した」となっている。他にも雑誌『VIEWS』のインタビューで、甲本は当初は解散ではなく、自分がバンドを抜けるつもりだったらしい(その理由に言及していないが、あの時甲本が言い出さなければ自分が抜けていたと、のちに真島も語っている)。凸凹ツアー中の宿泊先のホテルで、メンバーひとりひとりと話し合い、「甲本が抜けるなら解散」→「でもまたあとで再結成というのも恥ずかしいのでひとまず活動休止」ということに。

活動休止中に甲本は別バンド「ヒューストンズ」、真島はソロ、梶原はドラマーズなどで活動。結局バンドは解散を最終決定するも、レコード会社との契約が残っていたためにアルバムを一枚出すことに。ラストのオリジナルアルバム『PAN』がブルーハーツ名義にもかかわらず、中身がブルーハーツではないのはそのため。そしてラジオ番組で「今後の予定は?」と聞かれて「解散です」と突然の解散発表。それから10年、2005年あたりから、元メンバーが公の場に揃って姿を見せるなど、再び交流が活発化している。

このNHK-FM放送で行われた解散宣言の前に届いていたブルーハーツ集団(ファンクラブ)会報誌「BLUE-PARTS」には、号外として今回のラジオ出演の告知があり、「放送内で解散宣言をします」と明記されていた。1995年1月1日号には、「ブルーハーツ集団、解散」の告知があった。甲本はこの時、「ずっと続いているものを一旦リセットしたいと思って」と話していた。

逸話

  • ブルーハーツというバンド名の由来は、甲本によると「意味は無く、誰もが呼びやすい小学生でもわかるような英語で、バンドの音楽性が見えないような名前」からだという。他のインタビュー等では、「ブルーハーツとはスケベな心という意味なんじゃ」と言ったこともある。
  • 初のテレビ出演は、1986年5月19日テレビ東京系番組、『スーパーマガジン・すばらしき人生』
  • 1987年12月30日フジテレビ系音楽番組、『夜のヒットスタジオ年末スペシャル』に出演。
    司会の古舘伊知郎から「インディーズから突然メジャーになった心境は?」の問いに、「インド人のことはあんまりわかんないです」と答える甲本。この1ヶ月半後に初の日本武道館ライブを控えており、「(チケットが)売れ残ってるんで買ってくれ」と発言。また、芳村真理は色々と奇異な発言をしていた甲本の姿を見て「ちゃんと歌は歌えるんですか?」とキツイ(?)一言。
    この後、熱唱した「リンダリンダ」で「ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真にはテレビにも写らない美しさがあるから」と「テレビ」を足して歌っている。
  • 1988年11月18日テレビ朝日系音楽番組『ミュージックステーション』に出演し、「TRAIN-TRAIN」を熱唱した。甲本と河口は金髪に染めて登場。「なんで髪の毛を染めた?」と聞かれ河口は「テレビに出るんで髪を染めてきました(笑)」甲本は「女の子にモテたくて染めてきました」「効果あったの?」と聞かれて「うん、変な女がいっぱい」と答え、笑いを起こした。
    1990年10月19日にも同番組に出演。甲本が「情熱の薔薇」を激しく頭と体をくねらせながら熱唱した場面はお茶の間に衝撃をもたらし、問い合わせ電話がテレビ局に殺到した。
  • 読売テレビ11PM』にも出演していた。
  • デビュー前、甲本宅で真島がバンドのこれからについて真剣に話をしていた最中、甲本が突然その場を離れTV番組『バッテンロボ丸』を見だしたことに激怒、真島は「こんな物があるからいけないんだ!」とTVを隣に住む甲本の友人山川のりを(元コーツ、ディープ&バイツ、2・3'S)の部屋に持っていった(TVが無かった山川は大喜びした)。その時、真島の信用を取り戻す為甲本が作った曲が「リンダリンダ」と「ブルーハーツのテーマ」といわれる。
  • ダウンタウンのごっつええ感じに甲本と真島が出演。「ザ・対決」のコーナーにてGEISHA GIRLS対THE BLUE HEARTS。ダウンタウンと乳首ひっぱり相撲などをやる。
  • バンド結成当時甲本はザ・コーツ時代の曲を封印していたが、「この曲はいい曲だからやろう。コーツとかブルーハーツとか関係ない、甲本ヒロトの曲だろ?」と真島が説得。「人にやさしく」、「少年の詩」、「NO NO NO」、「ロマンチック」等がそれにあたる。

影響

  • 1989年、作家の吉本ばなな他らが『僕の話を聞いてくれ』という、ブルーハーツを絶賛する本を出した。吉本ばななは「I Love ザ・ブルーハーツ」というタイトルで寄稿し、本のオビに「ブルーハーツは全員、丸ごとの自分をきちんと大事にしている。これは大変贅沢で、かなり素晴らしいことに違いない」と書いた。
  • 2002年、香取慎吾主演のフジテレビドラマ人にやさしく」の主題歌&挿入歌に起用され、CDが再発。ブルーハーツをリアルタイムで聴いていない世代も多く聞くきっかけとなり、この後ブルーハーツの曲が見直され人気を得る要因となった。
  • 2002年、パフィーがカバーアルバム『THE HIT PARADE』で、「人にやさしく」をカバ-。
  • 2002年以降、ブルーハーツのトリビュート・アルバムが4枚作られ(後述)、多くのアーティストがブルーハーツの楽曲をカバーした。
  • 2003年、唄人羽が「青空」をカバーしたシングルを発売。
  • 2005年に『リンダリンダリンダ』という映画が作られた。
  • 2005年、櫻井和寿率いるBank Bandが、ap bank fes'05で「情熱の薔薇」をカバー。
  • 2006年、歌手アンジェラ・アキは自分のライブで「TRAIN-TRAIN」をカバー演奏した。
  • 2006年、和田アキ子が「情熱の薔薇」をカバー。「この曲を歌うと気持ちが高揚する」と絶賛している。
  • 2006年、「ラブレター」の歌詞を基にして作られた映画、『ラブレター 蒼恋歌』公開。
  • 2006年、お笑い番組「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」のハイテンションベストテンのコーナーで江頭2:50が2位で登場し、「人にやさしく」に合わせてパフォーマンスを披露した。
  • 2006年、ジャニーズグループの関ジャニ∞と雑誌Myojoで対話。横山裕「ブルーハーツの歌で育った!」と話す場面も。
  • 2006年、平川地一丁目がカバーアルバム『歌い手を代えて』で、「TRAIN-TRAIN」をカバ-。
  • 2006年11月、中ノ森BANDが2ndアルバム『Do The Rock』に「キスしてほしい」をカバーして収録。同年末からのツアーではアンコール曲として披露した。
  • 2007年、スピッツがライブで「リンダリンダ」をカバーした。
  • 2007年、「いい歌はいつだっていい」と、夏木マリが「リンダリンダ」をカバー。同曲のPV監督も努める。
  • イチローのブルーハーツ好きは有名である。
  • 漫画家の森田まさのりは、メンバーをモデルとしたキャラを『ろくでなしBLUES』(週刊少年ジャンプ連載)に登場させた。また、「英雄にあこがれて」と題された回では、同タイトルのブルーハーツの楽曲(『YOUNG AND PRETTY』収録)の歌詞を作中で引用している。また、ヒロインの初恋の思い出の曲として「リンダリンダ」を作中で引用し一話作っている。
  • 劇団 第三舞台の主宰・鴻上尚史は、自身がパーソナリィを務めた「オールナイトニッポン」内で、幾度となくブルーハーツ好きを公言しており、ライブにも度々足を運び、感想を語っていた。当時、ファンの間では幻でしかなかった「1985」をフルで流したり、まだライブでしか聴けなかった「青空」を流したりと、この番組でしか聴けない音源も多かった。後に自身の映画に「青空」を挿入歌として使用している。
  • 狩撫麻礼原作、たなか亜希夫作画の漫画『迷走王 ボーダー』では、終盤付近のストーリーにブルーハーツの影響が多く見られる。
  • ダウンタウン松本人志は、「4時ですよーだ」の中で「人にやさしく」や「キスしてほしい」等を熱唱。東京進出前の最終回の舞台では「君のため」を号泣しながら歌ったこともある。松本は彼らを影響を受けたアーティストの一人としている。
  • 漫画家の福本伸行は、『賭博黙示録カイジ』(ヤングマガジン連載)の冒頭の一文に「未来は僕らの手の中」と書き、本人も好きな音楽はブルーハーツと公言している。2007年10月より開始するTVアニメのカイジでは萩原聖人が主題歌として「未来は僕らの手の中」をカバーし、シングル発売もする。荻原は自身もブルーハーツのライブに行ったことがあり、ステージに上がったこともあると語っている。
  • スピードワゴン小沢一敬は「リンカーン」で「俺らの世代でダウンタウンとブルーハーツの影響を受けていない人はいないと思う」と発言した。
  • スピッツはインディーズ時代にはっきりと影響のわかる曲を演奏していた。
  • アニメ『エスパー魔美』の第96話「俺たちTONBI」では、劇中にブルーハーツのポスターが登場する。脚本を書いた原恵一は、本当はBGMにブルーハーツの曲を使いたいと思っていたが、版権の都合で実現しなかった。
  • 伊集院光は自身のラジオでブルーハーツ好きを公言しており、何度かゲストとして呼んだ事もある。お気に入りは「ホームラン」と、真島のソロ「さよならビリー・ザ・キッド」。ヒロトが「スタジオに行くと、あの人いつも裸なんだよ」とインタビューで答えている。
  • SMAP中居正広は「中居くんの車に乗るとブルーハーツの曲がエンドレスにかかって飽きる」とSMAP×SMAP番組内で香取慎吾に文句を言われ、「好きなんだからしょうがないじゃん」と言い返すなど、ブルーハーツ好きを公言している。また 1999年11月20日フジテレビ系音楽番組LOVE LOVEあいしてるにゲストとして出演したさい、チェインギャングを熱唱した。コンサートではたびたびソロでブルーハーツの曲を歌っている。
  • 相葉雅紀が2002年、気胸で入院した際、ブルーハーツの曲を1日中病室で聞いていたという。相葉曰く「元気がもらえる」らしい。
  • 解散して10年以上経ってもなお、ブルーハーツの曲はCMで流れ続けている(「人にやさしく」「キスしてほしい」「リンダリンダ」「1001のバイオリン」「夢」「情熱の薔薇」など)。
  • 映画監督の故・深作欣二が「人生で最も好きな曲」と語った事があり、葬儀の際にも自身が手掛けた映画の音楽に加え、「1001のバイオリン」が流された。

その後

1995年にブルーハーツを解散した後、甲本と真島は3人の新メンバーを加えザ・ハイロウズを結成。晩年のブルーハーツでもその兆候はあったが、社会的メッセージというよりシュールな歌詞が多くなった。それでも躍動感あふれる曲を多く作り、固定ファンの期待に応えるだけでなく、新たなファンも獲得していった。こちらも10年後の2005年に解散、2006年に真島と再びコンビを組み、新しい二人のメンバーを加え「ザ・クロマニヨンズ」というバンドを組み活動を始めた。

なお、ブルーハーツ解散後に甲本や真島がブルーハーツ時代の曲を歌うことはほとんど無い(例外的に甲本は一度、他人のライブの飛び入りで「僕の右手」を、真島はイベントで何度か「青空」を歌ったことがある)。 梶原が「THE3PEASE」として「リンダリンダ」を演奏したことがある。

作品

シングル

アルバム

オリジナルアルバム

  • THE BLUE HEARTS (1987年5月21日) - 発売元:メルダック
  • YOUNG AND PRETTY (1987年11月21日) - メルダック
  • TRAIN-TRAIN (1988年11月23日) - メルダック
  • BUST WASTE HIP (1990年9月10日) - イーストウエスト・ジャパン
  • HIGH KICKS (1991年12月21日) - イーストウエスト・ジャパン
  • STICK OUT (1993年2月10日) - イーストウエスト・ジャパン
  • DUG OUT (1993年7月10日) - イーストウエスト・ジャパン
  • PAN (1995年7月10日) - イーストウエスト・ジャパン

ベスト・アルバム

  • MEET THE BLUE HEARTS 〜ベストコレクション IN USA〜 (1995年1月1日) - メルダック
  • EAST WEST SIDE STORY (1995年9月25日) - イーストウエスト・ジャパン ※イーストウエスト・ジャパン在籍時のベスト
  • SUPER BEST (1995年10月16日) - メルダック ※メルダック在籍時のベスト
  • THE BLUE HEARTS BOX (1999年1月1日) - メルダック ※メルダック在籍時のアルバム3作BOX
  • Singles 1990-1993 (1999年11月25日) - ワーナーミュージック・ジャパン ※シングル集

ライブ・アルバム

  • LIVE ALL SOLD OUT (1996年1月1日) - イーストウエスト・ジャパン
  • 野音 Live on' 94 6.18/19 (1997年11月25日) - イーストウエスト・ジャパン

オムニバス・アルバム

リミックス・アルバム

トリビュート・アルバム

ビデオ

  • THE BLUE HEARTS (1987年3月21日) - メルダック
  • THE BLUE HEARTS LIVE! 〜1987.7.4日比谷野外音楽堂〜 (1987年9月1日) - メルダック
  • TOUR'88 PRETTY PINEAPPLE SPECIAL 〜2月12日 日本武道館〜 (1988年6月21日) - メルダック ※別名『ブルーハーツ、武道館を見学。』
  • ブルーハーツのビデオ VIDEO CLIP 1987-1989 (1990年1月1日) - メルダック
  • 全日本EAST WASTE TOUR '91 (1991年9月10日) - イーストウエスト・ジャパン ※通称『茶の間でドーダ』
  • ENDRESS DREAMS 〜THE BLUE HEARTS MEET THE MUTOID〜 (1993年7月10日) - イーストウエスト・ジャパン
  • ブルーハーツのビデオ2 VIDEO CLIP 1990-1993 (1993年11月10日) - イーストウエスト・ジャパン
  • ザ・ブルーハーツ凸凹珍道中 (1995年7月10日) - イーストウエスト・ジャパン
  • ブルーハーツが聴こえない〜HISTORY OF THE BLUE HEARTS (1996年2月7日) - メルダック

DVD

  • 全日本EAST WASTE TOUR '91 (2002年4月24日) - イーストウエスト・ジャパン
  • ブルーハーツのビデオ2 VIDEO CLIP 1990-1993 (2002年4月24日) - イーストウエスト・ジャパン
  • ザ・ブルーハーツ凸凹珍道中 (2002年4月24日) - イーストウエスト・ジャパン
  • ブルーハーツのビデオ+幻のビデオ復刻版 (2004年5月26日) - メルダック ※ビデオ『THE BLUE HEARTS』、『ブルーハーツのビデオ VIDEO CLIP 1987-1989』収録
  • THE BLUE HEARTS LIVE! (2004年5月26日) - メルダック ※ビデオ『THE BLUE HEARTS LIVE!』、『TOUR'88 PRETTY PINEAPPLE SPECIAL』を収録
  • ブルーハーツが聴こえない HISTORY OF THE BLUE HEARTS (2004年5月26日) - メルダック ※ビデオ版と内容が若干違う

未発表曲

  • 僕はどこへ行った - 作詞・作曲は甲本ヒロト。85年作。一応、未発表曲となっているがyoutubeで聞くことが可能。
  • ほんの少しだけ - 作詞・作曲は甲本ヒロト。86年作。ブルーハーツ解散後、ヒューストンズでも演奏。
  • 窓をあけよう - 作詞・作曲は甲本ヒロト。86年作。DVD『ブルーハーツが聴こえない』より収録。ブルーハーツ解散後、甲本の新バンド「ヒューストンズ」でも演奏。2ndアルバム『YOUNG AND PRETTY』に収録される予定だった。
  • しあわせのブルース - 作詞・作曲は甲本ヒロト。ギターを真島と河口が、ベースを梶原が弾き、86年6月のワンマン「人にやさしく」にてたった一度だけ演奏された。元々ブルーハーツの曲ではなく「ヒロトの個人的な持ち歌」で、これ以降演奏されず。
  • おやすみなさい 作詞・作曲は甲本ヒロト。86年10月1日 渋谷ライブイン「ワン・ツー・パンチ!!」にて初披露。
  • 陽のあたる場所 - 作詞・作曲は真島昌利。86年10月1日 渋谷ライブイン「ワン・ツー・パンチ!!」にて初披露。
  • 涙の男 - 作詞・作曲は甲本ヒロト。87年7月の日比谷野外音楽堂でたった一回のみ演奏された。同年4月の同所で起きた死亡事故・その後の体制に対してヒロトなりの言葉で歌った曲。この日の野音以外では演奏されず。
  • 伝染病 作詞・作曲は甲本ヒロト。89年の全国ツアー「ON TOUR全国版」にて初披露、このツアー以降演奏されず。
  • お前の宇宙に入れてくれ 作詞・作曲は真島昌利。89年の全国ツアー「ON TOUR全国版」にて初披露、このツアー以降演奏されず。
  • ロックのブタ野郎 - 作詞・作曲・ボーカルは真島。「LSD」や「ドラッグ」など薬物に関する用語、「俺も宮崎も大して変わらねぇ」と当時日本を震撼させた猟奇的連続幼女殺害事件の犯人「宮崎勤」が歌詞中にある。ライブによって歌詞は様々に変化する。89年の全国ツアー「ON TOUR全国版」にて初披露、このツアー以降演奏されず。
  • くたばった夢 作詞・作曲は甲本ヒロト
  • White X'mas -お馴染みのクリスマスソングのカバーで、85年のワンマン「世界一のクリスマス」にて演奏されている。
  • 電撃バップ -ブルーハーツには珍しいラモーンズのカバーで、85年のライブにて演奏されている。

書籍

  • ドブネズミの詩 (1988年12月 角川書店)※歌詞やインタビュー、ライブでのMCの語録など
  • ブルーハーツのしおり (1990年3月 角川書店)※メンバーが出演していた同名ラジオ番組を本に起こしたもの
  • ブルーハーツのしおり/ひと夏の経験編 (1990年9月 角川書店) ※上記の第二集
  • ザ・ブルーハーツ写真集 (1991年12月 ジャグラー)
  • 日曜日よりの使者の詩(2007年2月 G.B.)※ヒロト作詞の曲の歌詞を載せたもの。139曲載っている。未発表の曲は載っていない。

関連書籍

  • ザ・ブルーハーツ 1000の証拠 (1988年12月 JICC出版局)
  • 僕の話を聞いてくれ 吉本ばなな著 (1989年9月 リトルモア)

関連項目

外部リンク