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2008年4月20日 (日) 11:37時点における版
熊谷直実(くまがい なおざね、永治元年2月15日(1141年3月24日) - 承元2年10月25日(1208年12月4日))[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。[1]は、平安時代末期から鎌倉時代初期の、坂東八平氏に属する[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、現埼玉県熊谷市出自の武将。熊谷直貞の次男であったことから字は次郎(じろう)、諱は直実。諱と字を併せて、熊谷 次郎直実(くまがい じろうなおざね)と呼称されることも多い。一ノ谷の戦いでは源氏方で戦った。『平家物語』や、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』などにおいては、「熊谷 次郎直実」と表現されている。一般には、一の谷の戦いのおよそ10年後にあたる建久4年ごろ出家し、法名を「蓮生(れんせい)」と号した。
一ノ谷の戦いにおける平敦盛との一騎打ちの史実は、武家の性(さが)や世の無常観を表現する題材として後世武士の間で非常に好まれ、熊谷次郎直実は平敦盛とともにこの故事の主人公として、上記の『平家物語』や『敦盛』をはじめ様々な作品に取り上げられている。
敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は[2]出家の方法を知らず模索していた[3]。法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」[4]について、真剣にたずねたという。法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」(井川定慶集「法然上人伝全集」より:参考文献)と応えたという。その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという[5]。
経歴
平氏である。平貞盛の子[6]、維時の六代の孫、直貞の次男。父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となった[7]。熊谷の次郎直実(じろうなおざね)[8]と呼称する。父を早くに亡くしたことから、母方の親族の久下直光に養育される。石橋山の合戦までは、頼朝と敵対した。後、頼朝の味方となる[9]。一の谷合戦では、平山李重と先陣を争う。
幼少時
武蔵(埼玉県)大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市(くまがやし))の出身。幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。保元元年(1156年)7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)12月の平治の乱で源義平の指揮下で働く。その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。
源平の戦い
源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いでは平家側に属していたが、のちに頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。
寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参加。この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、名将の源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、父と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。しかし平家の武者に囲まれ、同僚の平山季重ともども討死しかけている。
平家物語によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた次郎直実は、波打ちぎわを逃げようとした、平家の貴公子平敦盛を呼び止め、一騎打ちをする。直実が敦盛をむんずと取っ組んで、馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど自分の子の小次郎[10]ぐらいの年の若武者だった。直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、敦盛は「名乗ることはない、首実験すれば分かることだ」とけなげに答えた。これを聞いて直実は、一瞬敦盛を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切ったという話は有名である。
この後首実検して平敦盛と判明、やんごとない貴公子[11]であったと分かった。このことがあってから、直実の仏門に帰依する思いは、いっそう強くなったという。
伯父との相続争い
文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた直実は「鎌倉の御家人はみな同輩の身分のはず。流鏑馬の射ては騎馬、的立ては徒歩。これは不平等であり、納得できません」と断固的立てを拒否し、頼朝がいくら的立て役は名誉な事であるということを説いても承知しなかった。そのため所領の一部を没収されている。(当寺鎌倉の中を騎馬で通行できるのは武士身分だけの特権であり、下人・所従以下は徒歩だった)
建久3年(1192年)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で両者の口頭弁論が行われることになった。武勇にはすぐれていても口べたな直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになる。直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられた。というのが直実出家の真相である[12]。(『吾妻鏡』)
(ただし、『熊谷家文書』所蔵の建久2年(1191年)3月1日付け直実譲状には「地頭僧蓮生」とあり、この書状が正しければこの年にはすでに出家していた事になる。)
出家
家督を嫡子直家に譲った後、法然の弟子となり出家した。法名は法力房 蓮生 “ほうりきぼう れんせい/れんしょう”[13]である。京都から関東にもどるとき、西を背にすると、浄土の阿弥陀仏に背を向けると言って、鞍を前後さかさまにおいて、西に背を向けずに関東に下ったという。「浄土にも剛のものとや沙汰すらん、西にむかいてうしろみせねば」(直実の歌:参考文献)[14]
その後の直実
蓮生は数多くの寺院を開基していることで知られているが、出家後まもなくの、建久4年(1193年)に美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立した。建久6年(1195年)8月10日、京から鎌倉へ下る。建久6年(1195年)には東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立した。また蓮生は鎌倉に着くなり、泣いて懐かしんで頼朝と対面し、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させる。出家しても心はなお真俗を兼ねていた。武蔵国へ下向するため退出する際、頼朝にしきりに引き留められている[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。建久9年(1198年)、西山浄土宗総本山 光明寺を開基する[15]。本領の熊谷郷に帰った後は庵(後の熊谷寺:ゆうこくじ)を建て、そこで念仏三昧の生活を送り、建永二年(1207年)9月4日往生したと伝えられてる。その際、予告往生したという。
墓所・供養
墓所
- 熊谷寺 墓所
- 金戒光明寺 五輪の塔
供養
- 平成19年(2007年)10月、蓮生法師800年忌が熊谷寺 (熊谷市)で催された。
- 平成19年(2007年)10月、蓮生法師800年忌が光明寺 (長岡京市)で催された。
末裔
京都と東京の和文具・香道具屋「鳩居堂」の店主は熊谷次郎直実の子孫と称している。
銅像
関連項目
脚注
- ^ 建永2年9月4日死亡説あり。
- ^ 一説には吾妻鏡にあるように、久下直光との訴訟が直接の引き金になったとされている。出家の時期を建久3年という説もある。参考文献2. p170。
- ^ 出家の日時が建久2年であれば8年間、建久4年であれば10年間、敦盛を討ったことだけを、思い続けたとは考えにくい。法然の庵のあった場所に建立された、金戒光明寺の伝承には、熊谷次郎直実は甲冑を身に纏い、馬に乗った姿で、法然の元を訪れたという。出家に際しては松に鎧、冑をかけたという。なおこの甲冑はその後、法然と共に叡山に赴く際にも、使用されていると思われる。
- ^ 死後いかにしたら、成仏できるかということ。
- ^ この記述は平家物語ではない。参考文献6. p76-79参照。
- ^ 貞盛の祖父が高望王(桓武天皇のひこ孫)で、平姓を賜った。平良文(坂東八平氏の祖)は高望王の側室の子といわれている。すなわち、坂東八平氏ではない。参考文献 14. p54
- ^ 直家より熊谷姓を名乗る。参考文献 14. p54
- ^ 桓武天皇の12代の孫である。参考文献 14. p54
- ^ このあたりの経緯については多くの逸話がある。洞窟にいた頼朝を救ったのは、梶原景時であるという記述と熊谷次郎直実だという記述がある。通常前者が、一般的であるが、後者についてはいかがだろうか。ただこの一件により、頼朝と深い信頼関係が築かれた可能性が高い。頼朝は大変疑り深い性格とされているが、こと直実に対しては、終生それとなく、彼の後ろ盾になっているような記述が多い。
- ^ 直実の息子小次郎直家は、この戦いの直前に負傷している。
- ^ 平経盛(清盛の弟)の息子の敦盛17歳(源平盛衰記では16歳)だった。討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、もとは祖父忠盛が笛名手だったことから、鳥羽上皇から賜ったものといわれている。参考文献2.p168参照。
- ^ 建久2年には蓮生の名が文献上にみえると言う(鎌倉遺文・514)参考文献12 p136 参照、複数の資料から、養父直光との争いの結果出家した。という別説は必ずしも正しいとはいえない。
- ^ 埼玉県の熊谷寺や東日本では“れんせい”(宇都宮頼綱が実信房 蓮生 “じっしんぼう れんしょう”と名乗っているため)、西日本では“れんしょう”と呼ばれている。因みに人形浄瑠璃や歌舞伎の一谷嫩軍記では“れんしょう”と発音している。
- ^ 当時直実は「関東一の剛の者」として知られていた。
- ^ 直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのがはじまり。後に法然の墓が安貞2年(1228年)比叡山の僧徒に襲撃を受け、遺骸があばかれたため、火葬して東山大谷から移され、この地に遺骨を納めた宗廟を建てた。
参考文献
- 石井進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 中公文庫、1974年。
- 杉田黎明『平家物語』 旺文社、1968年 ISBN 4-01-033491-6
- 大橋俊夫『法然』 講談社学術文庫、1998年 ISBN 4-06-159326-9
- 梅原猛『法然 十五歳の闇 上』 角川ソフィア文庫、2006年 ISBN 4-04-181506-1
- 梅原猛『法然 十五歳の闇 下』 角川ソフィア文庫、2006年 ISBN 4-04-181507-X
- 阿満利麿『法然の衝撃』 ちくま学芸文庫、2005年 ISBN 4-480-08949-7
- 笠原一男『親鸞』 講談社学術文庫、1997年 ISBN 4-06-159288-2
- 古田武彦『親鸞』 清水書院、1970年 ISBN 4-389-41008-3
- 坂東性純『浄土三部経の真実』 日本放送出版協会、1995年 ISBN 4-14-084004-8
- 坪井俊映、浅田次郎『知恩院』 淡交社、2007年 ISBN 4-473-03366-6
- 槇野修著、山折哲雄監修『京都の寺社505を歩く 下 洛西・洛北(西域)・洛南・洛外編 』 PHP研究所、2007年 ISBN 4-569-69248-7
- 日下力、鈴木彰、出口久徳『平家物語を知る事典』 東京堂出版、2005年 ISBN 4-490-10664-5
- 杉本圭三郎『平家物語(九)』 講談社学術文庫、1988年 ISBN 4-06-158359-X
- 児玉幸多編『日本史年表・地図』吉川弘文館1995年 ISBN 4-642-07840-1
外部リンク
- 浄土宗 蓮生山 熊谷寺(ゆうこくじ) - 熊谷次郎直実の生誕の地並びに歿した地、墓所
- 直実・蓮生ものがたり - 熊谷直実公800年忌記念「直実・蓮生まつり」のページ
- 熊谷次郎直実の猶子、小太郎直照が出家し、祐照法師となった満福寺 - 岐阜県大垣市墨俣町墨俣212 満福寺26世玄成師倒騎の写真
- 紫雲山 蓮池院 - 京都府京都市左京区黒谷町121
- 熊谷かおり - 直実から数えて31代目日程(終了)
- 古谷知新校訂『源平盛衰記』国民文庫、明治43年2月13日発行
- 熊谷次郎直実関連寺院
- 建永二年(1207年)九月四日死亡説