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「一条兼定」の版間の差分

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[[永禄]]元年([[1558年]])、[[伊予国|伊予]]の[[宇都宮豊綱]]の娘を娶るが、永禄7年([[1564年]])に離別して[[大友義鎮]](宗麟)の妻を娶り、[[大友氏]]と結んだ。このため、伊予の諸大名を敵に回すことになり、永禄11年([[1568年]])には伊予の諸大名を助ける[[毛利氏]]と戦って大敗を喫する。また、京都の[[一条家]]本家とも次第に疎遠になってきている。
[[永禄]]元年([[1558年]])、[[伊予国|伊予]]の[[宇都宮豊綱]]の娘を娶るが、永禄7年([[1564年]])に離別して[[大友義鎮]](宗麟)の妻を娶り、[[大友氏]]と結んだ。このため、伊予の諸大名を敵に回すことになり、永禄11年([[1568年]])には伊予の諸大名を助ける[[毛利氏]]と戦って大敗を喫する。また、京都の[[一条家]]本家とも次第に疎遠になってきている。


この頃から[[長宗我部元親]]の力が台頭してきたために、兼定は妹婿の[[安芸国虎]]と呼応して元親を討とうとしたが、翌永禄12年([[1569年]])に国虎が逆に元親に討たれてしまった。その後は[[長宗我部氏]]によって領土が蚕食され、しかも重臣の[[土居宗珊]]を無実の罪で殺したために信望を失い、ますます乱行を続けた兼定は、他の三家老羽生、為松、安並等の合議によって、天正元年(1573)9月兼定31才の時、隠居を強制され[[天正]]2年([[1574年]])に[[豊後国]]臼杵へ追放され、大友氏を頼った。兼定の豊後追放を知って憤慨した加久見城主加久見左衛門尉は、平素から一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、江口玄蕃、橋本和泉、山路出雲、伊与木対馬、同左平次、上山出羽左衛門、同源助、小島出雲、和田兵衛、依岡左京、同右京進、野町四郎丸、沖長四郎、大塚八木右衛門らと謀り、にわかに兵を挙げて中村を襲い一条氏の老臣をことごとく攻め殺した。
この頃から[[長宗我部元親]]の力が台頭してきたために、兼定は妹婿の[[安芸国虎]]と呼応して元親を討とうとしたが、翌永禄12年([[1569年]])に国虎が逆に元親に討たれてしまった。その後は[[長宗我部氏]]によって領土が蚕食され、しかも重臣の[[土居宗珊]]を無実の罪で殺したために信望を失い、ますます乱行を続けた兼定は、他の三家老羽生、為松、安並等の合議によって、天正元年(1573)9月兼定31才の時、隠居を強制され[[天正]]2年([[1574年]])に[[豊後国]]臼杵へ追放され、大友氏を頼った。兼定の豊後追放を知って憤慨した加久見城主[[加久見左衛門尉]]は、平素から一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、江口玄蕃、橋本和泉、山路出雲、伊与木対馬、同左平次、上山出羽左衛門、同源助、小島出雲、和田兵衛、依岡左京、同右京進、野町四郎丸、沖長四郎、[[大塚八木右衛門]]らと謀り、にわかに兵を挙げて中村を襲い一条氏の老臣をことごとく攻め殺した。


翌天正3年([[1575年]])、[[キリスト教]]に[[入信]]する際、[[宣教師]][[ジョアン・カブラル]]から[[洗礼]]を受けた。[[洗礼名]]は'''ドン・パウロ'''。同年7月、兼定は大友氏の助けを借り、再興を図って[[土佐国|土佐]]に進撃したが、[[四万十川の戦い]]で大敗し、[[戦国大名]]としての土佐一条氏は完全に滅亡した。
翌天正3年([[1575年]])、[[キリスト教]]に[[入信]]する際、[[宣教師]][[ジョアン・カブラル]]から[[洗礼]]を受けた。[[洗礼名]]は'''ドン・パウロ'''。同年7月、兼定は大友氏の助けを借り、再興を図って[[土佐国|土佐]]に進撃したが、[[四万十川の戦い]]で大敗し、[[戦国大名]]としての土佐一条氏は完全に滅亡した。

2008年6月15日 (日) 16:00時点における版

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時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文12年(1543年
死没 天正13年7月1日1585年7月27日
改名 万千代、兼定、宗惟
霊名 ドン・パウロ
官位 従三位左近衛少将左近衛中将
権中納言
氏族 土佐一条氏
父母 父:一条房基、母:大友義鑑の娘
養父:一条房通
正室:宇都宮豊綱の娘
継室:大友義鎮の次女
内政、按察使局

一条 兼定(いちじょう かねさだ)は、戦国時代土佐国国司で、土佐一条氏の事実上の最後の当主。

生涯

天文12年(1543年)、一条房基の嫡男として生まれる。幼名は万千代。天文18年(1549年)、父が自殺したため7歳で家督を継いだ。このため、土佐一条氏出身の関白一条房通(兼定の祖父・一条房冬の実弟)が養父となって後見をする。

永禄元年(1558年)、伊予宇都宮豊綱の娘を娶るが、永禄7年(1564年)に離別して大友義鎮(宗麟)の妻を娶り、大友氏と結んだ。このため、伊予の諸大名を敵に回すことになり、永禄11年(1568年)には伊予の諸大名を助ける毛利氏と戦って大敗を喫する。また、京都の一条家本家とも次第に疎遠になってきている。

この頃から長宗我部元親の力が台頭してきたために、兼定は妹婿の安芸国虎と呼応して元親を討とうとしたが、翌永禄12年(1569年)に国虎が逆に元親に討たれてしまった。その後は長宗我部氏によって領土が蚕食され、しかも重臣の土居宗珊を無実の罪で殺したために信望を失い、ますます乱行を続けた兼定は、他の三家老羽生、為松、安並等の合議によって、天正元年(1573)9月兼定31才の時、隠居を強制され天正2年(1574年)に豊後国臼杵へ追放され、大友氏を頼った。兼定の豊後追放を知って憤慨した加久見城主加久見左衛門尉は、平素から一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、江口玄蕃、橋本和泉、山路出雲、伊与木対馬、同左平次、上山出羽左衛門、同源助、小島出雲、和田兵衛、依岡左京、同右京進、野町四郎丸、沖長四郎、大塚八木右衛門らと謀り、にわかに兵を挙げて中村を襲い一条氏の老臣をことごとく攻め殺した。

翌天正3年(1575年)、キリスト教入信する際、宣教師ジョアン・カブラルから洗礼を受けた。洗礼名ドン・パウロ。同年7月、兼定は大友氏の助けを借り、再興を図って土佐に進撃したが、四万十川の戦いで大敗し、戦国大名としての土佐一条氏は完全に滅亡した。

天正13年(1585年)7月1日、死去。享年43。

人物

  • 一代で土佐一条氏を滅ぼしたため暗愚な武将として知られており、「性質軽薄にて、人の諫言を顧みない」と評されるほどである。しかし伝承の多くは勝者である長宗我部氏によって書かれており、兼定を実態以上に悪く記述している可能性が高い点は考慮すべきであろう。また、兼定追放には土佐一条家の自立傾向に反発する一条家本家の意向もあったといわれている。

関連項目


先代
一条房基
土佐一条家
第4代:1549 - 1574
次代
一条内政