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「石井裕也 (野球)」の版間の差分

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*[[マウンド]]に上がると[[補聴器]]をオフにすることが多い。連係プレイの際は野手の指差しで判断しているが、優れた瞬間視(一瞬映るものを判断する能力)によって野手の声が届かないハンデをカバーしている。
*[[マウンド]]に上がると[[補聴器]]をオフにすることが多い。連係プレイの際は野手の指差しで判断しているが、優れた瞬間視(一瞬映るものを判断する能力)によって野手の声が届かないハンデをカバーしている。
*自身のインタビューが高校生向けの英語の教科書(2005年)に取り上げられている。いわく石井はこれまで難聴のハンデを感じたことがほとんどなく、幼い頃からプロ野球選手が夢だったとのこと。その教科書では前年(2004年)はヤンキース・松井、過去にはマリナーズ・[[イチロー]]などのインタビューも掲載されたていたが、ルーキーが取り上げられるのは異例のことだった。
*自身のインタビューが高校生向けの英語の教科書(2005年)に取り上げられている。いわく石井はこれまで難聴のハンデを感じたことがほとんどなく、幼い頃からプロ野球選手が夢だったとのこと。その教科書では前年(2004年)はヤンキース・松井、過去にはマリナーズ・[[イチロー]]などのインタビューも掲載されたていたが、ルーキーが取り上げられるのは異例のことだった。
*2007年に広島市民球場でサヨナラ負けの試合を経験したが、終了直後にベンチに戻ってから、[[谷繁元信]]捕手から配球をめぐって厳しく叱られ、コーチが止めに入るほどだったが、耳のほとんど聞こえない自分に野球のことで本気で叱ってくれたのは谷繁が初めてだと言い、野球人生の中で最も印象の深い出来事の一つだと言う。
*ルーキー時と2年目の2回に渡って[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の聴覚障害者向け番組で取り上げられた。2008年も教育テレビの子供向け番組「道徳ドキュメント」で取り上げられている。
*ルーキー時と2年目の2回に渡って[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]の聴覚障害者向け番組で取り上げられた。2008年も教育テレビの子供向け番組「道徳ドキュメント」で取り上げられている。



2008年6月16日 (月) 10:25時点における版

石井裕也
横浜ベイスターズ #未定
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県横浜市
生年月日 (1981-07-04) 1981年7月4日(43歳)
身長
体重
178 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2004年 6巡目
初出場 2005年4月13日
年俸 1700万円(推定)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

石井 裕也いしい ゆうや1981年7月4日 - )は、プロ野球セントラル・リーグ横浜ベイスターズ所属のプロ野球選手投手)。

来歴・人物

先天性難聴であり、左耳はまったく聞こえず、右耳も補聴器でかすかに聴こえる程度である。そんなハンデを乗り越えて三振を奪っていくピッチングから「サイレントK」と称される。

小2で野球に熱中し、小5で外野手と投手を兼務し始めたときはノーコンで有名だった。その後、横浜商工高に進学。横浜商工高では3年生の夏に5試合を投げてベスト8に進出。37個の三振を奪い、この頃から「サイレントK」と呼ばれ始める。1999年のドラフト候補にも挙がったが指名はなかった(中日のスカウト部長である中田宗男は「高校の頃から目をつけていたが、ハンデがあるので成人するまで様子を見た」と後に語っている)。

三菱重工横浜に入社後、チームは2001年に親会社の方針で企業登録からクラブ登録へと変更になり、三菱重工名古屋に移籍の話もあったが、本人は横浜残留を希望してチームにとどまる。2003年新日本石油、2004年には東芝の補強選手として都市対抗野球に出場して経験を積み、チームのエースに成長。

即戦力左腕として2004年ドラフトで中日が6巡目指名。得意球は、スライダースクリューボール。当時(~指名時)は終身雇用が保障されている「身体障害者枠(耳の障害)」で三菱重工横浜に入社していたが、どうしてもプロ入りがしたいと家族を説得し、最後は熱意で押し切った。ドラフト会議前は横浜が獲得すると言われていた(その後の話によると、横浜以外の複数の他球団も興味を持っていたらしい)。

プロ入り後

2005年

プロ入り初登板は4月13日広島戦。記念すべきプロ入り第1球は、前田智徳豊橋市民球場のライトスタンドに放り込まれた。 4日後の4月17日阪神戦でプロ入り初勝利を挙げ、その試合で逆転適時打を打った福留孝介にお立ち台にそっと連れて行ってもらい、岩瀬からウィニングボールを手渡された。初めてのヒーローインタビューでは照れて顔を真っ赤にしていたが、たどたどしい言葉が場内に響くたびに拍手が巻き起こった。登板中に補聴器を通してドラゴンズファンの歓声がかすかに届いていたらしい。

交流戦オリックス戦に登板した際、谷繁元信のサインに首を振って投げた球で三振を奪い、ベンチで谷繁にその新人らしからぬ度胸を褒められていた。 9月24日には巨人戦でプロ入り初先発。5回を投げ、巨人打線を0点に抑える。一方4回には自らタイムリー二塁打を放ちチームに貢献。見事に初先発を白星で飾る。ルーキーながら24試合に登板した。

2006年

開幕から朝倉健太と共にロングリリーフ要員として開幕を1軍で迎え、リリーフとして結果はそこそこ残した。しかし先発起用されると炎上してしまい、11試合の登板に留まった。

2007年

主に先発降板後の2番手として登板。4月下旬から一軍入りするも、5月に入って二軍落ち。9月の優勝争いの時期に一軍へ返り咲くと8試合連続無失点の好投を見せ、7点台だった防御率を2.95まで改善してシーズンを終えた。制球に苦しみ、再三ランナーを出すものの後続を打ち取ったり後を継いだ投手が抑えるケースが多く、防御率の割には苦心したシーズンであった。また、左打者は29打数2安打と抑えるも、右打者に対しては苦しんだ事がそういった印象を与える事にもなった。

2008年

6月16日小池正晃との交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍。

エピソード

  • マウンドに上がると補聴器をオフにすることが多い。連係プレイの際は野手の指差しで判断しているが、優れた瞬間視(一瞬映るものを判断する能力)によって野手の声が届かないハンデをカバーしている。
  • 自身のインタビューが高校生向けの英語の教科書(2005年)に取り上げられている。いわく石井はこれまで難聴のハンデを感じたことがほとんどなく、幼い頃からプロ野球選手が夢だったとのこと。その教科書では前年(2004年)はヤンキース・松井、過去にはマリナーズ・イチローなどのインタビューも掲載されたていたが、ルーキーが取り上げられるのは異例のことだった。
  • 2007年に広島市民球場でサヨナラ負けの試合を経験したが、終了直後にベンチに戻ってから、谷繁元信捕手から配球をめぐって厳しく叱られ、コーチが止めに入るほどだったが、耳のほとんど聞こえない自分に野球のことで本気で叱ってくれたのは谷繁が初めてだと言い、野球人生の中で最も印象の深い出来事の一つだと言う。
  • ルーキー時と2年目の2回に渡ってNHK教育テレビの聴覚障害者向け番組で取り上げられた。2008年も教育テレビの子供向け番組「道徳ドキュメント」で取り上げられている。

通算成績(2007年シーズン終了時)

年度


































2005年 中日 24 3 1 0 0 0 0 163 32.1 49 3 18 1 27 2 0 22 21 5.85
2006年 11 2 1 0 0 0 0 101 24.2 20 1 10 2 24 1 0 11 11 4.01
2007年 16 2 2 0 0 0 0 74 18.1 13 1 11 0 14 0 0 6 6 2.95
通算成績 51 7 4 0 0 0 0 338 75.1 82 5 39 3 65 3 0 39 38 4.54

関連項目