「大塚八木右衛門」の版間の差分
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翌年天正3年([[1575年]])、兼定は中村に復帰を試み、大塚氏も馳せ参じて長宗我部軍と戦ったが、敗れて降伏し、[[長宗我部元親]]より一命と領地を安堵されたが、数年にして滅んだ。 |
翌年天正3年([[1575年]])、兼定は中村に復帰を試み、大塚氏も馳せ参じて長宗我部軍と戦ったが、敗れて降伏し、[[長宗我部元親]]より一命と領地を安堵されたが、数年にして滅んだ。 |
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2008年6月16日 (月) 15:04時点における版
大塚 八木右衛門(おおつか やぎえもん、 生没年未詳)は、戦国時代の武将で、土佐国の豪族で一条家国侍36人の中の1人ある。四国の戦国大名・土佐一条氏の家臣。下長谷城城主。
生涯
天正2年(1574年)に豊後国臼杵へ兼定を追放した三家老羽生、為松、安並の一条氏老臣に憤慨し、平素から反感を抱いていた加久見左衛門、大岐左京進、江口玄蕃、橋本和泉ら国侍と共に急遽兵を挙げて家老達のいる中村城へ討ち入りをかけ、家老達を滅ぽした。 この混乱に乗じ、叛乱鎮定に名をかリた元親により中村を占領されることになる。結果的にこの行為が土佐一条氏の衰亡を早める結果となった。
翌年天正3年(1575年)、兼定は中村に復帰を試み、大塚氏も馳せ参じて長宗我部軍と戦ったが、敗れて降伏し、長宗我部元親より一命と領地を安堵されたが、数年にして滅んだ。