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[[天正]]10年([[1582年]])に[[ローマ]]へ派遣された[[天正遣欧少年使節]]の一行が、<!--世界-->各地で<!--多数の-->日本人奴隷を目撃し、自国人と白人両方への憤りを報告書に記し、この出来事によって棄教した使節の一員もおり、皮肉な結果となったという、事実が確認できない情報がある{{要出典}}。<ref>使節団の報告書というものの存在が確認されていない。</ref>一方『天正遣欧使節記』(デ・サンデ著/雄松堂書店)<ref>使節団の帰国後の対話集の形を採りながら、使節団の帰国前年に出版されており、一般に使節団の会話を反映したものだとは考えられていない。</ref>には「売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放される」という記録がある。
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[[天正]]15年([[1587年]])、[[豊臣秀吉]]は[[大坂城]]へポルトガル人宣教師[[ガスパール・コエリョ]]を呼び、日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じる。コエリョは[[スペイン]]艦隊を呼び戦争の準備を行うなど秀吉に威圧をかけたが、逆に秀吉を激怒させる事となった。コエリョの軍事行動は、[[バテレン追放令]]発布、[[高山右近]]の失脚、[[長崎]]の拠点接収で、未遂に終わる。
[[天正]]15年([[1587年]])、[[豊臣秀吉]]は[[大坂城]]へポルトガル人宣教師[[ガスパール・コエリョ]]を呼び、日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じる。コエリョは[[スペイン]]艦隊を呼び戦争の準備を行うなど秀吉に威圧をかけたが(当時の日本の強大な軍事力を考えるに秀吉がこれを威圧と捉えたかは疑問であるが)、逆に秀吉を激怒させる事となった。コエリョの軍事行動は、[[バテレン追放令]]発布、[[高山右近]]の失脚、[[長崎]]の拠点接収で、未遂に終わる。


秀吉は、この事件が切っ掛けとなって、宣教師と深く付き合う事への危険性を認識し、以後はキリスト教を弾圧していく。[[天正]]15年([[1587年]])6月19日、[[豊臣秀吉]]は[[バテレン追放令]]を発布。<!--十条で日本人奴隷の売買が禁止される。(ウィキペディア「バテレン追放令」の項目に「十条」に関する、史料をともなう記述がないためコメントアウト)-->
秀吉は、この事件が切っ掛けとなって、宣教師と深く付き合う事への危険性を認識し、以後はキリスト教を弾圧していく。[[天正]]15年([[1587年]])6月19日、[[豊臣秀吉]]は[[バテレン追放令]]を発布。<!--十条で日本人奴隷の売買が禁止される。(ウィキペディア「バテレン追放令」の項目に「十条」に関する、史料をともなう記述がないためコメントアウト)-->


[[慶長]]元年(1596年)、宣教師側で奴隷の売買が禁止される。
[[慶長]]元年(1596年)、宣教師側で奴隷の売買が禁止される。



== 注釈 ==
== 注釈 ==

2008年6月23日 (月) 08:50時点における版

奴隷の男性、1863年

奴隷貿易(どれいぼうえき)は国際間の奴隷取引を指す。

大西洋奴隷貿易

概要

大航海時代に、主にヨーロッパアフリカアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、プランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。供給源となったアフリカ西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった期間は、経済圏外からの効果的な労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。

歴史

ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガル人アンタム・ゴンサルベスが、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女(←いわゆる「黒人」ではなくアラブ人であった)をポルトガル皇太子に献上したことに始まる。1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で黒人ではない。 大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却した。

18世紀になると、イギリスリヴァプールフランスボルドーから積み出された銃器その他をアフリカにもたらし、原住民と交換、さらにこうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展した。約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1,500万人以上と一般にはいわれているが、学界では900万人-1100万人という、1969年のフィリップ・D・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった(平均13%、なお奴隷船の船員の死亡率は20-25%である)、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、と言うのが説の根拠である。ただし、カーティンの説には、一次記録が存在しない16、17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎると言う批判もある。

 誤解も多いが、映画で見られるような白人による黒人の奴隷狩りは、極初期を除いて行われていない。奴隷を集めて、ヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。「奴隷狩り」から「奴隷貿易」へのシフトは、1450年代に起こっている。1450年代に入ると、セネガル、ベニンなどのギニア湾岸、コンゴなどの地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガルを中心とするヨーロッパの商人に売却するようになった。16世紀には、カリブ海地域のスペイン領向けとして、ポルトガルの独占下で奴隷を売ってもらえないイギリスの「冒険商人」による「奴隷狩り」が散発的に行われたが、その後、奴隷貿易の主導権はオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力と取引して奴隷を集めて、それを船(特許会社の船もあればフリーの投機家もいる)に渡すと言う形式になる。そして時代が下るにつれて、ワイタ、ダホメ、セネガンビアなど西アフリカ地域のアフリカ人王国は、奴隷貿易で潤うようになる。売られた人々は、もともと奴隷、戦争捕虜、属国からの貢物となった人々、債務奴隷、犯罪者などだったが、コンゴなどでは、ヨーロッパ人に売却する奴隷狩りを目的とする遠征も頻繁に行われた(「近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で」 池本幸三ら 人文書院 1995年)。 「奴隷貿易はアフリカ人が始めたことではない。しかし、アフリカ人もその一翼を担ったことを私たちは忘れてはならない」 との言葉が、とある奴隷貿易関係資料を展示している博物館に掲げられているが、アフリカ人が売り込んだのが先か、ポルトガル人が買いに行ったのが先かははっきりしていない。

奴隷貿易に対しては、その開始と同時に宗教的および人道主義の立場から批判が起こっていたが、特に18世紀後半以降、宗教的/人道主義的意見と、奴隷価格の高騰という植民地側の事情がかみ合った。19世紀初頭には、まず(奴隷制度では無く)奴隷貿易禁止の機運が高まり、イギリスは1807年、世界に先駆けて奴隷貿易禁止を打ち出し、アフリカ沿岸に多数の艦艇を配置して奴隷貿易を取り締まり、ラゴスなどポルトガル人の奴隷貿易港湾を制圧した。なお、奴隷貿易廃止と植民地化に伴う現地の労働力の確保と結びつける考えがあるが、これは全く根拠の無い間違いである。少なくともイギリスに関しては、奴隷貿易の中心である西アフリカ東アフリカの沿岸地帯の植民地化を始めたのは19世紀半ば以降のことである。

その後、カリブ海地域で成立した近代奴隷制は、19世紀前半期に次々に廃止されていった。イギリス領諸島では1833年、スウェーデン属領では1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止された。こうした動きの中、アメリカ合衆国では南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。

※以降の節は「奴隷貿易」の概念を構成する質量を欠いたものです。

白人の奴隷

白人の奴隷は特に前近代においては一般的な存在であった。古代ギリシャ都市国家では、奴隷は「物言う道具」とされ、人格を認められず酷使された。特にスパルタにおいては市民の数を奴隷が上回っており、過酷な兵役は彼らを押さえ込むという役割も持っていた。古代ローマもこれに倣い、奴隷を生産活動に従事させた。ローマが積極的な対外征服に繰り出したのは奴隷を確保するためでもあった。ごくわずかであるが剣士となりコロッセウムで戦いを演じさせられたものもいる。両文明の衰退後は、市民自らが生産活動を行うようになり、国家規模での奴隷事業はなくなったが、奴隷そのものが消えたわけではなかった。

但し、古代社会における奴隷と近代以降の(特に黒人)奴隷では明確に異なる点も多い。例えば、スパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができた。古代ギリシャの奴隷はアテネ市内を移動する自由が認められており、肉体労働だけではなく、家庭教師や貴族の秘書といった知的労働に従事することもあった。更に古代ローマでは、カラカラ帝によるアントニヌス勅令施行以前まではローマ市民権を得ることによって自由人になる(解放奴隷)道が開かれていた。娼婦剣闘士のような自由契約の(特定の主人に仕えない)奴隷は、個人の努力次第で貴族並みの収入と名声を得ることもあった。

中世においてはバイキングによりスラブ人やアッバース朝以降のムスリムによりトルコ人が多く奴隷とされた。但し、トルコ人は厳密には白人ではない。ちなみに、奴隷を意味する英語の"Slave"はスラブ人から来ている。ただし、後者は生産活動に従事するのではなく、主に奴隷兵士として重用され国を建てるものも多かった。


日本人奴隷の貿易

天文11年(1543年)の鉄砲伝来の後、1540年代後半から始まったと考えられている。16世紀後半にはポルトガルなどへ送られていた。

天正10年(1582年)にローマへ派遣された天正遣欧少年使節の一行が、各地で日本人奴隷を目撃し、自国人と白人両方への憤りを報告書に記し、この出来事によって棄教した使節の一員もおり、皮肉な結果となったという、事実が確認できない情報がある[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。[1]一方『天正遣欧使節記』(デ・サンデ著/雄松堂書店)[2]には「売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放される」という記録がある。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉大坂城へポルトガル人宣教師ガスパール・コエリョを呼び、日本人奴隷の売買を止め海外のすべての日本人を帰国させることなどを命じる。コエリョはスペイン艦隊を呼び戦争の準備を行うなど秀吉に威圧をかけたが(当時の日本の強大な軍事力を考えるに秀吉がこれを威圧と捉えたかは疑問であるが)、逆に秀吉を激怒させる事となった。コエリョの軍事行動は、バテレン追放令発布、高山右近の失脚、長崎の拠点接収で、未遂に終わる。

秀吉は、この事件が切っ掛けとなって、宣教師と深く付き合う事への危険性を認識し、以後はキリスト教を弾圧していく。天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉バテレン追放令を発布。

慶長元年(1596年)、宣教師側で奴隷の売買が禁止される。

注釈

  1. ^ 使節団の報告書というものの存在が確認されていない。
  2. ^ 使節団の帰国後の対話集の形を採りながら、使節団の帰国前年に出版されており、一般に使節団の会話を反映したものだとは考えられていない。

外部リンク

関連項目

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