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[[2月1日]]から、[[高橋由伸]]に代わり第15代目巨人軍選手会長に就任した。
[[2月1日]]から、[[高橋由伸]]に代わり第15代目巨人軍選手会長に就任した。
開幕戦に出場するものの、試合中にふくらはぎを痛め(右ふくらはぎ肉離れ)、翌日より以来2軍での調整が続いている。
開幕戦に出場するものの、試合中にふくらはぎを痛め(右ふくらはぎ肉離れ)、翌日より以来2軍での調整が続いている。
[[7月10日]]発売の[[女性セブン]]に、フリーアナウンサー[[山本モナ]]との写真を撮られ、球団から厳重注意を受ける。[[山本モナ]]に「ホテルで飲み直そう」と、ラブホテル前の路上で断られつつもしつこく懇願してようやくラブホテルに入るも、結局何もせず9800円を支払って出て行ったことを、[[山本モナ]]の釈明にて暴露される。
[[7月10日]]発売の[[女性セブン]]に、フリーアナウンサー[[山本モナ]]との写真を撮られ、球団から厳重注意を受ける。[[山本モナ]]に「ホテルで飲み直そう」と、ラブホテル前の路上で断られつつもしつこく懇願してようやくラブホテルに入るも、結局何もせず9800円を支払って出て行ったことを、[[山本モナ]]の釈明にて暴露される。この件について、二岡は球団から厳重注意を受け、記者会見した清武英利球団代表は「軽率な行動を起こし残念。個人的には非常に腹立たしい」とコメントし、二岡は「非常に軽率で申し訳なかった」と謝罪した。<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20080709-OYT1T00618.htm 2008年7月9日20時08分 読売新聞]
</ref>


== プレースタイル ==
== プレースタイル ==

2008年7月9日 (水) 22:54時点における版

二岡 智宏
Tomohiro Nioka
読売ジャイアンツ #7
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県三次市十日市町
生年月日 (1976-04-29) 1976年4月29日(48歳)
身長
体重
180 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1998年 2位 (逆指名)
初出場 1999年4月2日
年俸 2億1000万円
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

二岡 智宏(におか ともひろ、1976年4月29日 - )は広島県三次市出身のプロ野球選手(現役期間1999年 - )。読売ジャイアンツ所属の内野手遊撃手三塁手)。

経歴

プロ入り前

  • 小中学校の時は、福原忍に負けず、不動のエースだった。
  • 広陵高校出身。兄も同校で1991年春選抜の優勝メンバーだった。1993年2年生の秋に春選抜の実質的な予選となる広島県秋季大会に出場。同大会準決勝を応援に向かった父を事故で亡くす。この経験から巨人入団後に親が交通事故にあった小・中学生を招待する活動を行うことになる(後述
    1994年3年生のときには福原忍(現阪神タイガース)と二枚エース兼遊撃手で夏の甲子園広島県予選の優勝候補筆頭であったが、新井貴浩(現阪神タイガース)のいた広島工業に敗れた。
  • 1995年高校卒業時にプロからの誘いもあったが、元々進学希望であったのでこれを断り、誘いのあった複数の大学から実家に近いこともあり近畿大学に進学した。大学では1年からレギュラー、7期連続ベストナイン、リーグ通算歴代1位の13本塁打、歴代2位の通算112安打を放ち、藤井彰人らと共に大学日本一など多くのタイトルを獲得。1997年には春・秋のリーグ戦、大学選手権明治神宮大会社会人選手権優勝チームとのアマ王座決定戦の全てで優勝し史上初のアマ五冠達成の原動力となった。1997年8月にはインターコンチネンタルカップに日本代表として出場、優勝メンバーの一員となる。この時のメンバーには後に巨人で同僚となる高橋由伸上原浩治も名を連ねていた。
  • 1998年ドラフトでは地元広島東洋カープ、阪神タイガース、読売ジャイアンツが競合した。広島東洋カープは地元出身の二岡を高校時代から評価しており、逆指名枠で二岡以外の選手獲得には動かない姿勢を見せた。阪神タイガースは二岡が地元関西の近畿大学在学でもあり、春先に1位指名を表明。この後松坂大輔指名にも動いたが断念し、再度二岡指名を表明した。最終的には上原浩治の1位指名を予定していたために2位指名が確実であった巨人を逆指名した。この選択に地元球団への入団かという期待を裏切られた地元の反感や、逆指名にいたる経緯への推測から批判があった。入団経緯に関して母親は、本人が「自分では決められない、くじで決めたいぐらいだ」と言うほど悩んでいたこと、「広島を拒否」などと身に覚えのない発言や契約金を巡った憶測を記事にする報道に対して本人が今までに見たことないほど怒っていた事、広島をひっそりと出発せざるを得ず「何も悪い事をしていないのに」と複雑な気持ちだったことを自著[1]の中で明かしている。

プロ入り後

1999年

入団1年目ながら、長期にわたり巨人の遊撃手のレギュラーだった川相昌弘からポジションを奪取。126試合に出場し打率.289、本塁打18本の成績を残した。同期入団の上原浩治が20勝を挙げたため新人王は上原が獲得したが、通常の年なら新人王でもおかしくない成績を挙げた。

2000年

シーズン序盤から右手親指の故障に苦しみ118試合に出場したものの規定打席には大きく届かなかった。シーズン後半には優勝争いをしていたチームに復帰し、2000年7月16日ヤクルトスワローズ戦でサヨナラ本塁打、8月31日の阪神戦ではチーム1試合7本塁打のうちの1本を打つなど活躍する。さらに9月24日中日ドラゴンズ戦では0-4で敗色濃厚だった9回裏に守護神のエディ・ギャラードから江藤智がレフトへ満塁本塁打を放って同点に追いついた直後、ライトへサヨナラ本塁打を放ち、その日にリーグ優勝を決めた。

2001年

2月のキャンプで前年は江藤が受けた長嶋茂雄監督からの直接ノックを213球受けた。開幕直後からスランプに陥った上に7月19日の阪神戦で左手有鈎骨を骨折して手術をするなどで苦しみ、元木大介との併用が続いて結局86試合出場に留まり、打率も.233、本塁打5本と低調な成績だった。

2002年

112試合に出場し3年ぶりに規定打席に到達。打率.281、本塁打24本を記録する。20本塁打越えは巨人所属の遊撃手としては初であった。シーズン後半からは2番打者として定着し、1番打者に固定されていた清水隆行との1・2番コンビを形成、巨人のリーグ優勝に貢献した。開幕戦には清水の故障のため、左翼手で出場している。

日本シリーズでは日本シリーズ史上初の3戦連続猛打賞、第1戦の第2打席から第2戦の第2打席まで5打席連続安打(土井正三1977年、対阪急ブレーブス第2戦の第3打席から第3戦の第3打席まで)と並んで日本シリーズ歴代3位。球団タイ記録。)、第3戦で三井浩二から満塁本塁打を放つなど最終的には19打数9安打(4試合での9安打は当時の最多記録)、打率.474、5打点の活躍で巨人の4連勝での日本シリーズ制覇に貢献し、日本シリーズMVPに輝いた。

2003年

故障者が多発する中、自身初のフル出場(140試合)を果たし、リーグ最多の573打数を記録。最終的に打率でも初の3割越え、自己最多の29本塁打、67打点、14盗塁を記録してベストナインを受賞した。5月15日横浜ベイスターズ戦では1試合3本塁打を記録する。

2004年

2月20日キャンプ中の紅白戦に左足肉離れで故障。故障者続出のチーム事情から調整不十分での出場を余儀なくされ、結局91試合出場、打率.269、88安打、9本塁打の成績に留まった。足痛の影響で、前年14個だった盗塁がプロ入り後初のゼロに減少した。この年より交通事故によって親が死亡或いは重い障害を負った小、中学生を招待する二岡ボックスの実施を始めた。

2005年

139試合出場とほぼフル出場を果たし、打率.301、162安打を放つものの開幕から40試合本塁打なしに象徴されるように16本塁打に留まり、2002~2003年ほどの長打力は見られなかった。41試合目に出た1本目の本塁打もこの年から始まった交流戦福岡ソフトバンクホークス戦で福岡Yahoo!JAPANドームでのランニングホームランだった。ヒットは量産を続けて自己最高の打率を更新し、2年ぶり2度目の3割を記録。8月30日9月29日まで22試合連続試合安打を記録した。12月18日フリーアナウンサー用稲千春との婚姻届を提出した。

2006年

6月8日のソフトバンク戦で、前日に負傷した李承燁に代わり、球団史上第71代目の4番でスタメン出場。巨人の生え抜き選手での4番打者は高橋由伸以来7年ぶりであり、巨人の「4番・遊撃」は1961年の長嶋茂雄以来35年ぶりであった。その後も安定した成績を残し、終盤痛を発症しながらも試合に出場し続け、Bクラスに低迷するチームで唯一全試合出場と気を吐いた。

2007年

開幕戦は怪我で欠場したものの、4月1日の横浜3回戦でシーズン初出場。その後は大きな怪我もなく主力として優勝に貢献。打順は主に5番を打つことが多く、打率.295、20本塁打、自己最多となる83打点を挙げた。

2008年

2月1日から、高橋由伸に代わり第15代目巨人軍選手会長に就任した。 開幕戦に出場するものの、試合中にふくらはぎを痛め(右ふくらはぎ肉離れ)、翌日より以来2軍での調整が続いている。 7月10日発売の女性セブンに、フリーアナウンサー山本モナとの写真を撮られ、球団から厳重注意を受ける。山本モナに「ホテルで飲み直そう」と、ラブホテル前の路上で断られつつもしつこく懇願してようやくラブホテルに入るも、結局何もせず9800円を支払って出て行ったことを、山本モナの釈明にて暴露される。この件について、二岡は球団から厳重注意を受け、記者会見した清武英利球団代表は「軽率な行動を起こし残念。個人的には非常に腹立たしい」とコメントし、二岡は「非常に軽率で申し訳なかった」と謝罪した。[2]

プレースタイル

  • 細身だがリストを利かした打撃で逆方向(ライト方向)へ飛距離の大きな打球を飛ばすことができるのが特徴。逆方向へ本塁打を打てる打者はままいるが、二岡の場合はその占める割合が傑出している。日本テレビには「ミスター右中間」と名付けられ、マスコミ全体で一般化している。
  • 現在は下半身の度重なる故障もあり、他球団の二遊間の選手と比べ守備範囲がやや狭くなってきていることや、守備機会が減少していることなどが指摘されている。重度の故障を抱えたまま三塁を守っていた小久保裕紀の守備範囲が減少していたため相乗効果が生まれた、という説もある。同じ理由で近年はかつての俊足はやや影を潜めているものの、交流戦でのソフトバンク戦ではランニングホーマーを放っている(右中間の打球をライト出口雄大がダイビングキャッチを試みるも失敗。出口は次のイニングに交代させられ、その後一軍での試合出場はほとんどなかった)。とはいえ守備で見せるここぞというときの華麗なダイビングキャッチと強肩は健在で幾度となく投手陣を助けている。また長嶋元監督が見に来た試合ではショートから全力疾走してファールフライをダイビングキャッチ。長嶋氏も大喜びだったがこれがためにわき腹を負傷した。

年度別成績

打撃成績

年度






























1999年 巨人 7 126 462 418 49 121 14 0 18 189 51 8 2 6 3 33 2 92 7 .289 .342 .452
2000年 119 335 298 35 79 10 0 10 119 32 9 5 9 1 23 4 57 5 .265 .325 .399
2001年 86 265 240 35 56 9 1 5 82 23 10 4 10 0 13 2 44 1 .233 278 .342
2002年 112 444 398 64 112 21 1 24 207 67 3 2 16 1 27 2 79 7 .281 .329 .520
2003年 140 624 573 88 172 18 1 29 279 67 14 8 14 3 31 3 92 12 .300 .338 .487
2004年 91 360 327 27 88 10 0 9 125 49 0 0 1 1 25 6 72 7 .269 .331 .382
2005年 139 593 539 64 162 25 0 16 235 58 3 0 5 3 37 9 79 13 .301 .354 .436
2006年 146 598 551 67 159 26 0 25 260 79 0 1 6 5 30 6 113 15 .289 .329 .472
2007年 139 562 508 68 150 22 0 20 232 83 1 2 10 3 34 7 91 15 .295 .346 .457
通算成績 1098 4243 3852 497 1099 155 3 156 1728 509 48 24 77 20 253 41 719 82 .285 .334 .449
  • 表中の太字はリーグ最高


守備成績

遊撃 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1999 120 149 326 9 63 .981
2000 117 130 213 7 36 .980
2001 80 98 175 7 30 .975
2002 105 109 261 5 40 .987 2 5 0 0 0 1.000
2003 140 197 384 12 59 .980 1 0 0 0 0 .000
2004 91 129 237 7 41 .981
2005 139 167 409 12 64 .980
2006 144 167 400 7 69 .988 6 1 3 1 0 .800
2007 139 168 421 9 71 .985 4 3 0 0 0 1.000

タイトル・表彰・記録

個人記録

略歴

エピソード

  • かつてはその身体能力、潜在能力の高さから長嶋茂雄監督(当時)から「いつか3番打者を打ち、3割30本30盗塁を記録する」と期待されていた。また星野仙一日本代表監督からも右打者でライト方向に本塁打が打てる数少ない打者と評価され北京五輪予選の代表の第一次選考にも選ばれている。
  • 長らく無趣味だったそうであるが、最近では妻の影響もありガンダムプラモデル(通称ガンプラ)作りがマイブームのようである。
  • 広陵高校で二枚看板だった福原忍とは小学校から高校までチームメイトだった。
  • グラウンドや打席ではポーカーフェイスを貫き、冷たい印象を与えるが、試合を離れると、チームメイトの前では柔和な笑顔を見せるらしい。後輩を食事に誘う事も多い。
  • 女性に大変、人気のある選手である。
  • 打席に入るときのBGMは、ジグソーの『スカイハイ』。過去には、モーニング娘。の曲を登場曲にしたこともある。
  • 2007年6月には第一子である男児が誕生している。
  • 2008年シーズンから応援歌が新しいものに変わった。

父親の交通事故と二岡ボックス

  • 1993年10月2日高校2年生の秋に広島県秋季大会の準決勝が行われたが、当日三次市の自宅から広島市まで応援に向かった両親が交通事故にあう。準決勝終了後に病院に向かったが母親は無事だったものの父親が意識不明であることを知らされる。当日夜は父に付き添い10月3日の決勝戦へ臨むこととなった。決勝戦は広島商と対戦し9回裏2死まで8-0とリードし福原忍完封目前であったが中井哲之監督の配慮で二岡は登板し3球三振で試合を決めた。父親は10月7日他界(享年51)。
  • 2003年オフにそれまで個人シートを設置していた川相昌弘が移籍したこと、打率.300、29本塁打の好成績、ベストナイン受賞、年俸1億円突破などの功績で主力選手と認められたことで、2004年シーズンより二岡の自費によって観客を招く二岡ボックスの設置が球団に認められた。本人の「交通事故によって自分と同じような境遇にある子供たちに僕のプレーを見てもらいたい」という希望により、交通事故で親が死亡したり重い後遺症を背負った小、中学生を対象に、東京ドームで開かれる巨人主催のプロ野球公式戦の全試合に各試合4人ずつを招待する(チケット並びに交通費など観戦費用の補助も含む)ための席として設けられることとなった。二岡ボックスの実施により2004年11月には独立行政法人自動車事故対策機構から感謝状を贈呈されている。


関連書籍

  1. ^ 青い空を見上げて-読売ジャイアンツ二岡智宏
  2. ^ 2008年7月9日20時08分 読売新聞

関連項目

外部サイト

先代
李承燁
読売ジャイアンツ4番打者
第71代
次代
阿部慎之助
先代
高橋由伸
読売ジャイアンツ選手会長
第15代
次代
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