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== 人物 ==
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1937年、[[東京都]]に生まれる。父は[[ヘーゲル]]研究者の[[見田石介]](筆名、甘粕石介)。小学生の頃から『資本論』を愛読するなど早熟な少年時代を過ごした。[[1960年]]に東京大学[[文学部]]社会学科を卒業。東京大学[[大学院]]社会科学研究科(社会学専門課程)に進む。
1937年、[[東京都]]に生まれる。父は[[ヘーゲル]]研究者の[[見田石介]](旧姓、甘粕)。小学生の頃から『資本論』を愛読するなど早熟な少年時代を過ごした。[[1960年]]に東京大学[[文学部]]社会学科を卒業。東京大学[[大学院]]社会科学研究科(社会学専門課程)に進む。


[[1965年]]に同大学院[[博士課程]]単位取得退学後、東京大学[[教養学部]][[助教授]]に任官。その後、[[メキシコ]]留学を経て、同学部[[教授]](1982年~)、東京大学大学院[[総合文化研究科]]教授を歴任。東大の見田ゼミは、常に見田の信奉者で満席状態であった<ref>[[宮台真司]]・[[北田暁大]]『限界の思考―空虚な時代を生き抜くための社会学』(双風舎、2005年)、122頁。</ref> 。[[1998年]]に定年退官後、[[共立女子大学]][[家政学部]]教授に就任(総合文化研究所教授兼任)。
[[1965年]]に同大学院[[博士課程]]単位取得退学後、東京大学[[教養学部]][[助教授]]に任官。その後、[[メキシコ]]留学を経て、同学部[[教授]](1982年~)、東京大学大学院[[総合文化研究科]]教授を歴任。東大の見田ゼミは、常に見田の信奉者で満席状態であった<ref>[[宮台真司]]・[[北田暁大]]『限界の思考―空虚な時代を生き抜くための社会学』(双風舎、2005年)、122頁。</ref> 。[[1998年]]に定年退官後、[[共立女子大学]][[家政学部]]教授に就任(総合文化研究所教授兼任)。

2008年9月9日 (火) 13:01時点における版

見田宗介(みた むねすけ、1937年8月24日 - )は、日本の社会学者東京大学名誉教授社会学修士。真木悠介筆名を持ち、社会の存立構造論やコミューン主義による著作活動によって広く知られる。

人物

1937年、東京都に生まれる。父はヘーゲル研究者の見田石介(旧姓、甘粕)。小学生の頃から『資本論』を愛読するなど早熟な少年時代を過ごした。1960年に東京大学文学部社会学科を卒業。東京大学大学院社会科学研究科(社会学専門課程)に進む。

1965年に同大学院博士課程単位取得退学後、東京大学教養学部助教授に任官。その後、メキシコ留学を経て、同学部教授(1982年~)、東京大学大学院総合文化研究科教授を歴任。東大の見田ゼミは、常に見田の信奉者で満席状態であった[1]1998年に定年退官後、共立女子大学家政学部教授に就任(総合文化研究所教授兼任)。

長男は漫画家の見田竜介、次男は漫画家・イラストレーターの見田航介。憲兵大尉甘粕正彦は父見田石介の従兄。妻は幸福会ヤマギシ会会員。

研究歴

当初は、『現代日本の精神構造』(1965年)、『価値意識の理論』(1966年)など計量に基づく実証的研究を進めるが、70年代はじめのメキシコ留学を経て、コミューン主義の立場からの著述活動を始める。

その後の見田の社会学はカルロス・カスタネダ比較社会学がその中心に据えられ、時間論、自我論、関係論がその主題となった。時間論については『時間の比較社会学』(1981年)、自我論/関係論については『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』(1984年)を助走として『自我の起原』(2001年)を完成させる。この『時間の比較社会学』と『自我の起原』の両著作は、見田の学問的営為の総体を駆動してきた原問題(すなわちニヒリズムエゴイズム)に納得いく解決を獲得させるものであった(なお、両著作は真木悠介の筆名による)。

また、1996年の『現代社会の理論』の中では、情報消費社会のダイナミズムと魅力の根拠を明らかにしながら、その必然の帰結である現在の危機を、自由な社会という原則を手放すことなく克服する方向を示した。

なお、見田ゼミ出身の社会学者・研究者に、内田隆三吉見俊哉舩橋晴俊福岡安則亘明志江原由美子大澤真幸熊田一雄宮台真司小熊英二上田紀行中野民夫らがいる。

受賞歴

  • 1964年、城戸賞(社会心理学) 「現代における不幸の諸類型」(北川隆吉編『現代社会学講座第Ⅵ巻、疎外の社会学』有斐閣、1963年所収)

エピソード

  • 1980年代中頃のエコフェミ論争では、イヴァン・イリイチに発するエコロジカル・フェミニズムの立場に立つ青木やよひを擁護し、当時の上野千鶴子を批判した。
  • 教養学部社会科学科の科長であった1988年。後任教官の候補に、同学科教授(当時)西部邁が、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手(当時)の中沢新一を助教授に推すが、学科間の感情的対立や社会科学科内の思惑から混乱が生じ、教授会で前代未聞の否決となる。西部は教授会に抗議して辞任。「中沢事件」、「東大駒場騒動」などと報道されて話題となる。見田は社会科学科科長として、当初人事案に賛成するも、その後中沢人事支持を記した文書と、教養学科第三(相関社会科学)委員長で社会科学科の人事委員長であった佐藤誠三郎教授に対する批判を理由に社会科学科の科長を辞任する旨を記した2通の文書を学部内に配布して科長を辞任するなどして混乱に拍車をかけた。その結果、人事案の提案母体である社会科学科内の不一致を学部内に印象付け、人事案件否決の流れを決定付けた。西部邁は見田の態度を日和見的だとして厳しく批判した[2]。見田は『朝日新聞』に寄稿し、中沢新一が『チベットのモーツァルト』の中で、カルロス・カスタネダのモティーフを典拠を示さずに引用していることなどを指摘し、「中沢氏が東大に来ようと来まいと、どうでもいいことである」と釈明した[3][4]

著作

単著

  • 『現代日本の精神構造』(弘文堂, 1965年)
  • 『価値意識の理論――欲望と道徳の社会学』(弘文堂, 1966年)
  • 『近代日本の心情の歴史――流行歌の社会心理史』(講談社, 1967年)
  • 『現代の青年像』(講談社現代新書, 1968年)
  • 『現代の生きがい――変わる日本人の人生観』(日本経済新聞社, 1970年)
  • 『現代日本の心情と論理』(筑摩書房, 1971年)
  • 『人間解放の理論のために』(筑摩書房, 1971年)
  • 『気流の鳴る音――交響するコミューン』(筑摩書房, 1977年)※真木悠介名
  • 『現代社会の存立構造』(筑摩書房, 1977年)
  • 『現代社会の社会意識』(弘文堂, 1979年)
  • 『青春朱夏白秋玄冬――時の彩り・88章』(人文書院, 1979年)
  • 『時間の比較社会学』(岩波書店, 1981年)
  • 『宮沢賢治――存在の祭りの中へ』(岩波書店, 1984年)
  • 『白いお城と花咲く野原――現代日本の思想の全景』(朝日新聞社, 1987年)
  • Social Psychology of Modern Japan, trans. by Stephen Suloway, (Kegan Paul International, 1992).
  • 『旅のノートから』(岩波書店, 1994年)※真木悠介名
  • 『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫, 1995年)
  • 『現代社会の理論――情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波書店[岩波新書], 1996年)
  • 『自我の起原――愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波書店, 2001年)※真木悠介名
  • 『社会学入門――人間と社会の未来』(岩波書店[岩波新書], 2006年) ISBN 4-00-431009-1

共著

編著

共編著

関連項目

脚注

  1. ^ 宮台真司北田暁大『限界の思考―空虚な時代を生き抜くための社会学』(双風舎、2005年)、122頁。
  2. ^ 西部邁『剥がされた仮面――東大駒場騒動』(文藝春秋、1988年)、西部邁『学者―この喜劇的なるもの』(草思社、1989年)。ISBN 978-4163424804
  3. ^ 見田宗介「孤独な鳥の条件―中沢新一人事の祭りの決算」『朝日新聞』1989年4月19日号。
  4. ^ 他に見田の責任を指摘した文献に次のものがある。岩田薫 1988 「見田宗介は一番無様だった」『噂の真相』10巻6号(通巻111号、1988年6月号)特集1:東大“中沢新一問題”に関し「全共闘系文化人」を直撃!24~33頁。