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「湘南」の版間の差分

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* [[明治維新]]によって当時の西欧の流行であった[[海水浴]]保養が日本にも流入し、逗子や葉山、鎌倉、藤沢などの相模湾沿岸が海水浴に適した保養地として注目されて富裕層など特権階級者の別荘地となり、現代の「湘南文化」の礎となる風俗文化が生まれた。[[1897年]]に[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]から[[逗子市|逗子]]に転居した[[徳冨蘆花]]が逗子の自然を[[國民新聞]]に『湘南歳余』として紹介、翌年[[1898年]]の元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂し随筆集『自然と人生』([[1900年]])を出版した。蘆花がこの随筆の中で描写した自然の一例として、'''逗子から相模湾越しに望んだ富士山や相豆の山並み'''が挙げられる。
* [[明治維新]]によって当時の西欧の流行であった[[海水浴]]保養が日本にも流入し、逗子や葉山、鎌倉、藤沢などの相模湾沿岸が海水浴に適した保養地として注目されて富裕層など特権階級者の別荘地となり、現代の「湘南文化」の礎となる風俗文化が生まれた。[[1897年]]に[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]から[[逗子市|逗子]]に転居した[[徳冨蘆花]]が逗子の自然を[[國民新聞]]に『湘南歳余』として紹介、翌年[[1898年]]の元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂し随筆集『自然と人生』([[1900年]])を出版した。蘆花がこの随筆の中で描写した自然の一例として、'''逗子から相模湾越しに望んだ富士山や相豆の山並み'''が挙げられる。

なお、語源は仏教語である<ref>[[中華人民共和国|中国]]の湘南地方([[洞庭湖]]湖南の地域)は[[禅]][[仏教]]が発展した地方であることから、禅に関連した古典や事象に「湘南」の文字を見ることができる。[[碧巌録]]、湘南葛藤録、[[西芳寺|西芳寺湘南亭]]など</ref>。


== 湘南ブランドの変遷 ==
== 湘南ブランドの変遷 ==
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近年(テレビ・雑誌の特集など)の'''湘南のイメージ'''は、主に [[葉山]]・[[逗子]]・[[鎌倉]]・[[藤沢]]・[[茅ヶ崎]] でかたまりつつある。{{要出典}}。
近年(テレビ・雑誌の特集など)の'''湘南のイメージ'''は、主に [[葉山]]・[[逗子]]・[[鎌倉]]・[[藤沢]]・[[茅ヶ崎]] でかたまりつつある。{{要出典}}。

== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2009年1月3日 (土) 22:14時点における版

湘南(しょうなん)とは、神奈川県相模湾沿岸地方を指す名称。

概要

湘南」という名称は、各方面で多種多様に使用されている極めて曖昧な言葉であり、それを一義的に定義できるものではないが、おおむね 鎌倉江の島 周辺を指す地域名と捉えることも出来る。鎌倉、江の島などは観光資源も豊富でを中心に多くの観光客を集める。映画ドラマ、歌の題材などマスコミにより造り上げられた良好なイメージ「太陽若者」などから、その範囲が拡大される傾向にある。

湘南の由来として、以下のようなものが挙げられる。

  • 神奈川県付近における「湘南」の語の使用例は、湘南平から望んだ平塚の平野部分までの海岸線が中国湖南省洞庭湖の南岸、「瀟」に似ているとされ[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、またこの地域は相模国南部にあたるため佳字を当てる意味もあって[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、当初は相模川西岸に限定された呼称であったが、いつしか相模湾に面した地域一帯を指すようになった。現在では相模川西岸(西湘地区)に限定して使用することは殆ど無い。1664年頃に小田原の崇雪という外郎(ういろう)の商人が大磯鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、その由緒としては最古のものである。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあり、本物は大磯町が管理している。
  • 明治時代に湘南を冠する事業所が、相模川西岸の地域に創立された。
  • 明治維新によって当時の西欧の流行であった海水浴保養が日本にも流入し、逗子や葉山、鎌倉、藤沢などの相模湾沿岸が海水浴に適した保養地として注目されて富裕層など特権階級者の別荘地となり、現代の「湘南文化」の礎となる風俗文化が生まれた。1897年赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介、翌年1898年の元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂し随筆集『自然と人生』(1900年)を出版した。蘆花がこの随筆の中で描写した自然の一例として、逗子から相模湾越しに望んだ富士山や相豆の山並みが挙げられる。

なお、語源は仏教語である[1]

湘南ブランドの変遷

近代から現代にかけて、「湘南」は一種の地域ブランド名として著名となった。高級感を醸す「湘南ブランド」の由来は、明治時代初期に大磯鎌倉葉山地区が東京近郊の海浜保養別荘地と目され、多くの文人や政財界の要人(特権階級の富裕層)によって別荘が建てられたこと、そしてこの高級別荘地が全国的に「湘南」として認知されていったことにある。この高級別荘はイギリス文化を代表とする西洋文化に基づくものであり、別荘地・湘南は日本文化に導入された西洋文化を代表するものであった。別荘地・湘南の文化・地域は、東京大震災太平洋戦争などを転機とする「東京」の拡大によってその位置づけが「高級」から「カジュアルで日常的、庶民的」なものへと大きく変貌し、「湘南」の命名起源と相まって、現在ではより広くの文化・地域を指すものとなっている。

湘南ブランドの起源

「湘南」ブランドは、明治維新に伴う日本の近代化の経緯で生じた富裕層の文化が起源となっており、その発祥期においては一般庶民の高級志向の対象でもあった。こうした「湘南」のイメージが醸成された背景には、以下のような歴史的経緯がある。

1882年の使節団に参加した要人達や海浜保養による療養を目的とした特権階級の富裕層が、この地域に広大な庭園つき別荘を建設したことを契機として、「湘南ブランド」が形成されていった。

戦後の湘南ブランド

明治時代には富裕層の海浜別荘地という高級感を醸す「湘南ブランド」であったが、東京大震災太平洋戦争に続く経済成長にともなって、その位置付けは大きく変貌した。湘南電気鉄道1941年昭和16年)に京浜電鉄との合併によりその名称が消滅し、戦後の高度経済成長の元では緑豊かで広大な敷地に建てられた要人別荘は切り売りされて東京のベッドタウンとなり、海水浴場は市民の余暇の場として広く一般に開放された。現在、「湘南ブランド」はサーフィンニューミュージックなどカジュアルで大衆向けの文化に変貌し、その指す地域も、高度経済成長の象徴である「自動車」のナンバープレートに代表されるように、広く神奈川県中南部地域で用いられる傾向にある。

定義される地域

湘南エリア
湘南エリア

様々な事象において、湘南と呼称される地域が以下のように定義されている。ただし前述の通り厳密な定義は存在しない。

行政

行政区域名「湘南地区」(神奈川県による規定)
平塚市藤沢市茅ヶ崎市秦野市伊勢原市寒川町大磯町二宮町
「湘南ナンバー」(「関東運輸局神奈川運輸支局湘南自動車検査登録事務所」の管轄区域)
平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、小田原市、秦野市、伊勢原市、南足柄市、寒川町、大磯町、二宮町、中井町大井町松田町山北町開成町箱根町真鶴町湯河原町
気象区分「神奈川県東部・湘南」(横浜地方気象台
平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、大和市海老名市座間市綾瀬市、寒川町、大磯町、二宮町
湘南市」構想(2005年までの合併を目標としていたが、参加自治体の首長交代などにより白紙化され、事実上消滅)
平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町、大磯町、二宮町
「湘南村」(1889年~1955年に存在した自治体名)
相模原市

教育・スポーツ

県立高校旧学区「鎌倉湘南学区」(神奈川県立湘南高等学校も1980年まで属していた)
藤沢市、茅ヶ崎市、鎌倉市、寒川町
  • なお、この学区は1981年の学区細分化によって「鎌倉藤沢学区」「茅ヶ崎学区」に分割され、2005年には県立高校学区自体が撤廃された。ただし、地区校長会や部活動の地区としては残っている
湘南国際村」(神奈川県による国際研究拠点)所在地
横須賀市葉山町
湘南シーレックス」(プロ野球横浜ベイスターズの二軍チーム)本拠地
横須賀市(横須賀スタジアム
湘南ベルマーレ」(サッカーJリーグ)ホームタウン
平塚市、藤沢市、厚木市、茅ヶ崎市、小田原市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町

交通・経済

湘南モノレール」沿線
鎌倉市、藤沢市
湘南電気鉄道」(京浜急行電鉄の母体会社の一つ)沿線(起点の横浜市以外)
横須賀市、逗子市
「湘南京急バス」(京浜急行バスの子会社)(一部横浜市)
鎌倉市、逗子市(鎌倉営業所)、横須賀市(堀内営業所
旧「湘南馬車鉄道」沿線
秦野市、中井町、二宮町
湘南電車」(正式名ではないが、昭和初期には湘南電気鉄道の電車の愛称、戦後は東海道本線の中距離電車の愛称)
鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、二宮町、小田原市、真鶴町、湯河原町
  • なお、列車は静岡県まで直通する
湘南ライナー」(湘南電車のホームライナー
鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、二宮町、小田原市
湘南新宿ライン
鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町、二宮町、小田原市、逗子市
横浜湘南道路」(起点の横浜市以外)
藤沢市
新湘南バイパス
藤沢市、茅ヶ崎市
旧「湘南道路
逗子市、鎌倉市、藤沢市
湘南信用金庫」本店所在地
横須賀市
  • ただし、この名称は旧横須賀信用金庫が鎌倉信用金庫を併合したことによる

各地域の特色

江の島藤沢市
藤沢・茅ヶ崎・寒川
南部を中心にマスコミが作り上げた湘南というイメージが強く、市民も湘南の住人だというアイデンティティーが最も強い[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。江の島や神奈川県立湘南高等学校、私立湘南学園(幼稚園~高等学校)は藤沢市に位置し、江ノ電沿線の大正時代に開発された住宅地である鵠沼片瀬地域では比較的広い邸宅も見られる。
しかし、北部は海からも遠く、湘南というイメージとはほど遠い工業・田園地帯である。地理的にも、町の雰囲気からみても、湘南と呼べるのは事実上東海道本線以南の沿岸地域だけといえるが、キャンパスの名称やマンション・アパート名など、大学や不動産業者の戦略的理由によりかなり広い範囲で「湘南」の名称が当てられている。
藤沢市北部に小田急江ノ島線相鉄いずみ野線横浜市営地下鉄湘南台駅があり、その西に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスと文教大学湘南キャンパスがある。やや南の六会にも日本大学湘南キャンパス(旧・藤沢キャンパス)があるが、いずれも海岸からかなり離れた田園・丘陵地帯に位置する。
藤沢市西部、茅ヶ崎市北部にまたがる区域には「湘南ライフタウン」と呼ばれるニュータウンが存在し、その藤沢市域については藤沢市内の行政区分で「湘南大庭地区」と定義されている。
藤沢市羽鳥地内には「湘南台町内会」が存在し、神奈中バスにも「湘南台」というバス停が存在する。こちらは前述の湘南台駅よりも古くから存在している。
湘南のイメージが一般にも定着している加山雄三は横浜生まれだが茅ヶ崎育ちで、またサザンオールスターズ桑田佳祐は茅ヶ崎市の出身であり、現在は茅ヶ崎海水浴場もサザンビーチと呼ばれている。
太平洋戦争末期、もし日本が降伏せずに徹底抗戦した場合、相模川以東で相模湾中央部の長い海岸線を持つという理由から、茅ヶ崎海岸が連合国軍上陸作戦の有力候補地点として想定されていた(コロネット作戦)。戦後海岸地区は一時アメリカ軍を中心とした連合国軍に接収された(在日米海軍辻堂演習場)が、1959年6月25日に返還された。
なお茅ヶ崎市は近年、宅地開発・マンション開発が進み、古き良き時代の別荘文化を残す街並みも、ごく僅かとなりつつある。
1940年昭和15年)、藤沢町片瀬町が合併した際、「湘南市」とする案が挙げられたが「藤沢市」となった経緯がある。
1956年(昭和31年)、寒川町藤沢市茅ケ崎市に合併のうえ「湘南市」とする話を持ちかけるが実現に至らなかった。
鎌倉・逗子・葉山
1897年(明治30年)、徳富蘆花國民新聞に『湘南歳余』(徳富蘆花)を掲載し、さらに1900年(明治33年)、『湘南雑筆』を含む『自然と人生』(徳富蘆花)が出版され、逗子の自然や、逗子から見た相模湾富士山などの風景を紹介して「湘南」が全国的に知られることとなった。
明治時代までは湘東と呼ばれることもあり、湘南とは分けてとらえられていた[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。しかし昭和、とりわけ第二次世界大戦後には映画、ドラマの舞台の湘南として脚光を浴び、湘南として位置づけられるようになった。
現在の逗子市域は昭和初期に京浜電気鉄道(現京浜急行電鉄)の子会社「湘南電気鉄道」の沿線となり、戦後横須賀市より分離独立して発足した歴史を持つ。また湘南のイメージが強い石原裕次郎は逗子市で青年期を過ごした。
従来より「湘南」ではなく「歴史の街」また「御用邸」といった高級感のあるイメージを有する「鎌倉」「逗子」「葉山」と呼ばれている。湘南市構想はもともと茅ヶ崎市や藤沢市において時折持ち上がるものであり、これまでこの地域が「湘南市」を名乗る構想を表明したことは未だない。
平塚
湘南地区では初めて市となるなど早くから商工業都市として発展したため、リゾート地域としてのイメージは薄い[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。相模川の対岸に位置する藤沢市、茅ヶ崎市と同様、湘南のイメージに合致するのは東海道線以南の高級住宅地である沿岸地域だけといってよい。
県の湘南地区県政総合センターや湘南ナンバーを発行する「関東運輸局神奈川運輸支局湘南自動車検査登録事務所」など湘南地域管轄の行政機関が多く所在し、行政的には湘南地区の中心である。政治的にも湘南市として合併し政令市をめざすという構想の中心的な役割を果たしたが、平塚と藤沢という2大都市の間で埋没してしまうのではという危機感[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。から茅ヶ崎市民の反発もあり、リーダーであった当時の平塚市長の落選により、構想は挫折した。
  • 海岸は急に深くなる地形的理由から海水浴に適さなかったが、湘南のイメージ戦略もあり、海岸工事により近年海水浴場を開設した。
  • 相模湾を一望できる湘南平が有名。
  • 関東三大七夕祭りの一つ「湘南ひらつか七夕まつり」が7月7日を中心とした5日間に開催されている。
  • サッカーJリーグの湘南ベルマーレは旧名「ベルマーレ平塚」で、本拠地は平塚競技場
  • 市西部に東海大学湘南キャンパス・神奈川大学湘南ひらつかキャンパス(旧・平塚キャンパス)が存在する。
大磯・二宮
江戸時代、崇雪が大磯の東海道筋にある標石に「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えたことばを刻んだことから、湘南発祥の地とされている。現在は、城山公園内にその碑が保存されている。
二宮は海水浴場が狭いためか訪れる客は少ないが、温暖な気候から長寿の里として有名であり、交通の便も良く実業家の堤義明も在住する。現在は減ってしまったが、明治時代には大磯、二宮近辺には、湘南馬車鉄道(後の湘南軽便鉄道)に代表されるように、湘南の名を冠する企業が多数あった。また大磯は明治以降、伊藤博文などの元勲をはじめとする要人の高級別荘地として知られるようになり、吉田茂の別荘もあったことから、ある意味では湘南よりも大磯の名にステイタスがあった。
律令以前は豪族である師長(磯長)国造によって支配されていた地域であるが、中央集権体制の整備に伴い朝廷に仕えた渡来人が移り住んだと考えられ、高麗山や高来神社など、かつて周辺に大陸からの文化を広めた高句麗(現在の中国東北部 - 朝鮮半島北部)からの渡来人(主に朝鮮民族)に由来するといわれる地名が残る。
伊勢原
江戸時代、伊勢原市にある大山は湘山湘岳と言われ、歴史的には湘南とつながりがある。神奈川県の行政区域でも「湘南地域」に含まれており、経済面でも車でのアクセスに優れている平塚市とのつながりは深いが、近年、小田急小田原線国道246号で結ばれた厚木市など県央地域との関係が深くなりつつある。
横須賀・三浦
横須賀市中心部は相模湾ではなく東京湾に接しており、湘南の基本的な定義(相模湾岸)から外れている。経済的なつながりも横浜と深く、相模湾に面する横須賀市・三浦市西部についても湘南として認識される機会はあまりない。しかし「湘南国際村」や「湘南信用金庫」、「湘南電気鉄道」を始めとして、イメージのよさから地名や企業名などに湘南の名を採ってきた(横須賀市内には「湘南たかとり」という地名が存在する)。また、プロ野球・横浜ベイスターズの二軍チーム湘南シーレックスの本拠地は横須賀である。
秦野
県の行政区域では「湘南地域」に含まれるが、山に囲まれた秦野盆地にあり、湘南海岸とは地理的なつながりは寸断されている。経済的にも厚木市や小田原市や松田町、山北町、中井町など足柄上郡との関係が深い。1906年には湘南馬車鉄道も二宮~秦野間に開通しているが、一般に湘南と呼ばれることはない。
小田原・箱根・湯河原・真鶴
温泉宿泊地やキャンプ場、城下町など独自色が強く、湘南というイメージとは一線を画す[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。保養地であり観光地という特色が強く、西湘とも呼ばれている[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
ただし、明治時代に「湘南煙草合名会社」が存在するなど、この地区にも湘南を冠したものが多く存在したこと事から、現在のイメージが定着する前は湘南の一部と考えられることもあった。
南足柄・足柄上郡
丹沢や足柄山のふもとで、単に湘南ナンバー適用エリアにすぎない。
城山(相模原市)
城山地区にはかつて湘南村という行政区が存在した。1889年から名乗っており名称としては古いが、この場合の「湘」とは相模湾のことではなく相模川が「湘江」と呼ばれていたことに由来する。ただし、この「湘江」は相模川全体ではなく河口付近の「馬入川」を指す。
厚木
通常湘南には含まれないが、湘南ベルマーレのホームタウンの一つとなっている。

現代における「湘南」のイメージ

大正9年、藤沢市に旧制湘南中学(現湘南高校)が設置された。片瀬鵠沼、鎌倉、逗子など湘南地方には海軍士官が比較的多く、県立中学の設置が望まれていたとされる。県立湘南中学は、終戦までは海軍兵学校など海軍諸学校へ人材を供給する名門校であり、戦後は全国の公立高校での東大合格者数1位を誇ったこともあり、また野球部が関東以東で始めて甲子園を制覇するなど、文武両道の進学校として永らく全国的に知られてきた。

1950年代後半以降は、湘南高校の卒業生である石原慎太郎の著作『太陽の季節』や、その映画化に際し俳優としてデビューした慎太郎の実弟・石原裕次郎、そして若大将シリーズ加山雄三らが「湘南」のイメージを形作っていった[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

1960~70年代には、フォークソングやアメリカ西海岸を舞台にするザ・ビーチボーイズザ・ベンチャーズを代表とする音楽ジャンルとしての「サーフィン」の流行が海と若者を結びつける。その流れの中から、湘南(なぜか茅ヶ崎市が多い)育ちのシンガーソングライターとして加山雄三を筆頭に加瀬邦彦率いるザ・ワイルドワンズ尾崎紀世彦ブレッド&バターなどが活躍し、「湘南サウンド」という言葉が生まれた。

1964年、第18回オリンピック東京大会のヨット競技場として江ノ島湘南港ヨットハーバーが建設され、湘南にマリンスポーツのイメージを定着させた。

「湘南サウンド」の最盛期をつくったのが、1978年にデビューしたサザンオールスターズである。彼らの歌詞には、鎌倉から茅ヶ崎の間の地名が度々登場する。ヴォーカルの桑田佳祐茅ヶ崎市出身で、私立鎌倉学園高校の卒業生でもあることから、この一帯が湘南として強く認識されるようになった。しかし幼少から茅ヶ崎で育った桑田にとって、馴染みが薄く外部から与えられたイメージという認識の湘南という呼称には否定的なスタンスをとっている[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。実際、桑田が作る歌詞には茅ヶ崎・鎌倉・江ノ島稲村ヶ崎などはよく登場するが、「湘南」そのものが使用された曲はデビュー曲の「勝手にシンドバッド」など僅かに見られるのみで極めて少ない。

ちなみに、サザンオールスターズが持つ湘南のイメージを意図的に取り入れて1984年にデビューし、その後に「夏の代名詞」と称される事になるビーイング系のバンド TUBE のメンバーは座間市や厚木市など県央部の出身である。

さらに、テミヤンASIAN KUNG-FU GENERATIONなども湘南を舞台にした作品を生み出し続けている。

なお、この地域を横断する国道134号暴走族メッカとして有名になっている。その付近にかつて存在した、サブマリンドッグは、人気ユニット ZARD聖地として有名。湘南を舞台とする「湘南爆走族」という漫画もあり、江口洋介織田裕二が出演する映画にもなった。ただし現在においては、神奈川県内に5ヶ所ある「暴走行為助長禁止重点区域」(県暴走族等の追放の促進に関する条例第16条)に湘南地区は一切含まれておらず、世間で騒がれているほどではない。

近年(テレビ・雑誌の特集など)の湘南のイメージは、主に 葉山逗子鎌倉藤沢茅ヶ崎 でかたまりつつある。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

脚注

  1. ^ 中国の湘南地方(洞庭湖湖南の地域)は仏教が発展した地方であることから、禅に関連した古典や事象に「湘南」の文字を見ることができる。碧巌録、湘南葛藤録、西芳寺湘南亭など

関連項目

外部リンク