「ニコライ・ポドゴルヌイ」の版間の差分
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最高会議幹部会議長の座を追われた後の1978年11月、[[ロシア革命|10月革命]]61周年記念パーティーに出席、[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]、[[アレクセイ・コスイギン|コスイギン]]、[[アンドレイ・グロムイコ|グロムイコ]]らかつての同僚に遠慮会釈なく次々と話しかけ、迷惑そうな顔をされている姿が、[[魚本藤吉郎]]・駐ソ日本大使によって目撃された。ポドゴルヌイは、この時点では最高会議代議員の身分はまだ有しており、パーティーへの出席は"合法"ではあったが、失脚した政治家は配所の月を静かに眺めているのが慣例で、ポドゴルヌイの行動は異例であった。この行動が災いしたのか、その後まもなく彼は最高会議代議員職も失った。 |
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2009年2月25日 (水) 19:20時点における版
ニコライ・ヴィクトロヴィッチ・ポドゴルヌイ(Никола́й Ви́кторович Подго́рный、Nikolay Viktorovich Podgorny、1903年2月18日 – 1983年1月12日)は、ソビエト連邦の政治家。ウクライナ人。ブレジネフ時代にソ連の国家元首に当たる最高会議幹部会議長(在任期間、1965年から1977年)を務める。
経歴
1903年2月18日ロシア帝国領だったウクライナのカルロフカで冶金工の家庭で生まれる。砂糖工場で働きながら共産党活動に従事した。1940年代に食品工業人民委員、モスクワ食品工業大学学長などを歴任し、1950年ハリコフ州党第一書記に就任した。その後、ソ連共産党第一書記となったフルシチョフに引き立てられて、1957年ウクライナ共産党第一書記に就任した。1960年には幹部会員、1963年に党中央委員会書記に選出され、ソ連共産党の組織・人事部門を担当し、事実上の「第二書記」の地位を占めるに至った。フルシチョフが失脚し、ブレジネフを第一書記とする新指導部が発足すると、ブレジネフ、首相のアレクセイ・コスイギンとともに「トロイカ」の一人として集団指導体制の一翼を担う。1964年11月の共産党中央委員会総会で、フルシチョフ時代に工業と農業の二つの系列に分かれていた地方党組織の再統合を報告した。この時にハリコフ州第一書記時代、第二書記を務めたチトフ書記(農業担当)の協力を得た。しかし、チトフは解任され、後任の農業担当書記には、フョードル・クラコフが、また、ポドゴルヌイが担当していた党組織・人事はイワン・カピトノフが組織・党活動部長にそれぞれ選出されたため、1965年までに書記局からはずされてしまう。古参のボリシェビキのアナスタス・ミコヤンの後任の国家元首の最高会議幹部会議長に祭り上げられて、もっぱら儀典外交の任を担当するようになっていった。1977年 ブレジネフは最高会議幹部会に第一副議長を新設し、ポドゴルヌイをこれに据えて、最高会議幹部会議長職を奪おうとしたが拒否した。5月24日の中央委員会総会で政治局員を解任された。ポドゴルヌイはその際、「非常な驚き」を示して立ち上がり、政治局員席から中央委員の席に移ったと伝えられる。一ヵ月後の6月17日、18日に開かれた最高会議で幹部会議長を解任された。ポドゴルヌイ自身は会議を欠席し本人の「年金生活に入るために辞任したい」という声明が読み上げられた。
1979年には最高会議代議員職も失った。
評価
ポドゴルヌイは、古参のボリシェビキが、スターリンの大粛清によって消された後を襲い、スターリンの独裁体制を支えた「出世組」世代に位置した。ブレジネフや、コスイギンなどと同じく、脱イデオロギーの色彩が強く、国家・経済の管理者の色彩の強い党官僚の先がけであったと評価できよう。
エピソード
最高会議幹部会議長の座を追われた後の1978年11月、10月革命61周年記念パーティーに出席、ブレジネフ、コスイギン、グロムイコらかつての同僚に遠慮会釈なく次々と話しかけ、迷惑そうな顔をされている姿が、魚本藤吉郎・駐ソ日本大使によって目撃された。ポドゴルヌイは、この時点では最高会議代議員の身分はまだ有しており、パーティーへの出席は"合法"ではあったが、失脚した政治家は配所の月を静かに眺めているのが慣例で、ポドゴルヌイの行動は異例であった。この行動が災いしたのか、その後まもなく彼は最高会議代議員職も失った。