「幸野楳嶺」の版間の差分
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ふつう楳嶺の特徴と言えば、代表作とされる「西域記憶、帝釈試三獣図」や「秋日田家図([[二宮尊徳]]幼児図)」から推察される、教育的にして知性と感情が調和したような作風を指すのが一般的である。 |
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しかし、他の作品を見ていくと、それらから逸脱する抒情的な作品も見られ、重厚緻密とも言える。 |
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しかし、[[四条派]]の主流を受けついでいるのも事実で、彼の作品群にもそれが現れている。 |
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=== 教育者としての楳嶺 === |
=== 教育者としての楳嶺 === |
2009年3月20日 (金) 06:37時点における版
幸野 楳嶺(こうの ばいれい、弘化元年3月3日(1844年4月20日) - 明治28年2月2日(1895年)2月2日)は、江戸時代末から明治初期の日本画家。名は直豊、幼名は角三郎、字は思順、号は楳嶺、他に鶯夢、長安堂、青龍館、六柳北圃など多数。
生い立ち・作風・エピソードなど
生い立ち
弘化元年3月3日(1844年4月20日)、新町四条下ルに於いて金穀貸付業を営み、市内六軒の町奉行の一であった安田四郎兵衛の第四子として生まれる。
嘉永5年(1852年) 楳嶺九歳の頃円山派の中島来章の門に入門する。 この関係は、師の来章の許しを得て塩川文麟の門に入門する明治4年(1871年)までの約二十年間続く。
作風
ふつう楳嶺の特徴と言えば、代表作とされる「西域記憶、帝釈試三獣図」や「秋日田家図(二宮尊徳幼児図)」から推察される、教育的にして知性と感情が調和したような作風を指すのが一般的である。 しかし、他の作品を見ていくと、それらから逸脱する抒情的な作品も見られ、重厚緻密とも言える。
また、初期の頃は円山派の中島来章に約二十年もの間、師事していたこともあり、円山派の影響を多分に受けていると考えられ、単なる四条派の後継者と見なすことは出来ない。
しかし、四条派の主流を受けついでいるのも事実で、彼の作品群にもそれが現れている。
教育者としての楳嶺
楳嶺は画家というよりも、教育者としての面の方が強く出ている。楳嶺自身もそれを自覚していたようで、詳しく述べると長くなるので省略するが、様々な逸話が残っている。 厳しく徹底的に基礎教育をする代わりに、基礎が出来たら自由にさせていたようである。 また、常に門弟たちを引き立たせるようにしていたようでもある。
弟子・門下生
楳嶺四天王
楳嶺門下の高弟4名を指す。具体的には以下の4人。
その他
もちろん「楳嶺四天王」以外にも弟子はいた。具体的には以下の通り。
略歴
- 弘化元年(1844年) 京都の新町四条下ルにおいて金穀貸付業を営む安田四郎兵衛の第四子として生まれる。
- 嘉永5年(1852年) 円山派の中島来章の門に入門する。
- 安政6年(1859年) 父死去。
- 万延元年(1860年) 円山で催された画会に「猿ヶ島報讐図」を出品し、鈴木百年等に認められる。
- 元治元年(1864年) 蛤御門の変により、生家罹災する。母死去。
- 慶応3年(1867年) 柳馬場六角上ルに一戸を構えて自立するも、赤貧洗うが如くであったといわれる。
- 明治4年(1871年) 師中島来章の許しをえて、四条派の塩川文麟のもとに移る。
- 明治5年(1872年) 雅号を梅嶺から楳嶺に改める。
- 明治6年(1873年) 第二回京都博覧会に於いて催された、在洛五十名の席上揮毫の揮毫者に選ばれる。
- 明治9年(1876年) 初めて東上し、「東行写真」成る。
- 明治10年(1877年) 師文麟歿し塩川派を受けつぐと共に、東本願寺へも出入りし、法主・大谷光勝の巡錫に従い九州地方を写生旅行する。
- 明治11年(1878年) 玉泉と連署して京都府知事に画学校設立を建議する。
- 明治13年(1880年) 京都府画学校発足し、鈴木百年と共に北宗担当副教員となる。
- 明治14年(1881年) 画学校教員を依願退職する。竹内栖鳳、私塾に入門する。
- 明治15年(1882年) 第一回内国絵画共進会の審査員をつとめ、「月下擣衣図」を出品。この時「百鳥画譜」の著述により、絵事著述褒状ならびに絵事功労賞を受ける。菊池芳文、入塾してくる。
- 明治17年(1884年) 第二回内国絵画共進会の審査員をつとめ、「桜に雀」を出品し、銀賞を受ける。
- 明治18年(1885年) 再び東本願寺法主大谷光勝の巡錫に随行して、東京を経て北越地方を写生旅行する。
- 明治19年(1886年) フェノロサの京都講演に刺激され、久保田米僊と共に京都青年絵画研究会の開催を発起するも、事志に沿わず一時名古屋に赴く。
- 明治20年(1887年) 皇居御造営(明治二十一年竣工)にあたり、杉戸絵などを揮毫する。
- 明治21年(1888年) 再び画学校に関係し、従来の東西南北を改めて東洋画と西洋画にする改革に関与する。
- 明治22年(1889年) 画学校に於いて西洋画系学生と対立する。
- 明治23年(1890年) 京都美術協会の設立に参加し、評議員となる。第三回内国勧業博覧会の審査員をつとめるも、他の審査員の態度に憤慨して途中帰洛する。京都市に移管されていた京都市画学校を退職する。
- 明治24年(1891年) 幸野私塾懇親会の席上、引退の挨拶をする。
- 明治26年(1893年) 帝室技芸員となる。シカゴ万国博(シカゴ万国博覧会 (1893年) )に「秋日田家図(二宮尊徳幼児図)」を出品する。
- 明治27年(1894年) 帝室技芸員になった祝いに東三本木の家をおくられて移る。東本願寺の大師堂壁画「聖池蓮花図」ほかを揮毫する。
- 明治28年(1895年) 二月二日、病歿する。妙蓮寺(妙蓮寺 (京都市))に葬らる。法号・秀香院誠信楳嶺居士。
(原田平作著「幕末明治 京洛の画人たち」(京都新聞社刊)より抜粋・引用)
代表作
- 西域記憶、帝釈試三獣図
- 秋日田家図(二宮尊徳幼児図)(東京国立博物館蔵)
- 春秋蛙合戦図
- 百福図
- 敗荷鶺鴒図
- 渓流香魚図
参考文献
- 原田平作著「幕末明治 京洛の画人たち」(京都新聞社刊)
- 飯塚米雨著「四条派概説」(「日本画大成 14 四条派」 東方書院刊)