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2010年4月20日 (火) 13:33時点における版

島原の乱
原城跡
戦争:島原の乱
年月日1637年12月11日1638年4月12日
場所原城
結果:幕府軍の勝利
交戦勢力
江戸幕府 一揆
指導者・指揮官
松平信綱
板倉重昌
天草四郎
益田好次
山田右衛門作
戦力
125,800 37,000(異説もある)
損害
1,900 山田右衛門作を除き全滅

島原の乱(しまばらのらん)とは江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模なキリシタン一揆による反乱であり、幕末の動乱に至るまでの最後の本格的な内戦であった。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱とも呼ばれる。宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの内戦の一面しか捉えていない(「勃発まで」にて詳述)。この乱は一般に寛永14年10月25日1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日1638年4月12日)終結とされている。

勃発まで

松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地である肥後天草諸島の農民をはじめとする諸領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、キリシタン迫害もあり、さらに飢饉の被害も加わり両藩に対して反乱を起こした乱である。キリシタン(カトリック信徒)の宗教戦争と殉教物語として語られることも多いが、それらはあくまで一面でしかない。なお、ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業漁業手工業商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。さらに、一揆には有馬小西両氏の浪人、元来の土着領主である天草氏志岐氏の与党などが加わっていたことからも、一般的な「竹槍、筵旗」というイメージは正確ではない。

島原は元はキリシタン大名である有馬晴信の所領であり、領民のキリスト教信仰も盛んな土地であった。豊臣秀吉徳川政権の時代に禁教政策がはじまると、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入部した。重政は徳川家臣団の中での地位向上を図り、江戸城改築の公儀普請役や、彼が独自に計画したルソン遠征、さらには壮大な島原城新築のための過重な年貢の取立てに加えて、厳しいキリシタン弾圧を始めた。年貢を納められない農民や、改宗を拒んだキリシタンに蓑を着せ火をつける「蓑踊り」や、水責め、雲仙岳の噴火口に投げ込むなどの残忍な拷問処刑を行った事が、オランダ商館員やポルトガル船長の記録に残っている。その弾圧の残酷さは、反カトリックであったオランダ人すら辟易させるものであった。次代の松倉勝家も重政の圧政を継承し、さらに過酷な取立てを行った。天草も島原同様キリシタン大名・小西行長の土地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部し、次代の寺沢堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。

細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、すべて反乱の原因を年貢の取りすぎにあると書いているが、領主・勝家は自らの失政を認めず、キリシタン信仰を結束の核としていたことをもって、これを反抗的なキリシタンの暴動と主張した。以後、幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実としたため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という一面的な見方が定着した。

上記のように宗教弾圧以外の側面が存在することから一揆軍に参戦した信者は現在に至るまでいわゆる殉教者としては認められていない。

乱の勃発

ファイル:Statue of Amakusa Shiro at Hara castle.jpg
天草四郎像

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長佐々成政加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原天草の一揆の首謀者たちは湯島談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官林兵左衛門を殺害、ここに島原の乱が勃発する。

ただし、この一揆は島原半島雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、ここに属する領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功せず、北目の領民の指導者層は雲仙地溝帯断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功し(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある。)乱に巻き込まれずに済んだ。

島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍を迎撃するが敗走した。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた。島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという。一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念する。

これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。

原城の籠城戦

乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌を派遣した。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うがことごとく敗走させられた。城の守りは堅く一揆軍は団結し戦意が高かったが、討伐軍は諸藩の寄せ集めであったため統率がとれておらず、戦意も低かったため攻撃が成功しなかったと考えられる。

事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中松平信綱らの派遣を決定した。焦った重昌寛永15年1月1日(1638年2月14日)に再度総攻撃を行うが強引に突撃して討ち死にし、連携不足もあって攻撃は失敗した。討伐軍の死傷者は4,000人以上であったという。重昌が派遣される際、柳生宗矩は小藩主(重昌の領地である深溝藩の石高は1万5000石である)である重昌を総大将にすれば九州大名の統制がとれず討伐は失敗すると考えて反対したという話がある。

新たに着陣した松平信綱率いる討伐軍は増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がり、陸と海から原城を包囲した。側衆中根正盛は、与力20余騎を諸方に派遣して一揆の動きを詳細に調べさせ、甲賀忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し、兵糧が残り少ないことを確認した。これを受けて信綱は兵糧攻めに作戦を切り替えたという。

1月6日、長崎奉行の依頼を受けてオランダデ・ライプ号ベッテン号島原に回航、海からの砲撃を行い、さらに陸揚げした船砲五門を城内に撃ち込んだ。しかし砲撃の目立った効果も見られず、また外国人の助けを受ける事への批判が高まったため、信綱は砲撃を中止させた。この砲撃の破壊効果は少なかったが、心理的に大きな影響を与え一揆軍の戦意を喪失させたと考えられている。

討伐軍は密かに城内に使者や矢文を送り、内応や投降を呼びかけたが成功しなかった。更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送ったが、一揆軍はこれを拒否している。一揆軍は原城の断崖絶壁を海まで降りて海草兵糧の足しにした。信綱は、城外に討って出た一揆軍の死体の胃を見分した結果、海藻しかないのを見て食料が尽きかけている事を知ったという。また、乱が長期間鎮圧されないと幕府の威信に関わるため、信綱は2月28日に総攻撃を決定。しかし、鍋島藩の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始された。兵糧攻めの効果で城内の食料、弾薬は尽きかけており、討伐軍の数も圧倒的に多かったため、この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、乱は鎮圧された。

幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に老若男女37,000人が死亡した。生き残ったのは内通者であった山田右衛門作南蛮絵師)1人であったといわれる。ただし、原城の断崖絶壁を海側に降りて幕府方の総攻撃を前に脱出する一揆勢の目撃情報もあるため、実際は幕府方の総攻撃以前に千人単位で脱出者がいたとの説もある。

幕府討伐軍側は13万近くの軍勢を動員、その死者は8,135人という説もある。

全期間を通じての幕府軍の総勢と籠城軍の概要は以下の通りである。なお、攻勢・守勢双方にかなりの数の浪人が参加していた為、兵力は石高から考えた各大名固有の兵数を上回っている。天草三氏天草志岐柄本)のうち取り潰された天草志岐の両家の浪人が指導層となり一揆軍に参加(柄本家細川家に仕官しており、細川家臣として幕府軍に参加)。また幕府軍にも日本全国から浪人が参加している。

総計 125,800人(上使板倉重昌以下死者1,900人 負傷11,000人)

籠城軍

ほか

  • 戦闘員 - 14,000人以上(推定)
  • 非戦闘員(女・子供など) - 13,000人以上(推定)

総計 37,000人(総攻撃を前に脱出した一揆勢などを換算し、27,000人など異説あり。前述通り総攻撃直前に内通した山田右衛門作1人を除きほぼ総攻撃時に、原城に篭っていた全員が死亡)

これによって、島原半島南目天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶された。わずかに残された信者たちは深く潜伏し、隠れキリシタンとなっていった。島原の乱後に幕府禁教策を強化し、鎖国政策を推し進めていく事になる。また、これ以降一国一城令によって各地で廃城となった城郭を反乱の拠点として使えないようにするため、破壊がいっそう進むことになった。

処分

島原藩主の松倉勝家は一揆の責任を問われて改易処分となり、後に斬首となった。大名が切腹ではなく斬首とされるのは極めて異例である。天草を領有していた寺沢堅高も同じく責任を問われ、天草を没収される。後に寺沢堅高は精神異常をきたして自害し、寺沢家は断絶となった。

また軍紀を破って抜け駆けをした鍋島藩の藩主鍋島勝茂も、半年にわたる閉門という処罰を受けた。

島原の乱以後の天草

島原の乱が天草と連動した原因の1つは、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにある。天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。実際の2倍の収入がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。さらには内戦に至ったのである。

島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが、3年で讃岐国丸亀に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。重成はの教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き、住民の教化に努めた。一方、大矢野島など住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域には、周辺の諸藩から移住者を募り、復興に尽力した。天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は検地をやり直し、石高の算定を半分の21,000石にするよう幕府に対して何度も訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。そのため、重成は承応2年(1653年)に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕して重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて天草の領民にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。現在も鈴木氏を奉った鈴木神社が存在し、天草の人々の信仰を集めている。重辰もまた石高半減を幕府に再三訴えたため、万治2年(1659年)に幕府はようやくこれを認めた。

重辰が畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、忠昌は広高が構築した富岡城を破壊して陣屋造りとした。これは、領民の負担を軽減するためであった。さらに忠昌は、離島が多く農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。

天草における反乱の原因は、天草の実情を無視した寺沢広高による統治にあった。その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。

天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタン信者の潜伏残存率は高かったといわれる。これは離島が多いため、島原半島南目地域のように住民が反乱に根こそぎ動員されることがなく、無人地帯が広がらなかったことや、江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産するナマコフカヒレなどの海産物の乾物(俵物)がやはり幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタンの過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。

関連項目