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「中津川博郷」の版間の差分

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大学在学中、江戸川区鹿骨4丁目に「鹿骨進学ゼミ」を開き、後に、「中津義塾」と改め、理事長に就任。区内を中心に都内、千葉県、埼玉県、海外に進出し、屈指の規模と実績を誇る学習塾に発展させる。
大学在学中、江戸川区鹿骨4丁目に「鹿骨進学ゼミ」を開き、後に、「中津義塾」と改め、理事長に就任。区内を中心に都内、千葉県、埼玉県、海外に進出し、屈指の規模と実績を誇る学習塾に発展させる。


江戸川区議を経て、[[新進党]]結党に参加。1996年の[[第41回衆議院議員選挙]]では地盤である江戸川区[[東京16区]]からの出馬を求めるも党本部が[[プロテニス]]選手として知名度の高かった[[佐藤直子]]を擁立したため県境を挟んで隣接する[[千葉5区]]から出馬。しかし、当時[[旧民主党]]現職だった[[田中甲]](現在落選中)にれ小選挙区で3位となり、[[重複立候補]]しておらず落選。新進党分党後、[[民主党]]に入党。2000年の[[第42回衆議院議員選挙]]では東京16区より出馬し小選挙区で3位となり落選するも、[[比例東京ブロック]]で比例復活し、初当選を果たす。以後、2期連続当選。保守票を対立候補である[[宇田川芳雄]](無所属→[[無所属の会]])と[[島村宣伸]]([[自民党]])が奪いあう間隙をぬっての比例復活当選であった。
江戸川区議を経て、[[新進党]]結党に参加。1996年の[[第41回衆議院議員選挙]]では地盤である江戸川区[[東京16区]]からの出馬を求めるも党本部が[[プロテニス]]選手として知名度の高かった[[佐藤直子]]を擁立したため県境を挟んで隣接する[[千葉5区]]から出馬。しかし、当時[[旧民主党]]現職だった[[田中甲]](現在落選中)にれ小選挙区で3位となり、[[重複立候補]]しておらず落選。新進党分党後、[[民主党]]に入党。2000年の[[第42回衆議院議員選挙]]では東京16区より出馬し小選挙区で3位となり落選するも、[[比例東京ブロック]]で比例復活し、初当選を果たす。以後、2期連続当選。保守票を対立候補である[[宇田川芳雄]](無所属→[[無所属の会]])と[[島村宣伸]]([[自民党]])が奪いあう間隙をぬっての比例復活当選であった。


台湾問題には40年間関わり、民主党内での屈指の親台湾派議員として知られ、2004年には「日本・台湾安保経済研究会」を設立し会長に就任した。武士道精神を政治哲学とする李登輝元総統を敬愛し、自由、民主、人権が定着している台湾を主権国家と位置づける。2009年12月18日の外務委員会の質疑で、東アジア共同体構想に台湾を入れるべきだと主張し、国内外で大きな反響を巻き起こした。日台中貿易推進派である。
台湾問題には40年間関わり、民主党内での屈指の親台湾派議員として知られ、2004年には「日本・台湾安保経済研究会」を設立し会長に就任した。武士道精神を政治哲学とする李登輝元総統を敬愛し、自由、民主、人権が定着している台湾を主権国家と位置づける。2009年12月18日の外務委員会の質疑で、東アジア共同体構想に台湾を入れるべきだと主張し、国内外で大きな反響を巻き起こした。日台中貿易推進派である。

2010年8月5日 (木) 02:22時点における版

日本の旗衆議院議員 中津川 ひろさと
生年月日 (1949-04-12) 1949年4月12日(75歳)
出身地 日本の旗神奈川県川崎市
出身校 早稲田大学第一文学部
前職 江戸川区議会議員
学習塾理事長
所属委員会
世襲
選出選挙区 比例東京ブロック
当選回数 3回
所属党派 新進党→民主党
党役職

元国対副委員長,財務局次長,沖縄及び北方問題に関する特別委員会理事,予算委員会委員
現外務委員会委員,拉致問題特別委員会委員

民主党衆議院議員東京ブロック比例区第6総支部支部長
会館部屋番号 衆・第2議員会館704号室
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中津川 博郷(なかつがわ ひろさと、1949年4月12日 - )は、日本政治家民主党所属の衆議院議員(当選3回)、元江戸川区議会議員。

概要

神奈川県川崎市出身。神奈川県立多摩高等学校及び早稲田大学文学部卒業。

大学在学中、江戸川区鹿骨4丁目に「鹿骨進学ゼミ」を開き、後に、「中津義塾」と改め、理事長に就任。区内を中心に都内、千葉県、埼玉県、海外に進出し、屈指の規模と実績を誇る学習塾に発展させる。

江戸川区議を経て、新進党結党に参加。1996年の第41回衆議院議員選挙では地盤である江戸川区東京16区からの出馬を求めるも党本部がプロテニス選手として知名度の高かった佐藤直子を擁立したため県境を挟んで隣接する千葉5区から出馬。しかし、当時旧民主党現職だった田中甲(現在落選中)に敗れ小選挙区で3位となり、重複立候補しておらず落選。新進党分党後、民主党に入党。2000年の第42回衆議院議員選挙では東京16区より出馬し小選挙区で3位となり落選するも、比例東京ブロックで比例復活し、初当選を果たす。以後、2期連続当選。保守票を対立候補である宇田川芳雄(無所属→無所属の会)と島村宣伸自民党)が奪いあう間隙をぬっての比例復活当選であった。

台湾問題には40年間関わり、民主党内での屈指の親台湾派議員として知られ、2004年には「日本・台湾安保経済研究会」を設立し会長に就任した。武士道精神を政治哲学とする李登輝元総統を敬愛し、自由、民主、人権が定着している台湾を主権国家と位置づける。2009年12月18日の外務委員会の質疑で、東アジア共同体構想に台湾を入れるべきだと主張し、国内外で大きな反響を巻き起こした。日台中貿易推進派である。

また中小企業支援のための金融政策に精通している。予算委員会等での歯切れのいい質問は、度々マスコミで取り上げられる。銀行の貸し手責任追及の急先鋒であり、金融機関の貸し渋り、貸しはがし対策に今日まで取り組んでいる。平成16年6月16日に金融機関等からの借入の連帯保証の実態に関する予備的調査を87名の国会議員の代表として、報告書を提出している。

2005年の第44回衆議院議員選挙では民主党への逆風のため落選。

2009年の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区を都議会卒業した民主党代表鳩山由紀夫元秘書初鹿明博に譲り比例東京ブロックより単独出馬し当選、国政復帰を果たす。現在、「日本・台湾安保経済研究会」顧問。

外部リンク