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*[[1972年]]12月衆院選東京5区に[[日本社会党|社会党]]から出馬し初当選(7回)。[[社会主義協会]]員であることを公然と明らかにし、協会派の代表的国会議員とみなされる。 |
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*[[1974年]][[成田知巳]]委員長の下で[[飛鳥田一雄]]、[[山本幸一]]らと党中央執行副委員長に就任。特に山本幸一とは、社会党の路線を巡り党内主導権争いを繰り広げる。 |
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*[[1977年]][[成田知巳|成田]]委員長の退任で副委員長を辞任。 |
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2010年8月15日 (日) 03:13時点における版
高沢 寅男(たかざわ とらお、1926年10月27日 – 1999年8月5日)は、政治家。元日本社会党衆議院議員。
人物
党内最左派の社会主義協会の大幹部として鳴らした。社会党の寅さんもしくは協会のプリンスの通称で有名。社会党内部の路線論争では、常に当時の綱領的文書「日本における社会主義への道」を擁護し、党の社会民主主義路線への転換を拒み続けた。
- ソ連崩壊前には、再三にわたりソ連・東欧圏諸国を「友好訪問」し、「社会主義の優位性」を賛美していた。東欧社会主義の崩壊やソ連の解体後、その誤りをインタビューで明言、『週刊文春』は「高沢寅男の完全敗北宣言」と題した記事を掲載した。
- 関東国税局による同和信用組合(後の朝鮮信用組合)への強制捜査の執行は朝鮮総連が「不当弾圧」と称し、数年間に渡り税務署の業務に支障をきたす程の抗議活動と扇動を全国の在日朝鮮人多住地域に対して続けた。朝鮮総連は人脈を通じ、国税当局にアプローチを続け、高沢寅男の議員会館の部屋で、朝鮮商工会と国税当局との間で税金問題解決に関する5項目の合意が成立した[要出典]。
略歴
- 1926年10月27日、現在の新潟県上越市に生まれる。
- 1954年3月東京大学経済学部を卒業。東大時代には日本共産党国際派の活動家として学生運動に参加、都学連委員長などを務める。当時の同志に不破哲三、上田耕一郎、安東仁兵衛、武井昭夫らがいた。
- 1954年4月日本社会党書記局に入る。1966年に非議員の中央執行委員に昇格し、教育宣伝局長、総務局長などを歴任する。
- 1972年12月衆院選東京5区に社会党から出馬し初当選(7回)。社会主義協会員であることを公然と明らかにし、協会派の代表的国会議員とみなされる。
- 1974年成田知巳委員長の下で飛鳥田一雄、山本幸一らと党中央執行副委員長に就任。特に山本幸一とは、社会党の路線を巡り党内主導権争いを繰り広げる。
- 1977年成田委員長の退任で副委員長を辞任。
- 1982年飛鳥田一雄委員長の下で曽我祐次と新設された副書記長に就任。
- 1983年7月飛鳥田委員長の退任から委員長に選出された石橋政嗣新委員長の下で副書記長に就任。
- 1986年9月社会党委員長選で土井たか子副委員長が当選し土井新委員長の誕生で副書記長を退任。
- 1993年7月衆院選に日本新党、新生党の進出で、自民党候補の小林興起、中村靖と共に落選し政界引退へ。
- 1995年には練馬区長選に自民党等の推薦で立候補するも落選。
主な著書
- 現代政治入門 労働大学 1972
- 現代日本の政治 ありえす書房 1976
- 社会主義と人間 ありえす書房 1979