「レオニー・ギルモア」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
12行目: | 12行目: | ||
1896年にブリンマー大学修了後、レオニー・ギルモアはニュージャージーの[[w:Academy of St. Aloysius|聖アロイシアス・アカデミー]] [[ニュージャージー]] で教職につき、また様々な校正の仕事をした。 |
1896年にブリンマー大学修了後、レオニー・ギルモアはニュージャージーの[[w:Academy of St. Aloysius|聖アロイシアス・アカデミー]] [[ニュージャージー]] で教職につき、また様々な校正の仕事をした。 |
||
1901年、彼女は野口米次郎が新聞に掲載した校正者募集の求人に応募してきた。 [[野口米次郎]] は最近ニューヨークに移ってきた日本人の物書きだった。野口はそれまで7年間カリフォルニアで過ごしており [[カリフォルニア]] 、英文詩集を2冊出版していたが、自身の英語に自信がもてずにいた。ギルモアは彼の校正者になる同意をした。2人の関係はうまくいき、ギルモアの助けを得て、野口は1902年に小説仕立ての日本少女の日記 |
1901年、彼女は野口米次郎が新聞に掲載した校正者募集の求人に応募してきた。 [[野口米次郎]] は最近ニューヨークに移ってきた日本人の物書きだった。野口はそれまで7年間カリフォルニアで過ごしており [[カリフォルニア]] 、英文詩集を2冊出版していたが、自身の英語に自信がもてずにいた。ギルモアは彼の校正者になる同意をした。2人の関係はうまくいき、ギルモアの助けを得て、野口は1902年に小説仕立ての日本少女の日記『[[w:The American Diary of a Japanese Girl|The American Diary of a Japanese Girl]]』にとりかかった。 |
||
1903年、野口が英国 [[イングランド]] から帰国して後、2人の関係は恋愛へと発展する。そして11月18日、野口は 「Leonie Gilmour is my Lawful wife 」(レオニー・ギルモアは私の法的な妻である)という誓約書を書く。 |
1903年、野口が英国 [[イングランド]] から帰国して後、2人の関係は恋愛へと発展する。そして11月18日、野口は 「Leonie Gilmour is my Lawful wife 」(レオニー・ギルモアは私の法的な妻である)という誓約書を書く。 |
2010年12月20日 (月) 13:18時点における版
レオニー・ギルモア(英: Léonie Gilmour、1873年6月17日 - 1933年12月31日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク生まれの作家、教師、およびジャーナリスト。夫は詩人の野口米次郎、息子は彫刻家のイサム・ノグチ、娘はダンサーのアイレス・ギルモア。 彼女は上映中の映画『レオニー』の主人公.
略歴
1873年6月17日、ニューヨークで、アイルランド移民の父、アンドリュー・ギルモアと母、アルビアナ・スミス・ギルモアとの間に生まれた。[1]
労働者学校 (後の )で教育を受け、1891年にボルティモアのブリンマー高校 を卒業し、ブリンマー大学ブリンマー大学への全額給費生奨学金を獲得した。 [2] ソルボンヌ大学へ1年間留学。 ソルボンヌ. [3] だが、ブリンマー大学のアーカイブズによると、彼女は7学期間修了したものの、卒業はしていない。1894年に、ブリンマー大学で生涯の友人となるキャサリン・バーネルに出会う。[4]
1896年にブリンマー大学修了後、レオニー・ギルモアはニュージャージーの聖アロイシアス・アカデミー ニュージャージー で教職につき、また様々な校正の仕事をした。
1901年、彼女は野口米次郎が新聞に掲載した校正者募集の求人に応募してきた。 野口米次郎 は最近ニューヨークに移ってきた日本人の物書きだった。野口はそれまで7年間カリフォルニアで過ごしており カリフォルニア 、英文詩集を2冊出版していたが、自身の英語に自信がもてずにいた。ギルモアは彼の校正者になる同意をした。2人の関係はうまくいき、ギルモアの助けを得て、野口は1902年に小説仕立ての日本少女の日記『The American Diary of a Japanese Girl』にとりかかった。
1903年、野口が英国 イングランド から帰国して後、2人の関係は恋愛へと発展する。そして11月18日、野口は 「Leonie Gilmour is my Lawful wife 」(レオニー・ギルモアは私の法的な妻である)という誓約書を書く。 [5] しかし、ギルモアの伝記作者、エドワード・マークスによると この誓約書は「ニューヨークの法律で、有効だった時期もあるのですが、2人が交わした時期には法的に無効でした」。[6] 結婚は秘密にされ、住居もそれまで通り別々に暮らし続けた。しかし2人の関係はうまくいかず、真相のほどはわからないが、1904年の早い時期にはこの関係は終わりを迎えたように思われる。野口にはワシントン ワシントンD.C. のジャーナリストだったエセル・アームズ(Ethel Armes)との恋愛が早くも始まっていた。[7] 日露戦争の開戦で、野口は秋には日本に帰国しようと計画をたてはじめた。
だが、2人の関係が終わりかけた時、ギルモアは妊娠したことに気付いた。野口に復縁を迫るよりも、彼女はロサンジェルス ロサンゼルスの母親のもとに身を寄せることを選んだ。そして彼女は後にイサム・ノグチ(Isamu Noguchi)と名づけられる赤ん坊を1904年、11月18日に出産した。 イサムの誕生は、レポーターが病院にレオニーを訪ねてきたため、新聞に掲載されることになった。[8]
エセル・アームズが事の真相を確認し、野口との婚約を破棄した後は、野口はギルモアに日本に来るよう説得し始めた。[9] レオニーは最終的に決心するまで、数か月にわたって来日には抵抗を示していた。1907年3月、彼女が来日した時には、野口にはすでに武田まつ子という別な日本女性がいた。[10]
東京では、ギルモアは主に英語教師として働き、野口の助手として校正を手伝い始めた。彼女は津田梅子と母校のコネを使って、女子英学塾で教えたいと思っていたのだが果たせず、横浜の学校で教師をしたり、故ラフカディオ・ハーンの遺児などに家庭教師をしたりした。 ヨネとの結婚生活は、武田まつ子がヨネの第2子を妊娠したのを知る前でさえぎくしゃくしたものだったが、知ってからは尚更緊張を孕んだ。レオニーは1909年、野口と別居し、イサムを連れて大森, 横浜 茅ヶ崎へと転々と居を移した。1912年、レオニーは娘、エイルズ・ギルモアを出産したが、相手が誰であったかは謎のままである。(イサム・ノグチの伝記作者、ドウス・昌代氏は相手をレオニーが家庭教師をしていた学生の一人だと推測している。 [11]
ギルモアは1918年にイサムを実験校に入れるため、アメリカに行かせた。彼女と娘エイルズは1920年まで日本に住み続けたが、その年サンフランシスコ に移った。後にニューヨークに移り、そこでイサムがメディカル・スクールに進学しようとしているのを知って強く反対し、 彼を思いとどまらせることに成功した。ギルモアはイサムが幼児のときから計画していた芸術家への道を歩むことを再び強く指示した。[12]
アイレスはコネティカット州の進歩的な学校に入学し、卒業後はマーサ・グラハム舞踏団のダンサーになった。
ギルモア自身はささやかな輸出入業務のビジネスに従事するかたわら、様々な仕事をして生計をたてた。1933年12月、肺炎のためニューヨークのベルビュー病院に入院し、動脈硬化症を伴う心臓発作のため12月31日に亡くなった。[13]
文学作品
教師と校正者としての仕事に加え、ギルモア自身何作か作品を書いている。いくつかの短い自伝的なエッセイが、『ニュヨーク・タイムズ』や『ナショナル』誌、『クリスチャン・サイエンス・モニター』などに掲載されている。
ギルモア関連の話題
松井久子 - レオニー・ギルモアの生涯を描いた日米合作映画である「レオニー/Leonie」の監督。2010年、ドウス昌代著 イサム・ノグチ 宿命の越境者 を原案に、レオニーの物語が松井久子監督によって 映画化され話題になっている。
註
- ^ Masayo Duus, The Life of Isamu Noguchi: Journey without Borders (Princeton University Press, 2004), 20-21, incorrectly gives her birth year as 1874.
- ^ ブリンマー高校アーカイブズ
- ^ Duus 21
- ^ エドワード・マークス、レオニー・ギルモアの伝記作者へのインタビュー
- ^ Yone Noguchi to Leonie Gilmour, 18 Nov. 1903, in Yone Noguchi, Collected English Letters, ed. Ikuko Atsumi (Tokyo: Yone Noguchi Society, 1975), #254.
- ^ エドワード・マークス、レオニー・ギルモアの伝記作者へのインタビュー
- ^ Noguchi to Charles Warren Stoddard, (1904) in Noguchi, Collected English Letters #353.
- ^ "Yone Noguchi's Babe Pride of Hospital: White Wife of Author Presents Husband With Son," Los Angeles Herald, 27 Nov. 1904, p. 8.
- ^ Yone Noguchi to Leonie Gilmour, 6 Apr. 1905, in Noguchi, Collected English Letters, #366.
- ^ Duus, 53.
- ^ Duus, 64-65
- ^ Duus 96.
- ^ Duus 144.
参照
- ドウス昌代 『イサム・ノグチ 宿命の越境者』 (上.下):伝記、講談社ノンフィクション賞受賞。講談社 2000年、講談社文庫 2003年
- Masayo Duus, The Life of Isamu Noguchi: Journey without Borders. Princeton University Press, 2004.[1]
- エドワード・マークス、レオニー・ギルモアの伝記作者へのインタビュー
関連リンク