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注:1984年はシーズンの前半半分をオランダ、夏場はアメリカ・コロラドに滞在。
注:1984年はシーズンの前半半分をオランダ、夏場はアメリカ・コロラドに滞在。


1985年はパールイズミ社の欧州市場調査などの業務を外部スタッフとして担当し、同社の代理人としてオランダ自転車競技連盟と4年間のウエアースポンサー契約をさせた。(オランダは、85年にJoop Zoetmelk がロード世界チャンピョン、
1985年はパールイズミ社の欧州市場調査などの業務を外部スタッフとして担当し、同社の代理人としてオランダ自転車競技連盟と4年間のウエアースポンサー契約を成立させた。(オランダは、85年にJoop Zoetmelk がロード世界チャンピョン、
86年にはチームロード優勝、88年のソウルオリンピックでは女子ロードで Monique Knool が金メダルを獲得し、日本製パールイズミのウエアーが世界中に知られるきっかけとなっている。) 
86年にはチームロード優勝、88年のソウルオリンピックでは女子ロードで Monique Knool が金メダルを獲得し、日本製パールイズミのウエアーが世界中に知られるきっかけとなっている。) 
その後、1986年からは日本通運のオランダ現地法人就職。
その後、1986年からは日本通運のオランダ現地法人就職。

2011年2月27日 (日) 10:45時点における版

山宮 正(さんぐう ただし、1959年3月25日 - )は、東京都目黒区出身の元自転車競技選手。

経歴

東海大学付属相模高等学校を経て東海大学へ進学。同大学時代に自転車選手としてのキャリアをスタート。(高校時代はサイクリング部に所属)

大学卒業後、宮田工業に入社し、「ミヤタ・レーシングチーム」に所属するが、大学の卒業旅行で訪れたイタリアで、トラックレースを観戦したことをきっかけに、海外でレース活動を行いたいとの夢が膨らみ、留学を志望していたところ、1983年、自転車ウェアの製造会社、パールイズミの支援を受けてアメリカのコロラドへと渡米[1]。 コロラドではパールイズミ社がスポンサーになっていたPedal Pushersのメンバーとして、ロッキー山脈の山岳ロードレースを中心に活動。 北米大陸において最も高地で行なわれるMt.Evans(ゴール地点標高4,300m)には、83、84年に2年連続で出場し、2回とも完走している。

しかし、1ドルが250円だった当時のアメリカでは、日々の生活を送るのが精一杯な状況であったため、持参してきた資金が底をつく状態になっていた。そこで一旦帰国して再度渡航しようと考えたところ、パールイズミの担当者からオランダ行きを勧められ、1984年、同国Alkmaar(アルクマール)に拠点を移すことになった[1]

オランダでは84年より北オランダのクラブチーム Alcmaria Vidtrix に所属。[1]。と同時に本格的にオランダを拠点にレース活動を行い、ロードレースとトラックレースのドミフォンを主体に活動。特にドミフォンでは、オランダ人ペーサーとのペアで冬季屋内トラックのイベントなどで活躍を見せていた。また、当時発行されていた自転車競技マガジンで連載コラムも担当していた。 注:1984年はシーズンの前半半分をオランダ、夏場はアメリカ・コロラドに滞在。

1985年はパールイズミ社の欧州市場調査などの業務を外部スタッフとして担当し、同社の代理人としてオランダ自転車競技連盟と4年間のウエアースポンサー契約を成立させた。(オランダは、85年にJoop Zoetmelk がロード世界チャンピョン、 86年にはチームロード優勝、88年のソウルオリンピックでは女子ロードで Monique Knool が金メダルを獲得し、日本製パールイズミのウエアーが世界中に知られるきっかけとなっている。)  その後、1986年からは日本通運のオランダ現地法人就職。

転機が訪れたのは1990年。同年、日本で世界選手権自転車競技大会が開催されることになったため、ジャパン・プロロード・プロジェクトに加入[2]し、プロに転向。そしてグリーンドーム前橋で行われた同年のトラックレース世界選手権のプロ・ドミフォン種目に、最初で最後の出場を果たすことになった。しかし世界選手権では、当時の日本プロフェッショナル自転車競技連盟の方針により、オランダ人ペーサーとのペアが組めず、佐藤寅雄をペーサーに起用して挑んだが、ウイルス性の気管支炎による体調不良のため予選敗退となった。 しかし、一度もレースを経験していない即席ペアでは、所詮無理な戦いでもあった。 この点、当時の関係者の判断に大きな誤りがあった事は否定出来ないだろう。 同年12月には、フランス・グルノーブルで開催された冬季屋内トラック選手権に日本代表としてドミフォンレースに参加したが、不運にもペーサーのオートバイ故障というアクシデントに見回れ、決勝進出を逃した。

JPPで1991年まで活動した後、1992年よりオランダのプロチーム Elro Snacks に採用され、同チームで 94年まで3年間活動。 この3年間にオランダ・ベルギーのワールドカップ対象レースを除く、殆ど全てのプロロードレース(クラッシクレース、ステージレース、ケルメスレース、クリテリウム)への出場を経験している。 引退レースは、ロードレースが1995年のベルギー・Putte-Kapellen、 トレックレースが同年11月のAlkmaar競技場でのドミフォンレース。

引退後はオランダにスポーツマネージメントオフィース Japan Sports Project B.V. を設立。 全日本ロードナショナルチームのコーチとして1998年オランダ、99年イタリア、2000年フランス、2001年ポルトガル、2002年ベルギー、2004年イタリアの世界選手権に参加している。[1]。1999年からは日本学生自転車競技連盟の欧州遠征事業でベルギー・オランダにおける選手指導を行なっている。 2010年からは、パールイズミ社が始めた「パールイズミ ロードレーススクール」のコーチも担当している。

尚、1994年に10年間居住したオランダからベルギーに移転。 現在ベルギー居住。

脚注

  1. ^ a b c d 小僧SNS村 第11回 - 2010年10月29日閲覧 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "1st stage's distance"が異なる内容で複数回定義されています
  2. ^ Cycling Archives - Japan Proroad Project - Nichinao 1990(英語)

外部リンク

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