「ウィーン学団」の版間の差分
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== 参考文献 == |
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*『科学論(岩波講座現代思想第10巻)』(岩波書店、1994年) |
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== 関連項目 == |
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2011年4月20日 (水) 07:12時点における版
ウィーン学団(ウィーンがくだん、Wiener Kreis; Vienna Circle)とは、ウィーン大学の哲学教授モーリッツ・シュリックを中心とする科学者、哲学者のグループである。論理実証主義を標榜した。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』やマッハの科学哲学から影響を受けて、数学者のハンス・ハーン、科学哲学者のシュリックを中心とした研究サークルが形成された。1929年に組織を整えてウィーン学団を名乗り、活動を広げていった。ルドルフ・カルナップ、オットー・ノイラートと共に、学団の方針を示した「科学的世界像」を発表した。ウィトゲンシュタインはウィーン学団の一部のメンバーと交流はあったが、この学団と完全に見解を同じくしていたわけではなかったので、学団の活動に参加することはなかった。カール・メンガー、ハーバート・ファイグル、ヴィクトル・クラフトなどが学団のメンバーである。
クルト・ゲーデルはハンス・ハーンの元で学んでおり、ウィーン学団の影響下で思想を形成した。カール・ポパーもハンス・ハーンの元で学び、ウィーン学団のメンバーとも交流はあったが、批判的な立場であった。
1933年、ハーンが病死、1936年、ドイツ人であったが、「有意味な命題とは検証可能な命題である」とする「意味の検証理論」の提唱など、その活動が「ユダヤ的」とみなされたシュリックが、元教え子の国粋主義者 Johann Nelböck (のちにナチス党へ入党)に、ウィーン大学で講義に向かう途中に射殺された。ナチスの弾圧から逃れるために、残された参加者の多くはアメリカに亡命し、学団自体は立ち消えになったが、その考えが米英に広まることになった。
参考文献
- 『科学論(岩波講座現代思想第10巻)』(岩波書店、1994年)
関連項目
外部リンク
- viennaci - インターネット哲学百科事典「Vienna Circle」の項目。
- Vienna Circle - スタンフォード哲学百科事典「ウィーン学団」の項目。