「南山の戦い」の版間の差分
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'''南山の戦い'''(なんざんのたたかい)は、[[遼東半島]]の南山及びその近郊の[[金州区|金州城]]で行われた、[[ロシア帝国|ロシア]][[陸軍]]と[[大日本帝国陸軍|日本陸]][[大日本帝国海軍|海軍]]の戦い。ロシア軍は[[機関銃]]などを装備し、南山はある程度要塞化されていたため、半ば塹壕戦、攻城戦となった。日本陸軍[[第2軍 (日本軍)|第二軍]]は敵に倍する兵士を擁していたにもかかわらず |
'''南山の戦い'''(なんざんのたたかい)は、[[遼東半島]]の南山及びその近郊の[[金州区|金州城]]で行われた、[[ロシア帝国|ロシア]][[陸軍]]と[[大日本帝国陸軍|日本陸]][[大日本帝国海軍|海軍]]の戦い。ロシア軍は[[機関銃]]などを装備し、南山はある程度要塞化されていたため、半ば塹壕戦、攻城戦となった。日本陸軍[[第2軍 (日本軍)|第二軍]]は敵に倍する兵士を擁していたにもかかわらず総兵力の10%を超える兵員を失ってしまった。 |
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[[鴨緑江会戦]]の後、第二軍は遼東半島に兵を進めた。ロシア陸軍は遼東半島の隘路となっている南山に野戦砲114門と機関銃を据え付け、塹壕と鉄条網、地雷を備えた近代的陣地を構築した。日本陸軍がこのような近代的な陣地に攻撃をしかけるのはこれが初めてであったが、中国人から得た情報により、要塞の構造は把握していた。 |
[[鴨緑江会戦]]の後、第二軍は遼東半島に兵を進めた。ロシア陸軍は遼東半島の隘路となっている南山に野戦砲114門と機関銃を据え付け、塹壕と鉄条網、地雷を備えた近代的陣地を構築した。日本陸軍がこのような近代的な陣地に攻撃をしかけるのはこれが初めてであったが、中国人から得た情報により、要塞の構造は把握していた。 |
2011年7月24日 (日) 01:16時点における版
南山の戦い | |
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戦争:日露戦争 | |
年月日:1904年5月25日 - 5月26日 | |
場所:遼東半島、旅順北方 | |
結果:日本軍の戦略目的達成 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | ロシア帝国 |
指導者・指揮官 | |
第二軍奥保鞏大将 | アナトーリイ・ステッセリ中将 |
戦力 | |
約38,500人 | 約17,000人 |
損害 | |
死傷者約4,300名 | 死傷者約1,400名 |
南山の戦い(なんざんのたたかい)は、遼東半島の南山及びその近郊の金州城で行われた、ロシア陸軍と日本陸海軍の戦い。ロシア軍は機関銃などを装備し、南山はある程度要塞化されていたため、半ば塹壕戦、攻城戦となった。日本陸軍第二軍は敵に倍する兵士を擁していたにもかかわらず総兵力の10%を超える兵員を失ってしまった。
鴨緑江会戦の後、第二軍は遼東半島に兵を進めた。ロシア陸軍は遼東半島の隘路となっている南山に野戦砲114門と機関銃を据え付け、塹壕と鉄条網、地雷を備えた近代的陣地を構築した。日本陸軍がこのような近代的な陣地に攻撃をしかけるのはこれが初めてであったが、中国人から得た情報により、要塞の構造は把握していた。
第四師団による攻撃が金州城に対して開始されたが、失敗に終る。 第一師団からの増援2個大隊を加えた三回目の攻撃によって金州の攻略が完了した。その後南山に対して攻撃が加えられた。金州湾からの海軍の艦砲射撃が攻撃を援護したものの、凄まじい損害を受けた。しかしながら粘り強い日本の攻撃により砲弾の尽きたロシア軍は撤退を開始。第二軍は南山を占領して一応の勝利を収めた。
第二軍はその後弾薬の補給を受けて満州へ向かった。撤退したロシア軍は若干の抵抗をしながらも旅順へ撤退し、背水の陣で第三軍と対峙することとなった。第三軍の司令官乃木希典も、この戦いで長男・勝典を失っている。