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「伊丹元扶」の版間の差分

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'''伊丹 元扶'''(いたみ もとすけ、生年未詳 - [[享禄]]2年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]([[1529年]][[12月31日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[細川氏]](京兆家)の家臣。摂津[[伊丹城]]主。兵庫助[[大和国|大和]][[国司|守]]。子に[[伊丹国扶|国扶]]。
'''伊丹 元扶'''(いたみ もとすけ、生年未詳 - [[享禄]]2年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]([[1529年]][[12月31日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[細川氏]](京兆家)の家臣。摂津[[伊丹城]]主。官途は兵庫助[[大和国|大和]][[国司|守]]。子に[[伊丹国扶|国扶]]。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
はじめ[[細川政元]]に仕える。政元の死後、京兆家が起こると政元の[[養子]]である細川高国通じて[[永正]]5年([[1508年]])に[[細川澄元]][[三好之長]]らを近江に駆逐した。その後は高国の有力重臣の一人として仕え、澄元の子・[[細川晴元]]と之の孫・[[三好長]]らが挙兵して攻め込んでくると、抗戦したものの敗れ降伏し、以後は元に属した。
はじめ[[細川政元]]に仕える。永正4年(1507年)6月に政元が暗殺された、京兆家の家督をめぐる訌である[[永正の錯乱]]が起こると政元の[[養子]]の内のひとりである[[細川澄元|澄元]]従っいたが、[[三好之長]]との反目から[[永正]]5年([[1508年]])に政元の養子の内のひとりで澄元と家督を争っていた[[細川高国|高国]]に通じ、丹波守護代[[内藤貞正]]と共に澄元、之長らを近江に駆逐した。永正16年(1519年)11月、澄元之長から伊丹城を攻撃され落とされるが、後に奪還した。大永7年([[1527年]])1月、澄元の遺児[[細川晴元|六郎]]を擁する[[三好勝]]、[[三好長]]とこれに呼応した[[波多野稙通]][[柳本賢治]]が摂津の諸城を相次いで攻撃した。元扶は伊丹城に拠ってこれに耐え、[[桂川原戦い]]で高国が三好勢に敗れた後も篭城を続けたが10月に降伏し、以後は[[三好長]]に属した。享禄2年(1529年)8月、柳本賢治との対立により元長が[[阿波国|阿波]]に退くと畿内で孤立し11月21日、賢治に伊丹城を攻められて討死した。

ところが享禄2年(1529年)11月21日、同じ晴元の武将である[[柳本賢治]]に伊丹城を攻められて落城し、討死した。賢治は晴元の家臣であったが、同僚である元長と仲が悪く、細川家の主導権をめぐって対立していた。このため、元長と懇意にあった元扶を排除するために晴元に讒言した賢治に攻められたのだという。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2011年10月4日 (火) 11:15時点における版

伊丹 元扶(いたみ もとすけ、生年未詳 - 享禄2年11月21日1529年12月31日))は、戦国時代武将細川氏(京兆家)の家臣。摂津伊丹城主。官途は兵庫助、大和。子に国扶

生涯

はじめ細川政元に仕える。永正4年(1507年)6月に政元が暗殺されたのち、京兆家の家督をめぐる内訌である永正の錯乱が起こると政元の養子の内のひとりである澄元に従っていたが、三好之長との反目から永正5年(1508年)に政元の養子の内のひとりで澄元と家督を争っていた高国に通じ、丹波守護代内藤貞正と共に澄元、之長らを近江に駆逐した。永正16年(1519年)11月、澄元と之長から伊丹城を攻撃され落とされるが、後に奪還した。大永7年(1527年)1月、澄元の遺児六郎を擁する三好勝長三好政長とこれに呼応した波多野稙通柳本賢治が摂津の諸城を相次いで攻撃した。元扶は伊丹城に拠ってこれに耐え、桂川原の戦いで高国が三好勢に敗れた後も篭城を続けたが10月に降伏し、以後は三好元長に属した。享禄2年(1529年)8月、柳本賢治との対立により元長が阿波に退くと畿内で孤立し11月21日、賢治に伊丹城を攻められて討死した。

参考文献

関連項目