コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「佐竹義堯」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Greatupper (会話 | 投稿記録)
31行目: 31行目:
[[天保]]10年([[1839年]])に元服し、'''相馬宗胤'''と名乗る。[[嘉永]]2年([[1849年]])2月26日、久保田新田藩(岩崎藩)主・[[佐竹義純]]の[[養子]]となる。それに伴い'''佐竹義核'''と改名した。10月26日に養父・義純の[[隠居]]により、久保田新田藩佐竹家の家督を相続して岩崎藩の第7代藩主となった。なお、佐竹家と相馬家は相互に養子をとるなど親戚関係にあり、義堯は久保田藩の第3代藩主・[[佐竹義処]]の直系子孫にあたる。
[[天保]]10年([[1839年]])に元服し、'''相馬宗胤'''と名乗る。[[嘉永]]2年([[1849年]])2月26日、久保田新田藩(岩崎藩)主・[[佐竹義純]]の[[養子]]となる。それに伴い'''佐竹義核'''と改名した。10月26日に養父・義純の[[隠居]]により、久保田新田藩佐竹家の家督を相続して岩崎藩の第7代藩主となった。なお、佐竹家と相馬家は相互に養子をとるなど親戚関係にあり、義堯は久保田藩の第3代藩主・[[佐竹義処]]の直系子孫にあたる。


[[安政]]4年([[1857年]])7月1日、本家の久保田藩主・[[佐竹義睦]]が病死し、7月20日に義核は[[末期養子]]として久保田藩佐竹家の家督を相続し、第12代藩主となる。それに伴い'''義就'''と改名する。久保田新田藩佐竹家は弟の[[佐竹義諶]](益胤の四男)が相続した。12月16日、従四位下・侍従・右京大夫に叙任た。[[文久]]2年([[1862年]])に'''義堯'''と改名している。
[[安政]]4年([[1857年]])7月1日、本家の久保田藩主・[[佐竹義睦]]が病死し、7月20日に義核は[[末期養子]]として久保田藩佐竹家の家督を相続し、第12代藩主となる。それに伴い'''義就'''と改名する。久保田新田藩佐竹家は弟の[[佐竹義諶]](益胤の四男)が相続した。12月16日、従四位下・侍従・右京大夫に叙任された。[[文久]]2年([[1862年]])に'''義堯'''と改名している。


安政6年([[1859年]])5月、秋田に入部した。入部間もない7月1日、[[男鹿半島]]沖合に[[ロシア帝国|ロシア]]汽船が現れ、領民を驚かした。当時は[[攘夷論]]がかまびすしい時期であったが、義堯はロシア船員の薪の求めを許可した。藩内の情勢に目をやると、当時の久保田藩は財政事情が悪化しており、就封早々に人事刷新を始めとする藩治の改革を行う。自ら範を垂れ質素倹約に励み、文武を奨励した。
安政6年([[1859年]])5月、秋田に入部した。入部間もない7月1日、[[男鹿半島]]沖合に[[ロシア帝国|ロシア]]汽船が現れ、領民を驚かした。当時は[[攘夷論]]がかまびすしい時期であったが、義堯はロシア船員の薪の求めを許可した。藩内の情勢に目をやると、当時の久保田藩は財政事情が悪化しており、就封早々に人事刷新を始めとする藩治の改革を行う。自ら範を垂れ質素倹約に励み、文武を奨励した。

2011年11月3日 (木) 02:05時点における版

 
佐竹 義堯
佐竹義堯公銅像(千秋公園
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 文政8年7月27日1825年9月9日
死没 明治17年(1884年10月23日
改名 相馬宗胤→佐竹義核→義就→義堯
別名 亀三郎・清三郎・左近
戒名 西岸寺殿前中書長誉良信大居士
墓所 東京都浅草の総泉寺
官位 従五位下、左近将監、従四位下
左中将、右京大夫、侯爵贈正二位
幕府 江戸幕府
出羽岩崎藩主→出羽久保田藩
氏族 相馬氏佐竹氏
父母 父:相馬益胤、母:池田氏
養父:佐竹義純(岩崎藩主として)
養父:佐竹義睦(久保田藩主として)
兄弟 充胤義典義堯義諶岡田泰胤
正室:佐竹義純の長女・多喜
継室:藤堂高聴の娘
継室:青山忠良の娘
義生(次男)、雅子(佐竹義脩正室)、
娘(佐竹義理正室)
養子:佐竹義脩
テンプレートを表示

佐竹 義堯(さたけ よしたか)または佐竹 義核(さたけ よしざね)は、出羽岩崎藩の第7代藩主。後に出羽久保田藩第12代(最後)の藩主となる。

生涯

文政8年(1825年)7月27日、陸奥相馬中村藩主・相馬益胤の三男として生まれる。

天保10年(1839年)に元服し、相馬宗胤と名乗る。嘉永2年(1849年)2月26日、久保田新田藩(岩崎藩)主・佐竹義純養子となる。それに伴い佐竹義核と改名した。10月26日に養父・義純の隠居により、久保田新田藩佐竹家の家督を相続して岩崎藩の第7代藩主となった。なお、佐竹家と相馬家は相互に養子をとるなど親戚関係にあり、義堯は久保田藩の第3代藩主・佐竹義処の直系子孫にあたる。

安政4年(1857年)7月1日、本家の久保田藩主・佐竹義睦が病死し、7月20日に義核は末期養子として久保田藩佐竹家の家督を相続し、第12代藩主となる。それに伴い義就と改名する。久保田新田藩佐竹家は弟の佐竹義諶(益胤の四男)が相続した。12月16日、従四位下・侍従・右京大夫に叙任された。文久2年(1862年)に義堯と改名している。

安政6年(1859年)5月、秋田に入部した。入部間もない7月1日、男鹿半島沖合にロシア汽船が現れ、領民を驚かした。当時は攘夷論がかまびすしい時期であったが、義堯はロシア船員の薪の求めを許可した。藩内の情勢に目をやると、当時の久保田藩は財政事情が悪化しており、就封早々に人事刷新を始めとする藩治の改革を行う。自ら範を垂れ質素倹約に励み、文武を奨励した。

文久2年(1862年)4月に江戸に上る。文久3年(1863年)1月、京都に上洛する。

義堯の帰藩後、京都ではいよいよ攘夷論が盛んになり、朝廷から義堯に京都警備の要請が来る。一方で幕府からも江戸城への登城を求められる。朝廷と幕府の要請の板挟みとなった義堯であったが、幕府の要請を断り、朝廷からの再びの要請があったため名代として戸村義效(十太夫)を文久3年(1863年)8月に京都に派遣した。警衛の命は12月に解除された。

元治元年(1864年)に京都警備のための財源として、2万両の新札発行と3万5000石の用米調達に取りかかった。

慶応2年(1866年)6月より9月まで義堯は京都警衛の当番だったが、持病が回復せず名代として小野岡右衛門を警衛に当たらせた。8月に江戸を経由して上洛するために出発したが、江戸に着くとまもなく病状が悪化、そのまま江戸にとどまる。

慶応3年(1867年)、前年の凶作に苦しむ領民の救恤のため帰藩を願い出たが許可されず、その間に持病が再発する。江戸に逗留中王政復古の大号令がなされ、慶応4年(1868年)の1月に帰藩し、重臣を集めた会議で上洛を決定する。名代として再び小野岡右衛門を上洛させる。同年に戊辰戦争が勃発すると、会津討伐の仙台藩の応援として2月に奥羽鎮撫総督として大坂より海路仙台へ向かった。戊辰戦争は明治2年(1869年)に終結し、版籍奉還がなされると義堯は秋田藩知事に任命される。

明治4年(1871年)の廃藩置県後、東京に転居した。

明治5年(1872年)8月2日に隠居し、養嗣子の義脩に家督を譲った。明治14年(1881年)8月16日、義脩を隠居させて、再び家督を相続した。明治17年(1884年)7月7日に侯爵となる。

直後の10月23日、病気のために死去した。享年60。

明治41年(1908年)に正二位を追贈される。佐竹侯爵家は次男の義生が継承している。

逸話

  • 3人目の正室である青山忠良丹波篠山藩主)の娘との結婚は、大名間の結婚としては当時としては珍しい見合いによるものだった。義堯は見合いをして一度でこの娘の美貌に惚れ込み、結婚を承諾したという。ところが輿入れしてきた花嫁は似ても似つかぬ醜女であったことに驚き、忠良に問い合わせてみると、娘が醜いことから縁組の当てがなくて困った忠良が見合いのときに替え玉を立てていたのだという。とはいえ、一度承諾した以上は結婚するしかなく、義堯はやむなく醜女を正室にした。しかしわずか9日後に理由を付けて離婚したという[要出典]