「鴛淵孝」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
21行目: | 21行目: | ||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
大正8年10月22日長崎県長崎市で医者の家に生まれる<ref>渡辺洋二『決戦の蒼空へ―日本戦闘機列伝』文春文庫p124</ref>。 |
大正8年10月22日長崎県長崎市で医者の家に生まれる<ref>渡辺洋二『決戦の蒼空へ―日本戦闘機列伝』文春文庫p124</ref>。 |
||
1937年[[長崎県立長崎中学校 (旧制)|旧制長崎中学校]]卒、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]68期を卒業。1942年2月[[大分海軍航空隊|大分空]]で戦闘機を専修。3月中尉。同年6月30日同教程修了と同時に[[横須賀海軍航空隊|横須賀航空隊]]教官となった。同年8月10日大分空教官<ref>[[坂井三郎]]名義の一連の著作、およびそこから引用された文献で、"1942年夏に鴛淵は[[台南海軍航空隊|台南空]]に所属し[[ラバウル]]に居た"との記述があるが、そのような事実はない。</ref>、1943 |
1937年[[長崎県立長崎中学校 (旧制)|旧制長崎中学校]]卒、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]68期を卒業。1942年2月[[大分海軍航空隊|大分空]]で戦闘機を専修。3月中尉。同年6月30日同教程修了と同時に[[横須賀海軍航空隊|横須賀航空隊]]教官となった。同年8月10日大分空教官<ref>[[坂井三郎]]名義の一連の著作、およびそこから引用された文献で、"1942年夏に鴛淵は[[台南海軍航空隊|台南空]]に所属し[[ラバウル]]に居た"との記述があるが、そのような事実はない。</ref>、1943年3月29日[[第251海軍航空隊|251空]]分隊長、5月[[ラバウル]]に進出し[[ソロモン諸島の戦い|ソロモン]]・[[ニューギニアの戦い|東ニューギニア方面]]に展開する。9月編制変えにより[[第二五三海軍航空隊|253空]]に転属、11月内地帰還[[厚木海軍航空隊|厚木空]]付。 |
||
1944年2月、厚木空は実戦部隊に改編され203空と改称された。5月には[[占守島]]進出、北千島防空に当たった。7月に組織改編により戦闘304飛行隊が新設されると飛行隊長に任じられた。10月[[捷号作戦]]により南方に転進。[[台湾沖航空戦]]に参加したのちフィリピンに進出した。11月1日[[セブ島]]上空の空戦で負傷し内地に帰還、別府の海軍病院で療養した。 |
1944年2月、厚木空は実戦部隊に改編され203空と改称された。5月には[[占守島]]進出、北千島防空に当たった。7月に組織改編により戦闘304飛行隊が新設されると飛行隊長に任じられた。10月[[捷号作戦]]により南方に転進。[[台湾沖航空戦]]に参加したのちフィリピンに進出した。11月1日[[セブ島]]上空の空戦で負傷し内地に帰還、別府の海軍病院で療養した。 |
2013年2月6日 (水) 13:00時点における版
鴛淵 孝 | |
---|---|
生誕 |
1919年10月22日 大日本帝国 長崎県長崎市東上町 |
死没 | 1945年7月24日(25歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1941 - 1945 |
最終階級 | 海軍少佐 |
戦闘 | 第二次世界大戦 |
鴛淵 孝(おしぶち たかし、1919年(大正8年)10月22日 - 1945年(昭和20年)7月24日)は日本の海軍士官、戦闘機操縦士。長崎県出身。
生涯
大正8年10月22日長崎県長崎市で医者の家に生まれる[1]。 1937年旧制長崎中学校卒、海軍兵学校68期を卒業。1942年2月大分空で戦闘機を専修。3月中尉。同年6月30日同教程修了と同時に横須賀航空隊教官となった。同年8月10日大分空教官[2]、1943年3月29日251空分隊長、5月ラバウルに進出しソロモン・東ニューギニア方面に展開する。9月編制変えにより253空に転属、11月内地帰還厚木空付。
1944年2月、厚木空は実戦部隊に改編され203空と改称された。5月には占守島進出、北千島防空に当たった。7月に組織改編により戦闘304飛行隊が新設されると飛行隊長に任じられた。10月捷号作戦により南方に転進。台湾沖航空戦に参加したのちフィリピンに進出した。11月1日セブ島上空の空戦で負傷し内地に帰還、別府の海軍病院で療養した。
1945年1月343空(剣部隊)戦闘701飛行隊(維新隊)飛行隊長に着任。司令は源田実大佐。343空は司令の着想で編成された部隊であり、最新の紫電改を装備、編隊空戦の徹底、通信の強化といったことから鴛淵ら隊員は年初より猛特訓を受けることになる。鴛淵は343空の先任飛行隊長であった[3]。
7月24日、鴛淵は21機で10倍以上の米機動部隊艦載機を豊後水道上空で迎撃する。鴛淵は敵編隊に三撃加えるが自身のエンジンも被弾し初島二郎上飛曹に付き添われている姿を僚機が確認するも、初島上飛曹と共に未帰還となった[4]。享年25。末期の様子は、ヘンリー境田『源田の剣』での米軍側の証言で窺い知ることができる。この戦闘では、「空の宮本武蔵」の異名を持つ武藤金義少尉も同じく未帰還となった。 この日の戦闘で343空は御嘉賞の御言葉を賜わることになった[5]。
人物
鴛淵は学業・技量・人格ともに優れた青年士官の鑑のような人であった。穏やかで懐が深く、いつも笑顔で人をやわらげる雰囲気を持っていた[6]。
源田実大佐によれば「温厚で紅顔好ましい青年であったが戦闘では激しい闘志を見せ常に先頭で文句のつけようのない指揮誘導をし戦った。部下もこの隊長と共に死すということに誇りを持っているようだった」という[7]。志賀淑雄少佐によれば「殺伐としたところがなく品行方正だが芯は強い。てきぱき仕事を進め訓練計画も理詰めでこなす。参謀になっても腕を振るっただろう。」という。柳沢三郎整備員によれば「整備士にうるさい人ではなく小言もなく整備員を信頼してよろしく頼むの一言だけであった。それがかえって頑張らずにはいられなかった。」という。[8]
鴛淵は源田司令からの信頼が厚く空中指揮は彼に一任されていた[9]。343空の戦果は鴛淵の卓越した指揮におうところが大きいという[10]。 3人の隊長(鴛淵、林喜重、管野直)は兄弟のようであったという[11]。 鴛淵ら343空隊長の紫電改には敵をひきつけるためストライプ模様を描いていた。色は黄色と言われるが、維新隊隊員であった山田良市は白だったと言う[12]。
妹思いの兄であり、妹の光子にメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のレコードをプレゼントしたり、兄らしい優しい手紙も送っていたという[13]。 山田は戦後鴛淵に遺品がないことから自分の時計を鴛淵の遺品として届け、その時妹光子と出会い結婚に至る。山田は鴛淵隊長が生きていたら自分が悪いのをよく知ってるから認めなかったでしょうねと語っている。[14]
作家豊田穣は海軍兵学校同期。豊田の作品に鴛淵を主人公とした『蒼空の器―撃墜王鴛淵孝大尉』がある。
脚注
- ^ 渡辺洋二『決戦の蒼空へ―日本戦闘機列伝』文春文庫p124
- ^ 坂井三郎名義の一連の著作、およびそこから引用された文献で、"1942年夏に鴛淵は台南空に所属しラバウルに居た"との記述があるが、そのような事実はない。
- ^ 零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』417頁
- ^ 零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』420頁
- ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫360頁
- ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』光人社NF文庫p217
- ^ 零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』417頁
- ^ 渡辺洋二『決戦の蒼空へ―日本戦闘機列伝』文春文庫p124
- ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫323-324頁
- ^ 零戦搭乗員会『零戦、かく戦えり!』417-418頁
- ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫346-347頁
- ^ ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング214頁
- ^ 宮崎勇『還ってきた紫電改』光人社NF文庫p275
- ^ 神立尚紀『零戦最後の証言―海軍戦闘機と共に生きた男たちの肖像』光人社NF文庫347頁
文献
- 豊田穣『蒼空の器―撃墜王鴛淵孝大尉』講談社
- ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング