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幕末期の[[尾張藩]]では藩主の血統を根底とする派閥抗争が存在していた<ref>長谷川 (1977), p.44</ref>。尾張藩初代藩主[[徳川義直]]の直系は7代藩主[[徳川宗春]]の代で途絶え、8代藩主[[徳川宗勝]]、9代藩主[[徳川宗睦]]は尾張藩支藩である[[高須藩|高須家]]から尾張藩藩主を継いだ。しかし、9代藩主である宗睦の実子が早世するなどの後継者問題が生じたため、宗睦は次代藩主として江戸幕府8代将軍[[徳川吉宗]]の玄孫である[[徳川斉朝|一橋斉朝]]を養子に迎え、以後13代に至るまで[[徳川将軍家]]または[[徳川御三家]]の系統を引く人物が養子として尾張藩藩主を継いだ。<br /> |
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== 愛知県下の自由民権運動 == |
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2013年6月8日 (土) 07:37時点における版
名古屋事件(なごやじけん)とは、1883年(明治16年)から1886年(明治19年)の間、愛知県名古屋市を中心に活動していた自由党党員らが政府転覆のための資金獲得を目的に引き起こした一連の強盗殺人事件を指す[1]。
前史
尾張藩草莽隊と博徒
幕末期の尾張藩では藩主の血統を根底とする派閥抗争が存在していた[2]。尾張藩初代藩主徳川義直の直系は7代藩主徳川宗春の代で途絶え、8代藩主徳川宗勝、9代藩主徳川宗睦は尾張藩支藩である高須家から尾張藩藩主を継いだ。しかし、9代藩主である宗睦の実子が早世するなどの後継者問題が生じたため、宗睦は次代藩主として江戸幕府8代将軍徳川吉宗の玄孫である一橋斉朝を養子に迎え、以後13代に至るまで徳川将軍家または徳川御三家の系統を引く人物が養子として尾張藩藩主を継いだ。
愛知県下の自由民権運動
自由党の結党と地方部の設置
1881年(明治14年)9月、東京の上野精養軒にて、板垣退助、大石正巳、末広重恭、中島信行、藤田茂吉、肥塚竜、福地源一郎らによる政党結党に関する会合が行われた。この会合では、自由民権運動に参加する「都下及地方ノ有志者ヲ連合シテ一同団結[3]」するため、「立憲政党」を結党する案が話し合われた。しかし、立志社を中心に各地方の自由民権運動を連携させる方針が主流となり、10月29日の自由党の結党によって、東京と地方の自由民権運動勢力を結合させる当初の構想が流れることになった[4]。
自由党は「自由ヲ拡充シ権利ヲ保全シ幸福ヲ増進シ社会ノ改良ヲ図ル[5][6][引用 1]」目的の下、党勢拡大のため、地方組織の確立などの政党の組織化を推進した。政党組織や党運営に関して定められた「自由党規則」[7][引用 2]では、東京に自由党の中央本部を置くこと、各地方に自由党の地方組織である「地方部」を置くことが定められ(自由党規則第1章)、地方部にはその事務を統括し、中央本部に出席する「部理」が1名置かれ(同則第9章)、毎年6月および12月の年2回、各地方部における地方党員の名簿を調査し、党員数の動向を中央本部に報告することが義務付けられた(同則第10章)。愛知県には少なくとも4か所に地方部が置かれ[8][注釈 1]、愛知自由党の前身となる名古屋地方部もそのうちの1つであった。名古屋地方部の成立時期を知るものとして、安在邦夫, (1982). 「自由党結党後の党組織化の動向」 『早稲田大学大学院文学研究科紀要』[9]に引用された『福島史学研究』 第32・33合併号によると、1881年(明治14年)12月時点において、愛知県名古屋榎町(現、名古屋市中区)に名古屋地方部が存在していることが自由党「本部報」[引用 3]に記載されている[10]。
愛知自由党の結党
1882年(明治15年)6月3日、自由民権運動の地方都市への波及を防止するため、政党の支部結成を禁止する「集会条例(明治13年4月5日太政官布告第12号)」の改正法(明治15年6月3日太政官第27号布告[11])が公布された。この改正によって、自由党をはじめとする各政党は、地方に政党支部を設置することが困難となり[12]、自由党の各地方部は「東京の自由党に合流」、「地方部の廃止」、「各地域に独立して政党を結党」のいずれかの選択に迫られるようになる[13]。1883年(明治15年)1月、尾張地方を主な活動範囲とする愛知自由党が結党された[14]。同年3月、同じ愛知県内には三河地方に拠点を置く参陽自由党、隣接する岐阜県には濃尾自由党が結党され[14]、自由党総理であった板垣退助や自由党有力者の星亨らによる東海道各県の遊説運動によって、両県における自由党の勢力は有利な地位を有していたとされている[12]。
結党当時の愛知自由党は、党運営の方向性を巡り、2つの派閥が存在していたとされている。1つは、「漸進主義」を基調とする「温和派」、もう1つは、「非常手段」を以って「政治の改革」を志向する「過激派」である[15]。「温和派」に所属した人物として、内藤魯一、大島宇吉らが、「過激派」の代表者としては祖父江道雄が挙げられている[15]。
奥宮健之の名古屋来訪
奥宮健之は、1857年(安政4年)、高知県(土佐国)土佐郡布師田村(現在の高知市)に、奥宮家三男として生まれた。父親は陰陽学者の奥宮慥斎、長男は東京地方裁判所検事正を務めた奥宮正治、次男は「森林黒猿」の名で知られる講談師、奥宮健吉である。1881年(明治14年)、三菱会社に入社。同年7月に、見学を兼ねて北海道へ旅行に出た際に、開拓使官有物払下げ事件を批判する自由党党員の弁舌に触れ、奥宮自身も政府批判の論を述べたことがきっかけとなり、自由党党員との交流が生まれたとされている[16]。同年10月18日、自由党が結党されると、奥宮は会社を退職し、自由党に入党した。詳細は奥宮健之を参照
1883年(明治16年)、吉原における警察官に対する暴行事件によって、鍛冶橋監獄(東京監獄)に収監されていた奥宮は、同年春頃に出所した。奥宮は、鹿児島県の士族が中心となって結成した「三州社」を応援するため、東京を出立し、途中、旧交を温めるために、愛知自由党の党員である祖父江道雄、塚原九輪吉らを訪ねたと伝えられている[17]。
事件の概要
本節は、手塚豊「自由党名古屋事件裁判考」『法学研究』[18]にて引用された名古屋地方検察庁所蔵「明治十九年第四期重罪裁判記録」中の名古屋事件関係文書に基づき、名古屋事件の概要、被告人の動機について記述する。
名古屋事件は愛知県名古屋市に拠点を置く愛知自由党党員が中心となり、これに旧尾張藩集義隊の隊士、博徒らが参加して引き起こした強盗殺人事件である。事件は1883年(明治16年)12月から1886年(明治19年)8月までの約2年8か月に渡り、強盗37件、強盗傷害7件、殺人2件、その他関連する事件を合わせ55件に上る[注釈 2]。名古屋事件を題材として扱う文献として、関戸覚蔵 (1903) 『東陲民権史』、田岡嶺雲 (1909) 『明治叛臣伝』、宇田友猪・和田三郎(共編) (1910) 『自由党史・下巻』、関豊作 (1932) 『大島宇吉翁伝』などが挙げられるが、その多くは『東陲民権史』と似通った記述であり、結果として同書が名古屋事件のほとんど唯一の典拠となっている[20]。
『東陲民権史』は名古屋事件について、以下のように記述している[21]。
「奥宮健之東京を発して……名古屋に到り。……一夕、塚原〔九輪吉(引用者註、以下同。)〕、祖父江〔道雄〕及び岡田利勝と会飲し、……一氏曰く、高知県人の言行何ぞ其一致せざるや、……挙兵や革命を口にせるも未だ嘗て之を実行したる者あるを聞かず、……奥宮怒りて曰く、否々、高知県人は維新以降常に社会に率先して国難に趨走し、事の実行を以て自ら任ぜらることなし。……遂に胸襟を開き、政府顛覆を企つ……奥宮の親しく微細の事まで談合せしは、名古屋人士即ち、塚原、祖父江、岡田、久野〔幸太郎〕等なりき。」 — 関戸覚蔵, (1903). 『東陲民権史』
と、奥宮健之が政府転覆計画の首謀者として記述され、
評価
資料
年表
名古屋事件史年表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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メモランダム
・過激派(直接行動主義) 祖父江道雄(そふえみちお) 久野孝太郎(くのこうたろう) 塚原九輪吉(つかはらくわきち)
明治13年頃に過激派有志が「公道協会」を結成?
・温和派(漸進主義) 大島宇吉(おおしまうきち) 内藤魯一(ないとうろいち)
大島渚(おおしまなぎさ)
岡田利勝(おかだとしかつ)
木俟甚助(きまつじんすけ)
鈴木松五郎(すずきまつごろう)
富田勘兵衛(とみたかんべえ)
星亨(ほしとおる)党勢拡大の為参上 小勝俊吉()星亨の随行員、(過激派に挙兵反乱を暗に示唆?)
・政府転覆計画
1.名古屋鎮台の襲撃
2.名古屋監獄の襲撃による囚人解放
・紙幣偽造計画(総額100万円) ← 星亨による計画の示唆があったとの伝 久野、塚原2名が参加 作業が進まず、計画を放棄する↓
・大草村役場襲撃計画(国税強盗計画) 愛知県東春日井郡大草村(現・小牧市)の村役場を日本刀を以って襲撃
脚注
注釈
- ^ 岡崎に拠点を置く三陽地方部、碧海郡知立に拠点を置く知立地方部、渥美郡田原町に拠点を置く田原地方部、名古屋に拠点を置く名古屋地方部の4か所である。このほか豊橋と西尾にも地方部が置かれたと渡辺隆喜は推定している[8]。
- ^ 1889年(明治22年)2月20日名古屋重罪裁判所における判決数に基づく[19]。
引用
下記の文献を引用するに当たり、本文では新字体表記と改めた。
- ^ (中島右衛門,(1890),『自由党史』: 2.)より改変引用。
「 自由黨盟約 (明治十四年議決)
第一章 吾黨ハ自由ヲ擴充シ權利ヲ保全シ幸福ヲ增進シ社會ノ改良ヲ圖ルヘシ
第二章 吾黨ハ善美ナル立憲政體ヲ確立スルヿニ盡力スヘシ
第三章 吾黨ハ日本國ニ於テ吾黨ト主義ヲ共ニシ目的ヲ同クスル者ト一致協合シテ以テ吾黨ノ目的ヲ達スヘシ
」 - ^ (吉田正太郎編,(1882), 『民権官権政党盟約全書』: 2-3,4-5.)より一部改変引用。
「 自由黨規則
第一章 東京ニ中央本部ヲ設ケ地方ニ地方部ヲ置ク其地方部ハ各自地方ノ名稱ニヨリ自由黨何部何某ト稱スヘシ
第九章 地方部ハ中央本部ニ對スル部理一名ヲ置ク其他ノ役員ハ渾テ地方ノ便宜ニ任ス
第十章 地方部ニ於テハ每年六月十二月両度其地方黨衆ノ名簿ヲ調整シ其加除增減ヲ明ニシテ中央本部ニ送達スヘシ
」 - ^ 『福島史学研究』第32・33合併号に所収されている自由党「本部報」第三報(明治14年12月22日)より。
今日迄地方部設置ノ箇所ハ左ノ如シ
愛知県名古屋榎町
部理 渋谷良平
吉田道雄
出典
- ^ 手塚. (1963-03), p.1
- ^ 長谷川 (1977), p.44
- ^ 『朝野新聞』 1881年9月25日
- ^ 渡辺. (1977-12), p.19
- ^ 中村 (1882), p.110
- ^ 中島 (1890), p.2
- ^ 中村 (1882), p.111
- ^ a b 渡辺 (1977-12), p.43
- ^ 安在邦夫. (1982), 「自由党結党後の党組織化の動向」 『早稲田大学大学院文学研究科紀要』 28: 290-292, 308.
- ^ 安在. (1982), pp.290-291
- ^ NDLJP:787962 法令全書(明治15年)内閣官報局, 第39画像目より
- ^ a b 石塚 (1926), p.4
- ^ 渡辺. (1977-12), p.26
- ^ a b 渡辺. (1977-12), p.23
- ^ a b 伊藤 (1939), p.329
- ^ 田岡 (1909), p.145
- ^ 田岡 (1909), p.152
- ^ 手塚豊, (1963-03). 「自由党名古屋事件裁判考」 『法学研究』 36(3): 4-8.
- ^ 手塚. (1963-03), p.9
- ^ 手塚. (1963-03), p.2
- ^ 関戸 (1903), pp.579-
参考文献
図書
- 石塚一雄, (1926). 『愛知県政党史』 大名古屋研究会.
- 伊藤仁太郎, (1939). 『隠れたる事実 明治裏面史・続編』 大同出版社.
- 稲田正次(編), (1966). 『明治国家成立の政治過程』 御茶の水書房.
- 宇田友猪・和田三郎(共編), (1910). 『自由党史・下巻』五車楼.
- 国立国会図書館(製), (1890). 『自由党史』 中島七右衛門.
- 関戸覚蔵(編), (1903). 『東陲民権史』 養勇舘.
- 関豊作, (1932). 『大島宇吉翁伝』 新聞解放社.
- 田岡嶺雲, (1909). 『明治叛臣伝』 日高有倫堂.
- 中村義三, (1882). 『内外政党事情』 自由出版.
- 吉田正太郎(編), (1882). 『民権官権政党盟約全書』 秩山堂.
- 歴史学研究会・歴史学研究会(編), (1958). 『明治維新史研究講座』 平凡社, 5: 113-130.
記事論文
- 安在邦夫, (1982). 「自由党結党後の党組織化の動向」 『早稲田大学大学院文学研究科紀要』, 早稲田大学大学院文学研究科 28: 290-292.
- 手塚豊, (1963-03). 「自由党名古屋事件裁判考」 『法学研究』, 36(3):
- 渡辺隆喜, (1977-12). 「自由民権運動と政党構造 ――政党運動と地域との関連をめぐって」 『歴史と地域<特集>』, 駿台史學/駿台史學会(編) 42: