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[[1926年]][[佐賀県]]生まれ。[[1945年]][[長崎経済専門学校]]在学中に[[被爆]]。[[1950年]]九州大学経済学部卒業、続いて大学院特別研究生となり[[向坂逸郎]]に師事。[[1955年]]より九州大学教養部に勤務、経済学を講じる。講師、助教授、教授を務め、[[1989年]]に定年で退官。続いて[[熊本学園大学]]教授となり、[[1996年]]まで勤務し再度の定年で退職。 |
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九州大学在職中、[[三井三池炭鉱]]・四山鉱の労働者教育に関わるなど、研究、社会活動の両面で向坂逸郎の志を積極的に継承する。[[1998年]]より[[2014年]]まで、社会主義協会代表を務める。『日本資本主義論争史』([[ありえす書房]])は、[[労農派]]の立場からの数少ない[[日本資本主義論争]]の概括である。[[1998年]]より社会主義協会代表となる。[[アララギ]]派の歌人でもあり、その歌は[[朝日新聞]]「[[折々の歌]]」で紹介された。 |
九州大学在職中、[[三井三池炭鉱]]・四山鉱の労働者教育に関わるなど、研究、社会活動の両面で向坂逸郎の志を積極的に継承する。[[1998年]]より[[2014年]]まで、社会主義協会代表を務める。『日本資本主義論争史』([[ありえす書房]])は、[[労農派]]の立場からの数少ない[[日本資本主義論争]]の概括である。[[1998年]]より社会主義協会代表となる。2014年社会主義協会代表を引退し、顧問となる。[[アララギ]]派の歌人でもあり、その歌は[[朝日新聞]]「[[折々の歌]]」で紹介された。 |
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==主な著書== |
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*『向坂逸郎 その人と思想』(えるむ書房) |
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*『歌集 原子野』(短歌新聞社) |
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*『歌集 晩禱』(現代短歌社) |
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2014年10月10日 (金) 21:42時点における版
小島 恒久(こじま つねひさ、1926年 - )は、日本の経済学者、社会運動家。九州大学名誉教授、元社会主義協会代表、元労働者運動資料室理事長。
1926年佐賀県生まれ。1945年長崎経済専門学校在学中に被爆。1950年九州大学経済学部卒業、続いて大学院特別研究生となり向坂逸郎に師事。1955年より九州大学教養部に勤務、経済学を講じる。講師、助教授、教授を務め、1989年に定年で退官。続いて熊本学園大学教授となり、1996年まで勤務し再度の定年で退職。
九州大学在職中、三井三池炭鉱・四山鉱の労働者教育に関わるなど、研究、社会活動の両面で向坂逸郎の志を積極的に継承する。1998年より2014年まで、社会主義協会代表を務める。『日本資本主義論争史』(ありえす書房)は、労農派の立場からの数少ない日本資本主義論争の概括である。1998年より社会主義協会代表となる。2014年社会主義協会代表を引退し、顧問となる。アララギ派の歌人でもあり、その歌は朝日新聞「折々の歌」で紹介された。
主な著書
- 『日本経済の流れ』
- 『日本経済近現代のあゆみ』
- 『日本の労働運動 激動の100年史』
- 『働く女性百年のあゆみ』『戦後日本経済の流れ』(以上、河出書房新社)
- 『日本資本主義論争史』『マルクスと向坂逸郎』(以上、ありえす書房)
- 『マルクス・エンゲルス紀行』(法律文化社)
- 『経済学入門』『日本資本主義と労働者』
- 『古典への招待』『資本主義経済のあゆみ』(以上、労働大学)
- 『向坂逸郎 その人と思想』(えるむ書房)
- 『歌集 原子野』(短歌新聞社)
- 『歌集 晩禱』(現代短歌社)