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1536年にフランス王国軍がピエモンテに進攻すると、ピネローロも占領され、1574年までフランスによる支配を受けた。
1536年にフランス王国軍がピエモンテに進攻すると、ピネローロも占領され、1574年までフランスによる支配を受けた。


1631年のケラスコ条約(マントヴァ継承戦争{{enlink|War of the Mantuan Succession}}の講和条約)により、ふたたびフランス王国領となった。1665年には失脚した大蔵卿[[ニコラ・フーケ]]がピネローロの要塞に幽閉されている。「[[鉄仮面]]」は1669年にこの地に収容された。
1631年の{{仮リンク|ケラスコ条約|it|Trattato di Cherasco|fr|Traité de Cherasco|es|Tratado de Cherasco}}{{仮リンク|マントヴァ継承戦争|it|Guerra di successione di Mantova e del Monferrato|en|War of the Mantuan Succession}}の講和条約)により、ふたたびフランス王国領となった。1665年には失脚した大蔵卿[[ニコラ・フーケ]]がピネローロの要塞に幽閉されている。「[[鉄仮面]]」は1669年にこの地に収容された。


[[大同盟戦争]]中の1696年、フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]はサヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]にピネローロを返還することに同意した(トリノ条約)。ただし、返還に際しては、要塞を破却することと、ルイ14世に敵対していた[[アウクスブルク同盟]]からサヴォイアが脱退することが条件とされた。
[[大同盟戦争]]中の1696年、フランス王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]はサヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]にピネローロを返還することに同意した(トリノ条約)。ただし、返還に際しては、要塞を破却することと、ルイ14世に敵対していた[[アウクスブルク同盟]]からサヴォイアが脱退することが条件とされた。

2015年1月28日 (水) 00:24時点における版

ピネローロ
Pinerolo
ピネローロの風景
行政
イタリアの旗 イタリア
ピエモンテ州の旗 ピエモンテ
県/大都市 トリノ
CAP(郵便番号) 10064
市外局番 0121
ISTATコード 001191
識別コード G674
分離集落 Baudenasca, Gerbido, Riva, Roletto
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 34,832 [1](2012-01-01)
人口密度 692.8 人/km2
文化
住民の呼称 pinerolesi
守護聖人  
祝祭日  
地理
座標 北緯44度53分0秒 東経7度20分0秒 / 北緯44.88333度 東経7.33333度 / 44.88333; 7.33333座標: 北緯44度53分0秒 東経7度20分0秒 / 北緯44.88333度 東経7.33333度 / 44.88333; 7.33333
標高 376 (292 - 1376) [2] m
面積 50.28 [3] km2
ピネローロの位置(イタリア内)
ピネローロ
ピネローロの位置
トリノ県におけるコムーネの領域
トリノ県におけるコムーネの領域
イタリアの旗 ポータル イタリア
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ピネローロイタリア語: Pinerolo)は、イタリア共和国ピエモンテ州トリノ県にある、人口約3万5000人の基礎自治体コムーネ)。

中世には交通の要衝であり、サヴォイア家によって要塞が建設された。フランス王国領であった17世紀後半、ピネローロの要塞には、謎の多い囚人「鉄仮面」が収容された。

名称

イタリア語以外では以下の名称を持つ。

地理

位置・広がり

トリノ県南部のコムーネで、県都・州都トリノの南西約40kmに位置する。

トリノ県概略図

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。

歴史

中世のピネローロは、イタリアにおける交通の要衝の一つであり、サヴォイア家が要塞を築いた。軍事的な重要性ゆえに、良く知られた軍学校の起源となる学校が置かれている。フェネストレッレの要塞も近くにある。

ピネローロについて最初に言及された文献は10世紀のもので、当時ピネローロはトリノの領主 (March of Turinに属し、ピネローロの修道院長が行政を行っていた。

1235年、サヴォイア伯アメデーオ4世は、ピネローロを一種の保護領とした。1243年、ピネローロはサヴォイア家による完全な支配下に置かれた。以後、サヴォイア家(のちにサヴォイア=アカイア家)の所領となった。1247年、ピネローロにはコムーネ(市民共同体)が成立する。ピネローロ修道院長は引き続きアバディア・アルピナの修道院領の行政にあたっていた。

1536年にフランス王国軍がピエモンテに進攻すると、ピネローロも占領され、1574年までフランスによる支配を受けた。

1631年のケラスコ条約イタリア語版フランス語版スペイン語版マントヴァ継承戦争イタリア語版英語版の講和条約)により、ふたたびフランス王国領となった。1665年には失脚した大蔵卿ニコラ・フーケがピネローロの要塞に幽閉されている。「鉄仮面」は1669年にこの地に収容された。

大同盟戦争中の1696年、フランス王ルイ14世はサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世にピネローロを返還することに同意した(トリノ条約)。ただし、返還に際しては、要塞を破却することと、ルイ14世に敵対していたアウクスブルク同盟からサヴォイアが脱退することが条件とされた。

2006年トリノオリンピックではカーリングの会場となった。

姉妹都市

人物

著名な出身者

ゆかりの人物

  • ニコラ・フーケ - 17世紀のフランスの政治家。失脚後、ピネローロの監獄に収容され、当地で没。
  • 鉄仮面 - 17-18世紀のフランスの囚人。1669年にピネローロの監獄に収容され歴史に登場する。

脚注

外部リンク

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