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*浦生地区の城跡は、[[関野貞]]氏が1917年([[大正]]6年)に発見した遺構である<ref>関野 貞「天智天皇の屋島城」『史学雑誌』第28編第6号、 史学会、1917年、47頁。</ref>。
*浦生地区の城跡は、[[関野貞]]氏が1917年([[大正]]6年)に発見した遺構である<ref>関野 貞「天智天皇の屋島城」『史学雑誌』第28編第6号、 史学会、1917年、47頁。</ref>。
*山上の城門遺構の石塁が発見されるまでは、山上に遺構が無い状態で、実体の無い幻の城の状況であった<ref name="yama"/>。
*山上の城門遺構の石塁が発見されるまでは、山上に遺構が無い状態で、実体の無い幻の城の状況であった<ref name="yama"/>。
*1998年([[平成]]10年)市内に住む平岡岩夫氏による南嶺山上の[[石塁]]の発見を契機に<ref>平岡岩夫「屋嶋城跡の新発見の石塁に関して」『溝漊』第7号 、古代山城研究会、1988年、29頁。</ref>、城門跡と築城年代を示す土器が発掘され、山上の城の存在が明確になった<ref name="yama"/>。
*1998年([[平成]]10年)高松平岡岩夫氏による南嶺山上の[[石塁]]の発見を契機に<ref>平岡岩夫「屋嶋城跡の新発見の石塁に関して」『溝漊』第7号 、古代山城研究会、1988年、29頁。</ref>、城門跡と築城年代を示す土器が発掘され、山上の城の存在が明確になった<ref name="yama"/>。
*南嶺山上の北斜面[[土塁]]は、[[村田修三]]氏が1984年(昭和59年)に発見した遺構である<ref>村田修三「研究室旅行こぼれ話ー屋島城ー」『寧楽史苑』第30号、奈良女子大学史学会、1985年、69頁。</ref>。
*南嶺山上の北斜面[[土塁]]は、[[村田修三]]氏が1984年(昭和59年)に発見した遺構である<ref>村田修三「研究室旅行こぼれ話ー屋島城ー」『寧楽史苑』第30号、奈良女子大学史学会、1985年、69頁。</ref>。
*浦生地区の2009年度(平成21年度)の調査で、築城年代を示す土器が発掘され、城跡遺構であることが明確になった<ref name="uro"/>。
*浦生地区の2009年度(平成21年度)の調査で、築城年代を示す土器が発掘され、城跡遺構であることが明確になった<ref name="uro"/>。

2016年7月3日 (日) 17:32時点における版

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屋嶋城
香川県
 城外の城壁の北側より南側を望む
 城外の城壁の北側より南側を望む
城郭構造 古代山城(朝鮮式山城)
築城主 大和朝廷
築城年 天智天皇6年(667年)
廃城年 不明
遺構 城門・石塁・土塁・水門跡・貯水池
指定文化財 国の史跡・天然記念物「屋島」に包含
再建造物 城門遺構を復元
位置 北緯34度21分14.76秒 東経134度6分19.21秒 / 北緯34.3541000度 東経134.1053361度 / 34.3541000; 134.1053361座標: 北緯34度21分14.76秒 東経134度6分19.21秒 / 北緯34.3541000度 東経134.1053361度 / 34.3541000; 134.1053361
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屋嶋城の位置(日本内)
屋嶋城
屋嶋城

屋嶋城(やしまじょう[注 1]/やしまのき、屋島城)は、香川県高松市屋島[1]に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、1934年昭和9年)11月10日、国指定の史跡「屋島」[2]および、国指定の天然記念物「屋島」[3]に包含される[4]

概要

日本書紀』の667年(天智天皇 6年11月)の条に 「大和に高安城・讃吉に屋嶋城(やしまのき)・対馬に金田城を築く」と、記載された城跡である[注 2]

いにしえの屋島は南北5キロメートル・東西2キロメートルの島であり、海外交流・交易の主海路に面した要衝であった[5]江戸時代塩田開発と後の埋立にともない、陸続きのようになる[6]

屋島は南嶺の標高292メートル[1]・北嶺の標高282メートル、山頂部は平坦で広い台地であり、両者は細い尾根で接続されている。南北嶺の山上全域が城跡とされている[7][注 3]。山上の外周7キロメートルのほとんどが断崖で、南嶺の外周4キロメートルの断崖の切れ目に城壁が築かれている[8]。山上からは山下の様子が明確に把握でき、メサ[9]の地勢を有効に活用した城で、懸門(けんもん)構造[注 4]城門の存在が判明したのは国内初のことであった[注 5][10]。この懸門の存在は、大野城基肄城と同様に屋嶋城の築城においても、百済からの亡命者が関与したことが窺える[11]

浦生(うろ)集落の砂浜が広がる海岸から谷筋を登れば山上に通じた道があり、標高100メートルの山中に谷を塞いだ長さ47メートル・基底部幅約9メートルの石塁がある。この遺構大正時代に発見され、山上の石塁が発見されるまでは、屋嶋城の唯一の遺構であった。山上の城は、断崖を利用して城壁は築かれなかったとされていた[12]。しかし、考古学の視点では未実証で、多くの研究者が実態の不明な古代山城に位置づけていた[13]。2009年度の調査で、7世紀後半代の遺構であることが判明した[14]。浦生地区の遺構は、山上の城への進入路を遮断した城である[10]

城門遺構の復元と見学路などが整備され、2016年3月19日より、一般公開されている[15]

山上からは、西方約28キロメートルの香川県の五色台と岡山県の鷲羽山に挟まれた備讃瀬戸の海路を望むことが出来るとともに、讃岐城山城[注 6]鬼ノ城[注 7]が視野に入る[16]

島内には、北端に長崎鼻(ながさきのはな)古墳[注 8]・北嶺山上に千間堂(せんげんどう)跡[注 9]・東岸の入江(屋島湾)の一帯は源平合戦(治承・寿永の乱)の屋島古戦場・北端の岬に高松藩が築いた砲台跡などがある[17]

屋嶋城跡は、瀬戸内海国立公園[18]の指定地内に所在する。

四国にある古代山城は、屋嶋城・讃岐城山城・永納山城[注 10]の三城である。

歴史

調査研究

屋島の北方海上より
屋島の南西(春日川)より
屋島の南東(龍王台)より
  • 浦生地区の城跡は、関野貞氏が1917年(大正6年)に発見した遺構である[19]
  • 山上の城門遺構の石塁が発見されるまでは、山上に遺構が無い状態で、実体の無い幻の城の状況であった[8]
  • 1998年(平成10年)高松市の平岡岩夫氏による南嶺山上の石塁の発見を契機に[20]、城門跡と築城年代を示す土器が発掘され、山上の城の存在が明確になった[8]
  • 南嶺山上の北斜面土塁は、村田修三氏が1984年(昭和59年)に発見した遺構である[21]
  • 浦生地区の2009年度(平成21年度)の調査で、築城年代を示す土器が発掘され、城跡遺構であることが明確になった[14]
  • 屋嶋城は二重防御の城である[22]。また、築城年が明確で、早々に廃城されたと推定され、築城時の遺構がそのまま残された貴重な城跡とされている[13]
  • 城門は懸門構造に加え、城内側は甕城(おうじょう)であり[注 11]、通路は北側に直角に曲がる。門道は階段状で城内から城外に向かって排水路を設け、通路の両側の柱穴の検出により建造物(門扉)の存在が実証された[23]
  • 城門遺構の全長45メートル・高さ6メートルの石塁などが復元され、現地説明会が開催された[24]。城門は幅5.4メートル・奥行10メートル・入口の高さ2.5メートル(段差)、暗渠と排水口が設置されている。城門の南側は、内托式[注 12]の城壁で、高さ6メートルの城壁がある。城門の北側は、夾築式[注 13]の城壁で、北端は断崖に接続され、長さ10メートル・高さ5メートル・幅10メートルである。
  • 対馬~九州の北部~瀬戸内海~大和に至る要衝に所在する古代山城は、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[25]
  • 1898年(明治31年)、高良山列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある屋嶋城などは、「朝鮮式山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[26]

現地情報

  • 山上の遊歩道の要所に「瀬戸内海国立公園 屋島案内図」の説明板や案内標示がある。山上の駐車場から徒歩15分ほどの場所に、城門遺構の見学路が整備されている。終日、無料公開であるが、夜間の照明は無い。徒歩の場合は、歩行者専用の屋島登山道(参道・遍路道・四国の道・県道)を登ることになる。屋島登山道の中腹から、城門遺構に通じた山道が整備されているが、急勾配で階段の多い狭い山道である。城門遺構は、コンピューターグラフィックスで復元された城門などを、スマートホンタブレット端末で見ることができる機能が付与されてる[15]
  • 城門遺構以外の山上地区・浦生地区の遺構は未整備であるが、学術調査は継続されている。

その他

          いにしへの書に名高き屋島見ゆる広場にきそふ人のたのもし
  • 高松市は屋嶋城跡調査整備検討委員会を設置する。2011年、大西秀人市長は「屋嶋城跡の発掘、復元整備を進め、観光屋島の復活を図る」と宣言し、城門遺構の復元整備を行った[15]。また、地元のボランティア団体が屋嶋城のPR活動を[1]展開している。
          屋嶋城あたりに鳴きしほととぎすむこうの谷に声しぼり鳴く
          白村江に敗れしのちに築く城半ばくずれて石組みあらわ
  • 2013年10月、古代山城サミット高松大会が[2]開催された。
  • 高松市の2014年6月定例議会における、城門遺構の門扉復元の質問に対し、大西秀人市長より「遺構が大きく損壊していることから、文化庁の基準に照らして復元は困難な状況」との答弁があった(四国新聞2014年6月18日閲覧)。

ギャラリー

脚注

注釈

  1. ^ 特別史跡「おおのじょう・きいじょう・かねだじょう」、史跡「きくちじょう」に準ずる。
  2. ^ 『日本書紀』の天智天皇 六年 十一月の条に「 是月、築 倭國高安城 讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこほりのやしまのき) 対馬國金田城」と、記載する。
  3. ^ 南嶺城跡説の論者も存在する。向井一雄「外城ラインに関する一考察」『戦乱の空間』第4号、戦乱の空間編集会、2005年、121頁。
  4. ^ 朝鮮半島の山城をルーツとする様式で、城門の入口に進入しにくい段差のある城壁を設け、普段は梯子などで出入りし、戦闘時は撤去する構造の門で、防御性能を高める構造。
  5. ^ 韓国、忠北大学のチャ ヨンゴル教授は「階段状の城門は懸門式だった可能性が高い」と評する。山陽新聞、2002年6月25日閲覧。
  6. ^ 香川県坂出市に所在する国指定の史跡「城山」まで、約21キロメートル。
  7. ^ 岡山県総社市に所在する国指定の史跡「鬼ノ城山」まで、約52キロメートル。
  8. ^ 5世紀初頭の全長45メートルの前方後円墳で、石棺は阿蘇溶結凝灰岩製である。
  9. ^ 屋島寺の前身の仏堂跡(礎石建物)で、基壇から多口瓶が3個体出土している。
  10. ^ 愛媛県西条市に所在する国指定の史跡「永納山城跡」。
  11. ^ 朝鮮半島の山城をルーツとする様式で、城門の外側または内側で、城壁を曲げたり突出させ、直進できない袋小路状の空間を設けた構造の門で、防御性能を高める構造。
  12. ^ 城内の地形を活用し、城外側だけを城壁にした構造。
  13. ^ 城外側と城内側の両面を城壁にした構造。

出典

  1. ^ a b 国土地理院基準点成果等閲覧サービスー国土地理院
  2. ^ 史跡「屋島」-高松市
  3. ^ 天然記念物「屋島」-高松市
  4. ^ 屋島 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ 高松市歴史資料館 編『屋島ーシンボリックな大地に刻まれた歴史ー』、高松市、2014年、2頁。
  6. ^ 屋島風土記編纂委員会 編「屋島の風土と環境」『屋島風土記』、屋島文化協会、2010年、9頁。
  7. ^ 高松市教育委員会 編『高松市埋蔵文化財調査報告第172集 屋嶋城跡-城門遺構整備事業報告- 』、高松市、2016年、2頁。
  8. ^ a b c 高松市教育委員会 編『高松市埋蔵文化財調査報告第62集 史跡天然記念物屋島 』、高松市、2003年、63・124頁。
  9. ^ 讃岐ジオサイト(10)屋島-香川大学
  10. ^ a b 高松市教育委員会 編『高松市埋蔵文化財調査報告第113集 屋嶋城跡Ⅱ 』、高松市、2008年、50・62頁。
  11. ^ 渡邊誠「「日本書紀」に記載の残る屋嶋城」『教育時報』通巻762号、 岡山県教育委員会、2013年、17頁。
  12. ^ 向井一雄「屋嶋城跡」『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、525頁。
  13. ^ a b 山元敏裕「古代山城屋嶋城について」『歴史に見る四国―その内と外―』、地方史研究協議会、2008年、267・279頁。
  14. ^ a b 高松市教育委員会 編『高松市埋蔵文化財調査報告第131集 高松市内遺跡発掘調査概報 』、高松市、2011年、26頁。
  15. ^ a b c 歴史ロマン「開門」。四国新聞、2016年3月20日閲覧。
  16. ^ 村上幸雄 乗岡 実 著『鬼ノ城と大廻り小廻り』、吉備人出版、1999年、2頁。
  17. ^ 香川県の歴史散歩編集委員会 編『香川県の歴史散歩』、山川出版社、2013年、38頁。
  18. ^ 瀬戸内海国立公園ー環境省
  19. ^ 関野 貞「天智天皇の屋島城」『史学雑誌』第28編第6号、 史学会、1917年、47頁。
  20. ^ 平岡岩夫「屋嶋城跡の新発見の石塁に関して」『溝漊』第7号 、古代山城研究会、1988年、29頁。
  21. ^ 村田修三「研究室旅行こぼれ話ー屋島城ー」『寧楽史苑』第30号、奈良女子大学史学会、1985年、69頁。
  22. ^ 浦生地区の調査のプレス発表/高松市教育委員会。四国新聞、2010年4月14日閲覧。
  23. ^ 城門 規模判明。四国新聞、2013年12月6日閲覧。
  24. ^ 往時の姿 目の前に/現地説明会。四国新聞、2015年6月21日閲覧。
  25. ^ 狩野 久「西日本の古代山城が語るもの」『岩波講座 日本歴史』第21巻 月報21、岩波書店、2015年、3頁。
  26. ^ 赤司善彦「古代山城研究の現状と課題」『月刊 文化財』 631号、第一法規、2016年、10・13頁。
  27. ^ 宮内庁侍従職 編『おほうなばら 昭和天皇御製集』、読売新聞社、1990年、63頁。
  28. ^ 天覧国体に沸く/屋島陸上競技場。四国新聞、1953年10月26日閲覧。

参考文献

  • 文化庁文化財部 監修『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
  • 小島憲之 他 校注・訳『日本書紀③』、小学館、1998年。                                 
  • 西谷 正 編『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年。
  • 高松市歴史資料館 編『屋島ーシンボリックな大地に刻まれた歴史ー』、高松市、2014年。                
  • 熊本県教育委員会 編集/発行 「鞠智城シンポジウム(熊本会場・福岡会場)」『ここまでわかった 鞠智城』、2012年。                

関連項目

外部リンク