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「高倉美貴」の版間の差分

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===モデル時代===
===モデル時代===
[[北陸学院]]高校卒業後、子供服のデザイナーを目指して上京し、[[表参道]]の[[ブティック]]に勤務。ブティック時代、その美貌と妖艶なスタイルがスカウトの目にとまってスカウトされ、本名と一字違いの「越沢美紀」の芸名でモデルとして芸能界デビュー。阪急交通社やカネボウ等の[[CM]]、ポスター、雑誌[[GORO]]の[[グラビア写真|グラビア]]等に出演した。
[[北陸学院]]高校卒業後、子供服のデザイナーを目指して上京し、[[表参道]]の[[ブティック]]に勤務。ブティック時代、その美貌と妖艶なスタイルがスカウトの目にとまってスカウトされ、本名と一字違いの「越沢美紀」の芸名で[[モデル]]として芸能界デビュー。阪急交通社やカネボウ等の[[CM]]、ポスター、雑誌[[GORO]]の[[グラビア写真|グラビア]]等で[[ビキニ]]姿等を披露した。


===ロマンポルノ時代===
===ロマンポルノ時代===
[[1983年]]、[[ピンク映画]]制作会社・[[にっかつ]]の”ドル箱”として人気があった”SM映画シリーズ”で、"日活SM映画の原作者"として大きな影響力をもっていた[[官能小説]][[作家]]・[[団鬼六]]に見出され、芸名を「高倉美貴」とし、ポルノ映画で[[俳優|女優]]デビューした。高校では映研の部長を務めるなど映画への関心は強かったものの、内容を巡り出演を拒否した高倉に対して、制作予定の映画の原作者である[[団鬼六]]自ら出演交渉に乗り出し、ポルノ映画出演に反対する母親も同席させて説得にあたった。日活は高倉美貴に対し、新人としては破格のギャラを提示。さらに日活は高倉のロマンポルノ出演にあたり、「3年間で4作品だけに主演」することを契約条件として提示した。これは麻吹淳子が1年間でロマンポルノ13本に出演したことを考えれば、異例のことでる。さらに、出演を拒み続ける高倉母子を、団鬼六の友人である”巨匠”映画監督・[[大島渚]]が説得し、ついに高倉母子が折れてSMポルノでデビューした。
[[1983年]](23歳)、[[ピンク映画]]制作会社・[[にっかつ]]の”ドル箱”として人気があった”SM映画シリーズ”で、"日活SM映画の原作者"として大きな影響力をもっていた[[官能小説]][[作家]]・[[団鬼六]]に見出され、芸名を「高倉美貴」とし、ポルノ映画で[[俳優|女優]]デビューした。高校では映研の部長を務めるなど映画への関心は強かったものの、内容を巡り出演を拒んだ高倉に対して、制作予定の映画の原作者である[[団鬼六]]自ら出演交渉に乗り出し、ポルノ映画出演に反対する40代の母親も同席させて説得にあたった。日活は高倉美貴に対し、新人としては破格のギャラを提示。さらに日活は高倉のロマンポルノ出演にあたり、「3年間で4作品だけに主演」することを契約条件として提示した。これは麻吹淳子(日活美人コンテスト第3位)が1年間でロマンポルノ13本に出演したことを考えれば、異例のことでる。さらに、出演を拒み続ける高倉母子を、団鬼六の友人である”巨匠”映画監督・[[大島渚]]が説得し、ついに高倉母子が折れてSMポルノでデビューした。
”元祖SMの女王"・[[谷ナオミ]]、2代目SMの女王・[[麻吹淳子]]に続く「3代目[[SMの女王|3代目日活SMの女王]]」とのキャッチフレーズで売り出され、昭和50年代後半には週刊誌、グラビア誌等、多くのメディアで連日のように彼女の写真や映像が取り上げられ、日活ロマンポルノの歴史に名を残す看板女優へと成長した。育ちの良さを漂わす雰囲気、長い黒髪、目鼻立ちのハッキリした日本人離れした容貌と抜群のスタイルから、”和製[[オリヴィア・ハッセー]]”の異名をとると共に、清楚で気品溢れるイメージからは余りにもかけ離れた大胆な演技(緊縛、鞭打ち、ローソク責め、浣腸・脱糞などのシーン)で話題を呼んだ。
”元祖SMの女王"・[[谷ナオミ]]、2代目SMの女王・[[麻吹淳子]]に続く「[[SMの女王|3代目日活SMの女王]]」とのキャッチフレーズで売り出され、昭和50年代後半には週刊誌、グラビア誌等、多くのメディアで連日のように彼女の写真や映像が取り上げられ、日活ロマンポルノの歴史に名を残す看板女優へと成長した。育ちの良さを漂わす雰囲気、長い黒髪、目鼻立ちのハッキリした日本人離れした容貌と抜群のスタイルから、”和製[[オリヴィア・ハッセー]]”の異名をとると共に、清楚で気品溢れるイメージからは余りにもかけ離れた大胆な演技([[緊縛]][[鞭打ち]][[ローソク責め]][[浣腸]][[脱糞]]などのシーン)で話題を呼んだ。


団鬼六をして'''日活ロマンポルノ史上もっとも美しい女優'''と言わしめた。団自身が強引に口説いて出演を承諾させたのだが、高倉美貴のSMポルノデビュー後に、雑誌や講演会で団は逆に、「『あなたのような美しく、お嬢様育ちの人がこんな映画に出てはいかん』と説得したのだが、本人がどうしてもというので」と語っている。これに対して高倉美貴は、名誉棄損の訴や反論する等の行動をしなかった。高倉美貴と日活との出演契約は3年間だったが、高倉に対して団鬼六(日活側)が契約期間の延長を強く要請(要求したため、高倉は団鬼六らの指示に従い契約期間を翌1985年まで長した(同年、日活が”[[本番]][[セックス]]行て撮影をする「ロマンXシリーズ」を開始)。
団鬼六をして'''日活ロマンポルノ史上もっとも美しい女優'''と言わしめた。団自身が強引に口説いて出演を承諾させたようであるが、高倉美貴のSMポルノデビュー後に、団は雑誌や各地の講演会で逆に、「『あなたのような美しく、お嬢様育ちの人がこんな映画に出てはいかん』と説得したのだが、本人がどうしてもやりたいというので」と方々で語っている。これに対して高倉美貴は、名誉棄損の訴や反論する等の行動をせず、耐え続けるだけだった。高倉美貴と日活との出演契約は3年間だったが、高倉に対して団鬼六(日活側)が契約期間の延長を強く要求したため、高倉は団鬼六らの指示に従い契約期間を翌1985年(25歳)まで長した(同年、日活が自社の女優達に”[[本番]][[セックス]]行わせて撮影をする「ロマンXシリーズ」がスタート)。


===ロマンポルノ引退後===
===ロマンポルノ引退後===
にっかつとの契約が終了し、ロマンポルノを引退した直後には、第8回[[日本アカデミー賞]]授賞式で[[武田鉄矢]]と共に司会に抜擢され、一般映画への転進が期待されたものの、トチリが多く、飛躍へのステップとはならなかった。また、テレビドラマや一般映画にも出演するが、ロマンポルノを足掛かりとして多くの女優が転身に成功したにもかかわらず、端役に終始しにっかつ時代ほどの大きな注目を集めることは出来なかった。年齢的に芸能界入りおよび一般映画への進出がやや遅く、演技の面で技量を磨く機会が少なかった、その美貌ゆえ端役としてもなじまず、かといって主役を張るほどの演技力が無かったなどが理由として考えられる。
1985年(25歳)、にっかつとの契約が終了し、ロマンポルノを引退した直後には、第8回[[日本アカデミー賞]]授賞式で[[武田鉄矢]]と共に司会に抜擢され、一般映画への転進が期待されたものの、天然ボケのトチリと控え目で大人しい性格と災いし、飛躍へのステップとはならなかった。また、テレビドラマや一般映画にも出演するが端役に終始しにっかつ時代の人気とは天と地ほどのの差があった。年齢的に芸能界入りおよび一般映画への進出がやや遅く、演技の面で技量を磨く機会が少なかったこと、その美貌ゆえ端役としてもなじまず、かといって主役を張るほどの演技力が無かったことなどが理由として考えられる。


===結婚・芸能界引退===
===結婚・芸能界引退===
[[1993年]]、ほとんど忘れ去られた頃突如[[ヘアヌード]]写真集『South Fairy Tale』を発表するも、話題を集める事もく、[[1995年]][[3月1日]]、タレントの[[原田伸郎]]と結婚(高倉・初婚、原田は3度目の結婚)し引退した。原田とは、[[1987年]]に[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]のドラマ『見上げればいつも青空』で、原田の浮気相手という役柄で共演した事があり、現実にも不倫関係になったことが結婚のきっかけだった。ドラマでの浮気相手役と結婚したは出演者やスタッフをも驚かせた。結婚後は芸能活動は休止しているが、原田が出演する番組でまれに見かけるもある。またその際には「高倉美紀」の名前でテロップが流れることがある。
”ヘア解禁”([[陰毛]]露出の合法化)の2年後の[[1993年]](33歳)芸能界でほとんど忘れ去られた頃突如[[緊縛]][[ヘアヌード]]写真集『South Fairy Tale』を発表したが、話題を集めることはかった。[[1995年]][[3月1日]]、タレントの[[原田伸郎]]と結婚し芸能界を引退した(高倉・初婚、原田は3度目の結婚)。原田とは、[[1987年]]に[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]のドラマ『見上げればいつも青空』で、原田の浮気相手という役柄で共演した事があり、現実にも[[不倫関係]]になったことが結婚のきっかけだった。ドラマでの浮気相手役と結婚したことは出演者やスタッフをも驚かせた。結婚後は芸能活動は休止しているが、原田が出演する番組でまれに見かけることもある。またその際には「高倉美紀」の名前でテロップが流れることがある。


== 主な作品 ==
== 主な作品 ==

2017年8月2日 (水) 03:16時点における版

たかくら みき
高倉 美貴
プロフィール
別名義 越沢美紀、倉美紀
生年月日 1960年12月14日
現年齢 63歳
出身地 日本の旗 日本石川県金沢市
公称サイズ(1983.9時点)
身長 / 体重 158 cm / kg
スリーサイズ 85 - 56 - 86 cm
活動
デビュー 1983年
ジャンル ヌード
モデル内容 ヌード
他の活動 女優
モデル: テンプレート - カテゴリ

高倉 美貴(たかくら みき、本名:原田美貴(はらだ みき)(旧姓:越沢美貴)、1960年12月14日 - )は日本の女優。現在、元あのねのね原田伸郎の妻。

来歴・人物

石川県金沢市の名家、老舗料亭の長女として生まれる(現在、兄が料亭を継承)。 ”私立・小中一貫校”の”お嬢様学校”・金沢大学教育学部附属小学校金沢大学教育学部附属中学校を経て、私立北陸学院高等学校を卒業。映画好きであり、高校時代は”映画研究愛好会の部長”を務めた。

モデル時代

北陸学院高校卒業後、子供服のデザイナーを目指して上京し、表参道ブティックに勤務。ブティック時代、その美貌と妖艶なスタイルがスカウトの目にとまってスカウトされ、本名と一字違いの「越沢美紀」の芸名でモデルとして芸能界デビュー。阪急交通社やカネボウ等のCM、ポスター、雑誌GOROグラビア等でビキニ姿等を披露した。

ロマンポルノ時代

1983年(23歳)、ピンク映画制作会社・にっかつの”ドル箱”として人気があった”SM映画シリーズ”で、"日活SM映画の原作者"として大きな影響力をもっていた官能小説作家団鬼六に見出され、芸名を「高倉美貴」とし、ポルノ映画で女優デビューした。高校では映研の部長を務めるなど映画への関心は強かったものの、内容を巡り出演を拒んだ高倉に対して、制作予定の映画の原作者である団鬼六自ら出演交渉に乗り出し、ポルノ映画出演に反対する40代の母親も同席させて説得にあたった。日活は高倉美貴に対し、新人としては破格のギャラを提示。さらに日活は高倉のロマンポルノ出演にあたり、「3年間で4作品だけに主演」することを契約条件として提示した。これは麻吹淳子(日活美人コンテスト第3位)が1年間でロマンポルノ13本に出演したことを考えれば、異例のことでる。さらに、出演を拒み続ける高倉母子を、団鬼六の友人である”巨匠”、映画監督・大島渚が説得し、ついに高倉母子が折れてSMポルノでデビューした。 ”元祖SMの女王"・谷ナオミ、2代目SMの女王・麻吹淳子に続く「3代目日活SMの女王」とのキャッチフレーズで売り出され、昭和50年代後半には週刊誌、グラビア誌等、多くのメディアで連日のように彼女の写真や映像が取り上げられ、日活ロマンポルノの歴史に名を残す看板女優へと成長した。育ちの良さを漂わす雰囲気、長い黒髪、目鼻立ちのハッキリした日本人離れした容貌と抜群のスタイルから、”和製オリヴィア・ハッセー”の異名をとると共に、清楚で気品溢れるイメージからは余りにもかけ離れた大胆な演技(緊縛鞭打ちローソク責め浣腸脱糞などのシーン)で話題を呼んだ。

団鬼六をして日活ロマンポルノ史上もっとも美しい女優と言わしめた。団自身が強引に口説いて出演を承諾させたようであるが、高倉美貴のSMポルノデビュー後に、団は雑誌や各地の講演会で逆に、「『あなたのような美しく、お嬢様育ちの人がこんな映画に出てはいかん』と説得したのだが、本人がどうしてもやりたいというので」と方々で語っている。これに対して高倉美貴は、名誉棄損の訴訟や反論する等の行動をせず、耐え続けるだけだった。高倉美貴と日活との出演契約は3年間だったが、高倉に対して団鬼六(日活側)が契約期間の延長を強く要求したため、高倉は団鬼六らの指示に従い契約期間を翌1985年(25歳)まで延長した(同年、日活が自社の女優達に”本番セックス行わせて撮影をする「ロマンXシリーズ」がスタート)。

ロマンポルノ引退後

1985年(25歳)、にっかつとの契約が終了し、ロマンポルノを引退した直後には、第8回日本アカデミー賞授賞式で武田鉄矢と共に司会に抜擢され、一般映画への転進が期待されたものの、天然ボケのトチリと控え目で大人しい性格とが災いし、飛躍へのステップとはならなかった。また、テレビドラマや一般映画にも出演するが端役に終始し、にっかつ時代の人気とは天と地ほどのの差があった。年齢的に芸能界入りおよび一般映画への進出がやや遅く、演技の面で技量を磨く機会が少なかったこと、その美貌ゆえ端役としてもなじまず、かといって主役を張るほどの演技力が無かったことなどが理由として考えられる。

結婚・芸能界引退

”ヘア解禁”(陰毛露出の合法化)の2年後の1993年(33歳)、芸能界でほとんど忘れ去られた頃、突如緊縛ヘアヌード写真集『South Fairy Tale』を発表したが、話題を集めることはなかった。1995年3月1日、タレントの原田伸郎と結婚し芸能界を引退した(高倉・初婚、原田は3度目の結婚)。原田とは、1987年よみうりテレビのドラマ『見上げればいつも青空』で、原田の浮気相手という役柄で共演した事があり、現実にも不倫関係になったことが結婚のきっかけだった。ドラマでの浮気相手役と結婚したことは出演者やスタッフをも驚かせた。結婚後は芸能活動は休止しているが、原田が出演する番組でまれに見かけることもある。またその際には「高倉美紀」の名前でテロップが流れることがある。

主な作品

映画

※以上主演作品

テレビドラマ

  • 月曜ワイド劇場ANB
    • 「はだしの未亡人」(1983年7月11日) ※「越沢美紀」名義で出演
    • 「妻は何を感じたか 単身赴任のセックス危機!」(1983年10月10日) ※「越沢美紀」名義で出演
  • 月曜ドラマランドのんき君1 いたずらの天才初登場!」(1983年12月12日 CX
  • 「花嫁は三度泣く」(1984年4月 TBS
  • 「熊さんの警察手帳」(1984年5月12日 TBS)
  • 土曜ワイド劇場
    • 「呪いのマネキン人形 血も凍る今夜白い裸身の目に赤い涙が…襲う!」(1984年8月14日 ANB)
    • 「狙われた婚約者 白衣を襲う暴行魔!」(1985年1月19日 ABC
  • 花田春吉なんでもやります」(1985年1月4日-3月29日 全13話 TBS)
  • 「幕末青春グラフィティ 福沢諭吉」(1985年2月11日 TBS) - モデルの女
  • 「好色一代男 世之介の愛して愛して物語」(1986年1月1日 TBS)
  • 男女七人夏物語」第8話「こころの傷」(1986年 TBS)
  • 「狙われた婚約者・白衣を襲う暴行魔・無影灯だけが知っている」」(1985年1月19日 ANB)
  • 毎度おさわがせしますII」(1985年12月-1986年3月 全16話 TBS)
  • 遠山の金さんII」第9話「夕顔の女・炎のような愛でした!」(1985年12月10日 ANB・東映)
  • 銀河テレビ小説かなかなむしは天の蟲」(1987年1月26日~1987年2月20日 全4話 NHK
  • 朝の連続ドラマ見上げればいつも青空」(1987年4月6日~10月2日 YTV
  • ベイシティ刑事 (第2回:ヨコハマに消えた女)」(1987年10月14日 ANB
  • 大岡越前 第10部」第1話・第2話(1988年2月29日、3月7日 TBS・C.A.L) - 多重
  • 「悪魔をやっつけろ!」(1990年1月6日 TBS)
  • 「女忍かげろう組」(1990年 NTV) - 香
  • キモチいい恋したい!」(1990年7月2日~9月12日 CX)
  • 夢帰行 (1990年、NHK)
  • 水戸黄門」(TBS・C.A.L)
    • 第18部 第8話「泥棒夫婦の大予言 -追分-」(1988年10月31日) - お糸
    • 第19部 第24話「縁結び頑固比べ -善光寺-」(1990年3月12日) - おゆき
    • 第20部 第33話「意地比べ恋の友禅 -金沢-」(1991年6月24日) - おくみ
    • 第21部 第19話「恋を実らす占い合戦 -龍野-」(1992年8月10日) - 夕ひで
  • 「OLは泥棒がお好き」(1991年8月2日 CX)
  • 「東京パーキング・ウォーズ」(1992年5月28日 YTV)
  • 愛してるよ!」(1993年10月11日-12月27日 全10話 ANB)

その他のテレビ番組

ビデオ

  • 雪おんな」(1984年 みみずく)
  • 「情炎」(1984年 みみずく)
  • 「わたくし、その気 高倉美貴 女優生撮り」(1984年 Let's)

写真集

  • 「エクスタシー」(1984年 辰巳出版
  • 「South Fairy Tale」 (1993年 スコラ)
  • 「楽園にて…」(1995年2月 黒田出版興文社)文庫サイズ

レコード

  • 年代・曲目とも不明だが1曲リリースしたことがある。

脚注

注釈

関連項目