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*[[1947年]]、模型を扱う「博巧社」を開業、ゴム動力[[ライトプレーン]]、玩具[[電気機関車]]などで模型店を再開、 |
*[[1947年]]、模型を扱う「博巧社」を開業、ゴム動力[[ライトプレーン]]、玩具[[電気機関車]]などで模型店を再開、 |
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*[[1946年]]、学校での科学教材として、再度模型飛行機が着目され福岡県の八幡地区小学校・中学校から講師に招かれ、報酬の代わりにライトプレーン・木製模型の注文を得る |
*[[1946年]]、学校での科学教材として、再度模型飛行機が着目され福岡県の八幡地区小学校・中学校から講師に招かれ、報酬の代わりにライトプレーン・木製模型の注文を得る |
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*[[1949年]]、九州の小倉井筒屋デパートから出店要請を受け |
*[[1949年]]、九州の小倉井筒屋デパートから出店要請を受け模型部(テナント)コーナーとして出店(出店期間1949-1995年)、当時のデパートで商売している「信用力」は絶大で、井田の模型業界での飛躍していく分岐点となった。 |
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*[[1958年]]、[[マルサン商店]]から国産プラモデル「'''ノーチラス'''」潜水艦模型が発売された。 |
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*[[1959年]]、井田の経営する井筒屋・模型部で、東京から仕入れて来た初めてのアメリカ・レベル社プラモデル販売される。 |
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*[[1959年]]、[[日本模型]](※以下ニチモ)、ゴム動力自動浮沈装置付きのニチモ[[プラモデル]]・'''伊号潜水鑑'''が100円で発売され、井田の店舗でも好調な売れ行き。日本全国で約100万個を売り上げる爆発的な人気に、形勢はライトプレーンや木製模型から、プラスチックモデルへの流れが進んで行くこととなる。 |
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*[[1960年]]、[[三共模型|三共製作所]](※以下三共模型)、三和模型の2社が他社との競合を避けた低価格路線を打ち出した。価格を1個30円とし、井田の店舗では単価の安さに当初、取り扱いをしなかったが売り出して見ると爆発的人気に。当時の子供達にプラモデルの作る楽しみ・集める楽しみを浸透・普及させる入門モデルとしても大成功を収め、三共模型の約1/150スケールピーナッツシリーズはピーク時・月商1000万と言う、1個100円のモデルでは驚異的な売上げを叩き出した |
*[[1960年]]、[[三共模型|三共製作所]](※以下三共模型)、三和模型の2社が他社との競合を避けた低価格路線を打ち出した。価格を1個30円とし、井田の店舗では単価の安さに当初、取り扱いをしなかったが売り出して見ると爆発的人気に。当時の子供達にプラモデルの作る楽しみ・集める楽しみを浸透・普及させる入門モデルとしても大成功を収め、三共模型の約1/150スケールピーナッツシリーズはピーク時・月商1000万と言う、1個100円のモデルでは驚異的な売上げを叩き出した |
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*[[1961年]]、田宮模型の戦車模型第一弾、モーター動力「パンサータンク」が発売、良く走る走行性能に人気が集中。 |
*[[1961年]]、田宮模型の戦車模型第一弾、モーター動力「パンサータンク」が発売、良く走る走行性能に人気が集中。 |
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*[[1966年]]、九州プラモデル博覧会を同業の模型店10店と共同開催し、プラモの競技会や、模型メーカーの製品紹介ブース協力も得て盛大に開かれた。 |
*[[1966年]]、井田の発案で「九州プラモデル博覧会」を同業の模型店10店と共同開催し、プラモの競技会や、模型メーカーの製品紹介ブース協力も得て盛大に開かれた。 |
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*[[1966年]]、井田の尽力で、航空機関連の出版を手がける出版社の協力を得て、日本で初めての模型雑誌専門誌、'''モデルアート'''が創刊される。定価100円、創刊号は2万部発行された。 |
*[[1966年]]、井田の尽力で、航空機関連の出版を手がける出版社の協力を得て、日本で初めての模型雑誌専門誌、'''モデルアート'''が創刊される。定価100円、創刊号は2万部発行された。 |
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*[[1966年]]キャラクタープラモデルの需要が沸騰し、今井科学のサンダーバード、マルサン商店の怪獣シリーズなど。井田の店舗では、単独店舗として今井科学・サンダーバードに登場する「ゼロエックス号」プラモデルが日本全国売上げ1位となり表彰される。 |
*[[1966年]]キャラクタープラモデルの需要が沸騰し、今井科学のサンダーバード、マルサン商店の怪獣シリーズなど。井田の店舗では、単独店舗として今井科学・サンダーバードに登場する「ゼロエックス号」プラモデルが日本全国売上げ1位となり表彰される。 |
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*[[1970年]]、井田が企画し、グンゼ・ハセガワ・フジミのメーカー協賛を得て「プラプレーンコンテスト」のイベントを日本全国規模で開催される。 |
*[[1970年]]、井田が企画し、グンゼ・ハセガワ・フジミのメーカー協賛を得て「プラプレーンコンテスト」のイベントを日本全国規模で開催される。 |
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*[[1977年]]、日東科学の[[サーキットの狼]][[スーパーカー]]プラモデルブームが起こる。 |
*[[1977年]]、日東科学の[[サーキットの狼]][[スーパーカー]]プラモデルブームが起こる。 |
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*[[1978年]]、[[バンダイ]]模型の宇宙戦艦ヤマトが発売、ヤマトブームに乗り需要が拡大する。 |
*[[1978年]]、[[バンダイ]]模型の宇宙戦艦ヤマトプラモデルが発売、ヤマトブームに乗り需要が拡大する。 |
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*[[1979年]]、プラプレーンコンテスト、第10回の開催をもって終了。 |
*[[1979年]]、プラプレーンコンテスト、第10回の開催をもって終了。 |
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*[[1981年]]、[[機動戦士ガンダム]]の[[ガンプラ|プラモデル]]が[[バンダイ]]模型より発売され、記録的なヒットとなり、マスメディアにも取り上げられる社会現象になる。 |
*[[1981年]]、[[機動戦士ガンダム]]の[[ガンプラ|プラモデル]]が[[バンダイ]]模型より発売され、記録的なヒットとなり、マスメディアにも取り上げられる社会現象になる。 |
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*[[1995年]]、ミニ四駆プラモデルが[[田宮模型]]から発売され、記録的なヒット、ミニ四駆の売上げは空前の500億円を超えるヒットとなり、この売上げを活用して田宮模型の1/35MMシリーズの完全新作が発売されていく。 |
*[[1995年]]、ミニ四駆プラモデルが[[田宮模型]]から発売され、記録的なヒット、ミニ四駆の売上げは空前の500億円を超えるヒットとなり、この売上げを活用して田宮模型の1/35MMシリーズの完全新作が発売されていく。 |
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*[[2001年]]、長年経営に携わった、有限会社モデルアートの社長職を退任、後任に井田の次男が就任する。 |
*[[2001年]]、長年経営に携わった、有限会社モデルアートの社長職を退任、後任に井田の次男が就任する。 |
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*[[2003年]]、日本科学技術振興財団からの航研機(こうけんき)復元プロジェクトに関わり、井田の助言の元完成。 |
*[[2003年]]、日本科学技術振興財団からの依頼で航研機(こうけんき)復元プロジェクトに関わり、井田の助言の元・完成。 |
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*[[2003年]]、井田の著作、「日本プラモデル興亡史 -わたしの模型人生- 」が発売される。 |
*[[2003年]]、井田の著作、「日本プラモデル興亡史 -わたしの模型人生- 」が発売される。 |
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*[[2006年]]、井田博、2006年5月13日死去、86歳。 |
*[[2006年]]、井田博、2006年5月13日死去、86歳。 |
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*1958年、マルサン商店の日本発プラモデル(諸説アリ、詳しくは[[マルサン商店]]参照のこと)から、低価格プラモデルの躍進、([[三共模型]]・[[三和模型]])タミヤの戦車モデルの登場など、模型市場には数十万単位の大ヒットプラモデルが誕生し、販売店のデパートから駄菓子屋、新規模型店の販路拡大が続いて市場には「何でも作れば売れてしまう」状態で続くが他と違う独自性が無いと他の競合店との間に埋没してしまう危機を感じた井田は、プラモデル博覧会を同業の模型店10店と共同開催し、プラモの競技会や、模型メーカーの製品紹介ブース協力も得て盛大に開かれた。プラモデルのすそ野を広げる努力は、その後の井田の発案による「プラプレーン・コンテスト」へ、意思は継承されて行く。 ※白紙化 まとまりが付かなくなったので一旦白紙、再構成してアップ予定。--> |
*1958年、マルサン商店の日本発プラモデル(諸説アリ、詳しくは[[マルサン商店]]参照のこと)から、低価格プラモデルの躍進、([[三共模型]]・[[三和模型]])タミヤの戦車モデルの登場など、模型市場には数十万単位の大ヒットプラモデルが誕生し、販売店のデパートから駄菓子屋、新規模型店の販路拡大が続いて市場には「何でも作れば売れてしまう」状態で続くが他と違う独自性が無いと他の競合店との間に埋没してしまう危機を感じた井田は、プラモデル博覧会を同業の模型店10店と共同開催し、プラモの競技会や、模型メーカーの製品紹介ブース協力も得て盛大に開かれた。プラモデルのすそ野を広げる努力は、その後の井田の発案による「プラプレーン・コンテスト」へ、意思は継承されて行く。 ※白紙化 まとまりが付かなくなったので一旦白紙、再構成してアップ予定。--> |
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== 井田の残した功績 == |
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*1958年に誕生した国産プラモデルは2006年度で48年経過した。戦前から戦後、模型店の立場から、模型雑誌の出版界の立場と2つの事業を行いながら、プラモデル普及のすそ野を広げる努力を惜しみなく注ぎ込んだ情熱は、プラモデル業界の繁栄に多大なる貢献を果たし、今後のプラモデル業界史を語る上で外せない1人である。 |
*1958年に誕生した国産プラモデルは2006年度で48年経過した。戦前から戦後、模型店の立場から、模型雑誌の出版界の立場と2つの事業を行いながら、プラモデル普及のすそ野を広げる努力を惜しみなく注ぎ込んだ情熱は、プラモデル業界の繁栄に多大なる貢献を果たし、井田が関わったプラプレーンコンテストに参加した応募者が、プラモデル業界へ就職、模型店の活性化、地方の模型店自身による模型教室・自主コンテスト実施などの発展に寄与したことなど、長年に渡る活躍は今後のプラモデル業界史を語る上で外せない1人である。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2006年7月15日 (土) 10:00時点における版
井田博 (いだひろし(1920年大正9年 - 2006年5月13日)、とは、戦前の1939年(昭和14年)から模型業界に関わり、戦後の日本で、プラモデル需要拡大期に初めての模型専門雑誌を創刊した、有限会社モデルアート社の創業者である。福岡県出身。
井田の来歴&日本プラモデル業界史
- 1939年19才の時に模型店を開業、学校教材として素材が紙飛行機、ゴム、グライダーの「模型飛行機」を複数の学校で採用など前途洋々なスタートを切る。
- 1942年、軍隊に召集・激戦のビルマ(現ミャンマー)戦線へ配属後1943年に負傷、帰国の途となり1945年に終戦を福岡県で迎える。
- 1947年、模型を扱う「博巧社」を開業、ゴム動力ライトプレーン、玩具電気機関車などで模型店を再開、
- 1946年、学校での科学教材として、再度模型飛行機が着目され福岡県の八幡地区小学校・中学校から講師に招かれ、報酬の代わりにライトプレーン・木製模型の注文を得る
- 1949年、九州の小倉井筒屋デパートから出店要請を受け模型部(テナント)コーナーとして出店(出店期間1949-1995年)、当時のデパートで商売している「信用力」は絶大で、井田の模型業界での飛躍していく分岐点となった。
- 1958年、マルサン商店から国産プラモデル「ノーチラス」潜水艦模型が発売された。
- 1959年、井田の経営する井筒屋・模型部で、東京から仕入れて来た初めてのアメリカ・レベル社プラモデル販売される。
- 1959年、日本模型(※以下ニチモ)、ゴム動力自動浮沈装置付きのニチモプラモデル・伊号潜水鑑が100円で発売され、井田の店舗でも好調な売れ行き。日本全国で約100万個を売り上げる爆発的な人気に、形勢はライトプレーンや木製模型から、プラスチックモデルへの流れが進んで行くこととなる。
- 1960年、三共製作所(※以下三共模型)、三和模型の2社が他社との競合を避けた低価格路線を打ち出した。価格を1個30円とし、井田の店舗では単価の安さに当初、取り扱いをしなかったが売り出して見ると爆発的人気に。当時の子供達にプラモデルの作る楽しみ・集める楽しみを浸透・普及させる入門モデルとしても大成功を収め、三共模型の約1/150スケールピーナッツシリーズはピーク時・月商1000万と言う、1個100円のモデルでは驚異的な売上げを叩き出した
- 1961年、田宮模型の戦車模型第一弾、モーター動力「パンサータンク」が発売、良く走る走行性能に人気が集中。
- 1966年、井田の発案で「九州プラモデル博覧会」を同業の模型店10店と共同開催し、プラモの競技会や、模型メーカーの製品紹介ブース協力も得て盛大に開かれた。
- 1966年、井田の尽力で、航空機関連の出版を手がける出版社の協力を得て、日本で初めての模型雑誌専門誌、モデルアートが創刊される。定価100円、創刊号は2万部発行された。
- 1966年キャラクタープラモデルの需要が沸騰し、今井科学のサンダーバード、マルサン商店の怪獣シリーズなど。井田の店舗では、単独店舗として今井科学・サンダーバードに登場する「ゼロエックス号」プラモデルが日本全国売上げ1位となり表彰される。
- 1970年、井田が企画し、グンゼ・ハセガワ・フジミのメーカー協賛を得て「プラプレーンコンテスト」のイベントを日本全国規模で開催される。
- 1977年、日東科学のサーキットの狼スーパーカープラモデルブームが起こる。
- 1978年、バンダイ模型の宇宙戦艦ヤマトプラモデルが発売、ヤマトブームに乗り需要が拡大する。
- 1979年、プラプレーンコンテスト、第10回の開催をもって終了。
- 1981年、機動戦士ガンダムのプラモデルがバンダイ模型より発売され、記録的なヒットとなり、マスメディアにも取り上げられる社会現象になる。
- 1995年、ミニ四駆プラモデルが田宮模型から発売され、記録的なヒット、ミニ四駆の売上げは空前の500億円を超えるヒットとなり、この売上げを活用して田宮模型の1/35MMシリーズの完全新作が発売されていく。
- 2001年、長年経営に携わった、有限会社モデルアートの社長職を退任、後任に井田の次男が就任する。
- 2003年、日本科学技術振興財団からの依頼で航研機(こうけんき)復元プロジェクトに関わり、井田の助言の元・完成。
- 2003年、井田の著作、「日本プラモデル興亡史 -わたしの模型人生- 」が発売される。
- 2006年、井田博、2006年5月13日死去、86歳。
井田の残した功績
- 1958年に誕生した国産プラモデルは2006年度で48年経過した。戦前から戦後、模型店の立場から、模型雑誌の出版界の立場と2つの事業を行いながら、プラモデル普及のすそ野を広げる努力を惜しみなく注ぎ込んだ情熱は、プラモデル業界の繁栄に多大なる貢献を果たし、井田が関わったプラプレーンコンテストに参加した応募者が、プラモデル業界へ就職、模型店の活性化、地方の模型店自身による模型教室・自主コンテスト実施などの発展に寄与したことなど、長年に渡る活躍は今後のプラモデル業界史を語る上で外せない1人である。
参考文献
- 「日本プラモデル興亡史 -わたしの模型人生- 」井田博 著、文春ネスコ発行 ISBN 4890361871
関連項目
外部リンク
- 創業者の模型雑誌・モデルアート公式ホームページ ※音声が出るので注意
- プラモデルが映す昭和と言う時代井田博と田宮俊作の対談
- 青森県立三沢航空科学館 ※井田が航研機(こうけんき)復元プロジェクトに関わった展示機がある。