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'''マシュー・カルブレイス・ペリー'''('''Matthew Calbraith Perry''', [[1794年]][[4月10日]] – [[1858年]][[3月4日]])は、[[アメリカ海軍]]の[[軍人]]。


[[エリー湖の戦い]]におけるアメリカ海軍の英雄である[[オリバー・ハザード・ペリー]]の弟。[[江戸時代]]に艦隊を率いて[[鎖国]]をしていた[[日本]]へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「'''ペルリ'''(漢字では'''彼理''')」と表記されていた。
[[エリー湖の戦い]]におけるアメリカ海軍の英雄である[[オリバー・ハザード・ペリー]]の弟。[[江戸時代]]に艦隊を率いて[[鎖国]]をしていた[[日本]]へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「'''ペルリ'''(漢字では'''彼理''')」と表記されていた。


※近年の「鎖国」の歴史認識の変化
※近年の「鎖国」の歴史認識の変化

2018年10月19日 (金) 16:48時点における版

マシュー・カルブレイス・ペリー
Matthew Calbraith Perry
渾名 蒸気船海軍の父
生誕 1794年4月10日
アメリカ合衆国
ロードアイランド州 ニューポート
死没 (1858-03-04) 1858年3月4日(63歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州 ニューヨーク
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
軍歴 1809–1855
最終階級 海軍代将
墓所 アイランド墓地英語版(ロードアイランド州)
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日本の版画に描かれたペリー 嘉永7年(1854年)頃
1855-56年頃のダゲレオタイプの写真

マシュー・カルブレイス・ペリーMatthew Calbraith Perry, 1794年4月10日1858年3月4日)は、アメリカ海軍軍人

エリー湖の戦いにおける、アメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた。

※近年の「鎖国」の歴史認識の変化

鎖国をされていたという17世紀半~19世紀半、幕府は松前(アイヌ)、対馬(中国)、長崎(オランダ)、薩摩(琉球)の4つの口と呼ばれる外交窓口を開き貿易を行っており、長崎では当時既にオランダを通じ金や銀を輸出し、アメリカからも毛皮などを輸入していた。その背景から「鎖国」の有無の認識が変わりつつあり、ペリーは「開国」の要求ではなく「開港」の要求であったと一部の教科書の表記も更新されている。

経歴

日本来航まで

ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれる。兄はクリストファー・レイモンド・ペリー、オリバー・ハザード・ペリー1809年、わずか14歳9か月で士官候補生の辞令を受け海軍に入隊、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加する。1833年ブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年アメリカ海軍2隻目の蒸気フリゲートフルトン号を建造し、同年海軍大佐に昇進した。1840年6月には同海軍工廠の司令官となり、代将の地位を得る。

1846年米墨戦争が勃発すると、後年日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令として参加、メキシコ湾ベラクルスへの上陸作戦を指揮[1]、後には本国艦隊の司令官に昇進した。

蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とたたえられ、海軍教育の先駆者とされている。

日本開国任務

ペルリ提督の像
東京都港区芝公園
ペリー上陸記念碑

1852年11月に東インド艦隊司令長官に就任、日本開国へ向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令[2]を与えられた。同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はマデイラ諸島ケープタウンモーリシャスセイロンシンガポールマカオ香港上海琉球沖縄)を経由した。

1853年7月8日嘉永6年6月3日)、浦賀に入港した。7月14日6月9日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。

太平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情が変化する中、1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に迫り、早期の条約締結を求め、3月31日3月3日)に神奈川日米和親条約を調印した。またその後、那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。その後、艦隊は香港に向かった。

帰国と退任

日本開国の大任を果たした後、体調不良に悩まされていたペリーは香港で本国政府に帰国を申請し許可を得た。艦隊の指揮権を譲って、ミシシッピ号を去り9月11日にイギリス船に便乗し、西回りの航路と陸路でニューヨークへの帰国の途に就いた。インド洋紅海地中海を経てヨーロッパ大陸を鉄道で移動しウイーンベルリンハーグらで多少の滞在保養を得てイギリスへ渡り、リヴァプールから大西洋を航海、翌年1月12日にニューヨークに帰着した。東周りの航海で1月22日にニューヨークへ帰着したミシシッピ号上で1月24日にペリーの東インド艦隊司令長官の退任式が挙行された。

晩年

日本遠征記などの出版に注力をした。また、アルコール使用障害痛風リウマチを患っていた。1858年3月4日ニューヨークで死去、63歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にあり、娘アンナとともに納められている。

人物

  • 奴隷の帰国事業に尽力し、リベリアでは著名である。
  • ペリーを実見した菅野八郎は、身長を六尺四〜五寸(約192〜195cm)と記録している。
  • 大変家族思いで、子どもたちが兄弟喧嘩をしないよう強く戒める手紙を書き残している。
  • 公式な記録は残っていないが、を着用していたことを複数の関係者が証言している。
  • 水兵海兵隊員、他の士官たちからペリーの威張った態度、挨拶や合図の声がのように大声で聞こえるので「熊おやじ」(Old Bruin)と隠れてあだ名されていた[3]
  • 1819年にはニューヨーク市にてフリーメイソンに加入した[4]
  • ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。そこでは、以下のように述べている[5]
    • 任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
    • 日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
    • 中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
    • オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。
  • 兄オリバーの孫に慶應義塾大学英文学教師のトーマス・サージ ェント・ペリー(en:Thomas Sergeant Perry)、その娘のアリスは駐日米国大使ジョセフ・グルーの妻。

遺産

伝来した機関車模型:嘉永年間渡来蒸気車
ペリーが江戸幕府に献上したエンボッシングモールス電信機逓信総合博物館での展示(展示はレプリカ)。重要文化財
  • ペリー上陸の地である神奈川県横須賀市久里浜の「ペリー公園」には「上陸記念碑」と「ペリー記念館」が建てられている。
  • ペリーは、和親条約を締結後、安政元年(1854年)に、開港される函館港に下検分のためとして来航した。来航150年を前に、函館に「ペリー提督来航記念碑」が立てられた。
  • 浦賀来航(西暦1853年)の際に幕府に旗を2本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明である。ペリーの交渉態度が高圧的かつ恫喝的と見られたせいか、砲艦外交と呼ばれる。
  • 幕府へ電信機と模型機関車を献上した。
    • 4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた[6]。同模型は、1872年明治5年)に工部少輔山尾庸三が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという[7]
    • 電信機の電線を1km程引き、公開実験を行った。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。針金を通して一瞬にして言葉を送る機械に、当時の人たちは大変驚いた。このエンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館(2013年閉館)を経て郵政博物館(2014年開館)に伝えられている[8]

ペリー艦隊

ミシシッピ号

嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦。日本人はこれを「黒船」と呼んだ。

一般には「東インド艦隊」と呼ばれるが、「フリート」 (fleet) ではなく「スコードロン」 (squadron) であるため、現代の軍事用語では「小艦隊(または戦隊)」に該当する[9]。ただし、当時のアメリカ海軍にはフリートは存在せず、軍艦の集団としてはスコードロンが最大の単位であった。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」[10]狂歌に詠まれたが、来航した黒船4隻のうち蒸気船は2隻のみであった。

  • 旗艦:「サスケハナ」(USS Susquehanna) 1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工
    • 外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。
    • 装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門
  • ミシシッピ」(USS Mississippi)
    • 外輪式フリゲート:水線長70メートル、満載排水量3,230トン
    • 装備 10インチ砲2門、8インチ砲8門
  • 「プリマス」(USS Plymouth
    • 帆船:水線長45メートル、満載排水量889トン
    • 装備 8インチ砲8門、32ポンド砲18門
  • 「サラトガ」(USS Saratoga
    • 帆船:水線長45メートル、満載排水量896トン
    • 装備 8インチ砲4門、32ポンド砲18門

階級に関して

ペリーの訪日当時の階級は“Commodore”である。古来の欧州の海軍においては、個々の戦闘艦の指揮官であるCaptain(艦長 / 大佐)が平時の最上位であり、戦時に複数の戦闘艦が集められて艦隊が編成された場合の司令官としてAdmiralが任命されていた。その後Admiralは階級として固定され、臨時に複数の戦闘艦の指揮官が必要になる場合には、艦長のうち最先任の者がCommodore(代将)としてこれを率いていた。そして、19世紀当時にはCommodoreも階級となっていた。一方、欧州の海軍とは異なり、アメリカ海軍においては設立以来1人のAdmiralも誕生していなかった。制度としては存在していたものの、Admiralに昇進するには議会の承認が必要であり、現実に最初のAdmiralが認められたのは南北戦争中の1862年であった(この時点ではペリーはすでに死亡している)。したがって、ペリーの肩書きもCommodore(代将)であり、Admiralではなかった。アメリカ海軍においても代将は一時的な肩書きに過ぎず、ペリーは東インド艦隊の指揮をとるために代将に任命されたもので、任務が完了した後は正規の階級である大佐に戻っている。

大統領の親書には、ペリーはアメリカ海軍の最高位の軍人であると記載されていた。当時の日本の文献では「水師提督マツテウセベルリ」との記載がある(合衆國水師提督口上書)。提督は、清朝の最高位の武官の官職名であり、水師提督は海軍の最高位の軍人である事を意味する。ペリーの肩書きを表すのに、同じ外国である清朝の武官名を借用したのである。これ以降提督は海軍の最高位を示し、現代では英語の「Commodore」、「Flag officer」及び敬称としての「admiral」の和訳語となっている[11][12]

艦名

兄のオリバーの名前は、オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートネームシップとなるなど、これまで6隻に使われたが、最近までアメリカ海軍にはマシュー・ペリーの名前を持つ艦はなかった。しかし、2010年に就役したルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦の9番艦がマシュー・ペリーと命名された。同艦は2011年東北地方太平洋沖地震の救援活動に参加した[13]

関連著作(訳書)

  • 『ペルリ提督 日本遠征記』 鈴木周作抄訳、櫻井省三校閲、大同館、初版・明治45年(1912年)
  • 『ペルリ 日本遠征記』 土屋喬雄玉城肇訳、岩波文庫(全4巻)、初版・昭和27-30年(1952年-1955年、復刊1990年ほか)
  • 『ペリー提督 日本遠征記』 大羽綾子訳、法政大学出版局、初版・昭和28年(1953年)
  • 『ペリー提督 日本遠征記』 宮崎壽子監訳、角川ソフィア文庫(上下)、平成26年(2014年)
    • 元版『ペリー艦隊 日本遠征記』 オフィス宮崎編訳、万来舎(上下)、平成21年(2009年)
原著は公式報告書 Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan.[14]アメリカ合衆国第33議会第2会期中特殊刊行物第97〉1856年
  • サミュエル・ウィリアムズ 『ペリー日本遠征随行記』〈第1期・新異国叢書8〉雄松堂出版。艦隊の通訳官
  • 『ペリー日本遠征日記』〈第2期・新異国叢書1〉雄松堂出版。ペリー自身の日記訳書
  • 『スポルディング 日本遠征記』〈第3期・新異国叢書4〉雄松堂出版。ポーハタン号の書記官
  • 『ペルリ提督琉球訪問記』 神田精輝訳著、国書刊行会、平成9年(1997年)
  • 『ペリー提督日本遠征日記』 木原悦子抄訳 〈地球人ライブラリー〉小学館、平成8年(1996年)。抜粋訳
  • 『ペリー日本遠征記図譜』 〈豆州下田郷土資料館編〉京都書院アーツコレクション、平成11年(1999年)。文庫版の図版書
  • チャールズ・マックファーレン 『日本1852 ペリー遠征計画の基礎資料』 渡辺惣樹訳、草思社、平成22年(2010年)/草思社文庫、平成28年(2016年)。同時代のイギリスの歴史・地理学者

脚注

  1. ^ 伊藤千尋『反米大陸―中南米がアメリカにつきつけるNO!』集英社 (2007/12/14)、ISBN 978-4087204209
  2. ^ 日本開国交渉の任務は当初先代の司令官であるジョン・オーリックに与えられたが、オーリックは部下とトラブルを起こしたため病気を理由に解任され、ペリーがその任務を引き継いだ(ただし発砲は禁止された)
  3. ^ Samuel Eliot Morison著「"Old Bruin": Commodore Matthew C. Perry, 1794-1858」 Little, Brown (1967) ASIN: B0006BQM6O
  4. ^ Famous Freemason M-Z
  5. ^ The Papers of William Alexander Graham, Vol. IV 1851-1856, The North Carolina Department of Archives and History, 1961, Hamilton
  6. ^ 但し、蒸気機関車模型の運転に関しては、エフィム・プチャーチンが長崎で披露した方が若干早かった(1853年8月24日)。これに立ち会った佐賀藩の本島藤太夫中村奇輔であった。中村は石黒寛次田中久重(からくり儀右衛門)と協力し、およそ2年後の1855年8月1日に、模型の蒸気機関車を作製、藩主鍋島直正に披露した。
  7. ^ 沢和哉「日本の鉄道 100年の話」1972年、築地書館、7頁。
  8. ^ エンボッシング・モールス電信機〈ペリー将来/米国製〉 - 郵政博物館(収蔵品のご紹介)2018年6月19日閲覧
  9. ^ 杉浦昭典著 「蒸気船の世紀」 NTT出版 平成11年(1999年)6月28日初版第一刷発行 ISBN 4-7571-4008-8
  10. ^ 上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。
  11. ^ 『新英和中辞典』(研究社、第3版)
  12. ^ 『リーダーズ英和辞典』(研究社、第2版)
  13. ^ Seawaves,"Warships Supporting Earthquake in Japan" Archived 2011年3月23日, at the Wayback Machine.
  14. ^ Narrative of the expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, 1856.

参考文献

  • 曾村保信 『ペリーは、なぜ日本に来たか』 新潮社〈新潮選書〉 昭和62年(1987年)
  • 猪口孝 『猪口孝が読み解く 「ペリー提督日本遠征記」』 NTT出版 平成11年(1999年) ISBN 475714010X
  • 大江志乃夫 『ペリー艦隊大航海記』 立風書房 平成6年(1994年)/朝日文庫 平成12年(2000年)
  • サミュエル・エリオット・モリソン、座本勝之訳 『伝記ペリー提督の日本開国』 双葉社 平成12年(2000年)
  • 三谷博 『ペリー来航』 吉川弘文館〈日本歴史叢書・新装版〉 平成15年(2003年)
  • 小島敦夫 『ペリー提督  海洋人の肖像』 講談社現代新書 平成17年(2005年) ISBN 4061498223
  • 渡辺惣樹 『日本開国---アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由』 草思社、2009年/草思社文庫、2016年 ISBN 4794222041
  • 丸山健夫 『ペリーとヘボンと横浜開港-情報学から見た幕末』 臨川書店 平成21年(2009年)
  • 加藤祐三『幕末外交と開国』講談社学術文庫、2012年。旧版・ちくま新書、2004年
  • 西川武臣 『ペリー来航 日本・琉球をゆるがした412日間』 中央公論新社〈中公新書〉、平成28年(2016年) ISBN 412-1023803

関連項目

外部リンク

軍職
先代
ジョン・オーリック
アメリカ合衆国の旗 東インド艦隊司令官
第10代 : 1852年11月20日 – 1854年9月6日
次代
ジョエル・アボット