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'''細川 興元'''('''ほそかわ おきもと'''、[[1563年]]([[永禄]]6年)-[[1619年]][[5月2日]]([[元和]]5年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]))は、[[下野国]][[茂木藩]]・[[常陸国]][[谷田部藩]]の初代藩主。父は[[細川藤孝]](興元は次男)。母は上野介[[沼田光兼]]の娘。官位は従五位下。玄蕃頭。名は'''細川昌興'''('''ほそかわ まさおき''')と呼ばれることも多い。正室は沼田氏娘、継室は立花宗茂の娘。 |
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兄に[[細川忠興]]がいる。はじめ父や兄と共に[[織田信長]]に仕え、[[河内国]][[片岡城]]攻めなどで活躍した。信長没後は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕えて[[小田原攻め]]、[[朝鮮出兵]]などでも活躍している。 |
兄に[[細川忠興]]がいる。はじめ父や兄と共に[[織田信長]]に仕え、[[河内国]][[片岡城]]攻めなどで活躍した。信長没後は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕えて[[小田原攻め]]、[[朝鮮出兵]]などでも活躍している。一時キリスト教に帰依し、洗礼名も持つ。 |
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秀吉没後は[[徳川家康]]に仕えて[[関ヶ原の戦い]]でも軍功を挙げた。兄の忠興と不仲になり、 |
秀吉没後は[[徳川家康]]に仕えて[[関ヶ原の戦い]]でも軍功を挙げた。豊前中津城代も勤めたが兄の忠興と不仲になり、[[京都]]で隠棲したこともあったと言われている。しかし徳川家から[[1610年]]、[[下野国]]芳賀郡茂木に1万石を与えられて諸侯に列した。 |
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[[1614年]]からの[[大坂の陣]]でも功績を挙げて[[徳川秀忠]]に認められ、[[1616年]]に常陸国筑波・河内両郡に6200石を加増され、谷田部藩を立藩した。 |
[[1614年]]からの[[大坂の陣]]でも功績を挙げて[[徳川秀忠]]に認められ、[[1616年]]に常陸国筑波・河内両郡に6200石を加増され、谷田部藩を立藩した。 |
2006年9月5日 (火) 14:58時点における版
細川 興元(ほそかわ おきもと、1563年(永禄6年)-1619年5月2日(元和5年3月18日))は、下野国茂木藩・常陸国谷田部藩の初代藩主。父は細川藤孝(興元は次男)。母は上野介沼田光兼の娘。官位は従五位下。玄蕃頭。名は細川昌興(ほそかわ まさおき)と呼ばれることも多い。正室は沼田氏娘、継室は立花宗茂の娘。
兄に細川忠興がいる。はじめ父や兄と共に織田信長に仕え、河内国片岡城攻めなどで活躍した。信長没後は羽柴秀吉に仕えて小田原攻め、朝鮮出兵などでも活躍している。一時キリスト教に帰依し、洗礼名も持つ。
秀吉没後は徳川家康に仕えて関ヶ原の戦いでも軍功を挙げた。豊前中津城代も勤めたが兄の忠興と不仲になり、京都で隠棲したこともあったと言われている。しかし徳川家から1610年、下野国芳賀郡茂木に1万石を与えられて諸侯に列した。
1614年からの大坂の陣でも功績を挙げて徳川秀忠に認められ、1616年に常陸国筑波・河内両郡に6200石を加増され、谷田部藩を立藩した。
1619年、57歳で死去し、後を細川興昌(母は沼田氏娘)が継いだ。 墓所:柳原邸内。