「縄文土器」の版間の差分
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以下のような形があるが、前期や中期、後期、晩期などで仕様、形状が異なる。 |
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* 粗製深鉢形 |
* 粗製深鉢形土器 |
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* 精製深鉢形 |
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特殊祭器用の装飾 |
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深鉢形は、焚き火の熱を横から吸収し煮るのに適した形状である。 |
深鉢形は、焚き火の熱を横から吸収し煮るのに適した形状である。 |
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=== 土器の系統と集団の移動 === |
=== 土器の系統と集団の移動 === |
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縄文土器の型式は、その地域に存在していた型式から次の型式へと変化しいくものである。しかし、一つの地域でばかり次々へと変化していくばかりではない。別々の場所で生産され、系統性も異なる土器が、一つの遺跡に共存したり、ときには別の系統の文様が一つの土器に併用されていることや西日本の一型式が遠く離れた関東に移動し、その遺跡の起源となるといった系統の大移動などが知られている。 |
縄文土器の型式は、その地域に存在していた型式から次の型式へと変化しいくものである。しかし、一つの地域でばかり次々へと変化していくばかりではない。別々の場所で生産され、系統性も異なる土器が、一つの遺跡に共存したり、ときには別の系統の文様が一つの土器に併用されていることや西日本の一型式が遠く離れた関東に移動し、その遺跡の起源となるといった系統の大移動などが知られている。 |
2020年4月21日 (火) 06:05時点における版
縄文土器(じょうもんどき)は、北海道から沖縄諸島を含む現在でいう日本列島各地で縄文時代に作られた土器である。
縄文時代の年代は流動的ながら、約1万6000年前から約2300年前とされる。
概要
縄文土器の発見と定義
縄文土器は大森貝塚を発掘したモースによって見出され、英文報告書で cord marked pottery(索文土器)とされた。しかし貝塚土器など様々に呼ばれ、結局、縄目文様という発想から命名された「縄文式土器」の用語が定着した。
1975年(昭和50年)、佐原真は土器の名称に「式」を使うことの不合理を説き、「縄文土器」の名称を使うことを提唱し、以後、一般化した。編年作業が精緻化した今日においては「縄文土器」の用語が用いられることが多く、その場合、「縄文(縄目文様)が施された縄文時代の土器」という意味(狭義の縄文土器)と「縄文時代の土器一般」(広義の縄文土器)という2つの意味で用いられる。また、山内清男や佐原真など一部の研究者で縄紋土器の用語を用いているものもある。これは、土器表面に施された模様が一種の紋章の意味を成しているのではないか、という考えによるものである。
縄文時代と土器
一般に、縄文土器の作られた時代が縄文時代であるが、日本列島における土器の出現=縄文時代の始まりであり、明確な稲作農耕文化に伴う土器型式は弥生土器とされる。また、上述のように、縄文時代の土器すべてが縄目文様を施すわけではなく、さらに縄文時代を通じて土器に縄文を施さない地域もある。そのため、縄文時代に作られた土器をもって縄文土器であるという定義もある。このような定義は再帰的かつ同語反復にも見えるが、あまりにも多様で、土器であるという以上の普遍的定義が難しい縄文土器の実態を考えると、境界領域では納得せざるをえない。
縄文土器の美的評価
縄文土器の持つプリミティブな美は、いわゆる「伝統的な日本の美」とは異なる性質のものであり、当初は美術的には評価されていなかった。岡本太郎は1952年に著した論評『縄文土器 民族の生命力』によって、現代美術の立場から縄文土器の再評価や意義付けを行い、その後の日本文化論に大きな影響を与えた[2]。
文化圏と弥生土器との関係
文化圏
縄文土器は、尾張を境界に、東日本と西日本の文化圏に大別される。西日本は、装飾の少ない簡素な土器が中心となる。東日本は、東北に見られる亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)のように、火炎型の土器が特徴的である。ただし、亀ヶ岡式は、祭祀用と見られ、東日本でも日常土器は簡素なものが多い。
東日本は、東北と関東中部に大別される、時代とともに、文化圏は変わり、また、下位の文化圏が生まれ消えていった。
弥生土器との関係
西日本では、縄文晩期(弥生初期)、縄文土器は、刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)である。この土器は、板付遺跡などの水田のある最古の層の大部分を占める。そのうちの数%の土器は、形は突帯文土器だが、技法は朝鮮無文土器であった。
その後、形は縄文系を保つが、作成の技法は、半島の無文土器を使う弥生土器である板付1式に変わる。この意味で、西日本の縄文土器は、弥生土器の系譜に連なっている。
使用目的
縄文土器は多様な大きさと器種・装飾的な文様などさまざまなものが存在するため、土器の機能や使用される場面も異なったものであると考えられている。縄文土器の使用用途には食料資源の調理・加工や盛り付け、祭祀目的が考えられている。
食料の調理
縄文土器のうち深鉢などには煮沸痕を有するものがあることから、食料を煮る(煮沸)ため、あるいは貯蔵するために用いられたと考えられる。
縄文土器が出現した時代は、後期旧石器時代のナウマンゾウのような大型哺乳類が日本列島で絶滅した時期と重なるため、旧石器時代の狩猟により得られた獣肉を主食とするスタイルから、狩猟・漁労に加えて堅果など植物質食料を組み合わせた食習慣に変化した。また、堅果の多くは収穫時期が限られるために、貯蔵する必要が生じた。さらに、堅果を食用とするためには加熱・粉砕・煮込みなど加工過程が必要となったほか、獣肉や魚介類のように直火で炙るのは困難であるため、加熱するには調理器具としての土器が必要となったと考えられている。
縄文土器には粗製土器と精製土器が作り分けられており、これは「ハレ」の器と「ケ」の器を区別したとする説がある。
なお、縄文土器が煮沸具として器種の多様性を有するのに対し、弥生土器は画一化された甕が用いられている。
食料の加工・生業
ドングリやトチノミなどの堅果は、食料とするために小河川などに作業場を設け、水漬けや灰汁を使ってアクの成分であるサポニンを渋抜きをする工程が必要であり、そのため灰が必要であった。灰を得るために大量の草木を燃やした事が、土器製法の発見につながった。あるいは土器を製作する際に生まれた灰から、ドングリやトチノミを渋抜きする方法が発見されたと考えられる。土器の製法と渋抜きの方法のどちらが先に発見されたかは不明だが、日本列島において世界的に見て最初期に土器が普及したのは、こうした事情によると想像される。
生業面では漁労活動において漁網や釣り糸に用いる錘として、土器胎土の断片から作られた土器片錘が用いられた。
縄文土器を用いた祭祀
祭祀面では住居内に土器を埋納する埋甕(うめがめ)が存在し、埋葬に関わる施設であると考えられている。
作成法と形と系統
粘土加工と文様
いわゆる縄目文様は撚糸(よりいと)を施文原体とし、これを土器表面に回転させてつけたもので、多様な模様が見られる。しかし実際には縄文を使わない施文法や装飾技法も多く、これは土器型式によって様々である。縄目文様以外の施文法として、爪形文やササの茎・動物の管骨などを施文原体とする竹管文、貝殻を施文原体とする貝殻条痕文などがある。
縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で彩色による文様は少ない。しかし、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達した。この特徴は、日本周辺の土器にはみられない。
縄文土器の底部には網組痕や木葉痕など、土器が製作され乾燥段階のうちに置かれた敷物などの痕跡である外底面圧痕が残されているものが存在する。外底面圧痕は土器の持ち上げによる再配置で重複したものや、外底面の調整により抹消されたものも見られる。
種類と焼成法と用途
縄文土器の形は深鉢が基本であり、量的にも多い。特に前半の時期は深鉢以外の器形は希である。しかし、中頃から淺鉢のような器形が現れ、続いて注口付き、香炉形、高杯、壺形、皿形など様々な形が現れた。とくに東北地方晩期は器形の変化が多様であった。
窯を使わない平らな地面あるいは凹地の中で、やや低温(600℃〜800℃)の酸化焼成のため、赤褐色系で、比較的軟質である。胎土は粗く、やや厚手で大型のものが多いが、用途や時期によっては薄手、小形品、精巧品も作られている。
男性原理の象徴と考えられている石器に対して、食料の保存加工に用いる土器は女性原理に属するものであると考えられており、信仰に関わる土製品には代表的な土偶のほか、土器片を再利用して人形状土製品や鏃状土製品、土製円盤、土器片錘などが作られた。
土器の文様と系統
土器の年代的な編年が精緻になってきて、前の型式から次の型式へ連続的に変化していることが明らかにされてくると、系統的なつながりが問題とされるようになった。
縄文土器には、水平の帯状に文様が加えられている部分がある。これを山内清男は、文様帯と呼び、そのつながりに注目した。それを文様帯系統論と呼ぶ。各型式の土器は、固有の文様帯配置をもっている。その文様帯は、型式ごとに継続されたり、分裂したり、融合したり、新しく生まれたり、消滅したりする。文様の生命は非常に長く、土器の系統を知る上で役立つ視点である。
土器の写真
早期・前期
中期
-
深鉢形土器 縄文中期 東京都あきる野市二宮大塚出土 東京国立博物館蔵
後期・晩期
-
注口土器 縄文後期 青森県十和田市米田出土 東京国立博物館蔵 重要文化財
種類と形
縄文土器の種類
縄文土器の形
以下のような形があるが、前期や中期、後期、晩期などで仕様、形状が異なる。
特殊祭器用の装飾
深鉢形は、焚き火の熱を横から吸収し煮るのに適した形状である。
土器の系統と集団の移動
縄文土器の型式は、その地域に存在していた型式から次の型式へと変化しいくものである。しかし、一つの地域でばかり次々へと変化していくばかりではない。別々の場所で生産され、系統性も異なる土器が、一つの遺跡に共存したり、ときには別の系統の文様が一つの土器に併用されていることや西日本の一型式が遠く離れた関東に移動し、その遺跡の起源となるといった系統の大移動などが知られている。
また、ある型式の土器が移動し、在地の土器と混合しないで、一軒の住居跡から発見されることも知られている。このような現象の背景には、縄文人の集団の移動や集団間の接触・交渉があったと思われる。また、それらの現象を引き起こした原因を追究することで、今まであまり追究されてこなかった縄文人の集落や社会についての解明が進むであろう、と考えられている。
土器の年代
年代学
土器の年代的変化を客観的にとらえようとする研究が地質学者松本彦七郎によって始められた。松本は、土器型式の違いを年代差ととらえ、貝塚の層位的発掘によってその年代順位を確認していく方法をとった。この方法を受け継いだ一人に山内清男がいた。山内は、1937年(昭和10年)頃までに日本を九つほどの地域に分け、各地に約20ほどの土器型式を配列した。激しい論争の末認められ、科学としての土器研究が確立した。また、山内は、縄文時代の大きな時間的区分として、早期、前期、中期、後期、晩期を示し、後に草創期を付け加えた。
時代区分
縄文時代を通じて派生した型式数は数え切れない程だが、それらを整理して様式としてまとめると70程度とされる。さらに時間軸でまとめると6期に区分され(後述)、時代を通じて概ね継続する地域文化圏ないし領域が日本列島全域で7〜9あったようである。しかし、最終的にはいくつの型式に細分されるか今でも分からない。
- 草創期:約16,000年前〜(ただし、縄文文化的な型式の変遷が定着するのは草創期後半から)
- 早期:約11,000年前〜
- 前期:約7,200年前〜
- 中期:約5,500年前〜
- 後期:約4,700年前〜
- 晩期:約3,400年前〜(ただし、晩期から弥生時代への移行の様相は地域によって相当に異なる)
上記の年代は放射性炭素年代測定を較正した暦年代観に従っているが、いずれにせよ精度の高い推定は難しく、現在でも研究途上である。
最古の縄文土器
縄文土器の出現はどうやら氷期が終了する前の事であり、世界的にみて非常に古いものだが、大陸側の極東地域[4]には、作成技法が異なるものの、同時期の土器文化の存在が知られ、東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に出現したとみられており、相互の関係が注目される。
現在までに知られている日本列島最古の土器は青森県大平山元I遺跡や茨城県後野遺跡(うしろの)・神奈川県寺尾遺跡[5]などから出土した文様のない無文土器[6]であり、大平山元I遺跡から発見された土器の年代測定の算定は16,500年前(暦年較正年代法による)とされている。
また、愛媛県久万高原町美川の上黒岩岩陰遺跡の最下層の第9層から細隆起線文土器、第6層から薄手の無文土器、第4層から押型文土器と厚手の無文土器が出土している。その中でも細隆起線文土器は約1万2000年前のもので、日本最古級の土器の一つである[7]。
発展段階
日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。まず最初の第1段階は無文土器[8]を特徴とし、第2段階は豆粒文土器[9]と隆起線文土器群[10]であり、第3段階は爪形文土器群[11]であり、第4段階は多縄文土器群[12]である。
ちなみに、弥生時代になってからも、東日本では縄文土器の伝統を反映した弥生土器、北海道では縄文土器の直系と言える続縄文土器、沖縄諸島では貝塚時代前半の系統を引く土器が作られた。
中国の縄文式土器の出土地
- 西周時代の縄文式土器 [13]
- 広西壮族自治区博物館蔵の細目縄文式土器[14]
- 甘粛省博物館蔵の縄文式脚付き碗[15]
- 甘粛省博物館蔵の縄文式筒瓦[16]
- 山東大学博物館蔵の縄文式高脚鉢[17]
- 香港 Lord Wilson Heritage Trust蔵の縄文式土器の破片[18]
脚注
- ^ この画像の土器は、「新潟県馬高遺跡出土品」として重要文化財に指定されているものとは別個体で、「伝馬高出土」として東京国立博物館に所蔵されているものである(列品番号J - 39036)。
- ^ 大久保喬樹『日本文化論の名著入門』角川書店〈角川選書〉2008年、ISBN 978-4-04-703422-8 pp.221-233.
- ^ この画像の土器は、「新潟県馬高遺跡出土品」として重要文化財に指定されているものとは別個体で、「伝馬高出土」として東京国立博物館に所蔵されているものである(列品番号J - 39036)。
- ^ 中国や東アジアにも表面に縄を押しつけた痕跡のある土器があるが、それらは叩き締めという技法で、縄を叩く板・棒に巻き付けられており、その痕跡であり、日本の縄文・弥生土器とは異なる。
- ^ 石川日出志『農耕社会の成立 シリーズ日本古代史①』岩波書店〈岩波新書(新赤版)1271〉201年 26ページ
- ^ 数点の小破片(石川日出志『農耕社会の成立 シリーズ日本古代史①』岩波書店〈岩波新書(新赤版)1271〉201年 26ページ)
- ^ 寺内浩「愛媛のあけぼの」 内田九州男・寺内浩・川岡勉・矢野達雄『愛媛県の歴史』山川出版社 2003年 16ページ
- ^ 発見されている無文土器は全て小破片である。それらの少破片を元に器形を復元想像してみると、縦断面は平底から胴部にかけて外側に膨らみ、口縁部にかけては直立する鉢形か深鉢型であろう。神子柴系石器群を伴う。年代は大平山元I遺跡の土器に付着した炭化物などを試料に行ったAMSC14測定年代が12680±140〜13780±170年BPで、もっと古い珊瑚による暦年較正値は16520calBPである。
- ^ 豆粒文土器は長い楕円形の粘土粒を口縁部で縦列か斜列に等間隔に、胴部上半分では横列に貼り付けている。隆起線文と組み合わせて文様がつけられ場合と隆起線文だけで文様を構成する場合がある。復元品では器形丸底の深鉢土器。豆粒文土器と隆起線文土器の福井洞穴のβ線法C14測定年代は12400±350〜12700±500年BP
- ^ 隆線文土器とも呼ぶ。豆粒文土器とともに福井洞穴、泉福寺洞窟から出土。
- ^ 福井洞穴や泉福寺洞穴から出土。爪形文土器が単独で発見されている場合は東北地方北部、北海道帯広市まで分布する。その数は必ずしも多くない。年代は群馬県西鹿田中島遺跡のC14測定では11180±40BPである。器形は深鉢で、口縁部がやや内側に膨らみ胴部が大きく外側に膨らみ底部が丸底や口縁部が外側に膨らみ乳房状尖底などがある。
- ^ 押圧縄文、絡条体圧痕文、回転縄文を施した土器であり、これらの縄文を施した時期に土器を分類することができる。近畿地方以東の本州東部に分布する。年代は櫛引遺跡」のC14測定では10030±50年BPである。
- ^ 縄紋陶鬲(西周)
- ^ 細縄紋圜底陶釜
- ^ 縄紋紅陶圏足碗
- ^ 縄紋紅陶筒瓦
- ^ 縄紋鼎
- ^ 香港印紋陶紋飾
参考文献
- 「土器 年代学・形式学」今村啓爾『日本の考古学』奈良文化財研究所編 学生社 2007年 ISBN 978-4-311-75037-3