「ヨアヒム・フォン・プロイセン」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
33行目: | 33行目: | ||
== 子女 == |
== 子女 == |
||
⚫ | |||
妻のマリー・アウグステとの間には、以下の一男が生まれていた。 |
妻のマリー・アウグステとの間には、以下の一男が生まれていた。 |
||
* [[カール・フランツ・ヨーゼフ・フォン・プロイセン|'''カール・フランツ・ヨーゼフ'''・ヴィルヘルム・フリードリヒ・エドゥアルト・パウル]](1916年 - 1975年) |
* [[カール・フランツ・ヨーゼフ・フォン・プロイセン|'''カール・フランツ・ヨーゼフ'''・ヴィルヘルム・フリードリヒ・エドゥアルト・パウル]](1916年 - 1975年) |
||
⚫ | |||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{DEFAULTSORT: |
{{DEFAULTSORT:よあひむ}} |
||
[[Category:ホーエンツォレルン家プロイセン=ドイツ系|よあひむ1890]] |
[[Category:ホーエンツォレルン家プロイセン=ドイツ系|よあひむ1890]] |
||
[[Category:プロイセン王子|よあひむ1890]] |
[[Category:プロイセン王子|よあひむ1890]] |
||
[[Category:ドイツ帝国の人物]] |
[[Category:ドイツ帝国の人物]] |
||
[[Category:オランダ獅子勲章受章者]] |
[[Category:オランダ獅子勲章受章者]] |
||
⚫ | |||
[[Category:ベルリン出身の人物]] |
[[Category:ベルリン出身の人物]] |
||
⚫ | |||
[[Category:1890年生]] |
[[Category:1890年生]] |
||
[[Category:1920年没]] |
[[Category:1920年没]] |
2020年6月14日 (日) 09:15時点における版
ヨアヒム Joachim | |
---|---|
ホーエンツォレルン家 | |
プロイセン王子ヨアヒム | |
全名 |
Joachim Franz Humbert ヨアヒム・フランツ・フンベルト |
称号 | プロイセン王子 |
出生 |
1890年12月17日 ドイツ帝国、ベルリン |
死去 |
1920年7月18日(29歳没) ドイツ国、ポツダム |
埋葬 |
1920年7月21日 ドイツ国、ポツダム、サンスーシ宮殿、アンティーク・テンプル |
配偶者 | マリー・アウグステ・フォン・アンハルト |
子女 | カール・フランツ・ヨーゼフ |
父親 | ヴィルヘルム2世 |
母親 | アウグステ・ヴィクトリア |
ヨアヒム・フォン・プロイセン(Joachim von Preußen, 1890年12月17日 - 1920年7月18日)は、プロイセン王国の王族。全名はヨアヒム・フランツ・フンベルト(Joachim Franz Humbert)。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の六男。
ヨアヒムは1890年12月17日、ヴィルヘルム2世(当時皇太子)とその妃であったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フリードリヒ8世の娘アウグステ・ヴィクトリア(1858年 - 1921年)の間に第六子としてベルリンで生まれた。1916年3月11日にアンハルト公エドゥアルトの娘マリー・アウグステ(1898年 - 1983年)と結婚した。
1916年にダブリンで発生したイースター蜂起の際、指導者の一部はヨアヒムをアイルランド王に迎えることを考えていたが、この蜂起はすぐにイギリスによって鎮圧されたため実現しなかった。
1920年7月17日にヨアヒムはポツダムのヴィラ・リークニッツ(Villa Liegnitz)で拳銃自殺を図った。ただちに病院へ運ばれたものの、翌日ヨアヒムは死去した。自殺の動機については、1918年のドイツ革命で帝政が倒されたショック、夫人との不和(革命の数ヵ月後に離婚を申し立てていた)などが考えられている。
子女
妻のマリー・アウグステとの間には、以下の一男が生まれていた。
- カール・フランツ・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・エドゥアルト・パウル(1916年 - 1975年)