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「レーガン大統領暗殺未遂事件」の版間の差分

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釈放されたものの無一文になったヒンクリーは、家に帰った後に[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]となり、精神療法を受けたが改善しなかった。その後[[1981年]]になると、カーターを選挙で破り新たに大統領となった[[ロナルド・レーガン]]をつけ狙い始めた。
釈放されたものの無一文になったヒンクリーは、家に帰った後に[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]となり、精神療法を受けたが改善しなかった。その後[[1981年]]になると、カーターを選挙で破り新たに大統領となった[[ロナルド・レーガン]]をつけ狙い始めた。


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=== 銃撃 ===
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[[File:ReaganParr.jpg|right|220px|thumb|銃撃される直前のレーガン大統領]]
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[[File:Reagan assassination attempt 2.jpg|right|220px|thumb|銃撃直後。レーガン大統領は右の車に押し込まれている]]
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[[File:Photograph of chaos outside the Washington Hilton Hotel after the assassination attempt on President Reagan - NARA - 198514.jpg|right|220px|thumb|レーガン大統領を乗せた車が去った直後。ヒンクリーは壁際、[[UZI (SMG)|UZI]]を構えるシークレットサービスの脇で複数の警官に押さえつけられている。一番手前で倒れているのがデラハンティ巡査、その後ろで倒れているのはブレイディ報道官。傍にはデラハンティの制帽が転がっている。警護車の前にはUZIが収められていた[[アタッシェケース]]が放り出されている]]
[[File:Photograph of chaos outside the Washington Hilton Hotel after the assassination attempt on President Reagan - NARA - 198514.jpg|right|220px|thumb|レーガン大統領を乗せた車が去った直後。ヒンクリーは壁際、[[UZI (SMG)|UZI]]を構えるシークレットサービスの脇で複数の警官に押さえつけられている。一番手前で倒れているのがデラハンティ巡査、その後ろで倒れて介抱されているのはブレイディ報道官。傍にはデラハンティの制帽が転がっている。警護車の前にはUZIが収められていた[[アタッシェケース]]が放り出されている]]
その後ヒンクリーは、レーガンを銃撃するために3月29日に[[ワシントンD.C.]]に向かい、[[ワシントン・ポスト]]紙で翌30日のレーガンの予定を確認した。ヒンクリーはレーガンが30日の午後にワシントンD.Cの[[ヒルトン|ヒルトンホテル]]の会議場で[[アメリカ労働総同盟・産業別組合会議|AFL-CIO]]会議で講演することを確認し、この際に銃撃することを決定した。
その後ヒンクリーは、レーガンを銃撃するために3月29日に[[ワシントンD.C.]]に向かい、[[ワシントン・ポスト]]紙で翌30日のレーガンの予定を確認した。ヒンクリーはレーガンが30日の午後にワシントンD.Cの[[ヒルトン|ヒルトンホテル]]の会議場で[[アメリカ労働総同盟・産業別組合会議|AFL-CIO]]会議で講演することを確認し、この際に銃撃することを決定した。


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この10秒に満たない一連の出来事は複数の[[テレビカメラ]]によってその一部始終が生中継されており(中にはヒンクリーの[[銃]]自体が写っていた)、その後世界中にレーガンらが銃撃されるシーンが放送されることとなった。前年に開局して間もない[[CNN]]はこのシーンを登用して報道し、以降[[ニュース専門放送局]]としての地歩を固めた。なお、アメリカ大統領が狙撃され、弾丸が命中したのは[[1963年]]11月の[[ケネディ大統領暗殺事件]]以来のことである。
この10秒に満たない一連の出来事は複数の[[テレビカメラ]]によってその一部始終が生中継されており(中にはヒンクリーの[[銃]]自体が写っていた)、その後世界中にレーガンらが銃撃されるシーンが放送されることとなった。前年に開局して間もない[[CNN]]はこのシーンを登用して報道し、以降[[ニュース専門放送局]]としての地歩を固めた。なお、アメリカ大統領が狙撃され、弾丸が命中したのは[[1963年]]11月の[[ケネディ大統領暗殺事件]]以来のことである。
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=== 弾丸摘出 ===
=== 弾丸摘出 ===

2021年12月29日 (水) 13:37時点における版

レーガン大統領暗殺未遂事件
狙撃される直前のレーガン大統領
場所 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
日付 1981年3月31日
14:30
概要 ロナルド・レーガン大統領が狙撃される
原因 犯人の精神錯乱
武器 拳銃(リボルバー銃 RG14 .22LR)
死亡者 ジェームズ・ブレイディ2014年8月)
負傷者 レーガン大統領の他2名(警備の警察官とシークレットサービス各1名)
犯人 ジョン・ヒンクリー
対処 無罪(措置入院)
謝罪 不明
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レーガン大統領暗殺未遂事件(レーガンだいとうりょうあんさつみすいじけん、Reagan assassination attempt)は、1981年3月30日に、アメリカワシントンD.C.で、アメリカのロナルド・レーガン大統領が銃撃された事件である。

事件の経緯

動機

就任式でのレーガン大統領(左)

テキサス工科大学の学生だったジョン・ヒンクリーは、1976年に公開された映画「タクシードライバー」を繰り返し観る中で、12歳の売春婦「アイリス」役を演じたジョディ・フォスターへの偏執的な憧れを抱く。

その後フォスターがイェール大学に入学したとき、ヒンクリーはフォスターに近づくためにコネチカット州ニューヘブンに転居し、フォスターの自宅のドアの下に自作の詩を書いたメッセージを挟み込んだり、繰り返し電話をかけるなどした。

しかしフォスターとの接触に失敗したヒンクリーは、旅客機ハイジャックし、フォスターの前で自殺して注意を引こうとする計画を考えた。しかし結局ヒンクリーは「歴史上の人物としてフォスターと同等の立場になるため」に大統領の暗殺を企てる。計画実行のためヒンクリーはジミー・カーター大統領を州から州へと追いかけたが、その結果テネシー州ナッシュヴィルで重火器不法所持の罪で逮捕された。

釈放されたものの無一文になったヒンクリーは、家に帰った後に神経衰弱となり、精神療法を受けたが改善しなかった。その後1981年になると、カーターを選挙で破り新たに大統領となったロナルド・レーガンをつけ狙い始めた。

銃撃

銃撃される直前のレーガン大統領
銃撃直後。レーガン大統領は右の車に押し込まれている
レーガン大統領を乗せた車が去った直後。ヒンクリーは壁際、UZIを構えるシークレットサービスの脇で複数の警官に押さえつけられている。一番手前で倒れているのがデラハンティ巡査、その後ろで倒れて介抱されているのはブレイディ報道官。傍にはデラハンティの制帽が転がっている。警護車の前にはUZIが収められていたアタッシェケースが放り出されている

その後ヒンクリーは、レーガンを銃撃するために3月29日にワシントンD.C.に向かい、ワシントン・ポスト紙で翌30日のレーガンの予定を確認した。ヒンクリーはレーガンが30日の午後にワシントンD.Cのヒルトンホテルの会議場でAFL-CIO会議で講演することを確認し、この際に銃撃することを決定した。

銃撃に先立ちヒンクリーはフォスターへの手紙を2通したためた後、宿泊していたホテルを後にしヒルトンホテルへ向かったものの、レーガン以外にもカナダピエール・トルドー首相などが参列していたために会場内の警備が厳しく、会場内での銃撃をあきらめ、多くの群衆が取り巻く会場外で銃撃することにした。

午後2時30分前に会議場での講演を終えたレーガンは、シークレットサービスや警護の警官らとともにT通りの出口から出て、大統領専用車リンカーン・コンチネンタル)へと向かおうとした際に、警備の隙を見てヒンクリーは回転式拳銃(ロームRG14 .22LR、いわゆるサタデーナイトスペシャル)から6発全弾発砲した。

銃弾は専用車の車体に当たって跳ね返りレーガンの左胸部に命中し、他にもジェイムズ・ブレイディ大統領報道官とワシントンD.C.首都警察のトマス・デラハンティ巡査、シークレットサービスのティモシー・マッカーシーに命中した。ヒンクリーはシークレットサービスや警官に取り押さえられ、逃亡しようともせずその場で身柄を拘束された。

この10秒に満たない一連の出来事は複数のテレビカメラによってその一部始終が生中継されており(中にはヒンクリーの自体が写っていた)、その後世界中にレーガンらが銃撃されるシーンが放送されることとなった。前年に開局して間もないCNNはこのシーンを登用して報道し、以降ニュース専門放送局としての地歩を固めた。なお、アメリカ大統領が狙撃され、弾丸が命中したのは1963年11月のケネディ大統領暗殺事件以来のことである。

弾丸摘出

銃撃直後にレーガンはシークレットサービスによって大統領専用車に押し込まれ、その直後は無傷と思われたために即座にホワイトハウスへ向かった。

しかし、その後に大統領専用車内でレーガンが吐血し併せて胸部に出血を認めたために、シークレットサービスの機転により大統領専用車は近隣のジョージ・ワシントン大学病院に急行し、その後即座に緊急手術を受けた。

なお、弾丸はレーガンの心臓をかすめての奥深くで止まっており、かなりの内出血を起していた。冷戦下における「国家の安全上の理由」から(実際に、銃撃事件の直後にソ連潜水艦がアメリカの大西洋沿岸に集結するなどの不穏な動きが見られた)、レーガンの詳しい様態が、同じく狙撃され重傷を負ったブレイディ大統領報道官の代理であるラリー・スピークス副報道官からマスコミに明らかにされたのは、レーガンが退院してからのことである。

また、レーガンとともに銃撃を受けたマッカーシーとデラハンティは幸いにも軽傷で済んだが、ブレイディ大統領報道官は頭部に弾丸を受けたために、一命こそ取りとめたものの回復不能な障害が残り、2014年に死亡した際は、この時の傷が原因と診断されている。

機知

事件後初めて公の場に現れたレーガン大統領とナンシー夫人

レーガンは出血を伴う重傷を負っていたにもかかわらず意識ははっきりしており、自らの胸から弾丸を取り除く手術の前には執刀外科医に対して、「諸君がみな共和党員だといいんだがねぇ」とジョークを飛ばす余裕さえ見せた。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみな共和党員です」と答え、レーガンを喜ばせている。

また、事件の知らせを受け病院に直行したのナンシーに対しては「ハニー、僕は避けるのを忘れていたよ(Honey, I forgot to duck)」と冗談を言った。これは1926年ボクシング・ヘビー級選手権でジャック・デンプシーの敗戦のコメントを引用したものであった(デンプシーはジーン・タニーに負けた後、「何が起こったの」と尋ねる妻のエステレ・テーラーに対し、「ハニー、僕は避けるのを忘れていた」と応えた)。

レーガンのこのような機知は事件後に公にされ、「危機の際にもユーモアを忘れない」という、指導者のあるべき姿を体現したものとして称賛の対象となった。その後、レーガンは高齢者としては驚異的なスピードで回復し、事件から約3週間後には公務に復帰している。

後にレーガンは共和党大会での演説中、飾りつけの風船が破裂し周囲が銃撃があったのかと勘違いし騒然とすると「奴(ヒンクリー)は、またしくじった」とジョークを飛ばし、聴衆を大いに沸かせた。

その後

裁判

ジョン・ヒンクリー、マグショット1981年

ヒンクリーは1982年に行われた事件に対する裁判では13の罪で起訴されたが、6月21日に精神異常が理由で無罪となった。弁護側の精神医学上の報告書では「ヒンクリーが精神異常」であると報告したが、検察当局の報告書はヒンクリーを法律上健全であると宣言した。

ヒンクリーの無罪判決は広範囲の狼狽を引き起こし、下院および多くの州で精神異常者の犯罪に対する法律改正につながった。その結果3つの州が弁護を全て廃止した。ヒンクリーの事件に先立つ連邦裁判所での裁判では、死刑裁判の2%未満で精神異常での免罪が使用され、その80%が敗訴した。

この判決を受けて、ヒンクリーはワシントンD.C.のセント・エリザベス病院で拘束された。その後ヒンクリーは両親の監督下に1999年に退院を許可され、2000年には監督なしでの釈放が許可された。しかしこれらの権利はヒンクリーがフォスターに関する資料を密かに病院に持ち込んでいたことが判明し無効となった。その後2016年7月釈放が許可された[1]

ヒンクリーが奇行に出るほど愛したジョディ・フォスターだが、のちにフォスターは、自らがレズビアンである事を匂わせる発言をし、実際に女性写真家と同性婚している。マスコミからは「事件がきっかけで男性不信または男性恐怖症を発病したことから女性しか愛せなくなった」と言われたが、フォスターは「事件とは全く関係がない」と生まれつきである事を明かしている。 つまり、ヒンクリーが努力しても、ヒンクリーどころか男性がフォスターに好意を持ってもらう事は不可能だった。

支持率向上

ジェームズ・ブレイディ(2006年

この銃撃事件とその後のレーガンの対応は、レーガンの支持率に大きな影響を与えた。事件が起こる前のレーガンは、俳優時代やカリフォルニア州知事時代の言動を元に、多くのリベラル層や知識層などから「ポピュリストかつ右傾的」だとして否定的に思われていた。

しかし、このような事態においても余裕を失わない精神的な強靭さや、機知に富んだ人格が評価され支持率が大きく上がった。後の一連の政策を行えたのはこの事件なくしては無理だったとする意見もある。

ブレイディ報道官

この事件で頭部に銃弾を受け障害が残ったブレイディは、大統領報道官としての任務の遂行が不可能となったものの、1989年にレーガンがその任期を全うするまでの間、正規の大統領報道官として留任を続けることとなった。

事件後はブレイディの部下となる大統領副報道官が実質的に正報道官としての任務を行い、ブレイディは回復に向けてのリハビリテーションに専念した。

なお、この事件を受けて制定されたのが、米国民銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」である。しかしこの法律は2005年NRAなどの抵抗により効力延長手続きがされず失効した。

ブレイディは2014年8月4日に73歳で死去したが、バージニア州検視当局はその死因をこの事件による負傷によるものとして、ブレイディの死を殺人事件と断定し、警察により再捜査が行われることとなった[2]

脚注

  1. ^ Reagan Shooter John Hinckley Jr. Granted Release From Washington DC Mental Hospital - KTLA(2016年7月27日)
  2. ^ レーガン元米大統領報道官が死去、暗殺未遂事件時の負傷が死因 CNN 2014年8月9日

関連項目

座標: 北緯38度54分57.96秒 西経77度2分43.44秒 / 北緯38.9161000度 西経77.0454000度 / 38.9161000; -77.0454000