「宇野哲人」の版間の差分
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'''宇野 哲人'''(うの てつと、[[明治]]8年([[1875年]])[[11月15日]] - [[昭和]]49年([[1974年]])[[2月19日]])は、[[日本]]の[[中国学]]者。近代的な[[中国哲学]]研究の開拓者の一人<ref>『[[hdl:2261/00078984|東京大学百年史 部局史1]]』東京大学出版会 1987 p.517</ref>。[[東京大学]][[名誉教授]]。[[皇室]]ともゆかりを持つ。<!-- 日本の儒学者・漢学者 --> |
2022年4月8日 (金) 17:28時点における版
生誕 |
1875年11月15日 日本・熊本県熊本市 |
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死没 | 1974年2月19日 (98歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
両親 | 宇野丈九郎 |
子供 | 宇野精一、貫達人、宇野義方、宇野健吾 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
研究分野 | 中国学 |
宇野 哲人(うの てつと、明治8年(1875年)11月15日 - 昭和49年(1974年)2月19日)は、日本の中国学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人[1]。東京大学名誉教授。皇室ともゆかりを持つ。
人物
1875年、熊本県熊本市出身。済々黌、東京帝国大学漢学科卒業。卒業時には成績優秀者として恩賜の銀時計を明治天皇から賜る[2]。
1907年(明治40年)前後、東京帝大助教授として、清朝末期の中国大陸に留学する。このとき同世代の東洋史学者桑原隲蔵と同行している[3]。その時の見聞録『清国文明記』が後年刊行されている。次いで帝政期のドイツ留学、知見を得た西洋哲学の手法で中国哲学を読み解き講義著述した。東京帝国大学の支那哲学講座の教授を務めた。
1933年、宮中の講書始の控えメンバーに選ばれ、1935年1月28日に、昭和天皇に漢書の進講を行った[4]。1960年代には、「浩宮徳仁」と「礼宮文仁」の命名の儀にも携わっており、皇后美智子の依頼で幼少の二人に『論語』を進講してもいる[2][5]。
東京大学名誉教授。実践女子大学初代学長、国士舘大学教授、東方文化学院初代院長、東方学会初代理事長・会長などを歴任[6]。
三省堂初期の漢和辞典編纂委員(宇野の後は長澤規矩也が引き継いだ)をはじめ、多くの辞典の編纂代表であった。
家族
父は宇野丈九郎。長男が宇野精一、三男が貫達人、四男が宇野義方、五男が宇野健吾(経済学、筑波大名誉教授、1922年 - )。長女の夫が阪大名誉教授・東洋史・桑田六郎(1894年 - 1987年)、次女の夫が篠原健一・元早大教授・物理学者(1905年 - )、三女の夫が安藤良雄(経済学、東大名誉教授、成城大学長(1917年 - 1985年)[7]。
略歴
- 明治8年(1875年) - 熊本県にて生まれる
- 明治27年(1894年) - 九州学院(済々黌)卒業
- 明治33年(1900年) - 東京帝国大学漢学科卒業
- 明治37年(1904年) - 東京帝国大学文科大学助教授
- 明治39年(1906年) - 清国に留学
- 明治43年(1910年) - 帰国
- 大正8年(1919年) - 東京帝国大学教授。文学博士
- 昭和4年(1929年) - 東京文理科大学教授を兼任
- 昭和11年(1936年) - 退官。東京帝国大学名誉教授。警察大学校講師(昭和42年迄)
- 昭和14年(1939年) - 北京大学名誉教授(6年間)
- 昭和20年(1945年) - 東方文化学院院長
- 昭和22年(1947年) - 東方学術協会設立。東方学術協会理事長
- 昭和23年(1948年) - 東京都立向丘高等学校校長
- 昭和24年(1949年) - 実践女子大学学長
- 昭和33年(1958年) - 実践女子大学名誉教授
- 昭和34年(1959年) - 熊本県近代文化功労者
- 昭和39年(1964年) - 賜銀杯一組
- 昭和40年(1965年) - 東方学会会長
- 昭和41年(1966年) - 国士舘大学教授
- 昭和44年(1969年) - 熊本市名誉市民
- 昭和48年(1973年) - 叙勲一等授瑞宝章
- 昭和49年(1974年) - 逝去
栄典
編著
主な編者代表
- 「新漢和大辞典」三省堂、昭和7年(1932年)
- 「新撰漢和辞典」三省堂、長澤規矩也との共編 昭和12年(1937年)
- 「明解漢和辞典」三省堂、増訂版 昭和19年(1944年)
- 「新修 広辞典」集英社、第5版・平成8年(1996年)
- 「新修 国語漢和辞典」集英社、第3版・昭和58年(1983年)
- 「和英併用 実用辞典」集英社、第2版・昭和50年(1975年)
主な著書
- 「二程子の哲学」大同館書店、明治33年(1900年)
- 「支那哲学の研究」大同館書店、昭和4年(1929年)
- 「支那哲学史講話」大同館書店、昭和14年(1939年)
- 「論語」上・下 明徳出版社〈中国古典新書〉、新装版・平成29年(2017年)
- 「大学」 講談社学術文庫 昭和58年(1983年) ISBN 4061585940
- 「中庸」 講談社学術文庫 昭和58年(1983年) ISBN 4061585959
- 「論語新釈」 講談社学術文庫 昭和55年(1980年) ISBN 4061584510
- 「中国思想」 講談社学術文庫 昭和55年(1980年) ISBN 4061584901
- 「中国哲学」 講談社学術文庫 平成4年(1992年) ISBN 4061590081
- 「清国文明記」 講談社学術文庫 平成18年(2006年) ISBN 4061597612
脚注
- ^ 『東京大学百年史 部局史1』東京大学出版会 1987 p.517
- ^ a b “代替わりへ 改元の舞台裏/6 元号準備に宇野家人脈 漢学者3代、皇室と縁深く”. 毎日新聞. (2019年4月11日)
- ^ 桑原隲蔵『考史遊記』岩波文庫、新版・平成13年(2001年)
- ^ 「講書始の奉仕者」『東京朝日新聞』昭和10年1月10日3面
- ^ 集英社の「外国から来た新語辞典」初版十二版にある「新修 広辞典」の広告に、「浩宮さまの名付け親」とある。
- ^ 『東方学回想 Ⅲ 学問の思い出〈1〉』(刀水書房、2000年)にも詳しい。門下生との座談会での回想で、東方学会の機関紙「東方学」に掲載された。
- ^ 『人事興信録』1995年、宇野精一、貫達人の項。
- ^ 『官報』第2789号「叙任及辞令」1936年4月22日。
参考文献
- 『東洋学の系譜 第2集』江上波夫編、大修館書店 1994年
- 『東方学回想 Ⅲ 学問の思い出〈1〉』東方学会編、刀水書房、2000年
- 『元号戦記 近代日本、改元の深層』角川新書、2020年 - 改元に関わった宇野家の歩み
外部リンク
脚注