「三島由紀夫」の版間の差分
補記 |
私の人生と私の誕生について |
||
32行目: | 32行目: | ||
| website = |
| website = |
||
}} |
}} |
||
'''三島 由紀夫'''(みしま ゆきお、[[1925年]]〈[[大正]]14年〉[[1月14日]] - [[1970年]]〈[[昭和]]45年〉[[11月25日]])は、日本の[[小説家]]、[[劇作家]]、[[随筆家]]、[[評論家]]、[[政治活動家]]。本名は'''平岡 公威'''(ひらおか きみたけ)。 |
'''三島 由紀夫'''(みしま ゆきお、[[1925年]]〈[[大正]]14年〉[[1月14日]] - [[1970年]]〈[[昭和]]45年〉[[11月25日]])は、日本の[[小説家]]、[[劇作家]]、[[随筆家]]、[[評論家]]、[[政治活動家]]。本名は'''平岡 公威'''(ひらおか きみたけ)。<ref>{{Cite book |title=❞يوكيو ميشيما❝ المؤلِّف - المكتبة |url=https://books-library.com/@Yukio-Mishima |language=en |last=Alprogrammer}}</ref><ref>{{Cite web |title=三島由紀夫只愛男人?將文學、武士精神、極右思想發揮到極致的作家 {{!}} ELLE HK |url=https://www.elle.com.hk/life/yukio-mishima?utm_source=facebook_share&utm_medium=referral |website=www.elle.com.hk |access-date=2023-07-05 |first=ELLE |last=HK}}</ref> |
||
[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]の[[日本文学|日本の文学]]界を代表する作家の一人であると同時に、[[ノーベル文学賞]]候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である<ref name="radio1">「第一回 三島由紀夫の誕生」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=8-20}})</ref><ref name="gai14">「十四 ノーベル文学賞の有力候補」({{Harvnb|岡山|2014|pp=83-84}})</ref><ref name="matsunaga">[[松永尚三]]「ヨーロッパ・フランス語圏における三島劇」({{Harvnb|論集III|2001|pp=215-228}})</ref>。『[[エスクァイア|Esquire]]』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある<ref name="kee-m">「三島由紀夫」({{Harvnb|キーン|2005|pp=70-95}})</ref>。 |
[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]の[[日本文学|日本の文学]]界を代表する作家の一人であると同時に、[[ノーベル文学賞]]候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である<ref name="radio1">「第一回 三島由紀夫の誕生」({{Harvnb|松本徹|2010|pp=8-20}})</ref><ref name="gai14">「十四 ノーベル文学賞の有力候補」({{Harvnb|岡山|2014|pp=83-84}})</ref><ref name="matsunaga">[[松永尚三]]「ヨーロッパ・フランス語圏における三島劇」({{Harvnb|論集III|2001|pp=215-228}})</ref>。『[[エスクァイア|Esquire]]』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある<ref name="kee-m">「三島由紀夫」({{Harvnb|キーン|2005|pp=70-95}})</ref>。 |
2023年7月5日 (水) 23:27時点における版
三島 由紀夫 (みしま ゆきお) | |
---|---|
誕生 |
平岡 公威(ひらおか きみたけ) 1925年1月14日 日本・東京府東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番) |
死没 |
1970年11月25日(45歳没) 日本・東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1) 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地 |
墓地 | 多磨霊園 |
職業 | 小説家、劇作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 法学士(東京大学・1947年11月) |
最終学歴 | 東京大学法学部法律学科卒業 |
活動期間 | 1941年 - 1970年 |
ジャンル | 小説、戯曲、評論、随筆 |
主題 |
古典美、日本の雅 超越的な美意識、源泉の感情 悲劇性を帯びた美的存在 被疎外者における純粋 芸術と人生、生と死 精神と肉体、言葉と行動 認識と行為、存在と当為 文武両道、大和魂、憂国、皇国 |
文学活動 |
日本浪曼派、第二次戦後派 耽美派 |
代表作 | |
主な受賞歴 | |
デビュー作 | |
配偶者 | 平岡瑤子 |
子供 | 平岡紀子、平岡威一郎 |
親族 |
松平頼救(五世祖父) 松平乗尹(義五世祖父) 平岡太左衛門、三好長済、松平頼位、橋一巴(高祖父) 永井尚志(義高祖父) 平岡太吉、永井岩之丞、瀬川朝治、橋健堂(曾祖父) 平岡定太郎、橋健三(祖父) 平岡なつ、橋トミ(祖母) 平岡梓(父)、倭文重(母) 平岡千之(弟)、美津子(妹) 橋健行、橋行蔵(伯父) 平岡萬次郎(大伯父) 大屋敦(大叔父) 平岡萬寿彦、磯崎叡、永井三明(父の従兄弟) |
影響を受けたもの
| |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
三島 由紀夫(みしま ゆきお、1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)は、日本の小説家、劇作家、随筆家、評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)。[2][3]
戦後の日本の文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家である[4][5][6]。『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある[7]。
代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴[8][9]。
晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。1970年(昭和45年)11月25日(水曜日)、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁。バルコニーで自衛隊員にクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた[10][11][12](詳細は「三島事件」を参照)。
満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い[13][14][15]。
※ なお、以下では三島自身の言葉や著作からの引用部を〈 〉で括ることとする(家族・知人ら他者の述懐、評者の論評、成句、年譜などからの引用部との区別のため)。
生涯
出自
#家族・親族も参照。
1925年(大正14年)1月14日(水曜日)、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)において、父・平岡梓(当時30歳)と母・倭文重(当時19歳)の間の長男として誕生[16][17]。体重は650匁(約2,438グラム)だった[18][17]。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の恩人で同郷の土木工学者・古市公威男爵にあやかって名付けられた[19][20][17]。
家は借家であったが同番地内で一番大きく、かなり広い和洋折衷の二階家で、家族(両親と父方の祖父母)の他に女中6人と書生や下男が居た(彼らは定太郎の故郷から来た親族だった[21])。祖父は借財を抱えていたため、一階には目ぼしい家財はもう残っていなかった[22]。兄弟は、3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が生まれた[16]。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に悪印象を持たれて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止に伴い、農林省に異動)に勤務していた[23]。岸信介、我妻栄、三輪寿壮とは一高、帝大の同窓であった[24][25]。
母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。父(三島の外祖父)は東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三[20][26]。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・兵庫県加古川市志方町上富木)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業後、内務省に入省し内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井夏子と結婚し、福島県知事、樺太庁長官などを務めたが、疑獄事件で失脚した(のちに無罪判決)[27]。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれた。夏子の母方の祖父・松平頼位の血筋を辿っていくと徳川家康に繋がっている[26][28]。夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えた。夏子の祖父は江戸幕府若年寄の永井尚志[20][26]。なお、永井岩之丞の同僚・柳田直平の養子が柳田國男で、平岡定太郎と同じ兵庫県出身という縁もあった柳田国男は、夏子の家庭とは早くから交流があった[29]。
作家・永井荷風の永井家と夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)で、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[30]。公威は、荷風の風貌と似ている梓のことを陰で「永井荷風先生」と呼んでいた[25]。なお、夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた[26][31][17]。
祖父、父、そして息子の三島由紀夫と、三代にわたって同じ大学の学部を卒業した官僚の家柄であった。江戸幕府の重臣を務めた永井尚志の行政・統治に関わる政治は、平岡家の血脈や意識に深く浸透したのではないかと推測される[13]。
幼年期と「詩を書く少年」の時代
公威と祖母・夏子とは、学習院中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた[32]。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実のもと、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母親の倭文重が授乳する際も懐中時計で時間を計った[18][20]。夏子は坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多く、家族の中でヒステリックな振る舞いに及ぶこともたびたびで、行儀作法も厳しかった[20][32]。
公威は物差しやはたきを振り回すのが好きであったが没収され、車や鉄砲などの音の出る玩具も御法度となり、外での男の子らしい遊びも禁じられた[20][32]。夏子は孫の遊び相手におとなしい年上の女の子を選び、公威に女言葉を使わせた[32][33]。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒にかかり、死の一歩手前までいく[18][20]。病弱な公威のため、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育をした[18][32]。その一方、歌舞伎、谷崎潤一郎、泉鏡花などの夏子の好みは[34]、後年の公威の小説家および劇作家としての素養を培った[35]。
1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある夏子の意向が強く働いていた[16][36]。平岡家は定太郎が元樺太庁長官だったが平民階級だったため、華族中心の学校であった学習院に入学するには紹介者が必要となり[16]、夏子の伯父・松平頼安(上野東照宮社司。三島の小説『神官』『好色』『怪物』『領主』のモデル[37])が保証人となった[36][注釈 1]。
しかし華族中心とはいえ、かつて乃木希典が院長をしていた学習院の気風は質実剛健が基本にあり、時代の波が満州事変勃発など戦争へと移行していく中、校内も硬派が優勢を占めていた[38][39]。級友だった三谷信は学習院入学当時の公威の印象を以下のように述懐している[40]。
公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関誌『小ざくら』に発表し始めた。読書に親しみ、世界童話集、印度童話集、『千夜一夜物語』、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、北原白秋、フランス近代詩、丸山薫や草野心平の詩、講談社『少年倶楽部』(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)、『スピード太郎』などを愛読した[41][42]。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られていた[20][33]。
初等科3年の時は、作文「ふくろふ」の〈フウロフ、貴女は森の女王です〉という内容に対し、国語担当の鈴木弘一から「題材を現在にとれ」と注意されるなど、国語(綴方)の成績は中程度であった[43]。主治医の方針で日光に当たることを禁じられていた公威は、〈日に当ること不可然(しかるべからず)〉と言って日影を選んで過ごしていたため、虚弱体質で色が青白く、当時の綽名は「蝋燭」「アオジロ」であった[33][40][44]。
初等科6年の時には校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれているのを三谷が目撃している[40][45][46]。
この6年生の時の1936年(昭和11年)には、2月26日に二・二六事件があった。急遽、授業は1時限目で取り止めとなり、いかなることに遭っても「学習院学生たる矜り」を忘れてはならないと先生から訓示を受けて帰宅した[47]。6月には〈非常な威厳と尊さがひらめいて居る〉と日の丸を表現した作文「わが国旗」を書いた[48]。
1937年(昭和12年)、学習院中等科に進んだ4月、両親の転居に伴い祖父母のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)の借家で両親と妹・弟と暮らすようになった[16][33]。夏子は、1週間に1度公威が泊まりに来ることを約束させ、日夜公威の写真を抱きしめて泣いた[18]。虚弱な公威は中等科でも同級生にからかわれ、屋上から鞄を落とされたり(万年筆3本折れる)、学食で皿に醤油をドバドバかけられ野菜サラダを食べられなくさせられたりという、イジメをずいぶん受けた[49]。
公威は文芸部に入り、同年7月、学習院校内誌『輔仁会雑誌』159号に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を発表。自作の散文が初めて活字となった。中等科から国語担当になった岩田九郎(俳句会「木犀会」主宰の俳人)に作文や短歌の才能を認められ成績も上がった[20]。以後、『輔仁会雑誌』には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる[16][50]。11、12歳頃、ワイルドに魅せられ、やがて谷崎潤一郎、ラディゲなども読み始めた[42]。
7月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争となった。この年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結んだ[51][52]。初対面の時の公威の印象を坊城は「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った」とし、その時の光景を以下のように語っている[51]。
「文芸部の坊城だ」 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。「きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 「これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った。 — 坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」[51]
1938年(昭和13年)1月頃、初めての短編小説「
1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が潰瘍出血のため、小石川区駕籠町(現・文京区本駒込)の山川内科医院で死去(没年齢62歳)[16]。同年4月、前年から学習院に転任していた清水文雄が国語の担当となり、国文法、作文の教師に加わった。和泉式部研究家でもある清水は三島の生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた[55][58]。同年9月、ヨーロッパではドイツ国のポーランド侵攻を受けて、フランスとイギリスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
1940年(昭和15年)1月に、後年の作風を彷彿とさせる破滅的心情の詩「
同年6月に文芸部委員に選出され(委員長は坊城俊民)、11月に、堀辰雄の文体の影響を受けた短編「彩絵硝子」を校内誌『輔仁会雑誌』に発表。これを読んだ同校先輩の東文彦から初めて手紙をもらったのを機に文通が始まり、同じく先輩の徳川義恭とも交友を持ち始める[33][63]。東は結核を患い、大森区(現・大田区)田園調布3-20の自宅で療養しながら室生犀星や堀辰雄の指導を受けて創作活動をしていた[63]。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠となっていき、この時の複雑な心情は、のちに『詩を書く少年』に描かれる[52]。
この少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、エドガー・アラン・ポー、リラダン、モオラン、ボードレール、メリメ、ジョイス、プルースト、カロッサ、ニーチェ、泉鏡花、芥川龍之介、志賀直哉、中原中也、田中冬二、立原道造、宮沢賢治、稲垣足穂、室生犀星、佐藤春夫、堀辰雄、伊東静雄、保田與重郎、梶井基次郎、川端康成、郡虎彦、森鷗外の戯曲、浄瑠璃、『万葉集』『古事記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』なども愛読するようになった[33][55][63][64][65][66]。
「三島由紀夫」の出発――花ざかりの森
1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京[67]。相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いた[54]。公威は黙って下を向き、目に涙をためていた[54][注釈 2]。
同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送して批評を請うた[70]。清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した[71]。「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した[71]。
その際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった[71]。清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している[71]。筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた[71]。
帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した[72][73]。結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった[71][72][73][注釈 3]。「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた[76][注釈 4]。
リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は[77]、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された[53]。第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した[78]。この賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた[4]。この9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた[79]。
日中戦争の拡大や日独伊三国同盟の締結によりイギリスやアメリカ合衆国と対立を深めていた日本は、この年になり行われた南部仏印進駐以降、次第に全面戦争突入が濃厚となるが、公威は〈もう時期は遅いでせう〉とも考えていた[77]。12月8日に行われたマレー作戦と真珠湾攻撃によって日本はついにイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦し、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。開戦当日、教室にやって来た馬術部の先輩から、「戦争がはじまった。しっかりやろう」と感激した口ぶりで話かけられ、公威も〈なんともいへない興奮〉にかられた[80]。
1942年(昭和17年)1月31日、公威は前年11月から書き始めていた評論「王朝心理文学小史」を学習院図書館懸賞論文として提出(この論文は、翌年1月に入選)[注釈 5]。3月24日、席次2番で中等科を卒業し、4月に学習院高等科文科乙類(独語)に進んだ。公威は、体操と物理の「中上」を除けば、きわめて優秀な学生であった[82]。運動は苦手であったが、高等科での教練の成績は常に「上」(甲)で[83]、教官から根性があると精神力を褒められたことを、公威は誇りとしていた[54]。
ドイツ語はロベルト・シンチンゲルに師事し[44]、ほかの教師も桜井和市、新関良三、野村行一(1957年の東宮大夫在職中に死去)らがいた[54][84]。後年ドナルド・キーンがドイツで講演をした際、一聴衆として会場にいたシンチンゲルが立ち上がり、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったエピソードがあるほど、ドイツ語は得意であった[44][54][85]。
各地で日本軍が勝利を重ねていた同年4月、大東亜戦争開戦の静かな感動を厳かに綴った詩「大詔」を『文藝文化』に発表[86]。同年5月23日、文芸部委員長に選出された公威は、7月1日に東文彦や徳川義恭(東京帝国大学文学部に進学)と共に同人誌『赤繪』を創刊し、「苧菟と瑪耶」を掲載した[50]。誌名の由来は志賀直哉の『万暦赤繪』にあやかって付けられた[87]。公威は彼らとの友情を深め、病床の東とはさらに文通を重ねた[88][注釈 6]。同年8月26日、祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)[26]。公威は詩「挽歌一篇」を作った[89]。
同年11月、学習院の講演依頼のため、清水文雄に連れられて保田與重郎と面会し、以後何度か訪問する[55][90][91]。公威は保田與重郎、蓮田善明、伊東静雄ら日本浪曼派の影響下で、詩や小説、随筆を同人誌『文藝文化』に発表し、特に蓮田の説く「皇国思想」「やまとごころ」「みやび」の心に感銘した[92]。公威が「みのもの月」、随筆「伊勢物語のこと」を掲載した昭和17年11月号には、蓮田が「神風連のこころ」と題した一文を掲載。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が著した『神風連のこころ』(國民評論社、1942年)の書評であるが、この一文や森本の著書を読んでいた公威は、後年の1966年(昭和41年)8月に、神風連の地・熊本を訪れ、森本忠(熊本商科大学教授)と面会することになる[93][94]。
ちなみに、三島の死後に村松剛が倭文重から聞いた話として、三島が中等科卒業前に一高の入試を受験し不合格となっていたという説もあるが[95]、三島が中等科5年時の9月25日付の東文彦宛の書簡には、高等科は文科乙類(独語)にすると伝える記述があり、三島本人はそのまま文芸部の基盤が形成されていた学習院の高等科へ進む意思であったことが示されている[95][96]。なお、三島が一高を受験したかどうかは、母・倭文重の証言だけで事実関係が不明であるため、全集の年譜にも補足として、「学習院在学中には他校の受験はできなかったという説もある」と付記されている[97]。
戦時下の青春・大学進学と終戦
1943年(昭和18年)2月24日、公威は学習院輔仁会の総務部総務幹事となった[98]。同年6月6日の輔仁会春季文化大会では、自作・演出の劇『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演された(当初は翻訳劇を企画したが、時局に合わないということで山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた[69][99])。3月から『文藝文化』に「世々に残さん」を発表[53]。同年5月、公威の「花ざかりの森」などの作品集を出版化することを伊東静雄と相談していた蓮田善明は、京都に住む富士正晴を紹介され、新人「三島」に興味を持っていた富士も出版に乗り気になった[100]。
同年6月、月1回東京へ出張していた富士正晴は公威と会い、西巣鴨に住む医師で詩人の林富士馬宅へも連れていった[101]。それ以降数年間、公威は林と文学的文通など親しく交際するようになった[101][102]。8月、富士が公威の本の初出版について、「ひとがしないのならわたしが骨折つてでもしたい」と述べ[103]、蓮田も、「国文学の中から語りいでられた霊のやうなひとである」と公威を讃えた[104]。蓮田は公威に葉書を送り、「詩友富士正晴氏が、あなたの小説の本を然るべき書店より出版することに熱心に考へられ目当てある由、もしよろしければ同氏の好意をうけられたく」と、作品原稿を富士に送付するよう勧めた[105]。
英米との戦争が激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉[106]、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った[107]。なお、公威は同盟国のイタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに好感を抱いていながらも、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた[107][108]。
同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた[109][110]。東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった[33]。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという[111]。なお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね[112]、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた[113]。
当時の世情は国民に〈儀礼の強要〉をし、戦没兵士の追悼式など事あるごとにオーケストラが騒がしく「海往かば」を演奏し、ラウド・スピーカーで〈御託宣をならべる〉気風であったが[114]、公威はそういった大仰さを、〈まるで浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒瀆も甚だしく、憤懣にたへません〉と批判し、ただ心静かに〈戦歿勇士に祈念〉とだけ言えばいいのだと友人の徳川義恭へ伝えている[114]。
国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。 — 平岡公威「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)[114]
この年の10月には在学徴集延期臨時特例が公布され、文科系の学生は徴兵猶予が停止された[50]。公威は早生まれのため該当しなかったが、来年20歳になる同級生のほとんど(大正13年4月以降の同年生まれ)は12月までに入隊が義務づけられた(学徒出陣)[50]。それに先んじて、10月21日に雨の中、明治神宮外苑競技場にて盛大な「出陣学徒壮行会」が行なわれ、公威もそのニュースを重大な関心を持って聴いていた[50]。
同年10月25日、蓮田善明は召集令状を受けて熊本へ行く前、「日本のあとのことをおまえに託した」と公威に言い遺し[115][116]、翌日、陸軍中尉の軍装と純白の手袋をして宮城前広場で皇居を拝んだ[117][118]。公威は日本の行く末と美的天皇主義(尊皇)を蓮田から託された形となった[117][119][120]。富士正晴も戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という一首を公威に送った[102]。同年12月、徴兵適齢臨時特例が公布され、徴兵適齢が19歳に引き下げられることになった[50]。公威は来年に迫った自身の入隊を覚悟した[50][121]。
1944年(昭和19年)4月27日、公威も本籍地の兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂で徴兵検査を受けた[122]。公会堂の現在も残る松の下で、十貫(約40キログラム)の砂を入れた米俵を持ち上げるなどの検査もあった[24][69]。
本籍地にほど近い加古川で徴兵検査を受けたのは、〈田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵〉であったが[18]、結果は第二乙種で合格となり、その隊に入隊することとなった(召集令状は翌年2月)[50]。徴兵合格を知った母・倭文重は悲泣し、当てが外れた父・梓も気落ちした[18]。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、公威は一兵卒として応召されるつもりであった[18][44]。それは、どうせ死ぬのならば1日でも長く1行でも多く書いていられる方を平岡が選んだのだと三谷は思った[44]。
徴兵検査合格の帰途の5月17日、大阪の住吉中学校で教師をしている伊東静雄を訪ね、支那出征前に一時帰郷していた富士正晴宅を一緒に訪ねた[50][123]。5月22日は、遺著となるであろう処女出版本『花ざかりの森』の序文を依頼するために伊東静雄の家に行くが、彼から悪感情を持たれて「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」などと日記に書かれた[123][124]。しかし、伊東はのちに『花ざかりの森』献呈の返礼で、会う機会が少なすぎた感じがすることなどを公威に伝え[125]、戦後には『岬にての物語』を読んで公威への評価を見直すことになる[123][124][126]。
1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった[40][127]。卒業式には昭和天皇が臨席し[40][128][注釈 7]、宮内省より天皇からの恩賜の銀時計を拝受され、駐日ドイツ大使からはドイツ文学の原書3冊(ナチスのハーケンクロイツ入り)をもらった[54][127][128][130]。御礼言上に、学習院長・山梨勝之進海軍大将と共に宮内へ参内し、謝恩会で華族会館から図書数冊も贈られた[127]。
大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した[54][131]。そこで学んだ団藤重光教授による刑事訴訟法講義の〈徹底した論理の進行〉に魅惑され、修得した法学の論理性が小説や戯曲の創作においてきわめて有用となり、のちに三島は父・梓に感謝する[132][133]。父は公威が文学に熱中することに反対して度々執筆活動を妨害していたが、息子を法学部に進学させたことにより、三島の文学に日本文学史上稀有な論理性をもたらしたことは梓の貢献であった[54]。
出版統制の厳しく紙不足の中、〈この世の形見〉として『花ざかりの森』刊行に公威は奔走した[73][134]。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭)が七丈書院で出版された[73]。公威は17日に届いた見本本1冊をまず、入隊直前の三谷信に上野駅で献呈した[40]。息子の文学活動に反対していた父・梓であったが、いずれ召集されてしまう公威のため、11月11日に上野(下谷区)池之端(現・台東区池之端)の中華料理店・雨月荘で出版記念会を開いてやり、母・倭文重、清水文雄ら『文藝文化』同人、徳川義恭、林富士馬などが出席した[50][54][135]。
書店に並んだ『花ざかりの森』は、学生当時の吉本隆明や芥川比呂志らも買って読み、各高の文芸部や文学青年の間に学習院に「三島」という早熟な天才少年がいるという噂が流れた[69][136][137]。しかし、公威が同人となっていた日本浪曼派の『文藝文化』も物資不足や企業整備の流れの中、雑誌統合要請のために8月をもって通巻70号で終刊となっていた[50]。
1945年(昭和20年)、いよいよ戦況は逼迫して大学の授業は中断され、公威は1月10日から「東京帝国大学勤労報国隊」として、群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員され、総務部調査課配属となった[138]。事務作業に従事しつつ、公威は小説「中世」を書き続ける[55][139]。以前、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際に期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを「中世」に書き綴ることで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦し[55]、中河与一の厚意によって第1回と第2回の途中までを雑誌『文藝世紀』に発表した[53][55][140]。
誕生日の1月14日、思いがけず帰京でき、母・倭文重が焼いてくれたホットケーキを美味しく食べた[141](この思い出は後年、遺作『天人五衰』に描かれることになる)。2月4日に入営通知の電報が自宅へ届いた。公威は〈天皇陛下萬歳〉と終りに記した遺書を書き、遺髪と遺爪を用意した[54][142][143]。中島飛行機小泉製作所を離れることになったが、軍用機工場は前年から本格化していたアメリカ軍による日本本土空襲の優先目標であった。公威が入隊検査を受けた10日、小泉製作所はアメリカ軍の爆撃機による大空襲を受け、結果的に応召は三島の罹災をまぬがれさせる結果となった[144]。
同年2月6日、髪を振り乱して泣く母・倭文重に見送られ、公威は父・梓と一緒に兵庫県富合村高岡廠舎へ出立した[50][54]。風邪で寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈や高熱の症状を出していた公威は、滞在先の志方村の知人の家(好田光伊宅)で手厚い看護を受けた[50][54]。解熱剤を服用し一旦小康状態になったものの、10日の入隊検査の折の丸裸の寒さでまた高熱となった公威は、新米の軍医からラッセルが聞こえると言われ、血沈も高い数値を示したため肺浸潤(結核の三期の症状)と診断され即日帰郷となった(その後の東京の病院の精密検査で誤診だと分かる)[18][39][54][145]。その部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、多数が死傷してほぼ全滅した[39]。
戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時のアンビバレンスな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返す[18]。この身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれてゐる〉という意識が三島にとって生涯コンプレックスとなり[146]、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになる[124][147]。
梓が公威と共に自宅に戻ると一家は喜び有頂天となったが、公威は高熱と旅の疲れで1人ぼんやりとした様子で、「特攻隊に入りたかった」と真面目につぶやいたという[54]。公威はその後4月、三谷信宛てに〈君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、僕が地固めをしておく心算です〉と伝え、神風特攻隊についての熱い思いを記した[148]。兵役は即日帰郷となったものの、一時の猶予を得たにすぎず、再び召集される可能性があった[4][39]。
公威は、栗山理一を通じて野田宇太郎(『文藝』編集長)と知り合い、戦時下でただ一つ残った文芸誌『文藝』に「サーカス」と「エスガイの狩」を持ち込み、「エスガイの狩」が採用された[149]。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、3月に川端康成に献呈された[150][151]。川端は『文藝文化』の公威の作品群や「中世」を読んでいた[55][150]。群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を、三谷の家族と共に慰問中の3月10日の夜、東京は大空襲に見舞われた(東京大空襲)。焦土と化した東京へ急いで戻り、公威は家族の無事を確認した[54]。
1945年(昭和20年)5月5日から、東京よりも危険な神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員された[50]。終末観の中、公威は『和泉式部日記』『上田秋成全集』『古事記』『日本歌謡集成』『室町時代小説集』『葉隠』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した[55][152]。6月12日から数日間、軽井沢に疎開している恋人・三谷邦子(親友・三谷信の妹)に会いに行き、初めての接吻をした[18][39]。帰京後の7月、戦禍が悪化して空襲が激しくなる中、公威は遺作となることを意識した「岬にての物語」を書き始めた[53][55]。
1945年(昭和20年)8月6日、9日と相次ぎ、広島と長崎に原子爆弾が投下された。公威は〈世界の終りだ〉と虚無的な気分になり、わざと上空から目立つ白いシャツを着て歩いた[18][153]。8日にはソビエト連邦が日本に宣戦布告し、翌9日に満州や樺太に侵攻。10日、公威は高熱と頭痛のため高座工廠から、一家が疎開していた豪徳寺の親戚の家に帰宅し、梅肉エキスを舐めながら床に伏せった[154]。
8月15日に終戦を迎えてラジオの玉音放送を聞いた際、「これからは芸術家の世の中だから、やっぱり小説家になったらいい」と父・梓が言った[154]。
終戦後の苦悶と焦燥
終戦直後、公威は学習院恩師の清水文雄に、〈玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられた使命なることを確信しました〉と送り[155]、学習院の後輩にも、〈絶望せず、至純至高志美なるもののために生き生きて下さい。(中略)我々はみことを受け、我々の文学とそれを支へる詩心は個人のものではありません。今こそ清く高く、爽やかに生きて下さい。及ばず乍ら私も生き抜き、戦ひます〉と綴った[156]
三谷信には、〈自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけにも及ばず乍ら全力をつくして貢献したい〉と戦後への決意を綴り[157]、9月の自身のノートには「戦後語録」として、〈日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう〉と記した[158]。
「エスガイの狩」を採用した『文藝』の野田宇太郎へも、〈文学とは北極星の如く、秩序と道義をその本質とし前提とする神のみ業であります故に、この神に、わき目もふらずに仕へることにより、我々の戦ひは必ずや勝利を得ることを確信いたします〉と熱い思いを伝えた公威だったが[159]、戦時中に遺作となる覚悟で書いた「岬にての物語」を、野田から「芥川賞向き、文壇向きの作風」と見当違いの誤解をされ、「器用」な作だと退けられてしまった[149][160]。そのため、公威は一人前の作家としての将来設計に苦慮することになった[69][160]。
公威が私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えるが、同年8月19日には駐屯地のマレー半島のジョホールバルで天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自らもこめかみに拳銃を当て自決した(没年齢41歳)[117][118]。公威は、この訃報を翌年の夏に知ることになる[118]。
1945年(昭和20年)10月23日、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだ生水を飲んだのが原因)によって17歳で急逝し[54][161]、公威は号泣した[161][162]。また、6月の軽井沢訪問後に邦子との結婚を三谷家から打診されて逡巡していた公威は、邦子が銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約してしまったことを、同年11月末か12月頃に知った[160][161][注釈 8]。
翌年1946年(昭和21年)5月5日に邦子と永井は結婚し、公威はこの日自宅で泥酔する[112]。恋人を横取りされる形になった公威にとって、〈妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力〉になっていった[161]。邦子の結婚後の同年9月16日、公威は邦子と道で遭遇し、この日のことを日記やノートに記した[163][164]。
この邦子とのことは、のちの自伝的小説『仮面の告白』の中で詳しく描かれることになる[164]。
1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発した。また、それに先立つ1945年9月には、連合国軍占領下の日本における最高司令機関GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーと昭和天皇が会見し、その写真が新聞に掲載された。公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と
なお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた[165][166]。公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが[167]、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった[165][166][注釈 9]。
川端康成との出会い
GHQ占領下の日本では、戦犯の烙印を押された軍人が処刑されただけでなく(極東国際軍事裁判)、要職にいた各界の人間が公職追放になった。マスコミや出版業界も「プレスコード」と呼ばれる検閲が行われ、日本を賛美することは許されなかった。戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一や林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された[168][169][170]。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える[55]。
戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった[55]。三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが[150]、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた[55]。
それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた[55][171]。慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した[149][172][注釈 10]。
三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り[173]、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた[69][174][175]。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった[69]。
同年2月、三島は七丈書院を合併した筑摩書房の雑誌『展望』編集長の臼井吉見を訪ね、8作の原稿(花ざかりの森、中世、サーカス、岬にての物語、彩絵硝子、煙草、など)を持ち込んだ[55][176][177]。臼井は、あまり好みの作風でなく肌に合わないが「とにかく一種の天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問の中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった[176][177]。落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった[55]。
一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた[178]。「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた[179]。
しかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた[180]。川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた[181][182][183]。
臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる[172][177]。職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし[178]、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという[170]。
しかし当時、借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況が困窮していた[184]。父・梓が戦前の1942年(昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木炭株式会社(10月から日本薪炭株式会社)は終戦で機能停止となっていた[185]。三島は将来作家として身を立てていく思いの傍らで、貧しさが文学に影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学の勉強にも勤しんでいた[55][184]。梓も終戦の日に一時、息子が作家になることに理解を示していたが、やはり安定した大蔵省の役人になることを望んでいた[54]。
ある日、木村徳三は三島と帝大図書館前で待ち合わせ、芝生で1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から跡をつけて教室を覗いた[178]。その様子を、木村は「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」と述懐している[178][注釈 11]。
同年夏、蓮田善明が終戦時に自決していたことを初めて知らされた三島は、11月17日に清水文雄、中河与一、栗山理一、池田勉、桜井忠温、阿部六郎、今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明を偲ぶ会」を開き[186][187]、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田に献じた[188]。
戦後に彼らと距離を置いた伊東静雄は欠席し[189][190]、林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し、佐藤春夫は蓮田を庇った[118][191]。三島は偲ぶ会の翌日、清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集りを幾度かかさねながら、文藝文化再興の機を待ちたいと存じますが如何?〉と送った[192]。
敗戦前後に渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端のアドバイスによって講談社の『群像』へ持ち込み、11月号に無事発表された[193]。この売り込みの時、三島は和服姿で袴を穿いていたという[194]。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚公薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された[53][181]。
当時の三島は両親と同居はしていたものの、生活費の援助は受けずに自身の原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣いを与えていたことが、2005年(平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった[69][195]。この金銭の支出記録は、作家として自立できるかを模索するためのものだったと見られている[69]。
川端と出会ったことで三島のプロ作家としての第一歩が築かれたが、まだ三島がこの世に生まれる前から2人には運命的な不思議な縁があった[172]。三島の父・梓が東京帝大法学部の学生の時、正門前で同級生の三輪寿壮が、見知らぬ「貧弱な一高生」と歩いているところに出くわしたが、それが川端だった[180]。その数日後、梓は三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学に疎かった梓は、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという[180][注釈 12]。
学生作家時代と太宰治との対面
「煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていたところで作品が雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友も得られた三島は、その中の矢代静一(早稲田高等学院在学中)らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治と彼の理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加することにした[55][196]。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた[55]。
1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境〉で[55]、酒宴が開かれる練馬区豊玉中2-19の清水家の別宅にバスで赴いた[197][198][199]。
三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔(一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった[198][199][200][注釈 13]。
三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた[196]。そして三島は森鷗外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の
下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった[196][201]。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した[55][199]。
これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後[199]、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った[55]。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった[55][198][注釈 14]。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている[202]。
太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。 — 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付)[202]
1947年(昭和22年)4月、記紀の衣通姫伝説を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホールに通っていたが[18][195]、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた[161][203]。
同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社の新夕刊で林房雄を初めて見かけた[204][205]。同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり[69][206][注釈 15]、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった[207][208][209][210]。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた[210][211]。
8月、『人間』に発表した「夜の仕度」は、軽井沢を舞台にして戦時中の邦子との体験を元に堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった[212][213]。林は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた[214]。
これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った[205][215]。林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった[205]。当時の三島は、堀の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった[55]。
「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた[216][217]。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は[218]、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った[113]。
大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し[123][126]、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている[126]。
東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。(中略)
「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略)
東京では印象批評が滅び去りました。たとへば中里恒子や北畠八穂のやうな美しい女流作家が不遇です。川端康成氏が評壇から完全に黙殺され、日夏耿之介氏はますます「枯坐」して化石してしまひさうです。横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒瀆がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。 — 三島由紀夫「伊東静雄宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)[126]
文壇への挑戦――仮面の告白
1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は(成績は合格者167人中138位)[219]、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった[211]。
当時の大蔵省は霞が関の庁舎がGHQに接収されていたため、焼け残った四谷第三小学校を仮庁舎としていた[220]。銀行局長は愛知揆一、主計局長は福田赳夫で[221]、基本給(月給)は1,350円であった[220]。大蔵省同期入省者(22年後期組)は、三島のほかに長岡實、田中啓二郎、秋吉良雄、亘理彰、後藤達太、岩瀬義郎など全26名だった[222]。三島は、「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したという[220]。
東大法学部を卒業した直後の12月、三島は吉田満に直接会ってGHQに検閲削除されていた門外不出の「戦艦大和ノ最期」の初稿(手書きの草稿)を読ませてもらい、その内容に驚愕・感動したことから[223][224]、大蔵省時代も吉田と親しくしていた[224]。この頃吉田が三島に、今後どんな作品を書くつもりか訊ねると、「美というもの。日本の美。日本的な美」を書きたいと語っていたという[224][225]。
同じ12月には、「自殺企図者」(長編『盗賊』第2章)、短編「春子」や「ラウドスピーカー」が各誌に掲載された[53]。大蔵省に入省してすぐの頃、文章力を期待された三島は、国民貯蓄振興大会での大蔵大臣(栗栖赳夫)の演説原稿を書く仕事を任された[226]。三島はその冒頭文に、〈…淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…〉と書き、課長に怒られて赤鉛筆でバッサリと削られた[222][226]。将来に有名作家となる三島の原稿を削除したという一件は、後々まで大蔵省内で語り継がれるエピソードとなる[220][222]。
翌1948年(昭和23年)も、三島は『進路』1月号の「サーカス」を皮切りに多くの短編を発表し、〈役所と仕事と両方で綱渡りみたいな〉生活をしていたが[227]、この頃の〈やけのやんぱちのニヒリスティックな耽美主義〉の根拠を自ら分析する必要を感じていた[55]。
役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・梓は、鎌倉文庫の木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね」と、息子が朝日新聞に小説を連載するような一人前の作家になれるのかを聞きに来た[178]。木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという[178]。
同年6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の呼びかけに応じ、三島も同人となった[147][211]。その際、三島は天皇制を認めるなら加入してもよいという条件で参加した[147]。この第2次参加の顔ぶれには、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らがいた[211]。6月19日には、玉川上水で13日に入水自殺した太宰治の遺体が発見された[228]。太宰の遺作『人間失格』は大きな反響を呼んだ[185]。
同年7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落した[54]。電車が来ないうちに這い上がれたが、危なかった[54]。この事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した[54]。
同年8月下旬、河出書房の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長編小説の執筆依頼のために大蔵省に勤務中の三島を訪ねた[229]。三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した[229]。そして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受けて退職した[55][注釈 16]。
同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった[55][232][注釈 17]。その座談会の時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったと述懐している[232]。
もし通常の規準をマッハ数一とすれば、三島由紀夫の廻転速度は一・八ぐらいの指数をもっていると測定せねばならぬほどであった。私は彼と向いあわせているので、ただに会話の音調を聞いているばかりでなく、会話に附随するさまざまな動作のかたちを正面から眺める位置にあったが、間髪をいれず左右を振りむいてする素早い応答の壺にはまった適切さを眺めていると、いりみだれて閃く会話の火花のなかで酷しく訓練されたもの、例えば、宴会にあるひとりのヴィヴィッドな芸者の快感といった構図がそこから聯想されるのであった。(中略)三島由紀夫に向って最も多く応答しているのは、偶然左隣りに腰かけている野間宏ということになるのであったが、困ったことに、野間宏の思考の廻転速度はマッハ数〇・四ぐらいなのであった。 — 埴谷雄高「三島由紀夫」[232]
河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み[234]、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した[234]。同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された[53][235]
1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた[236][237]。4月24日には、「仮面の告白」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した[55][注釈 18]。紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している[239]。
三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり[240]、〈ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され[53][241]、発売当初は反響が薄かったものの、10月に神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった[242]。年末にも読売新聞の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった[185][243]。
この成功以降も、恋愛心理小説「純白の夜」を翌1950年(昭和25年)1月から『婦人公論』で連載し[53]、同年6月30日には、〈希臘神話の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『愛の渇き』を新潮社から書き下ろしで出版した[244]。同年7月からは、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした話題作「青の時代」を『新潮』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み[245]、長編小説の力倆を身につけていった[246]。
8月1日、立ち退きのため、両親・弟と共に目黒区緑ケ丘2323番地(現・緑が丘一丁目17番24号)へ転居。同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった[211][247]。10月には、能楽を基調にした「邯鄲」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった[248]。この作品は、のちに『近代能楽集』としてまとめられる1作目となり、矢代静一を通じて前年に知り合った芥川比呂志による演出で12月に上演された[53][249]。
ギリシャへの憧れ――潮騒
1951年(昭和26年)1月から三島は、〈廿代の総決算〉として〈自分の中の矛盾や対立物〉の〈対話〉を描く意気込みで、ギリシャ彫刻のような美青年と老作家の登場する「禁色」(第一部)を『群像』に連載開始した[250]。同性愛のアンダーグラウンドを題材としたこの作品は、文壇で賛否両論の大きな話題を呼び[248]、11月10日に『禁色 第一部』として新潮社から刊行された[235]。その間も三島は、数々の短編や中間小説「夏子の冒険」などを各誌に発表し、初の評論集『狩と獲物』も刊行するなど旺盛な活動を見せた[53][235]。
しかし以前から、〈一生に一度でよいから、パルテノンを見たうございます〉と川端康成に告げ[251]、自分の中の余分な〈感受性〉を嫌悪していた三島は、〈肉体的存在感を持つた知性〉を欲し、広い世界を求めていた[55]。ちょうどこの頃、父・梓の一高時代の旧友である朝日新聞社出版局長の嘉治隆一から外国行きを提案され、三島は願ってもみない話に快諾した[55]。
厳しい審査(当時はGHQ占領下で一般人の海外旅行は禁止されていたため[252])をクリアした三島は、同年12月25日から、朝日新聞特別通信員として約半年間の初の世界一周旅行に向け横浜港からプレジデント・ウィルソン号で出帆した[253]。最初の目的地・ハワイに向かう船上で〈太陽と握手した〉三島は、日光浴をしながら、〈自分の改造といふこと〉を考え始めた[55]。
ハワイから北米(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フアン)、南米(リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ)、欧州(ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマ)を巡る旅の中でも、特に三島を魅了したのは眷恋の地・ギリシャ・アテネと、ローマのバチカン美術館で観たアンティノウス像であった[55][253](詳細はアポロの杯#見聞録のあらましを参照)。
古代ギリシャの〈肉体と知性の均衡〉への人間意志、明るい古典主義に孤独を癒やされた三島は、〈美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることの、同一の倫理基準〉を発見し、翌1952年(昭和27年)5月10日に羽田に帰着した[55][253]。この世界旅行記は『アポロの杯』としてまとめられ、10月7日に朝日新聞社から刊行された[53][235]。
旅行前から予定していた「秘楽」(『禁色』第二部)の連載を、帰国後の8月から『文學界』で開始していた三島は、旅行後すぐの〈お土産小説〉を書くことを回避し、伊豆の今井浜で実際に起きた溺死事件を題材とした「真夏の死」を『新潮』10月号に発表した[254][注釈 19]。
また、旅行前に書き上げていた「卒塔婆小町」は、三島が渡航中の2月に文学座により初演された[53][64]。この作品は「邯鄲」「綾の鼓」に続く『近代能楽集』の3作目となり、三島の戯曲の中でも特に優れた成功作となった[8]。これにより三島は劇作家としても本物の力量が認められ始めた[248]。
三島は、ギリシャでの感動の続きで、古代ギリシャの恋愛物語『ダフニスとクロエ』を下敷きにした日本の漁村の物語を構想した[256][257]。モデルとなる島探しを、昔農林省(農林水産省)にいた父・梓に依頼した三島は[54]、候補の島の中から〈万葉集の歌枕や古典文学の名どころ〉に近い三重県の神島(かみしま)を選んだ[258]。
1953年(昭和28年)3月に、鳥羽港から神島に赴いた三島は、八代神社、神島灯台、一軒のパチンコ店も飲み屋もない島民の暮しや自然、例祭神事、漁港、歴史や風習、漁船員の仕事を取材し、8月末から9月にも再度訪れ、台風や海女などについて取材した[257][258]。神島の島民たちは当初、見慣れない〈顔面蒼白〉の痩せた三島の姿を見て、病気療養のために島に来ている人と勘違いしていたという[258]。
この島を舞台にした新作を創作中も、練り直された「秘楽」の連載を並行していた三島は、9月30日に『秘楽 禁色第二部』を刊行し、男色の世界を描いた『禁色』が完結された[53][235]。12月には、少年時代から親しんだ歌舞伎の台本に初挑戦し、芥川龍之介の原作小説を改作した歌舞伎『地獄変』を中村歌右衛門の主演で上演した[53]。
伊勢湾に浮かぶ小さな島に住む健康的で素朴な若者と少女の純愛を描いた書き下ろし長編『潮騒』は、翌1954年(昭和29年)6月10日に新潮社から出版されるとベストセラーとなり、すぐに東宝で映画化されて三船敏郎の特別出演(船長役)もキャスティングされた[248]。三島はこの作品で第1回新潮社文学賞を受賞するが、これが三島にとっての初めての文学賞であった[248]。
これを受け、2年後にはアメリカ合衆国でも『潮騒』の英訳(The Sound of the Waves)が出版されベストセラーとなり、三島の存在を海外でも知られるきっかけの作品となった[252]。11月には三島オリジナルの創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が初演され、余裕を感じさせるファルスとして高評価された[248]。この演目は以後長く上演され続ける人気歌舞伎となった[8]。
この時期の他の作品には、『潮騒』の明るい世界とは対照的な終戦直後の青年の頽廃や孤独を描いた『鍵のかかる部屋』『急停車』や、三島の学習院時代の自伝的小説『詩を書く少年』、少年時代の憧れだったラディゲを題材にした『ラディゲの死』、〈菊田次郎といふ作者の分身〉を主人公にしたシリーズ(『火山の休暇』『死の島』)の終焉作『旅の墓碑銘』も発表された[53][259]。
自己改造の試み――金閣寺
1955年(昭和30年)1月、奥只見ダムと須田貝ダムを背景にした「沈める滝」を『中央公論』に連載開始。同月には、少年時代の神風待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「海と夕焼」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった[260][261]。三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている[261]。
同年9月、三島は、週刊読売のグラビアで取り上げられていた玉利齊(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった[262]。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習を始めた[262][注釈 20]。この頃、映画『ゴジラの逆襲』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈ゴジラの卵〉と喩えた[263][264][265]。
同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『仮面の告白』から取り入れていた森鷗外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった[55][266][267]。その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「金閣寺」は、1956年(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された[267]。
同月には、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄(元海兵の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木が自由が丘に開いたボディビルジムに通うことになった[262]。三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月には熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぎ陶酔感を味わった[146][268]。
元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった[269]。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、約2年後に有楽町の産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り[270]、その後は胸囲も1メートルを超え、生涯ボディビルは継続されていくことになる[146]。
1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった[248][271]。また、この年には、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会し、7月末の熱海ホテル滞在中に円盤観測に挑戦した[272]。
9月には、鈴木智雄の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄の監督の下、ボクシングの練習も始めた[262]。翌1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合った石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影した[262][273]。
これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し[274]、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、スポーツ新聞に多くの観戦記を寄稿することになった[275]。
この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった[248]。川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された[248]。
私生活でも、夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になり、乗馬クラブに通って避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた[185]。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった[185][276]。また軽井沢では上流階級の子息・令嬢や夫人によるパーティーが開かれており、三島はそれらに顔を出して、吉田健一、岸田今日子、兼高かおる、鹿島三枝子(鹿島守之助の三女)、以前からの知り合いで『鏡子の家』のモデルとなる湯浅あつ子などと交遊した[185][276]。さらに1954年(昭和29年)夏には、中村歌右衛門の楽屋で豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と知り合い、深い交際に発展した[162]。それは三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが[162][277]、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した[162][278]。
花嫁候補を探していた三島が、歌舞伎座で隣り合わせになる形で会い、銀座六丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の正田美智子とお見合いをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である[278][279][280][281]。なお同年3月15日、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を三島は母と共に参観していたという[282]。
時代の中で――鏡子の家
前年8月の『潮騒』 (The Sound of Waves) の初英訳刊行に続き、戯曲集『近代能楽集』 (Five Modern Noh Plays) も1957年(昭和32年)7月にクノップ社から英訳出版されたことで、三島は同社に招かれて渡米した[283]。その際に現地の演劇プロデューサーから上演申し込みがあり、実現に向けて約半年間ニューヨークに辛抱強く滞在したが、企画が難航して延期となってしまった[284][285]。その間の12月21日、三島は疎遠となっていた吉田満(ニューヨーク駐在中)と久しぶりに再会しワシントン・アーヴィングの旧邸など各所を一緒に散策した。三島は吉田との雑談の中で、アメリカ人に対する辛辣な批判をし、また自身の来年に向けての結婚宣言をしていたという[224][286]。
無為で孤独なホテルでのニューヨークの年越しに耐えられず、正月をマドリード、ローマを経由し過ごして帰国した三島は、これから先の人生を一人きりでは生きられないことを痛感し、結婚の意志を固くした[278][287]。折しも、ニューヨーク滞在中に父・梓が病気入院し、帰国後の2月にも母・倭文重が癌と疑われた甲状腺の病気で手術したことも、それに拍車をかけた[248][283]。
1958年(昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・杉山瑤子(日本画家・杉山寧の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし[288]、6月1日に川端康成夫妻を媒酌人として明治記念館で瑤子との結婚式を挙げ、麻布の国際文化会館で披露宴が行われた[248]。同年8月には雑誌に連載開始された小高根二郎の「蓮田善明とその死」を読み始め[289]、11月末からはボディビルに加えて中央公論社の嶋中鵬二と笹原金次郎の紹介により、第一生命の道場で本格的に剣道も始めた[270][290]。
同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『鏡子の家』の執筆も開始されていた。この作品は4人の青年と1人の〈巫女的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった[291]。時代背景は高度経済成長前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月まで)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった[292][293]。
翌1959年(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『薔薇と海賊』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『不道徳教育講座』、評論『文章読本』の発表、新居建設(設計・施工は清水建設の鉾之原捷夫)など多忙であった[270]。大田区馬込東一丁目1333番地[注釈 21](現・南馬込四丁目32番8号)に建設したビクトリア風コロニアル様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・紀子が誕生した[270][290][302]。ちょうどこの当時、新安保条約の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを記者クラブのバルコニーから眺めた[290][303]。
三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された[278][304]。三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった[305][306]。
同年11月、三島は大映と映画俳優の専属契約を結び、翌1960年(昭和35年)3月に公開された『からっ風野郎』(増村保造監督)でチンピラ的なヤクザ役を演じたが、その撮影中には頭部をエスカレーターに強打して入院する一幕もあった[307]。同年1月には、都知事選挙を題材とした「宴のあと」も『中央公論』で連載開始するが、モデルとした有田八郎から9月に告訴され、プライバシー裁判の被告となってしまった(詳細は「宴のあと」裁判を参照)[307]。
1961年(昭和36年)1月は、二・二六事件に題材をとり、のちに自身で監督・主演で映画化する「憂国」を『小説中央公論』に発表。2月には、その雑誌に同時掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を巡る嶋中事件に巻き込まれ、推薦者と誤解されて右翼から脅迫状を送付されるなど、2か月間警察による護衛下での生活を余儀なくされた[308][309][310][注釈 22]。
同年9月から、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデル(被写体)となり、三島邸で撮影が行われた。写真発表は翌1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体をオブジェとして積極的に世間に披露した[312]。こうした執筆活動以外における三島の一連の話題がマスメディアに取り上げられると共に、文学に関心のない層にも大きく三島の名前が知られるようになった[307]。
そのため、週刊誌などで普段の自身の日常生活や健康法を披露する機会も増えた。遅く起きる三島の朝食は、午後2時にトーストと目玉焼き、グレープフルーツ、ホワイト・コーヒーを摂り、午後7時頃の昼食には週3回はビフテキと付け合わせのジャガイモ、トウモロコシ、サラダをたっぷりとウマの如く食べ、夜中の夕食は軽く茶漬けで済ますのが習慣だった[269][290]。
また、三島はカニの形状が苦手で、「蟹」という漢字を見るのも怖くてダメだったが、むき身の蟹肉や缶詰の蟹は食べることができ、蟹の絵のパッケージは即座に剥がして取っていたという[313]。酒は家ではほとんど飲まないが、煙草はピースを1日3箱くらい吸っていた[269][290]。
1963年(昭和38年)には、三島が所属していた文学座内部での一連の分裂騒動があり、杉村春子と対立する福田恆存が創立した「劇団雲」への座員29人の移動後にも、文学座の立て直しを試みた三島の『喜びの琴』を巡って杉村らが出演拒否するという文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ[307]。
この時期には、安保闘争や東西冷戦による水爆戦争への危機感が強かった社会情勢があり、そうした政治背景を反映して、『鏡子の家』から繋がる〈世界崩壊〉〈世界の終末〉の主題を持つ『美しい星』や『帽子の花』、評論『終末観と文学』などが書かれ、イデオロギーを超えた純粋な心情をテーマにした『剣』や評論『林房雄論』も発表された[314][315]。
1964年(昭和39年)初めには『浜松中納言物語』を読み、『豊饒の海』の構想もなされ始め[316][317]、同年10月の東京オリンピックでは、新聞各紙の特派員記者として各種競技を連日取材した。開会式では、〈小泉八雲が日本人を「東洋のギリシャ人」と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい〉と述べ、天皇陛下の立派な開会宣言に感無量となり、聖火台に点火する最終聖火ランナーの〈白煙に巻かれた胸の日の丸〉への静かな感動と憧れを、〈そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもつと高いのだ〉と三島はレポートした[318][319]。
この時期には他にも、『獣の戯れ』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、『午後の曳航』(フォルメントール国際文学賞候補作)、『雨のなかの噴水』、『絹と明察』(第6回毎日芸術賞文学部門賞)など高評の作品も多く発表し、待望だった『近代能楽集』の「葵上」「班女」も別の主催者によってグリニッジ・ヴィレッジで上演された[290]。
また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日のスウェーデンの有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり[320]、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった[290]。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドも1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、ノーベル財団委員宛ての手紙で大絶賛した[321][322][323]。
なお、1963年度から1965年度のノーベル文学賞の有力候補の中に川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)から2016年(平成28年)にかけて開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目されて受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなり[5][324][325]、選考委員会のコメントで、日本人作家4人の中では三島が将来ノーベル文学賞を取る可能性が一番高いとされていた[326]。しかし谷崎死後の1966年度の候補者では川端が最も注目されていて、三島の名はなかった[326][327]。そして1967年度と1968年度には、再び川端と同様に三島も有力候補に挙がり将来性を期待されたが、「現時点では川端の方がノーベル賞にはふさわしい」とされていた[326]。アカデミー選考委員会は日本文学の専門家としてドナルド・キーンとエドワード・G・サイデンステッカーに意見を求めながら選考を進めていたことが明らかになっている[325][326]。川端が受賞した翌年の1969年度には「今、また新たに日本人へ賞を授与することはない」として、日本から推薦された井上靖の調査もされなかった[326]。
三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、実績と年齢順(年功序列)を意識して日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている[328]。1961年(昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたこともある[329][330][注釈 23]。その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎の推薦文も三島が書いていた[332]。
行動の誘惑――英霊の聲
1965年(昭和40年)初頭、三島は4年前に発表した短編小説『憂国』を自ら脚色・監督・主演する映画化を企画し、4月から撮影して完成させた[333][334]。同年2月26日には、次回作となる〈夢と転生〉を題材とした〈世界解釈〉の本格長編小説の取材のため[316]、奈良の帯解から円照寺を初めて訪ね、その最初の巻となる「春の雪」の連載を同年9月から『新潮』で開始した(1967年1月まで)[335][336]。
9月からは夫人同伴でアメリカ、ヨーロッパ、東南アジアを旅行し、長編の取材のために10月はバンコクを訪れ、カンボジアにも遠征して戯曲『癩王のテラス』の着想を得た。ちょうどこの頃、AP通信がストックホルム発で、1965年度のノーベル文学賞候補に三島の名が挙がっていると報じた。三島は以降の年も引き続き、受賞候補として話題に上ることになる[336][337]。
11月からは、自身の〈文学と行動、精神と肉体の関係〉を分析する「太陽と鉄」を『批評』に連載開始し[338]、戯曲『サド侯爵夫人』も発表され、傑作として高評価を受けた[315]。この戯曲は三島の死後、フランスでも人気戯曲になった。ドナルド・キーンは、三島以前の日本文学の海外翻訳を読むのは日本文学研究者だけに限られていたのに対し、三島の作品は一般人にまで浸透したとして、古典劇に近い『サド侯爵夫人』がフランスの地方劇場でも上演されるのは、「特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている[339]。
高度経済成長期の1966年(昭和41年)の正月、三島は日の丸を飾る家がまばらになった風景を眺めながら、〈一体自分はいかなる日、いかなる時代のために生れたのか〉と自問し、〈私の運命は、私が生きのび、やがて老い、波瀾のない日々のうちにたゆみなく仕事をつづけること〉を命じたが、胸の裡に、〈なほ癒されぬ浪漫的な魂、白く羽搏くものが時折感じられる〉と綴った[340]。
私はいつしか、今の私なら、絶対にむかしの「われら」の一員に、欣然としてなり了せることができる、といふ、甘いロマンチックな夢想のとりこになりはじめる。(中略)ああ、危険だ! 危険だ! 文士が政治的行動の誘惑に足をすくはれるのは、いつもこの瞬間なのだ。青年の盲目的行動よりも、文士にとつて、もつとも危険なのはノスタルジアである。そして同じ危険と云つても、青年の犯す危険には美しさがあるけれど、中年の文士の犯す危険は、大てい薄汚れた茶番劇に決つてゐる。そんなみつともないことにはなりたくないものだ。しかし、一方では、危険を回避することは、それがどんな滑稽な危険であつても、回避すること自体が卑怯だといふ考へ方がある。 — 三島由紀夫「『われら』からの遁走――私の文学」[340]
自身の〈危険〉を自覚していた三島は、それを凌駕する〈本物の楽天主義〉〈どんな希望的観測とも縁もない楽天主義〉がやって来ることを期待し、〈私は私が、森の鍛冶屋のやうに、楽天的でありつづけることを心から望む〉心境でもあった[340]。
同年1月、モノクロ短編映画『憂国』が「愛と死の儀式」 (Yūkoku ou Rites d'amour et de mort) のタイトルでツール国際短編映画祭に出品され、劇映画部門第2位となった[333][334]。日本では4月からアートシアター系で一般公開されて大きな話題を呼び、同系映画としては記録的なヒット作となった[337]。映画を観た安部公房は、「作品に、自己を転位させよう」という不可能性に挑戦する三島の「不敵な野望」に「羨望に近い共感」を覚えたと高評価した[341]。
この当時、毎週日曜日に碑文谷警察署で剣道の稽古をしていた三島は同年5月に剣道四段に合格し、前年11月から習っていた居合も、剣道の師の吉川正実を通じて舩坂良雄を師範とする大森流居合に正式入門した[342]。三島は、良雄の兄で剣道家の舩坂弘ともこの道場で知り合い、交流するようになった[343]。
6月には、二・二六事件と特攻隊の兵士の霊たちの呪詛を描いた『英霊の聲』を発表し、『憂国』『十日の菊』と共に「二・二六事件三部作」として出版された[235]。11歳当時の二・二六事件と20歳当時の敗戦で〈神の死〉を体感した三島は、昭和の戦前戦後の歴史を連続して生きてきた自身の、その〈連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠〉をどうしても探り出さなければならない気持ちだった[47]。
〈挫折〉した青年将校ら〈真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひ〉の糸を手繰る先に、どうしても引っかかるのが昭和天皇の「人間宣言」であり、自身の〈美学〉を掘り下げていくと、その底に〈天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを〉を認識する三島にとって、それを回避するわけにはいかなかった[47][344]。
『英霊の聲』は天皇批判を含んでいたため、文壇の評価は賛否両論となって総じて低く、その〈冷たいあしらひ〉で三島は文壇人の〈右顧左眄ぶり〉がよく解ったが[345]、この作品を書いたことで自身の無力感から救われ、〈一つの小さな自己革命〉を達成した[346]。
瀬戸内晴美は『英霊の聲』を読み、「三島さんが命を賭けた」と思って手紙を出すと、三島から、〈小さな作品ですが、これを書いたので、戦後二十年生きのびた申訳が少しは立つたやうな気がします〉と返事が来た[347][348]。この時期の作品は他に、三島としては珍しい私小説的な『荒野より』、エッセイ『をはりの美学』『お茶漬ナショナリズム』、林房雄との対談『対話・日本人論』などが発表された[53]。三島はこの対談の中で、いつか藤原定家を主人公にした小説を書く意気込みを見せた[349]。
文と武の世界へ――奔馬
『英霊の聲』を発表した1966年(昭和41年)6月、三島は奈良県の率川神社の三枝祭(百合祭)を見学し、長編大作の第二巻となる連載「奔馬」の取材を始めた。8月下旬からは大神神社に赴き、三輪山三光の滝に打たれて座禅した後、色紙に「清明」と揮毫した[350][351][注釈 24]。その後は広島県を訪れ、恩師の清水文雄らに会って江田島の海上自衛隊第一術科学校を見学し、特攻隊員の遺書を読んだ[336][353]。
清水らに見送られて熊本県に到着した三島は、荒木精之らに迎えられて蓮田善明未亡人と森本忠(蓮田の先輩)と面会し、神風連のゆかりの地(新開大神宮、桜山神社など)を取材して10万円の日本刀を購入した[93][94][354]。この旅の前、三島は清水宛てに〈天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます〉と綴った[345]。
10月には自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などと接触して体験入隊許可のための仲介や口利きを求め、12月には舩坂弘の著作の序文を書いた返礼として日本刀・関ノ孫六を贈られた[355][356][注釈 25]。同月19日、小沢開策から民族派雑誌の創刊準備をしている若者らの話を聞いた林房雄の紹介で、万代潔(平泉澄の門人で明治学院大学)が三島宅を訪ねて来た[357][358]。
翌1967年(昭和42年)1月に、その雑誌『論争ジャーナル』が創刊され、副編集長の万代潔が編集長の中辻和彦と共に三島宅を再訪し、雑誌寄稿を正式依頼して以降、三島は同グループとの親交を深めていった[357]。同月には日本学生同盟の持丸博も三島を訪ね、翌月創刊の『日本学生新聞』への寄稿を依頼した[359]。三島は日本を守ろうとする青年たちの純粋な志に感動し、〈覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与へるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であらう〉と綴った[357]。
三島は42歳となるこの年の元日の新聞で、執筆中の〈大長編の完成〉が予定されている47歳の後には、〈もはや花々しい英雄的末路は永久に断念しなければならぬ〉と語り、〈英雄たることをあきらめるか、それともライフワークの完成をあきらめるか〉の二者択一の難しい決断が今年は来る予感がするとして、西郷隆盛や加屋霽堅が行動を起こした年齢を挙げながら、〈私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ〉と〈年頭の迷ひ〉を告白した[360]。
4月12日から約1か月半、単身で自衛隊に体験入隊した三島は、イギリスやノルウェー、スイスなどの民兵組織の例に習い、国土防衛の一端を担う「祖国防衛隊」構想を固めた後、学生らを引き連れて自衛隊への体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は航空自衛隊のF-104戦闘機への搭乗体験や、陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝とも親交し、共に民兵組織(のち「楯の会」の名称となる)会員への指導を行うことになる(詳細は三島由紀夫と自衛隊を参照)。
これらの活動と平行し、1967年(昭和42年)2月から「奔馬」が『新潮』で連載開始された(1968年8月まで)。この小説は、血盟団の時代を背景に昭和維新に賭けた青年の自刃を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品となった[361]。同年2月28日には、川端康成、石川淳、安部公房と連名で、中共の文化大革命に抗議する声明の記者会見を行なった[336]。5月には英訳版の『真夏の死 その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞した(『午後の曳航』も候補作品)。この賞を推薦したドナルド・キーンが三島の本が2位に終わったことを残念がっていると、 たまたまスウェーデンから参加していた有力出版社ボニエールの重役が「三島はずっと重要な賞(ノーベル文学賞)をまもなく受けるだろう」とキーンを慰めた[321]。
6月には日本空手協会道場に入門し、中山正敏(日本空手協会首席師範)のもと、7月から空手の稽古を始めた。三島は中山に、「私は文士として野垂れ死にはしたくない。少なくとも日本人として、行動を通して〈空〉とか〈無〉というものを把握していきたい」と語ったという[351]。
6月19日には早稲田大学国防部の代表らと会合し森田必勝と出会った[359]。森田は三島を師と仰ぎ、彼に体験入隊の礼状として「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と贈った[359]。三島は、「どんな美辞麗句をならべた礼状よりも、あのひとことにはまいった」と森田に返答した[359]。
担当編集者の菅原国隆は三島が作中人物になりきってしまう傾向を危惧していたため[287]、彼を鎌倉の小林秀雄宅に連れて行き、小林を通じてそれとなく自衛隊への体験入隊を止めるよう説得を試みるが、逆に変な小細工をしたことで三島から不興を買った[362]。当時の三島は、「奔馬」に登場するような青年たちに出会ったことを、「恐いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと事実の方が小説に先行することもある」と担当編集者の小島喜久江に語ったという[363]。
9月下旬からはインド政府の招きで、インド、タイ、ラオスへ夫人同伴で旅行した[364]。第三巻「暁の寺」の取材のため、単身でベナレスやカルカッタに赴いた三島は、ノーベル文学賞受賞を期待して加熱するマスコミ攻勢から逃れるためにバンコクに滞留し、そこで自分を捕まえた特派員の徳岡孝夫と知り合い、2人は意気投合した[365][注釈 26]。
10月には『英霊の聲』とは違う形でありながらも、同根の〈忠義〉を描いた戯曲『朱雀家の滅亡』を発表した[366]。同時期には『葉隠入門』『文化防衛論』などの評論も多く発表され、『文化防衛論』においては〈近松も西鶴も芭蕉もいない〉昭和元禄を冷笑し、自分は〈現下日本の呪い手〉であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確に示した[367]。
楯の会と共に――豊饒の海
1968年(昭和43年)2月25日、三島は論争ジャーナル事務所で、中辻和彦、万代潔、持丸博ら10名と「誓 昭和四十三年二月二十五日 我等ハ 大和男児ノ矜リトスル 武士ノ心ヲ以テ 皇国ノ礎トナラン事ヲ誓フ」という皆の血で巻紙に書いた血盟状を作成し、本名〈平岡公威〉で署名した[368][369]。4月上旬には、堤清二の手配によるドゴールの制服デザイナー・五十嵐九十九デザインの制服を着て、隊員らと東京都青梅市の愛宕神社に参拝した[368]。
インド訪問で中共に対処する防衛の必要性を実感した三島は[364]、企業との連携で「祖国防衛隊」の組織拡大を目指し、民族資本から資金を得て法制化してゆく「祖国防衛隊構想」を立ち上げ、経団連会長らと何度か面談していたが、5月か6月頃の面談を最後に資金援助を断られてしまった[370][371][372]。この年、新撰組の近藤勇死後百年祭に参加した[373]。近藤勇は、三島の高祖父・永井尚志の親友であったという[373]。
三島は組織規模を縮小せざるをえなくなり、10月5日に隊の名称を「祖国防衛隊」から『万葉集』防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の
同年10月21日の国際反戦デーにおける新左翼の新宿騒乱の激しさから、彼らの暴動を鎮圧するための自衛隊治安出動の機会を予想した三島は、それに乗じて「楯の会」が斬り込み隊として加勢する自衛隊国軍化・憲法9条改正へのクーデターを計画した[375]。この日の市街戦を交番の屋根の上から見ていた三島の身体が興奮で小刻みに震えているのを、隣にいた山本舜勝は気づいた[372]。
この日帰宅した息子の興奮ぶりを母・倭文重は、「手がつけられない程で、身振り手振りで宜しく事細かに話す彼の話を、私は面白いと思いつつもうす気味悪く聞いた。彼の心の底深く沈潜していたものが一挙に噴出した勢いだった」と述懐している[32]。三島はクーデターに恰好の機会を待ちながらゲリラ演習訓練を続け、各大学で学生とのティーチ・インや防衛大学校での講演活動を行なった[53][375]。三島と楯の会は、世間からの「玩具の兵隊さん」との嘲笑を隠れ蓑に精鋭化していった[376]。
三島はその活動と並行し、同時期に『命売ります』や戯曲『わが友ヒットラー』、評論『反革命宣言』などを発表した。また、同年10月17日には川端康成のノーベル文学賞受賞が報道され、三島もすぐに祝いに駆けつけた[377][378]。川端は受賞のインタビューで「運がよかった」「翻訳者のおかげ」のほか、「三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです」と答えた[379]。なおドナルド・キーンが後年1970年5月にコペンハーゲンの友人宅の夕食会で再会したある人物から直接聞いた話によると、この賞の選考の際ノーベル賞委員会は1957年東京で開催された国際ペンクラブ大会に参加したことのあるその人物に意見を求め、彼が三島の日本での政治的活動から「三島は比較的若いため(左翼の)過激派に違いないと判断した」ため川端の方を強く推して委員会を承服させたという[322]。
1969年(昭和44年)1月には『豊饒の海』第一巻の『春の雪』、2月には第二巻『奔馬』が新潮社から刊行され、澁澤龍彦や川端康成など多くの評論家や作家から高評価された[380]。2月11日の建国記念の日には、国会議事堂前で焼身自殺した江藤小三郎の壮絶な諌死に衝撃を受け、その青年の行動の〈本気〉に、〈夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評〉を三島は感得した[381]。
同年5月13日には、東大教養学部教室での全共闘主催の討論会に出席し、芥正彦や小阪修平らと激論を交わした。その中で三島は、〈つまり天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのことさ。それだけさ〉と発言し[382]、最後に〈諸君の熱情は信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる〉と告げ、壇を後にした[382][注釈 27]。
6月からは、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、薩摩藩士の田中新兵衛役を熱演した。大阪行きの飛行機内で、仲代が三島に「作家なのにどうしてボディビルをしているんですか?」と尋ねると、「僕は死ぬときに切腹するんだ」「切腹してさ、脂身が出ると嫌だろう」と返答されたため、仲代は冗談の一つだと思って聞いていたという[383]。
この頃、三島はすでに何人かの楯の会会員らに居合を習わせ、先鋭の9名(持丸博、森田必勝、倉持清、小川正洋、小賀正義など)に日本刀を渡し、「決死隊」を準備していた[375]。これと並行し、自衛隊の寄宿舎での一日を綴った私小説『蘭陵王』、戯曲『癩王のテラス』などが発表され、日本のオデッセイは源為朝だという意気込みで、歌舞伎『椿説弓張月』も書き上げた[53]。
しかし、7月下旬頃から古参メンバーの中辻や万代と、雑誌『論争ジャーナル』の資金源(中辻らが田中清玄に資金援助を求めていたこと)を巡って齟齬が生じ、8月下旬に彼らを含む数名が楯の会を正式退会した[358][371]。その後、持丸も会の事務を手伝っていた松浦芳子との婚約を機に、退会の意向を示した[384]。三島は「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と説得したが、駄目だった[371]。持丸を失った三島の落胆は大きく、山本に「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという[371][384]。持丸の退会により、10月12日から森田必勝が学生長となった。
この年の10月21日の国際反戦デーの左翼デモは前年とは違い、前もって配備されていた警察の機動隊によって簡単に鎮圧された。三島は自衛隊治安出動が不発に終わった絶望感から、未完で終わるはずだった「暁の寺」を〈いひしれぬ不快〉で書き上げた[385][386]。これで、クーデターによる憲法改正と自衛隊国軍化を実現する〈作品外の現実〉に賭けていた夢はなくなった[385][386][387]。
「暁の寺」の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。 — 三島由紀夫「小説とは何か 十一」[385]
この頃、自分が死ぬかもしれないことを想定していた三島はもしもの場合を考え、川端康成宛てに〈死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護つて下さるのは川端さんだけ〉だと、8月から頼んでいた[337][388]。
同年10月25日、蓮田善明の25回忌に三島は『蓮田善明全集』刊行の協力要請を小高根二郎に願い出て[389]、連載終了した小高根の「蓮田善明とその死」に〈今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません〉と返礼し、〈蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました〉と綴った[390]
11月3日、森田を学生長とした楯の会結成1周年記念パレードが国立劇場屋上で行なわれ、藤原岩市陸将らが祝辞を述べ、女優の村松英子や倍賞美津子から花束を贈呈された[336][391]。三島はこのパレードの祝辞を前々から川端に依頼し[388]、10月にも直に出向いてお願いしたが、彼から「いやです、ええ、いやです」とにべも無く断られ、村松剛に涙声でその悲憤と落胆を訴えたという[392]。
最終章――天人五衰
1970年(昭和45年)1月1日、三島邸で開かれた新年会で、丸山明宏が三島に霊が憑いていると言った。三島が何人かの名前を矢継ぎ早に挙げて訊くと、磯部浅一のところで「それだ!」と丸山は答え、三島は青ざめたという[116][369]。その昔、1959年(昭和34年)7月に三島邸で奥野健男と澁澤龍彦らが来て、コックリさんをしている最中にも、「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と三島が大真面目に呟いていたとされる[393]。
1月17日、三島は学習院時代の先輩・坊城俊民夫妻との会食の席で、50歳になったら藤原定家を書きたいという今後の抱負を語った[394]。2月には、未知の男子高校生の訪問があり、「先生はいつ死ぬんですか」と質問され、このエピソードを元に「独楽」を書いた[395][396]。3月頃、万が一の交通事故死のためという話で、知人の弁護士・斎藤直一に遺言状の正式な作成方法を訊ねていた三島は[397]、同時期には、常にクーデター計画に二の足を踏んでいた山本舜勝と疎遠になり、4月頃から森田必勝ら先鋭メンバーと具体的な最終決起計画を練り始めた(詳細は三島事件#三島由紀夫と自衛隊を参照)。
3月頃、三島は村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟き、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという[116]。刊行された小高根二郎の『蓮田善明とその死』を携えて山本舜勝宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した[398]。
第四巻の取材のため、三島は5月に清水港、駿河湾、6月に三保の松原に赴いてタイトルを決定し、7月から「天人五衰」を連載開始した[53]。6月下旬には、自分の死後の財産分与や、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を母・倭文重に譲渡する内容の遺言状を作成し[336]、7月5日に森田ら4名との決起を11月の楯の会定例会の日に定めた[399]。
なおこの時期、5月にドナルド・キーンがコペンハーゲンで1968年ノーベル文学賞の選考秘話(前段の節参照)を知り、こともあろうか三島が「左翼の過激派」に間違えられたせいで賞を逸したなんてあまりにも馬鹿げていると驚いたため、その後「そのことを三島に話さずにはいられなかった」が、キーンからその話を聞いている時の三島は「笑わなかった」という[321]。
7月7日の新聞では、「果たし得てゐない約束」と題して自身の戦後25年間を振り返り、〈その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ〉と告白し、〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする〉と戦後社会への決別を宣言した[400]。
同じ7月、三島は保利茂官房長官と中曽根康弘防衛庁長官に『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書を政府への「建白書」として託したが、中曽根に阻止されて閣僚会議で佐藤栄作首相に提出されず葬られた[401]。川端宛てには、〈時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました〉と綴った[402]。
同年8月、家族と共に伊豆の下田市に旅行し、帰京後は執筆取材のために新富町の帝国興信所を訪れた。8月下旬頃にはすでに「天人五衰」の最終回部分(26-30章)をほぼ書き上げ、原稿コピーは新潮社出版部長・新田敞に預けた[336]。9月には評論『革命哲学としての陽明学』を発表し、同時期に対談集『尚武のこころ』と『源泉の感情』も出版した[235]。
9月3日にヘンリー・スコット・ストークス宅の夕食会に招かれた三島は食事後、ヘンリーに暗い面持ちで「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」という不思議な喩え話をした[403]。
三島は再び暗い話を始めた。日本にはいろんな呪いがあり、歴史上に大きい役割を果たしてきたと言う。近衛家は、九代にわたって嗣子が夭折した云云。今夜は様子が違う。延々とのろいの話。日本全体が呪いにかかっていると言い出す。日本人は金に目がくらんだ。精神的伝統は滅び、物質主義がはびこり、醜い日本になった…と言いかけて、奇妙な比喩を持ち出した。「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」 これを言う前に、一瞬だが、躊躇したような気がした。さらにこう説明した。「日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」 ブランデーを飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。どう解釈すればいいのか。 — ヘンリー・スコット・ストークス「三島由紀夫 死と真実」[403]
この時期には、ドナルド・リチーや『潮騒』の翻訳者・メレディス・ウェザビーとも頻繁に会い、リチーが楯の会のことをボーイスカウトだと揶揄すると、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言い、官僚主義に屈した新政府と戦い、敗けると判っていながらも若き兵士たちと行動を共にした西郷隆盛を「最後の真の侍だ」と敬愛していたという[404]。
10月には、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白し、それに対し村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と指摘すると、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたとされるが[116]、自分の死後も子供たちに毎年クリスマスプレゼントが届くよう百貨店に手配し[405]、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いして毎月届けるように頼んでいた[309]。伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという[406]。
10月に再演された『薔薇と海賊』の第2幕目の終わりで、三島は舞台稽古と初日とも泣いていた[407][408][409]。その場面の主人公・帝一の台詞は、〈船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ〉、〈僕は一つだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ〉だった[336]。
11月17日、三島は清水文雄宛てに、〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした〉と記している[410][注釈 28]。
11月21日頃、いくら遅くても連絡してほしいという三島からの伝言を受けていた藤井浩明は深夜、三島に電話した。イタリアで上映されて好評の『憂国』などの話をし、最後に藤井がまた連休明けに連絡する旨を伝えて切ろうとすると、いつもは快活に電話を切る三島が「さようなら」とぽつりと言ったことが、何となく気にかかったという[412]。
11月22日の深夜午前0時前に横尾忠則が三島に電話し、横尾が装幀を担当した『新輯 薔薇刑』のイラストについて話題が及ぶと、その絵を三島は「俺の涅槃像だろう」と言って譲らなかったうえ、療養中の横尾を気遣って「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」と言ったという[413][414]。
11月24日、決起への全準備を整えた三島と森田、小賀正義、古賀浩靖、小川正洋は、午後6時頃から新橋の料亭「末げん」で鳥鍋料理を注文し、最後の会食をした[399]。当時「末げん」の若女将になったばかりの丸武子によれば、丸が挨拶をするためにふすまを開けた時、三島は目をつぶって考え事をしていたという。会食を終えた帰り際では、玄関で「またお越しくださいませ」と丸が声をかけると、三島は「また来いと言われてもなぁ」と返した後、「こんな綺麗な女将さんがいるなら、あの世からでも来るか」と続けたという[415]。午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親に就寝の挨拶に来て、何気ない日常の会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿が疲れた様子だったという[355]。
自衛隊突入決行と自決
1970年(昭和45年)11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会会員4名と共に訪れ、面談中に突如、益田兼利総監を人質にして籠城すると、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決した。45歳没。現場はあまりにも凄惨であったため、当局の発表も、報道にも自然に抑制がかかり、現場の様子がリアルに表に出るのは、14年後写真雑誌『フライデー』が、警視庁公安部の右翼担当部員が保管していた現場写真(三島の生首の顔)をスクープというかたちで掲載した時であった。警視庁公安部員は、切腹から斬首に至るまでの一部始終を、止めに入ったり逮捕したりすることなく、廊下側の天窓ごしに全部ウォッチしながら、証拠写真を相当数撮り続けていた(立花隆によると、公安部員は右翼担当・左翼担当関わらず、どんな重大な事件に遭遇しても、それに直接介入はしないという)[416]。
決起当日の朝10時30分、担当編集者の小島喜久江は平岡家のお手伝いさんから間接的に第四巻「天人五衰」の原稿を渡された[363][注釈 29]。小島が編集部に戻って原稿を読むと、予定と違って最終回となっており、巻末日付が11月25日で署名がなされていた[363]。
この11月25日という決行日については、大正天皇の重患に伴い昭和天皇が摂政に就いた日であることと、天皇が「人間宣言」をしたのが45歳だったことから、同じ年齢で人間となった天皇の身代りになって死ぬことで、「神」を復活させようという意味があったと考察する研究や[351][417]、三島が尊敬していた吉田松陰の刑死の日を新暦に置き換えた日に相当するという見解もある[355][418]。
また、11月25日は三島が戦後を生きるために〈飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る〉という〈生の回復術〉〈裏返しの自殺〉[240] として発表した『仮面の告白』の起筆日であることから、三島が戦後の創作活動のすべてを解体して〈死の領域〉に戻る意味があったとする考察もある[419]。
この日、細川護立の葬儀で東京に居た川端康成は、三島自決の一報を受けて現場にすぐ駆けつけたが、遺体とは対面できなかった[420]。呆然と憔悴しきった面持ちの川端は報道陣に囲まれ、「もったいない死に方をしたものです」と答えた[421]。三島の家族らは動転し、瑤子夫人はショックで寝込んでしまった[422]。
三島の辞世の句は、
益荒男 が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜
散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐
の二首。
三島の遺体は翌日の26日に慶応義塾大学病院法医学解剖室にて、斎藤銀次郎教授により解剖執刀され、死因は「頸部割創による離断」と認定された[16][423]。また、三島の血液型はA型で[16][423]、身長は163cmであった[423]。
自宅書斎からは家族や知人宛ての遺書のほか、机上に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞 昭和45年7月7日号)と「世なおし70年代の百人三島由紀夫」(朝日新聞 昭和45年9月22日号)の切り抜きがあり、〈限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫〉という遺書風のメモも見つかった[424]。
介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は刃こぼれをしていた[425]。刀は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせ、それに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれていたうえ、容易に抜けないよう両側が潰されていた[355]。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島由紀夫展」(11月12日から17日まで東武百貨店で開催)で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという[356]。
武田泰淳は、三島と自身とは文体も政治思想も違うが、その「純粋性」を常に確信していたとし[426]、以下のような追悼文を贈った[239][注釈 30]。
息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。
あなたが「不道徳教育講座」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする「美」を押しのけるようにして、「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。 — 武田泰淳「三島由紀夫氏の死ののちに」[239]
翌日の11月26日、三島が伊沢甲子麿に託した遺言により、遺体には楯の会の制服が着せられ、手には胸のあたりで軍刀が握りしめられた[355][428]。どんなに変わり果てた無惨な姿かと父・梓は心配だったが、胴と首も縫合され、警察官たちの厚意によって顔も綺麗に化粧が施されていた[355]。密葬は自宅で行われ、家族は柩に原稿用紙や愛用の万年筆も添え、品川区の桐ヶ谷斎場で三島は荼毘に付された[355]。なお、三島は律儀に国民年金に加入していて死ぬまで保険料をきちんと払っていたという[429]。
翌1971年(昭和46年)1月14日、三島の誕生日であるこの日、府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された[355]。自決日の49日後が誕生日であることから、三島が転生のための中有の期間を定めていたのではないかという説もある[430]。
同年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・舟橋聖一ほか)が行われた。8200人以上の一般会葬者が参列に訪れ、文学者の葬儀としては過去最大のものとなった[431]。戒名は「彰武院文鑑公威居士」[355]。遺言状には「必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要。」とあったが、梓は文人として生きてきた息子の業績を考えて「文」の字も入れた[355]。
告別式には、右翼の仲間と思われることへの懸念から参列を回避した知人らも多く、ドナルド・キーンも友人らに助言されて参列を見合わせたが、キーンはそのことを後悔しているという[432]。
人質となった益田総監は、裁判の公判で「被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった」と語ったうえ、「国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う」と陳述した[433]。
なお、川端政子(川端康成の養女)の夫・川端香男里によると、三島が康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、康成によって焼却されたとされる[434]。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる[434]。しかし、これは康成の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある[351][435][注釈 31]。
三島と森田の忌日には、「三島由紀夫研究会」による追悼慰霊祭「憂国忌」が毎年行われている。三島事件に関わって4年の実刑判決を受けた楯の会3人(小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)が仮出所した翌年の1975年(昭和50年)以降には、元楯の会会員による慰霊祭も神道形式で毎年行われている[436]。
1999年(平成11年)7月3日には、三島の著作や資料を保管する「三島由紀夫文学館」が開館された。2008年(平成20年)3月1日には、富山県富山市向新庄町二丁目4番65号に「隠し文学館 花ざかりの森」が開館された[437]。
文学碑・追悼碑
三重県鳥羽市の神島港に『潮騒』の文学碑があり、「三島文学 潮騒の地」と刻まれている。
1971年(昭和46年)1月30日、松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が建立され、除幕式が行なわれた[409]。碑には「誠」「維新」「憂国」「改憲」の文字が刻まれている[409]。
同年2月11日、三島の本籍地の兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)の八幡神社境内で、地元の生長の家の会員による「三島由紀夫を偲ぶ追悼慰霊祭」が行われた[438]。
同年11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建立された。揮毫は三島瑤子(平岡瑤子)[431][439]。
陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地の第2中隊隊舎前に追悼碑が建立されている[440]。碑には、「深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々 公威書」という三島の句が刻まれている[440]。
1973年(昭和48年)6月10日、静岡県賀茂郡賀茂村(現・西伊豆町)の黄金崎に『獣の戯れ』の一節が刻まれた文学碑が建立され、除幕式が行われた。揮毫は平岡梓[431]。
1983年(昭和58年)1月9日、静岡県富士宮市郊外に「三島由紀夫神社」が建立された[431][441]。
1986年(昭和61年)、兵庫県印南郡志方町(現・加古川市志方町)の玉乃緒地蔵尊のある地に「三島由紀夫先生慰霊の碑」が建立された。揮毫は県知事・坂井時忠[431][21]。
1991年(平成3年)11月、新潟県北魚沼郡湯之谷村(現・魚沼市)の枝折峠に『沈める滝』の文学碑が村の有志により、建立された。高さ1メートル、幅2メートルあまりの安山岩に、駒ケ岳の風景描写の一節が刻まれている[442]。
作風・文学主題・評価
作風
三島由紀夫の主要作品は、レトリックを多様に使用しているところに特徴があり、構成なども緊密に組み立てられ、古代ギリシアの『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』、エウリピデスのギリシャ悲劇や、能楽・歌舞伎、ラシーヌのフランス古典劇などを下敷きにした戯曲や小説、『浜松中納言物語』を典拠とした『豊饒の海』など、古典からその〈源泉〉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある[8][9][443][444]。
上記のような傾向から、その形式的な構成の表現方法は、近代日本文学の主な担い手だった私小説作家たちより、西洋文化圏の作家に近い面がある[14]。また、社会的な事件や問題を題材にするなど、日本の第一次戦後派作家や第二次戦後派作家と共通する点はあったものの、その作風は彼らと違って大東亜戦争時代への嫌悪はなく、社会進歩への期待や渇望、マルクス主義への共感を伴った未来幻想がなかったため、そういった面では明日など信じていない太宰治、坂口安吾、石川淳、檀一雄などの無頼派に近い傾向がある[14]。
上述でも判るように、三島は古代から中世、近世の日本文学に造詣が深く、耽美的な傾向の点では江戸末期の文学の流れをくむ谷崎潤一郎、夭折美学や感覚的な鋭さの面では川端康成とも大きな共通性があるが[179][445]、文体的には堀辰雄や森鷗外の影響を受けており[179][266]、その文学の志向や苦闘は、日本的風土と西洋理念との狭間で格闘した横光利一の精神に近いことが指摘されている[446][447]。
『午後の曳航』などを翻訳したことのあるジョン・ネイスンは、三島は「(日本が開国により)国をこじあけられて以来ずっと病んできた文化的両価性の範型」と見なせるとし[448]、日本が「生来的・先天的・伝統基底的な」自国文化と、「外来で扱いにくい」異種の西欧文化を和解させて「真正の〈自己〉を見出そうとする国民的争闘」、東洋と西洋の「綜合の模索」の同一パターンの反復であるとしている[448]。
そしてネイスンは、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定した」とし[448]、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」と評している[448]。
二元論
三島の作品は、『純白の夜』『愛の渇き』『真夏の死』『夜の向日葵』『美徳のよろめき』『春の雪』『薔薇と海賊』『裸体と衣裳』『絹と明察』など、反対の概念を組み合わせた題名が多く、『仮面の告白』では「仮面を被る」ことと、本来は反対の概念である「告白」が、アイロニカルに接合していることが指摘されている[449]。
文学のテーマも、三島自身が〈『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなもの〉と言っているように[338]、生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動、見る者と見られる者(認識者と行為者)、芸術と人生、作者と彼、といった二元論がみられるが、その〈対〉の問題は単純な並列や対立関係ではないところに特徴がある[449][450]。
『トニオ・クレエゲル』の〈トニオ〉対〈ハンスやインゲ〉に象徴される〈芸術家〉対〈美しい無智者(欠乏の自覚〈エロス〉を持たぬ下方の者でありながらも美しいという存在)〉の二項の図式から生じてくる芸術家・トニオの〈分裂の意識(統一的意識を持つこと自体が二律背反であること)〉を解読した三島には[451]、〈統一的意識の獲得〉を夢見て、〈欠乏の自覚を持つことをやめて、統一的意識そのもの〉〈人工的な無智者〉に成り変わり、〈自己撞着の芸術観〉、つまりは〈エロスを必要とせぬ芸術〉〈無智者の作りうる芸術〉を打ち建てようという思考がみられる[449][450][451]。
『潮騒』あたりから三島が志向し始めた「〈統一的意識そのもの〉に成り変る者」とは[451]、〈芸術家〉(作者)、〈彼〉(無智者かつ美的存在で欠乏の自覚を持たぬ者)のいずれに属するのか、一体「誰」になるのかを青海健は考察し、三島文学の特異性について以下のように論じている[449]。
すでに行動の世界にいた三島が自決(三島事件)の3年前、〈今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる〉とし[452]、大東亜戦争時にあらん限りの〈至上の行動〉を尽くし、特攻隊が〈人間の至純の魂〉を示したにもかかわらず、〈神風が吹かなかつた〉のならば〈行動と言葉とは、つひに同じことだつたのではないか〉[452]、「力を入れずして天地(あめつち)を動かし」(古今集での紀貫之の序)という宣言(〈言葉の有効性には何ら関はらない別次元の志〉)の方がむしろ〈その源泉をなしてゐるのではないか〉と思い至り、〈このときから私の心の中で、特攻隊は一篇の詩と化し〉、〈行動ではなくて言葉になつた〉と語っているが[452]、この〈言葉〉とは、「言葉からはみ出してしまうものを表現するものである言葉」(『太陽と鉄』での〈「肉体」の言葉〉[146])を意味している[449]。
その三島の〈肉体〉は〈すでに言葉に蝕まれてゐた〉ゆえ[146]、両者は永遠の往還となり、〈言葉〉によって〈肉体〉に到達しようとし、その〈肉体〉への到達がまた〈言葉〉へ還流するという「アイロニカルな円環」(到達不可能)であり、最終的には〈言葉〉と〈肉体〉のどちらでもなく、そのどちらでもあるという境界(「絶対の空無」、〈死〉)でしか超えられず[449]、この〈生〉と〈死〉の関係性を「輪廻転生」(生と死が対立概念ではない)として表現した作品が『豊饒の海』となり、認識者の自意識(言葉)との格闘が物語られる3巻と4巻(『暁の寺』と『天人五衰』)で、最後に「作者」(三島)を待ち受けるのが、「絶対の空無」であると青海は論考している[449]。
言葉の領域でもあった〈生〉と[240]、〈死〉との連続性を垣間見た三島が、〈言葉の有効性〉をそぎ落とし、目指した〈詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す〉こととは[452]、「言葉の表層」、「エロス的悲劇性の表層」へと回帰することであり、「言葉が現実に対して無効となる時はじめてその本来の力を開示する」ということだったと、青海は三島の作品遍歴から論考している[449]。〈行動と言葉とは、つひに同じことだつた〉と三島が悟ったのは、言葉から逃走した地点が、〈行動〉の有効性をも消滅する地平でもあり、その〈行動〉に向かうことで、アイロニカルにも、「言葉の無効性を生かすこと」が可能となり、「言葉の否定による言葉の奪還」というパラドックス(円環)になる[449]。
三島の『花ざかりの森』が初掲載された『文藝文化』には、蓮田善明の『鴨長明』が同時掲載され、そこで蓮田は、肉も骨もなくなり、魂だけになった「言葉」が鴨長明の和歌だと論じている[453][454]。島内景二は、それは三島の行きついた「魂の形」を予言していたとし[454]、三島は尊敬する蓮田の論を意識し、「血と見えるものも血ではなく、死と思われるものも死ではない」境地の、「肉も骨もない、魂だけの言葉」に辿り着くため、蓮田の論を実践し証明しようとしたと考察している[454]。
悲劇性
『憂国』や『春の雪』に顕著であるジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念(禁止―侵犯―聖性の顕現)は、三島の耽美的憧憬とも重なるものであるが、それは三島の「日本回帰」や「時代の禁忌」でもあり、神聖天皇(絶対の空無=超越者)を夢見るという不可能性の侵犯を秘めたロマン主義的イロニーでもあった[449]。当時の左翼的知識人たちに対する「反動イデオローグ」として、三島は「危険な思想家」(山田宗睦が名付けた)と問題視され[455][456]、また、野口武彦からは、その〈抽象的情熱〉を[205]、ドイツ・ロマン派や、三島が少年時代に培った日本浪曼派に通ずるロマンチック・イロニーと呼ばれていた[456]。
近代では禁忌である天皇の中にこそ、「近代」をのり超える〈絶対〉を垣間見ていた三島は、バタイユについて以下のように語り[457]、死の1週間前に行なわれた対談の中では、〈バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです〉と述べている[147]。
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は“本心からではない”ことをバタイユは冷酷に指摘する。その“本心”こそ、バタイユのいはゆる“エロティシズム”の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。 — 三島由紀夫「小説とは何か 七」[457]
こういった三島の思考は、反キリストのニヒリストであるフリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』で「超人」を招来したイロニーと等価であり[458]、ニーチェの『悲劇の誕生』は三島文学に大きな影響を与えている[459]。ニーチェの待望した「英雄」「ディオニュソス」的なものは、三島にとって『蘭陵王』の〈獰猛な仮面〉と〈やさしい顔〉を持ち[460]、蓮田善明の〈薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な慷慨家〉[461]、特攻隊の〈人間の至純の魂〉[452]、澄んだ『独楽』の〈透明な兇器〉[396]、『奔馬』の飯沼勲の〈荒ぶる神〉[361]、『椿説弓張月』の源為朝など、純一無垢のイメージを秘め、悲劇性を帯びた美的存在としてある[18][449][458]。
寂寞のエンディング
遺作の『豊饒の海』4巻(『天人五衰』)のエンディングと、三島が16歳の時に夭折を想定して書いた『花ざかりの森』の静寂的な末尾が酷似していることは、多くの論者から指摘されているが[462][463]、10歳の時に書いていたという絵コント入りの「紙上映画」とも言える小品『世界の驚異』の結末も、それまでの華やかな物語を全否定してしまうような「火の消えた蝋燭」のエンディングとなっており、寂寞のうちに閉じるという『豊饒の海』の印象的な結末と通底するものが看取される[464]。
『世界の驚異』は、『マッチ売りの少女』や、ポール・ヴェルレーヌの『秋の歌(落葉)』の影響が見られ、〈すゝきのゆれるも物悲しき、むせびなくヴァイオリンの音のやうにかなでゆく秋の調べ〉という文章と共に秋の淋しさが表現され、前段の頁では、海や船、極楽鳥や花が描かれている[464]。火の消えた蝋燭の頁では、〈やはり、美しい夢はつかめなかつた。あゝ果てゆく幻想。それは春の野にたつ、かげろうにのやうにはかないものだ。らうそくの火はきえて了つた。そして目も前は何もかもまつくらだ〉と記され(校正なしの原文ママ)、最後にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのトレードマークのライオンを模した絵が描かれ、先行作の着想を元に独自の世界観を作り上げている[464]。
井上隆史は、三島が子供の頃から豊かな才能と想像力に恵まれていたと同時に、その自分が作った世界を自らの手で壊してしまおうというニヒリズム的な傾向があると考察しているが[464]、三島自身も、〈知的(アポロン的)なもの〉と〈感性的〈ディオニソス的〉なもの〉の〈どちらを欠いても理想的な芸術ではない〉として二者の総合を目指し[465]、芸術を〈積木細工〉に喩えつつ、〈積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作家は、私には芸術家ぢやないと思はれる〉として、以下のように語っている[465]。
人工性
三島文学の人工性もしばしば指摘される点だが、その人工性には、作品を書くことで自らの危機と向き合い、乗り越えようとする営為が看取される[466]。川端康成は三島の人工性の中にある「生々しさ」について、『盗賊』の序文でいち早く言及していた[466][467]。
弟子にして女優の村松英子によると、三島は現実の生々しさをそのまま感情的やグロテスクに表現することを嫌っていたとされ[468]、「基本としてドメスティック(日常的)な演技も必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」と表現の指導をしていたという[468]。
荻昌弘との対談の中でも三島は、アーサー・シモンズが「芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ」と言った言葉を、〈千古の名言だ〉として[469]、お涙頂戴的な映画を批判し、〈日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ〉という芸術論を展開している[469]。
劇作家と小説家
三島は劇作家でもあるが、その演劇作品もまた、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。三島は、戯曲は小説よりも〈本能的なところ〉、〈より小児の遊びに近いところ〉にあるとし[65]、〈告白の順番〉は、〈詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから〉と述べるなど[470]、日常的な現実空間をリアルに書く従来の私小説作家の常識とは異なる考えを持っていたことが看取され[449]、22歳の時に林房雄に宛てた手紙の中でも、〈あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません〉と、当時の日本文壇の〈レアリズム的〉な懺悔告白のようなものや啓蒙的な小説を批判している[218]。
しかしながら、三島は自分自身を〈小説家〉と規定し[471]、〈肉づきの仮面〉だけが告白できると言っていたことなどから[240]、青海健は「三島由紀夫とは、小説の〈仮面〉を被った劇作家としての小説家」だとして三島にとり、「戯曲が〈本能的な〉素面であるなら、小説はその素面にまで喰い入ってしまった肉づきの仮面」だと解説している[449]。
三島にとっては小説よりも戯曲の方が〈はるかに大胆素直に告白でき〉、それが〈詩作の代用〉をなすと自ら語るように[472]、「枠のしっかりきめられた」形式の方が、「ポエジー(詩)」=「告白」できるという傾向がみられ[473]、三島の小説が、金閣寺放火事件など実際の事件を題材にしているものが多いのも、その「ノンフィクション」を「仮面」とすることにより、大胆な「告白」を可能せしめるという方法論をとっているからである[473]。
三島は、〈戯曲の法則を強引に小説の法則へ導入〉して[65]、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールの言う「自然で自明な形式感」を再確認することが〈小説家〉として重要だという持論の元に[471]、『春の雪』や『奔馬』のようなドラマ性の高い小説を書いているが、その「物語」を見る本多邦繁へと主題が移行している『暁の寺』と『天人五衰』においては、すでに「劇」は不在となり、「自己言及的主題」が生の形で描かれる「小説的」な「小説(ノヴェル)」となっている[449]。
この三島的な劇の形式感を放棄している小説は、ほかに『禁色』や『鏡子の家』などがあるが、戯曲においてこの「“作品の書き手”の告白」の問題が露わに示されているのが、『船の挨拶』『薔薇と海賊』『源氏供養』『サド侯爵夫人』『癩王のテラス』である[449]。青海は、三島にとって戯曲とは「認識者である〈作者〉が〈作品〉と化する告白の夢」であるとし[449]、それが顕著なのが童話作家の阿里子(アリスとも読める)と、空想の世界に生きている帝一が結婚する『薔薇と海賊』だとしている[449]。
すなわち、『薔薇と海賊』では「書き手とその作品世界との幸福な合体の夢」が暗喩的に描かれており、自決の直前に上演されたこの舞台を見て三島が泣いていたというエピソードからも[407][408]、その「合体の夢」に託された「告白の意味の重み」が了解される[449]。この「作品」対「作者」といった構図の「合体の夢」は、『禁色』『鏡子の家』『豊饒の海』などの小説では、分裂の悲劇へと向かう様相を呈し[449]、三島が自ら廃曲にした戯曲『源氏供養』でも、作者と作品世界の「分裂の不幸」という小説テーマが扱われ、〈小説家〉である三島はこの「分裂の不幸」を「小説という〈仮面〉」によって語り続けたと、青海は考察している[449]。
三島の持論
憲法改正論
三島はまず、戦後GHQ占領下で定められた現憲法を〈国際政治の力関係によつて、きはめて政治的に押しつけられた〉憲法であるとし、この憲法自体が「政体」と「国体」について確たる弁別を定立していない問題に触れつつ[474]、「国体」は〈日本民族日本文化のアイデンティティー〉であり〈政権交替に左右されない恒久性〉がその本質であって、「政体」はこの国体維持という〈国家目的民族目的〉に最適の手段として国民によって選ばれるが、政体自体は〈国家目的追求の手段〉であって「民主主義」とは〈継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない〉としている[474]。
その意味で旧憲法の明治憲法は〈民族的伝統〉と〈西欧の法伝統〉とを調和させ、〈国体と法体系の間の相互の投影を完璧にした〉憲法であったと三島は説明し、かたや何ら日本人の内発性の発生でなく制定された戦後の現憲法ではそれがなく、〈相反する二種の国体概念〉が、〈国論分裂による日本弱体化といふ政治的企図〉を含んで〈並記〉され、〈国民の忠誠対象〉を〈二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐる〉ことを問題視している[474]。
そして、その〈相反する二種の国体概念〉のうち、一つは、本来の日本国民の忠誠対象である国体(〈歴史・伝統・文化の時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に成立するもの〉)であり、もう一つはそれと相反する〈革命政権における国体〉ともいうべき概念であると三島は説明し、その新たに並記された〈未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の理想主義〉を本質とする概念(日本伝来の自然法を裁くもの)が、日本弱体化の〈政治的企図〉を含んだ〈
その第二章の日本国憲法第9条を三島は、〈国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着した〉条項であるとして[474]、〈一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした〉ものとして唾棄し[474]、この条文が〈敗戦国日本の戦勝国への詫証文〉であり、〈国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの〉であると断じている[475]。
そして、いかなる戦力(自衛権・交戦権)保有も許されていない憲法第9条第2項を字句通り遵守すれば、日本は侵略されても〈丸腰〉でなければならず〈国家として死ぬ〉以外にはないため、日本政府は緊急避難の解釈理論として学者を動員したうえで〈牽強付会の説〉を立てざるを得なくなり、こういったヤミ食糧売買のような行為を続けることは、〈実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大〉するとしている[475]。
このように三島は、平和憲法と呼ばれる憲法第9条により、〈国家理念を剥奪された日本〉が〈生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ること〉になったことを[475]、〈完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす〉とし、〈戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない〉と批判している[476]。
また、現状では自衛隊は法的に〈違憲〉だとし、その自衛隊の創設が、皮肉にも〈憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくもの〉であり、朝鮮戦争やベトナム戦争の参加という難関を、吉田内閣がこの憲法を逆手にとり、〈抵抗のカセ〉として利用することで突破してきたが[475]、その時代を過ぎた以降も国内外の批判を怖れ、ただ護憲を標榜するだけになった日本政府については、〈消極的弥縫策(一時逃れに取り繕って間に合わせる方策)にすぎず〉、〈しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大〉し、〈平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく〉と警鐘を鳴らしている[475]。
これを是正する案として、憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という改憲案に対しては〈やや賛成〉としつつも、そのためには、国連に対し不戦条約を誓っている第9条第1項の規定を〈世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき〉とし、〈日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和〉であると三島は断じ、この第1項を放置したままでは自国の歴史・文化・伝統の自主性が〈二次的副次的〉なものになり、〈敗戦憲法の特質を永久に免かれぬこと〉になるため、〈第九条全部を削除〉すべしと主張している[475]。
さらに、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題(「国民の総意に基く」という条文既定のおかしさと危険性の是正)と、第20条「信教の自由」に関する〈神道の問題〉(日本の国家神道の諸神混淆の性質に対するキリスト教圏西欧人の無理解性の是正)と関連させて考えなければ、日本が独立国としての〈本然の姿を開顕〉できず、逆に〈アメリカの思ふ壺〉に陥り、憲法9条だけ改正して日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国やアジア反共国家と並ぶだけの結果に終わると警告している[475]。
三島は、外国の軍隊は決して日本の〈時間的国家の態様を守るものではないこと〉を自覚するべきだとし、日本を全的に守る正しい〈建軍の本義〉を規定するためには、憲法9条全部を削除して、その代わりに〈日本国軍〉を創立し、憲法に〈日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に建軍される〉という文言を明記するべきであると主張している[475]。
自国の正しい建軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。 — 三島由紀夫「問題提起」[475]
また、1970年(昭和45年)2月19日に行われたジョン・ベスターとの対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され、2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せず〈憲法違反〉を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は〈偽善のもと〉、〈憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ〉と語っている[477][478][479][480]。
自衛隊論
上記のように三島は、国の基本的事項である防衛を最重要問題と捉え、〈日本国軍〉の創立を唱えながら、〈一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様〉である国家という〈一定空間の物理的保障〉を守るには軍事力しかなく、もしもその際に外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、〈決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない〉とし、日米安保に安住することのない日本の自主防衛を訴えている[475]。
三島は1969年(昭和44年)の国際反戦デーの左翼デモの際に自衛隊治安出動が行われなかったことに関連し、〈政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう〉と説いており、その時々の「政体」を守る警察と、永久不変の日本の「国体」を守る国軍の違いについて言及している[387]。
また、〈改憲サボタージュ〉が自民党政権の体質となっている以上、〈改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い〉と指摘し、本来は〈祭政一致的な国家〉であった日本が、現代では国際強調主義と世界連邦の線上に繋がる〈遠心力的〉な〈統治的国家(行政権の主体)〉と、日本の歴史・文化という時間的連続性が継承される〈求心力〉的な〈祭祀的国家(国民精神の主体)〉の二極に分離し、〈後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる〉状態にあるとしている[476]。
そして様々な制約の中、アメリカの軍備に守られているという形で〈やうやく日本の自主防衛ですらも可能になるといふやうな〉情況では、もし日本が代理戦争のようなものに巻き込まれ自衛隊が出動し、あるいは〈国連警察軍の名目の下〉にアメリカが出動する事態が起った場合、自衛隊の最高指揮権が日本の内閣総理大臣でなく、最終的には〈アメリカ大統領ではないかといふ疑惑〉を禁じ得ないとしている[481][476]。国防の本義としてもそれが〈日本のため〉であるか〈自由主義諸国の連帯感のため〉であるかという〈混迷〉が生ずる現態勢下では、〈我々は一体日本のために戦つてゐるのかどうか〉疑わしくなるとしている[481]。
そうした疑念や矛盾を少しでも解決し、現憲法の制約下で統治的国家の〈遠心力〉と祭祀的国家の〈求心力〉による二元性の理想的な調和と緊張を実現するためには、日本国民がそのどちらかに忠誠を誓うかを明瞭にし、その選択に基づいて自衛隊を二分するべきだという以下のような「自衛隊二分論」を三島は説いている[476][481][注釈 32]。
- 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で〈国連警察予備軍〉を編成し、対直接侵略を主任務とすること。この軍は統治国家としての日本に属し、安保条約によって集団安全保障体制にリンクする。根本理念は国際主義的であり、身分は国連事務局における日本人職員に準ずる。
- 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で〈国土防衛軍〉を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う。
2.の〈国土防衛軍〉には多数の民兵が含まれるとし、「楯の会」はそのパイオニアであるとしている[476]。自衛隊法第三条において、間接侵略の対処や通常兵器による局地的な侵略に対する自衛隊の自主防衛や治安出動が認められているとする三島は、日本への直接侵略を最終目的とするソビエトや中共による間接侵略の醸成を阻止しなけらばならないとし[481]、将来ソビエトが新潟方面に陽動作戦を伴いつつ北海道に直接侵攻してくる危険性に触れている[481]。なお、三島は徴兵制には反対している[475]。
三島は、自衛隊が単なる〈技術者集団〉や〈官僚化〉に陥らないためには、〈武士と武器〉、〈武士と魂〉を結びつける〈日本刀の原理〉を復活し、〈武士道精神〉を保持しなければならないとし、軍人に〈セルフ・サクリファイス〉(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構の軍国主義に堕落すると説いている[483]。
そして、戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜すること、文人のみの文化勲章だけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、〈天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと〉こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策になると説いている[367][474]。
栄誉大権は単に文化勲章や一般の文官の勲章のみでなく、軍事的栄誉として自衛隊を国民が認めて、天皇が直接に自衛隊を総攬するような体制ができなくちゃいかん。それがないと、日本の民主主義は真に土着的な民主主義にはなり得ない。 — 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」[484]
日米安保について
日米安保については、〈安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がする〉と三島は述べており、そうした問いは結局のところ、アメリカを選ぶか、中共・ソビエトを選ぶかという、本質的には日本というものの自主性が選べない状況の中での問題であり、当時の激しい安保反対運動(安保闘争)がひとまず落ちついた後の未来に、日本にとっての真の問いかけが大きな問題として出てくるとしている[443]。そして、そこで初めて〈われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないか〉と語っている[443]。
私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成といふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。私はこの安保問題が一応方がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。 — 三島由紀夫「日本とは何か」[443]
別の場の発言でも、安保賛成はアメリカ派で一種の〈西欧派〉であり、安保反対も中共・ソビエトという共産党系の〈外国派〉であるとし、〈日本人に向かって、「おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるか」といったら、ほんとうの日本人だったら態度を保留すると思う〉と述べている[485]。そして、〈国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していない〉として、〈まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況〉にあり、安保反対派(中共・ソビエト派)の運動が激化していた当時の状況においては、西欧派の自民党の歴史的な役割として、〈西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい〉という考えを福田赳夫に伝えたことを1969年時点で語っている[485]。
また、日米安保に関連する沖縄の米軍基地問題についても三島は、日本人の心情として日本の国内に外国(アメリカ)の軍隊がいるということに対する反対意識は、イデオロギーを抜きにすれば一般国民のナショナリズムや愛国心に訴えるものがあるため、それを外来勢力の共産党系左翼(天皇制・国体破壊を目論む者)に利用されやすいという、日本独特の難しい状況も語っている[485][486]。
核武装について
三島は、ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ史上最大の〈虐殺行為〉の被害を広島がアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」と原爆碑で掲げていることに疑問を呈し[153][注釈 33]、〈原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない〉と述べている[153]。そして、そうした〈民族的憤激〉や〈最大の屈辱〉を〈最大の誇り〉に転換するべく〈東京オリンピックに象徴される工業力誇示〉を進めてきた日本人だが、はたして〈そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか〉として、唯一の被爆国である日本こそが核武装する権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している[153]。
日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。 — 三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」[153]
また、日本の自主防衛に関連し、1969年(昭和44年)に受けたカナダのTVインタビューでも、〈私は、多くの日本人が、日本での核の保有を認めるとは思いません〉と悲観的な予想を示しながら、自衛隊を二分し予備軍が国連軍に加わることで〈核兵器による武装が可能になる〉と答えている[488]。そして自決前の『檄』の後半では、日本にとって不平等な核拡散防止条約 (NPT) のことも語っている[387]。
この警告について西尾幹二は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし[489]、三島自決の6年前に中国が核実験に成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が国連に加盟して常任理事国となったことに触れながら、〈国家百年の大計にかかはる〉と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している[489]。
そして、三島が〈あと二年の内〉と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が〈永遠にアメリカの傭兵として終る〉ことが暗示されていたと西尾は解説している[489]。
このように、現実の世界情勢下における日本の防衛策としての核武装については、〈単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない〉というふうに、必要悪としての肯定的な考えを三島が持っていたことが散見できるが、それと同時に、核爆弾という大量殺戮兵器自体のモラルの無さについても言及しており、自分自身も必ず傷を負う一対一の決闘や、自死を覚悟の日本的な暗殺の決死の政治行為と引きくらべながら、自分がまったく安全な場所からボタン一つで人を殺戮するような行為を卑怯な暴力行為とみなし[484]、石川淳との対談においても、〈技術が罪ないし肉にしっかり縛りつけられていることが人間的であるということ〉であり、〈技術が罪ないし肉を忘れたら、その瞬間、技術自体が堕落するかも〉しれず、そうなっていくと、集団的な技術になり、〈幾らでも非人間的な技術をつくれる〉と語っている[490]。そして、〈自分に危険がないような暴力行為には全く意味がない。それにはモラルがないですからね。ですから、アウシュヴィッツや原子爆弾にはいまでも反対ですね〉とも述べている[490]。
天皇論
基本的な考えとして三島は、日本を日本以外の国から、何が日本かということを弁別する最終的なメルクマール(指標)は、〈天皇しかない〉としている[491]。
日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは天皇しかない。他にいくらさがしてもないんだ。 — 三島由紀夫(石原慎太郎との対談)「天皇と現代日本の風土」[491]
また、工業化が進展しテレビやマスメディアなどの〈バカなコミュニケーション〉が発達し伝達機能が容易になればなるほど各人のバラバラがひどくなる「自己疎外」が起こって国民が分裂し孤立してきて、〈伝達することによって、何らそれを統合することはできない〉状態となった空間的社会において、それを統合するには〈空白のもの〉、空間的伝達からの〈断絶〉しかないと三島は考え、〈時代全体が空間的伝達によって動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ〉としている[491]。
三島は、〈天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない〉とし、軍事の最終的指揮権を〈天皇に帰属せしむべきでない〉としている[474]。これは天皇が日本の歴史の〈時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴〉であり、〈神道の祭祀〉を国事行為として行ない、「神聖」と最終的に繋がっている存在ゆえに、〈天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を、国民に対して負ふ〉というのが三島の考えだからである[474]。
この〈時間的連続性〉のことを三島は〈縦の軸〉(時間軸)とも呼び、敗戦の結果、戦後の日本社会が、国際的・経済的な空間軸(横の軸)ばかりになり、自国の伝統・文化・歴史の持続性・連続性である〈縦の軸〉が軽んじられているとしている[492]。そして、冷戦時代に入り共産圏の国々においてすら、〈歴史の連続性〉の観念がなければ国家の平和や存立が危ぶまれるということに気づいているにもかかわらず、戦後から日本は時間(歴史)の連続性という〈縦の軸〉の重要性がないがしろにされ、国家の根本が危うくなっていると危惧している[492]。
日本の〈歴史と文化の伝統の中心〉、〈祭祀国家の長〉である天皇は、〈国と民族の非分離の象徴で、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である〉と説く三島は、〈文化概念としての天皇〉という理念を説き、伊勢神宮の造営や、歌道における本歌取りの法則などに見られるように、〈オリジナルとコピーの弁別を持たぬ〉日本の文化では、〈各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神とオリジナルとコピーの関係にはない〉ため、天皇は神聖で〈インパーソナルな〉存在であると主張している[147][367]。
日本的な行動様式をもすべて包括する「文化」(菊)と、それを守る「剣」の原理(刀)の栄誉が、〈最終的に帰一する根源が天皇〉であり、天皇は日本が非常事態になった場合には、天皇文化が内包している「みやび」により、桜田門外の変や二・二六事件のような蹶起に手を差し伸べる形態になることもあると三島は説き[367]、天皇は〈現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性〉を持つものとしている[349]。
そうした〈ザインの国家像を否とし、ゾルレンの国家像を是とする者〉の革新のシンボルともなり得る天皇制における〈純粋性のダイナミクス〉、〈永久革命的性格〉を担うものこそが〈天皇信仰〉である三島は述べ[493]、〈希望による維新であり、期待による蹶起〉の性質を持っていた二・二六事件は、〈「大御心に待つ」ことに重きを置いた革命〉であり、〈
私は本来国体論には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたへず変革を誘発する契機があつて、むしろ国体思想イコール変革の思想だといふ考へ方をするのである。それによつて、平田流神学から神風連を経て二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のザインであり、天皇信仰自体が永遠の現実否定なのである。明治政府による天皇制は、むしろこのやうな絶対否定的国体論(攘夷)から、天皇を簒奪したものであつた。(中略)
しかし明治憲法上の天皇制は、一方では道義国家としての擬制を存してゐた。この道義国家としての擬制が、つひに大東亜共栄圏と八紘一宇の思想にまで発展するのであるが、国家と道義との結合は、つねに不安定な危険な看板であり、(現代アメリカの「自由と民主主義」の使命感を見よ)これが擬制として使はれれば使はれるほど、より純粋な、より先鋭な、より「正統的な」道義によつて「顛覆」され「紊乱」される危険を蔵してゐる。道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。(中略)日本テロリズムの思想が自刃の思想と表裏一体をなしてゐることは特徴的であるが、二・二六事件の二重性も亦、このやうな縦の二重性、精神史的二重性と共に、横の二重性、社会学的二重性を持つてゐる。それは同時に、尖鋭な近代的性格を包摂してゐる。 — 三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」[493]
三島は、〈日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない〉として、明治維新をみても結果的には〈開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、攘夷論者がやった〉という〈歴史の皮肉〉、〈アイロニカルな歴史意志〉があるとしている[349]。
そして〈西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点〉、〈革新の原理〉であり、最終的に〈維新を「承引き」給う〉存在である祭祀王の天皇は、〈西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴〉であると三島は自身の天皇観を語りつつ、昭和の天皇制はすでにキリスト教が入り込んで西欧理念に蝕まれていたため、二・二六事件の「みやび」を理解する力を失っていたと批判している[349]。
さらに戦後の政策により、「国民に親しまれる天皇制」という大衆社会化に追随したイメージ作りのため、まるで芸能人かのように皇室が週刊誌のネタにされるような〈週刊誌的天皇制〉に堕ちたことを三島は嘆き、天皇を民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三のことを、皇室からディグニティ(威厳)を奪った〈大逆臣〉と呼び、痛罵している[349][474]。
三島は、昭和天皇個人に対しては、〈反感を持っている〉とし、〈ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです〉と死の1週間前に行なわれた対談で発言しているが[147]、この天皇の「人間宣言」に対する思いは、『英霊の聲』で端的に描かれ、「人間宣言」を指南した幣原喜重郎も批判している[494][495]。
三島は、井上光晴が「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」と言ったことに触れ、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている[496]。また、〈幻の南朝〉に忠義を尽くしているとし、理想の天皇制は〈没我の精神〉であり、国家的エゴイズムや国民のエゴイズムを掣肘するファクターで、新嘗祭などの祭祀の重要性を説いている[496]。
また、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、昭和天皇(実際には朝融王との説が有力[注釈 7])に謁見し恩賜の銀時計を拝受したとも語っている[382](銀時計拝受は卒業式後に宮内省で行なわれた[127])。
ぼくらは戦争中に生れた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、三時間全然微動もしない姿を見ている。とにかく三時間、全然木像のごとく微動もしない。卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなこと言いたくないよ、おれは。(笑)言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そして、それがどうしてもおれの中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、そのときの天皇は。 — 三島由紀夫「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」(1969年5月13日、東京大学900番教室壇上において)[382]
終戦直後の20歳の時のノートにも、昭和天皇が「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも即刻撤廃せよ」と命令した「大御心」への感銘を綴っている[497]。
磯田光一は、三島の自決1か月前に、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが宮中に入れないので自衛隊にしたと三島から聞かされた、という主旨を語っているが[498]、これに対して持丸博は、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがない、という主旨の疑問を唱えている[499]。
長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記『入江相政日記』の記述から、昭和天皇が三島や三島事件に少なからず関心を持っていたことが示されている[500][501]。
なお、鈴木邦男は三島が女系天皇を容認しているメモを楯の会の「憲法研究会」のために残しているとして、昭和天皇が側室制度を廃止して十一家あった旧宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来に必ず皇位継承問題が起こることを三島が批判的に予見していたという見解を示しているが[502]、鈴木が見解の元としている松藤竹二郎の著書3冊にもそういったメモや伝言の具体的な提示はなく、松藤の著書には、三島の死後に「憲法研究会」によって作成された原案の概ねの内容を紹介しているだけで、鈴木はそれを「三島メモ」と勝手に言い換えてミスリードしている[503][注釈 34]。元楯の会会員らや三島研究者の間でも三島が女系天皇を容認していたことを示すメモや文献の存在は確認されていない[503][504]。また、三島が生前に「女帝」や「女系」天皇に言及したことはなく、「憲法研究会」に3度顔を見せた際も、男系・女系天皇について何の話もしていない[503]。三島の文学や評論を仔細に見ている松本徹も、「三島文学やそこに書かれた三島の男性観・女性観からみて三島の女系天皇容認説はありえない」と述べている[504]。
鈴木邦男が感心した「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に行われた「憲法研究会」における討議案のうち、あくまで1人の会員の意見として記載されているだけで、それに異議を唱える会員の意見もあり、「憲法研究会」の総意として掲げているわけではない[505]。仔細に読めば、その後段の話し合いでも、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている[505][注釈 35]。
特攻隊について
三島の天皇観は、国家や個人のエゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、〈近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主〉として存在せしめようという考えであったが[496]、三島の神風特攻隊への思いも、彼らの〈没我〉の純粋さへの賛美であり、美的天皇観と同じ心情に基づいている[506]。
三島の考える〈純粋〉は、小説『奔馬』で多く語られているが、その中には〈あくまで歴史は全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます〉とあり[361]、評論『葉隠入門』においても、政治的思想や理論からの正否と合理性を超えた純粋行為への考察がなされ、特攻隊の死についてもその側面からの言及がなされている[152]。
三島は日本刀を〈魂である〉としていたが[507]、特攻隊についても西欧・近代への反措定として捉えており、「大東亜戦争」についても、〈あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである〉としている[508]。この捉え方は、戦時中、三島が学生であった頃の文面にも見られる[148]。
僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。
「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。 — 平岡公威「三谷信宛ての葉書」(昭和20年4月21日付)[148]
敗戦時に新聞などが、〈幼拙なヒューマニズム〉で〈戦術〉と称して神風特攻隊員らを〈将棋の駒を動かすやうに〉功利・効能的に見て、そうしたジャーナリズムにより特攻隊の精神が冒涜され〈神の座と称号〉が奪われてしまったことへの憤懣の手記も、ノートに綴っていた[497]。
また、三島は戦後に『きけ わだつみのこえ』が特攻隊員の遺書を〈作為的〉に編纂し、編者が高学歴の学生のインテリの文章だけ珍重して政治的プロパガンダに利用している点に異議を唱え[487][509]、〈テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる〉と唾棄している[509]。
『きけ わだつみのこえ』を題材とした映画についても〈いはん方ない反感〉を感じたとし、フランス文学研究をしていた学生らが戦死した傍らにシャルル・ボードレールかポール・ヴェルレーヌの詩集の頁が風にちぎれているシーンが、ボードレールも墓の下で泣くであろうほど〈甚だしくバカバカしい印象〉だと酷評し、〈日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的〉であるとしている[509]。
愛国心について
「愛国心」という言葉に対し、「愛妻家」という言葉と似た〈好かない〉感触を持つ三島は、その言葉は官製のイメージが強いとして〈自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである〉とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、〈日本人の情緒的表現の最高のもの〉は「愛」ではなくて「恋」であると主張している[510]。
「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば〈無限定無条件〉であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、〈国境を以て閉ざされた愛〉である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている[510]。
アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は〈内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的〉にあるものだと三島は主張し、〈われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である〉としている[510]。
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。 — 三島由紀夫「愛国心」[510]
こうした日本人の中にある内在的・即自的なものを大事にする姿勢と相通じる考え方は、三島が18歳の時に東文彦に出した書簡の中にも見られ、〈我々のなかに『日本』がすんでゐないはずがない〉として以下のように述べている[511]。
「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。 — 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付)[511]
反革命
三島は、ある種の社会改革を目ざした二・二六事件の将校の行動や陽明学を肯定していたが[512]、日本の精神文化とは相容れない唯物史観やマルキシズム、あるいは未来幻想を暗示する進歩主義に基づく革命には断固として反対の姿勢を示している[513]。そして、戦後の左翼の多くが反戦・平和・民主主義という耳障りがいいスローガンを掲げながらもマルキシズムの革命戦術を駆使し、疎外者や不幸な人たちを革命のための一つの齣として利用し権力闘争の場面へ連れていく〈欺瞞〉的なやり方を〈道義性〉が失われていると批判している[513]。
われわれは戦後の革命思想がすべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。いかに暴力的表現をとらうとも、それは集団と組織の原理を離れ得ぬ弱者の思想である。不安、懐疑、憎悪、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の材料に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、以て過半数 を獲得し、各小集団社会を〈民主的に〉支配し、以て少数者 を圧迫し、社会の各分野へ浸透して来たのがかれらの遺口である。(中略)
戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいはないが、純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによつて、左にあれ、右にあれ、一種の社会改革といふ救済の方法を考へたのであつた。しかし、戦後の革命はそのやうな道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、偽善にすりかへてしまつた。われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。革命勢力からその道義性と、ヒューマニズムの高さを失はせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。 — 三島由紀夫「反革命宣言」[513]
三島は、〈共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものです〉と述べ[514]、共産主義支持の人が日本の階級制の存在を云々することに反問しながら、君主制のないアメリカの方が様々なメンバーシップや上流階級クラブなどのステイタス・シンボルが非常にたくさんあり、それらの甚だしい階級差や階級意識はアングロ・サクソンの文化の伝統でアメリカの成金が古いヨーロッパの階級を真似して作ったものであるとしている[514]。そして、かたや共産主義も、日本の社会党や共産党の幹部が、一般庶民が持てないようなプール付きの別荘を軽井沢に保有している例や〈新しい階級〉について言及している[514]。
1968年(昭和43年)に行なわれた学生とのティーチ・インにおいて、天皇制廃止論者の学生Fが、三島の『文化防衛論』に異議を唱え、天皇が支配した時代は多くの人間が奴隷であり一部の特権階級だけが属してきた文化は無意味だから、そんなものが伝統ならば壊した方がいいという主旨の発言で質問した際も、三島は以下のように反論している[482]。
文化というものは結局マルキシズムの階級史観では絶対に解明できない。(中略)マルキシズムでも結局芸術の問題を一番理解したのはトロツキーだと思う。トロツキーは、政治はプロレタリア独裁、しかし文化はブルジョア的文化でよろしいということをいった。だからソヴィエト革命が始まって以来、トロツキーが権力を多少とも持っていたほんの一、二年の間だけにソヴィエトには文化と名のつくものが生れたのです。(中略)トロツキーはヒットラーと違うから、ヨーロッパのそれまでの文化をすべて頽廃的な都会的な文化とは規定しなかったから、ヨーロッパの新しい芸術も喜んでソヴィエトロシアへ取り入れた。
そしてこのトロツキーは粛清されたんです、あなたのような人によって。いいですか。そして文化というものは特権階級の文化だと規定するあなた自身が日本語しゃべっているじゃないか。この日本語がどれだけ美しい蓄積の上につくられてきたか。何も宮廷の言葉ばかりじゃない。日本の庶民人民の言葉の中にも美しい日本語が残っているのに、いまあなたの日本語聞いてると一向美しくないのはまったくあなたの理論によく合っている。あなたはそういう日本語をつかうことによって、特権階級の文化を滅ぼしているのじゃなくて、あなた自身の文化を滅ぼしているのだ。 — 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」[482]
また三島は、戦後の革命勢力が教育現場や絵本・漫画を介して、支配者の天皇が奴隷の〈人民〉を虐待し支配していたという構図で日本に奴隷制があったかのように子供に教える動きがあることを非難し[482][515][516]、学生Fにも、〈手塚治虫の漫画なんか見ると、あたかも人民闘争があって、奴隷制があって、神武天皇という奴隷の酋長がいて、奴隷を抑圧して(日本を)つくったように書いてあるが、あなたは手塚治虫の漫画を読み過ぎたんだ〉と言い返している[482]。ラジオ番組「全国こども電話相談室」で日本神話について質問した子供に対して回答者の無着成恭が、唯物史観で神話を説明したり天岩戸を墓だと教えたりしていたことにも呆れていたが[515]、三島は戦後まもない1948年(昭和23年)当時から、進歩主義的な文化破壊思想に嫌悪を持ち、フランス革命になぞって以下のようにも綴っている[126]。
暗殺について
三島は、〈民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだ〉と前置きし、〈共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い〉、〈暗殺の中にも悪い暗殺といい暗殺がある〉として、全体主義におけるアウシュビッツなどの大量殺人や粛正は、権力側が安全で何の危険もない立ち位置から秘密裏に行なう卑怯な行為であって、一対一の決闘的な意味合いを持った全身全霊を賭けた暗殺とは違うとしている[484]。
そして、本来あるべき暗殺とは、〈暗殺者が必ずあとですぐ自殺するという日本の伝統〉に則した武士の作法でなければならないとして[484]、旅客機に爆弾を仕掛けて関係のない人々を巻き込んだり、〈女子供〉を殺したりすることは絶対にやってはいけない卑劣な行為だと説明しながら、無関係な家政婦を殺した「嶋中事件」の小森を非難し、「浅沼稲次郎暗殺事件」の山口二矢については、〈非常にりっぱだ。あとでちゃんと自決しているからね。あれは日本の伝統にちゃんと従っている〉と認めている[484]。
そうした捨て身の暗殺が日本からなくなってきたことと、政治の世界が茶番劇化してきたこととの関連性を三島は考察しながら、〈大体卵が先か鶏が先かよくわからぬが、政治家がみんな腰抜けになつたので暗殺がなくなつたのと同時に、暗殺がなくなつたから、政治家はますます腰抜けになつた〉[517]、〈たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける〉[484]、〈口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない。痛くもないから、お互いに遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている〉とし[484]、戦後アメリカによって与えられた憲法の下、〈美しき偽善〉で暮らしている一見平和な日本における国会と[484]、その商売化した国会議員の仕事が、国民という〈お客〉に対する媚びを忘れず〈手先だけでコチョコチョと綺麗事を作成する仕事〉に堕したと語っている[517]。
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。 — 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」[484]
命の危険がなくて、金がフンダンに入つて、威張り放題に威張れるといふのでは、こんな好い商売はないといふわけである。これでせめて、自分の政見に忠実に行動すれば、暗殺されるといふスリルがあつたら、もう少し、嘘八百を並べられなくなるだらうと思ふ。イノチガケといふことがなくなつたので、政治家といふ職業は、もう全然、男らしい仕事ではなくなつたと私は考へます。、三島由紀夫「不道徳教育講座 暗殺について」[517]
昔は、命を狙われた板垣退助のように「板垣死すとも自由は死なず」といった名文句まであったことを三島は例に挙げ、そんな身の危険のほとんどない戦後民主主義社会の政治状況と、〈言論と日本刀〉、〈一人の日本刀の言論〉という「千万人といへども我行かん」(孟子の言を元にした吉田松陰の言葉)の精神を以下のように対比的に語っている[484]。
日本ではこうやって言論が自由自在に生きている。確かに美しい風景ではあるけれども、何か身を賭けた言論、身体を賭けた言論というものが少ない。自分一人で、一千万人を相手にしても退かないという言論の力が感じられない。(中略)
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、たちまち殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。(中略)そして、日本で言論と称されているものは、あれは暴力。そして、日本で日本刀が暴力だと思われている時には、たった一人の言論の決意というものを信じられなくなった時代の現われだと、私はそんなふうに考えております。 — 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」[484]
死生観
昭和の戦時下に少年・青年時代を送り徴兵の対象年齢にあった三島は、常に「死」というものを念頭に生きていた世代であり、そうした終末感的な状況下での創作活動の中で、自身を〈薄命の天才とも。日本の美的伝統の最後の若者とも。デカダン中のデカダン、頽唐期の最後の皇帝とも。それから、美の特攻隊とも〉夢想していた[55]。しかし、その状況が一変し戦時中の価値が転倒した戦後社会においても、三島にとって「死」の観念は様々なコンプレックスや美意識との間で大きな命題でありつづけ、それが小説の中にも多彩に揺曳しており[518][519]、「死」は「行動」という言葉とともに三島文学において最も多く用いられている語彙の一つとなっている[519]。
そうした「死」の観念から生涯離れられなかった三島は、「死」を純粋と絶対の行為として、最終的には戦後社会との訣別を意味するような回帰的な「死」への行動に至っているが、『金閣寺』直前の30歳の時に書かれた随筆『小説家の休暇』では、〈行動家の世界は、いつも最後の一点を附加することで完成される環を、しじゆう眼前に描いてゐる〉と、芸術家の世界と対比し〈私は想像するのに、ただ一点を添加することによつて瞬時にその世界を完成する死のはうが、ずつと完成感は強烈ではあるまいか?〉と語っているなど[450]、すでに晩年の行動家に至る死生観が、小説家としての絶頂期から内包されていることが指摘されている[520][521]。
その『小説家の休暇』の中でも触れている『葉隠』(山本常朝著)を戦時中から愛読していた三島は、そこから様々な生きるヒントや活力源、哲学的なものを得られたとして、〈毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふこと〉、〈われわれはけふ死ぬと思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない〉という死生観を『葉隠入門』の中で述べている[152]。
そういった、今日明日死ぬかもしれないという思いで生きる人生観・死生観は、他の評論でも散見され、人間とは何か理想や夢のために生きていくものではあるものの、〈より良き未来世界〉などというものを目途にして自分をその進歩や進化のプロセス(過程)とするような〈未来に夢を賭ける〉考えを三島は否定し、〈未来などといふことを考へるからいけない。だから未来といふ言葉を辞書から抹殺しなさいといふのが私の考へなのです〉と主張しながら、まずは〈明日がないのだと思ふ〉気構えが肝心だとしている[522]。
また、人間は「未来」に向って成熟していくものではなくて、〈“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らない〉のだとし、〈死といふ事を毎日毎日起り得る状況として捉へる〉ところから、〈自分の行動と日々のクリエーション〉の根拠やモラルが発見され、それが〈人間の行動の強さの源泉〉にもなると三島は主張している[522]。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。(中略)
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な成熟といふものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。 — 三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」[522]
そして三島は、人間はいつ死ぬかも知れない〈果無い生命〉ではあるが、〈明日死ぬと思へば今日何かできる〉、〈明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができるといふ〉のが、〈人間の全力的表現〉であり、そうした考え方や行動は「禅」の精神に通じると三島は語っている[522]。
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと思ふのです。ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。私は未来は信じないけれども後世は信ずる。 — 三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」[522]
三島の作品や評論には、戦時下の同年代の若い兵士の死を、他人事のようには考えられなかった複雑な思いが随所に現われ、死の一週間前に行なわれた古林尚との対談においても、そうしたことが言及されているが、そこで三島は、戦後は〈余生〉という意識が〈いまだにあります〉と述べながら、戦時中に入営通知(召集令状)が来た際に毛筆で書いた遺書の気持から〈逃れられない〉と語っている[147]。また、〈天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いまでもぼくの内部に生きている〉とし、自身の本質が10代の時の日本浪曼派的な心性〈ロマンティーク〉だと悟るにつけ、そこに〈ハイムケール〉(帰郷)していき、その〈ハイムケールする自己に忠実〉である以外にないとしている[147]。
死の4年前の41歳の時のNHKのインタビューでは、20歳で迎えた終戦の風景について、〈世界が崩壊するはずであるのに〉、まわりの木々の緑が夏の日を浴びて輝いているのが〈不思議でならなかった〉と振り返り、終戦の詔勅を聴いたときは〈空白感しか〉なかったと答え、その8月15日の〈激しい日光〉は〈私の心の中にずっと続いていくだろう〉と述べている[523]。そして、三島は自身の死生観を以下のように語り、戦時中の、死が〈遠くない将来に来るんだというふうに考えていた〉当時のその心理状態は〈今の心理状態に比べて幸福だったんです〉とも発言している[523]。
人間の生命というのは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないんです。というのは、人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐに飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが必ず出てくる。それが昔いわれた大義というものです。
そして大義のために死ぬということが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だと考えられた。しかし、今は大義がない。これは民主主義の政治形態というものは大義なんてものがいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。 — 三島由紀夫「NHKテレビのインタビュー『宗教の時間』、1966年」[523]
国語教育論
三島は、戦後の政府によって1946年(昭和21年)に改定された現代かなづかいを使わず、自身の原稿は終生、旧仮名遣ひを貫いた。三島は、言葉にちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したらもうだめだと主張し、中国人は漢字を全部簡略化したために古典が読めなくなったとしている[349]。
また、敗戦後に日本語を廃止してフランス語を公用語にすべきと発言した志賀直哉について触れ、〈私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである〉と批判した[524]。
国語教育についても、現代の教育で絶対に間違っていることの一つが〈古典主義教育の完全放棄〉だとし、〈古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし〉と主張している[525]。
そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な現代語訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄し[349][526]、〈美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる〉と文部省の役人や教育学者を批判し[526]、自身の提案として〈ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか〉を先生たちにやってもらいたいと述べている[526]。
三島は、日本人の古典教育が衰えていったのはすでに明治の官僚時代から始まっていたとし、文化が分からない人間(官僚)が日本語教育をいじり出して〈日本人が古典文学を本当に味わえないような教育をずっとやってきた〉と述べ、意味が分からなくても「読書百遍意おのずから通ず」で、小学生から『源氏物語』を暗唱させるべきだとしている[479]。また、『論語』の暗唱、漢文を素読する本当の教え方が大事だとし、支那古典の教養がなくなってから日本人の文章がだらしなくなり、〈日本の文体〉も非常に弱くなったとしている[479]。
漫画・映画・サブカルチャー
生前、自身でも『のらくろ』時代から漫画・劇画好きなことをエッセイなどで公言していた三島の所蔵書には、水木しげる、つげ義春、好美のぼるらの漫画本があることが明らかになっている[527]。
毎号、小学生の2人の子供と奪い合って赤塚不二夫の『もーれつア太郎』を読み、〈猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシ〉ファンを自認していた三島は、この漫画の徹底的な「ナンセンス」に、かつて三島が時代物劇画に求めていた〈破壊主義と共通する点〉を看取し、〈それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる〉と賞讃している[528]。平田弘史の時代物劇画の〈あくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居のノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味〉を発見して好んでいた三島は、白土三平はあまり好きでないとしている[528]。
〈おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画〉を愛する三島は、〈他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況〉こそが漫画であるとして、〈漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならない〉と語っている[529]。
三島は、漫画家が〈啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである〉として、若者が教養を求めた時に与えられるものが、〈又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつてはたまらないのに、さうなりがちなこと〉を以下のように批判しながら、劇画や漫画に飽きた後も若者がその精神を忘れず、〈自ら突拍子もない教養〉、〈決して大衆社会へ巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養〉を開拓してほしいとしている[528]。
かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。(中略)折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(1965年)を描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。 — 三島由紀夫「劇画における若者論」[528]
ボクシング好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、講談社の漫画誌『週刊少年マガジン』連載の『あしたのジョー』を毎週愛読していたが、発売日にちょうど映画『黒蜥蜴』の撮影で遅くなり、深夜に『マガジン』編集部に突然現れて、今日発売されたばかりの『マガジン』を売ってもらいたいと頼みに来たというエピソードがある[530]。編集部ではお金のやりとりができないから1冊どうぞと差し出すと、三島は嬉しそうに持ち帰ったという[530]。また、「よくみるTV番組は?」という『文藝春秋』のアンケートの問いに、『ウルトラマン』と答えている[531]。
1954年(昭和29年)の映画『ゴジラ』は、公開直後は日本のジャーナリズムの評価が低く「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きが多勢であり、特撮面では絶賛されたものの各新聞の論評でも「人間ドラマの部分が余計」と酷評され、本多猪四郎監督の意図したものを汲んだ批評は見られなかったが、田中友幸によれば三島のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として、ドラマ部分を含めたすべてを絶賛してくれたという[532]。
次第に三島の審美眼はプロの映画評論家にも一目置かれるようになり、荻昌弘や小森和子らとも対談もした。淀川長治は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について語っている[533]。
SFにも関心を寄せていた三島は、1956年(昭和31年)に日本空飛ぶ円盤研究会に入会する(会員番号12)[272]。1957年(昭和32年)6月8日には日活国際会館屋上での空飛ぶ円盤観測会に初参加した。なお、この観測会は、科学的な研究を主目的とする「日本空飛ぶ円盤研究会」(略称JFSA)のものではなく、UFO実在論を唱える別団体「宇宙友好協会」(略称CBA、1957年に設立)のものだとされている[534]。1962年(昭和37年)にはSF性の強い小説『美しい星』を発表したが、その1年半前には夏には毎晩のように双眼鏡片手に屋上に昇っていたため、家人から「屋上の狂人」と呼ばれ、ついにある日瑤子夫人と自宅屋上でUFOを目撃している[272][535]。
1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌『宇宙塵』に寄稿し、〈私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである〉と記した[536]。また、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を絶賛し、〈随一の傑作と呼んで憚らない〉と評している[537]。
東映任侠映画が〈大好き〉で、特に鶴田浩二の大ファンだった[306]。1968年(昭和43年)公開の『博奕打ち 総長賭博』を『映画芸術』で絶賛し[538][539][540]、それまでヤクザ映画は新聞などには一切無視されていたが[540]、三島の称賛がヤクザ映画に市民権をもたらした最初の一歩になったといわれる[540]。東映が任侠映画の試写をやっていた頃、三島は東映の試写によく来て[541]、東映の岡田茂プロデューサーに「役者としてオレ(ヤクザ映画に)出ようか」と言ったら、「やめといた方がいいよ」と止められたという[541]。東映が試写をやらなくなっても、東映の封切館に足を運び、普通にお金を払って一般客と交じって任侠映画をよく観ていた[306]。
三島はサーカスなども好きで、8歳の時に観たハーゲンベック・サーカス東京公演やそれ以前に観た松旭斎天勝の手品にも心を奪われ、〈僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものをすべて愛した〉と言っている[542]。
大人になってからも、35歳の時に夫人同伴でロサンゼルスに行った折に初めて訪れたディズニーランドをとても気に入った様子で、そこで買ったドナルドダックの絵葉書で自宅にいる幼い娘・紀子宛てに、〈とても面白く、のり子ちやんの喜びさうなものが一杯ありました〉と書いて絵本や帽子も送っているが[543]、それ以来、子供が小学生になったら一家でディズニーランドに行きたい、というのが三島の口癖となり、大人でもすごく楽しいからと母・倭文重にもぜひ見せたいと言っていたという[369]。
三島が死の覚悟をすでに固めていた1970年(昭和45年)の正月にも、2人の子供を連れて家族でディズニーランドに行こうと度々提案していたが、瑤子夫人は『豊饒の海』が完結した後にしたいと断ったため、三島の一家揃ってのディズニーランド再訪の夢は叶うことがないまま終った[544]。
家族・親族
出自も参照のこと。
- 祖父・平岡定太郎(内務省官僚)
- 1863年(文久3年)6月4日生 - 1942年(昭和17年)8月26日没
- 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。内務省に入省。1906年(明治39年)7月、福島県知事に就任し、1908年(明治41年)6月、樺太庁長官に就任した。原敬に重用された人物であった[27][545]。太く濃い眉と意志的な眼が印象的な、人望の厚い人物で、樺太に銅像が建立された[22][27]。79歳で死去。
- 祖母・平岡夏子(戸籍名・なつ)
- 1876年(明治9年)6月27日生 - 1939年(昭和14年)1月18日没
- 東京府士族・大審院判事・永井岩之丞の長女。幕臣・玄蕃頭・永井尚志の孫。17歳で平岡定太郎と結婚した。潰瘍出血のため62歳で死去。
- 父・平岡梓(農商務省官僚)
- 1894年(明治27年)10月12日生 - 1976年(昭和51年)12月16日没
- 平岡定太郎と夏子の長男(一人息子)。開成中学、一高を卒業、1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)法律学科(独法)卒業し、農商務省(現・農林水産省)に入省。1942年(昭和17年)3月、水産局長を最後に退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、会社は終戦で機能停止し、1948年(昭和23年)1月に政府命令で閉鎖された。肺に溜まった膿漿による呼吸困難のため82歳で死去。
- 母・平岡倭文重
- 1905年(明治38年)2月18日生 - 1987年(昭和62年)10月21日没
- 漢学者・橋健三の次女。加賀藩学問所「壮猶館」教授・橋健堂の孫(母・トミが橋健堂の五女)。橋家は加賀藩主・前田家に代々仕えた。
- 19歳で平岡梓と結婚し、公威、美津子、千之の二男一女を儲けた。心不全のため82歳で死去。
- 妹・平岡美津子
- 1928年(昭和3年)2月23日生 - 1945年(昭和20年)10月23日没
- 聖心女学院専門部在学中の17歳の時に学徒動員で、疎開されていた図書館の本を運搬する作業中、なま水を飲んだのが原因で腸チフスで早世。
- 弟・平岡千之(外交官)
- 1930年(昭和5年)1月19日生 - 1996年(平成8年)1月9日没
- 1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業後、外務省に入省。フランスやセネガルなど各国に駐在。1987年(昭和62年)4月から駐モロッコ大使となり、その後に駐ポルトガル大使などを歴任した。引退後、肺炎のため65歳で死去。
- 祖父・橋健三(漢学者)
- 1861年(万延2年)1月2日生 - 1944年(昭和19年)12月5日没
- 加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの二男。幼少より漢学者・橋健堂に学び、学才を見込まれ、12歳の時に健堂の三女・こうと結婚し婿養子となる。こうの死去後は、健堂の五女・トミを後妻とした。
- 1910年(明治43年)、開成中学校の第5代校長に就任。校長を辞職後は、昌平中学(夜間中学)の校長となる。故郷の金沢にて84歳で死去。養父の橋健堂は、共立学校(開成中学校)創設者佐野鼎と親交を持つ[546]。
- 伯父・橋健行(精神科医)
- 1884年(明治17年)2月6日生 - 1936年(昭和11年)4月18日没
- 倭文重の兄。橋健三とこうの長男。
- 開成中学、一高、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)精神医学科と進み、1925年(大正14年)、東大精神科の付属病院の東京府巣鴨病院(のちの松沢病院)の講師から副院長となる。1927年(昭和2年)、千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)助教授に就任。歌人の斎藤茂吉(北杜夫の父)とは親友同士であった[546][547]。肺炎をこじらせ52歳で死去。
- 妻・瑤子
- 1937年(昭和12年)2月13日生 - 1995年(平成7年)7月31日没
- 画家・杉山寧の長女。日本女子大学英文科2年在学中の21歳の時に三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。急性心不全のため58歳で死去。
- 長女・紀子(演出家)
- 1959年(昭和34年)6月2日生 -
- 31歳の時に冨田浩司(外交官)と結婚。冨田との間に子供がいる。
- 長男・威一郎(元実業家)
- 1962年(昭和37年)5月2日生 -
- 開成中学、慶應義塾大学出身。映画『春の雪』、『三島由紀夫映画論集成』(1999年)の監修、編集に携わった。
系譜
三島由紀夫 | 父: 平岡梓 |
祖父: 平岡定太郎 |
曾祖父: 平岡太吉 |
曾祖母: 平岡つる | |||
祖母: 平岡なつ |
曾祖父: 永井岩之丞 | ||
曾祖母: 永井高 | |||
母: 平岡倭文重 |
祖父: 橋健三 |
曾祖父: 瀬川朝治 | |
曾祖母: 瀬川ソト | |||
祖母: 橋トミ |
曾祖父: 橋健堂 | ||
曾祖母: - |
平岡家
- 祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県加古川市志方村地区
- 三島は、〈私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である〉として、平岡家の血脈が〈百姓〉であることを述べているが[548]、その祖父・平岡定太郎の本籍は、兵庫県印南郡志方村大字上富木(現・加古川市志方町上富木)で、その昔まだ村と呼ばれていた頃は、農業、漁業が盛んな地域であった[26]。また、同じ兵庫県の赤穂に次いで塩田も盛んで[24][26]、播磨の塩は「花塩」と呼ばれ、特に珍重されていた[22]。
- 近くには景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫の御陵があり、その皇子・日本武尊の誕生の地でもある[26]。古代、この地は港で、三韓征伐の折に神功皇后が龍船を泊めた。その時に神功皇后が、野鹿の群が多いのを見て「鹿多」とこの地を呼び、その後「鹿多」が「志方」と改められたのが地名の由来である[26]。
- 1573年 - 1591年頃(天正の頃)に、櫛端左京亮がこの地に観音城(別名、志方城)を築城したため、港町から城下町となった[26]。豊臣秀吉の中国征伐にあたり、城主・櫛橋は、東播の三木城主・別所長治と共に抗戦し落城したため、多くの武士、学者が志方に土着化した[26]。
- なお、この地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、関東大震災のあとに登場した遷都論で候補地の一つに挙がったこともある[549]。阪神大震災のときも加古川流域はほとんど被害がなかった[24]。
- 「平岡」姓
- 平岡家の菩提寺・真福寺は1652年(承応元年)の建立である[26]。過去帳によれば、平岡家の祖となる初代は1688年 - 1703年(元禄時代)の孫左衛門である。二代目も孫左衛門を襲名し、次は利兵衛が三代続く[26][550]。その次の六代目の平岡太左衛門(たざえもん)の四男が平岡太吉となり、三島の祖父・定太郎は太吉の二男である[550][551]。
- “平岡”姓について、安藤武は、「平岡姓は平岡連、河内国讃良郡枚岡郷(ひらおかごう)か、河内郡枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の名田の名から姓をつけたが明治維新後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『大和物語』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門から名乗った」としているが[46]、過去帳を見た福島鑄郎によると、平岡姓は、四代目以降の五代目・利兵衛(3人目)からだとしている[551]。
- 屋号「しおや」(塩屋)
- 五代目の利兵衛(3人目)のところから「しおや」(塩屋)という屋号が付いているが[24]、これは塩田を営む塩屋ではなく、「塩物屋」のことで、五代目の利兵衛が農業のかたわら、「塩をまぶした魚介類」などを仕入れて売り歩く商売か、あるいは塩を売る商売を始めたのではないかとされている[24][551][552]。
- 野坂昭如は、「しおや」(塩屋)の屋号があって不思議はないとし、「“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、
苫屋 の謂い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」だと説明している[22]。 - 曽祖父・平岡太吉の「鶴射ち事件」
- 七代目にあたる平岡太吉は、妻・つるとの間に、萬次郎、定太郎、久太郎の3人の息子と、娘・むめを儲けた[24][26]。三島の父・梓の従弟・小野繁(むめの息子)が真福寺の住職から聞き出してまとめた報告書には太吉の人物像が次のように記されている[24]。
- 太吉の孫の嫁・平岡りき(久太郎の二男・平岡義一の妻)によれば、太吉は幼少(5、6歳)の頃、領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため、「所払い」が命じられ、それが理由で平岡一家は西神吉村宮前から志方村の上富木に移り住んだという[545][552]。その後、成長した太吉は金貸し業で成功し、果実栽培も軌道に乗って裕福となり、豪邸を建てた[22][552]。
- 赤門事件
- 平岡梓は、「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」と述べているが[369]、平岡りきの記憶によれば、「赤門事件」というものは聞いた記憶がないという[545]。
- 志方町中央農協組合の元組合長の好田光伊によると、「赤門事件」とは、加賀の前田家が徳川将軍家から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門がこれを真似て、菩提寺の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が「お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない」と断じられ「所払い」になったという昔からのいい伝えの話だという[551]。
- 梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという越次倶子は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため真偽不明だとした上で[26]、その伝説を幼い頃から父親や祖父から聞かされたであろう三島の脳裏には、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた」という意識が刻まれていた可能性があるとしている[26]。福島鑄郎も、「所払い」の原因が、太吉の鶴射ち事件か、赤門事件かは不明だが、いずれにしても「おかみをおそれぬ行為」という反骨の血が三島に受け継がれていたとしている[551]。
- 平岡家部落民説
- 『月刊噂』の記事(1972年)や、『農民文学』(1971年)の仲野羞々子(ペンネームで、元産経新聞四国支社の男性記者[552])は、平岡家の祖先が、部落民であるかのような記載をしているが[545][553][注釈 36]、越次倶子が実際に過去帳を調べて写真撮影したものによれば、そういった記述は全く無く[555]、1964年(昭和39年)頃に越次が入手していた平岡家の壬申戸籍の写しにも、特別変った箇所はなかった[555]。村松剛は、もし過去帳や戸籍に部落民説を裏付ける記述があれば、差別意識の強かったその時代、由緒ある永井夏子と定太郎の結婚は成立しなかったであろうとしている[555]。
- 近年、過去帳を実際に閲覧することができた福島鑄郎も、仲野羞々子が言うような情報は何も見つからず、「刑場の役人の下働き」をしていたという噂も根拠不明だとし[551]、事件と何かを結びつけたい心理が、そういった噂を生んだのだろうとしている[551]。板坂剛の取材に答えた住職夫人も、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」と述べている[552]。
- 平岡家系図
初代孫左衛門 | 2代目孫左衛門 | 初代利兵衛 | 2代目利兵衛 | 3代目利兵衛 | 太左衛門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
太吉 | 萬次郎 | こと | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
公威(三島由紀夫) | 紀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寺岡つる | 桜井ひさ | 萬壽彦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
定太郎 | 杉山瑤子 | 威一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
梓 | 美津子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井なつ | 千之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
久太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
むめ | 義之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義顕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田中豊蔵 | 繁 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
儀一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
杉山寧 | 瑤子 | 紀子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
平岡定太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平岡梓 | 平岡公威(三島由紀夫) | 平岡威一郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井岩之丞 | なつ | 美津子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋健三 | 倭文重 | 平岡千之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
近藤三郎 | 近藤晋一 | 夏美 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
寿美 | 久美 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎木俊男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14代目竹中藤右衛門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹中宏平 | 竹中祐二 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹中錬一 | 公子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
米内光政 | 和子 | まる子 | 栄子(影木栄貴) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹下登 | 内藤武宣 | 内藤大湖(DAIGO) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
一子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
金丸信 | 金丸康信 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井家・松平家
三島は〈私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔〉として、〈サムラヒ〉の血脈を永井家・松平家に見ている[548]。
映画『人斬り』(1969年)で、薩摩藩士・田中新兵衛の役を演じた時には、〈新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう〉と林房雄宛てに綴っているが[556]、この高祖父〈永井主水正〉が、三島の祖母・夏子の祖父にあたる永井尚志である[26]。
永井尚志は、長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍し、徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなして、1855年(安政2年)、従五位下・玄蕃頭に叙任した人物である[23][26]。
尚志はその後、外国奉行、軍艦奉行、京都町奉行となり、京摂の間、坂本龍馬等志士とも交渉を持った[23]。1867年(慶応3年)に若年寄となり、戊辰戦争では、箱館奉行として榎本武揚と共に五稜郭に立て籠り、官軍に敗れて牢に入った。明治維新後は解放され、元老院権大書記官となった[23]。
大屋敦(夏子の弟)は祖父・永井尚志について、「波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」と語っている[557]。
永井亨(夏子の弟で、経済学博士・人口問題研究所所長)によると、尚志は京都では守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇、土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったとされる[558]。晩年の尚志は、向島の岩瀬肥後守という早世した親友の別荘に入り、岩瀬のことを死ぬまで祭祀していたという[558]。
夏子の父・永井岩之丞は、1846年(弘化2年)9月に永井家一族の幕臣・三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となった[26]。戊辰戦争では品川を脱出し、尚志と共に函館の五稜郭に立て籠って戦った[23]。維新後は、司法省十等出仕を命ぜられ、判事、控訴院判事を経て、1894年(明治27年)4月に大審院判事となった人物である[23]。
岩之丞は、水戸の支藩・宍戸藩の藩主・松平頼位の三女・松平鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲けた[26]。松平高の母・糸(佐藤氏の娘)は松平頼位の側室で、新門辰五郎の姪であった[26][557]。松平頼位の長男・松平頼徳は天狗党の乱の際に幕府から切腹を命じられて33歳で死んだ人物である[26][559]。夏子の祖父にあたる松平頼位の先祖を辿っていくと徳川家康になるため、三島は夏子の家系の松平家を通じ徳川家康の子孫となる[26][28]。
岩之丞の六男・大屋敦は父親について、「厳格そのもののような人」で、「子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった」と語っている[557]。
三島は曾祖母・高の写真の印象を、〈美しくて豪毅な女性〉とし、〈写真で見る晩年の面影からも、眉のあたりの勝気のさはやかな感じと、秀でた鼻と、小さなつつましい形のよい口とが、微妙で雅趣のある調和を示してゐる。そこには封建時代の女性に特有なストイックな清冽さに充ちた稍々非情な美が見られるのである〉と表現している[560]。
- 永井家系図
良将 | 将門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桓武天皇 | 葛原親王 | 高見王 | 平高望 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良兼 | 公雅 | 致頼 | 致経 | 致房 | 長田行致 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
政俊 | (6代略) | 直重 | 白広 | 重広 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後醍醐天皇 | 宗良親王 | 興良親王 | 良王 | 大橋信重 | 定広 | 広正 | 重元 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
由利姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正直 | 直隆 | 正似 | 正治 | 正次 | (5代略) | 匡威 | 匡温 | 壮吉(荷風) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
永井直勝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尚政 | 尚庸 | 直敬 | 尚方 | 尚恕 | 尚友 | 尚徳 | 尚志 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阿部正勝 | 女 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩之丞 | 壮吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なつ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高 | 平岡梓 | 平岡公威(三島由紀夫) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平岡定太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
亨 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
啓 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
繁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大屋敦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鐘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
愛 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千恵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 永井尚志系図
- 永井岩之丞系図
- 松平家系図
秀忠 | 家光 | 家綱 | 綱吉 | (九代略) | 慶喜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川家康 | 義直 | 松平頼重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼宣 | 光圀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼房 | 松平頼元 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼隆 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼利 | 頼道 | 頼慶 | 頼多 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼敬 | 頼筠 | 壮吉 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼救 | 太田資原 | 頼徳 | なつ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
定三郎 | 雪 | 平岡梓 | 平岡公威(三島由紀夫) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼位 | 珽 | 平岡定太郎 | 美津子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼安 | 亨 | 橋倭文重 | 平岡千之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高 | 啓 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
繁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩之丞 | 大屋敦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼平 | 鐘 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
艶 | 愛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鋭 | 千恵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
文子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋家
永井家・松平家の血脈が〈サムラヒ〉「武」とすれば、橋家は三島にとって「文」の血脈となる[26]。
三島の母・倭文重の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂、高祖父・橋一巴(雅号・鵠山)は、加賀藩藩主・前田家に代々仕えた漢学者・書家であった。名字帯刀を許され、学塾において藩主・前田家の人々に講義をしていた[26]。
高祖父・一巴以前の橋家は、近江八幡(滋賀県にある琵琶湖畔、日野川の近く)の広大な山林の持主の賀茂(橋)一族である。1970年(昭和45年)の滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴、健堂、健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した[26]。賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元で、島根県の出雲の出身である[26]。
曽祖父・橋健堂は、平民・女子教育の充実など教育者として先駆的であったが、健堂が出仕した「壮猶館」や、「集学所」(夜間学校のはしり)は、藩の重要プロジェクトと連動し、単に儒学を修める藩校だけでなく、英語や洋式兵学も教え、ペリー率いる黒船の来航に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した軍事機関でもあった[546]。教授であった健堂はその軍事拠点の中枢にあり、海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場の人物であった[26][546]。
健堂が学び、親交を持った佐野鼎は、共立学校(現・開成中学校・高等学校)の創設者であり、婿養子の健三は5代目の開成中学校校長を務めた[26][546]。健三の長男・健行も開成中学校に通った(開成との縁については、三島の祖父・定太郎も開成の前身・共立学校出身で、永井家の高祖父・永井尚志が1848年に学問吟味に合格した昌平坂学問所もまた開成との歴史的つながりがあり、尚志の孫で三島の大叔父にあたる大屋敦や、三島の父・平岡梓、息子・威一郎も開成中学校出身者である)。
- 橋家系図
往来 | 船次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋一巴 | つね | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
健堂 | ふさ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
こう | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋健行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瀬川健三 | 雪子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋正男 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トミ | 橋健雄 | 平岡公威(三島由紀夫) | 紀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
より | 橋行蔵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ひな | 倭文重 | 杉山瑤子 | 平岡威一郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美津子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平岡梓 | 平岡千之 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
重子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略年譜
1925年(大正14年) |
1月14日の夜9時に東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷四丁目22番)で、父・平岡梓と母・倭文重の長男として誕生。本名・平岡公威。本籍地は祖父・平岡定太郎の郷里・兵庫県印南郡志方村大字上富木119番地(現・兵庫県加古川市志方町上富木)。3月3日頃から祖母・夏子が1階の自室で育て始める。8月に小石川植物園で遊ぶ。 |
1926年(大正15年・昭和元年) | 1歳。1月に祖母の留守中、2階に這い上がろうとして階段から転落。眉間から大量出血し病院に搬送。 |
1927年(昭和2年) | 2歳。1月に母の実家への年始参りで、漢学者の祖父・橋健三に運筆を習い書初めをする(以降、幼少時代ほぼ毎年恒例となる)。 |
1928年(昭和3年) | 3歳。2月23日に妹・美津子が誕生。天気の良い日でないと祖母から外出許可が下りず、遊び相手も年上の女の子に限定。この年、スパルタ教育を決行した父に抱かれて新宿で蒸気機関車を至近距離で見る。 |
1929年(昭和4年) | 4歳。3月に母に連れられ豊島園に行き、スナップ写真を撮る。この年の秋頃、両親に散歩に連れられ、市ヶ谷刑務所の高い建物に興味を示す。 |
1930年(昭和5年) | 5歳。1月19日に弟・千之が誕生。同月、自家中毒に罹り死の一歩手前までいく。棺に入れる玩具などが用意されたが、医師の伯父・橋健行が診た際に排尿し、一命をとりとめる。8月22日に祖父・定太郎の銅像が樺太神社に建立。祖父母・母らと銅像の前で記念撮影。 |
1931年(昭和6年) | 6歳。4月に学習院初等科に入学。三谷信と級友になる。同月に靖国神社例大祭(以降、毎年初等科恒例行事で参拝)。絵本、世界童話、小川未明、鈴木三重吉などを愛読。5月に遠足で千葉県の姉崎に行く。12月に初等科機関誌『小ざくら』(年2回発行)に俳句と短歌が初掲載。以降、毎号に習作(詩・俳句・短歌)を発表。初等科低学年時代は風邪のため学校は休みがち。 |
1932年(昭和7年) | 7歳。3月10日に菊池武夫中尉による陸軍記念日の講話を聴く(以降、毎年初等科恒例行事で軍人が招かれる)。5月の江の島行きの遠足を休む。6月6日に爆弾三勇士の記念碑(久留米工兵大隊地内)建立のため5銭を寄付。9月13日に乃木希典元学習院長の二十年祭で墓参(以降、毎年初等科恒例行事で乃木神社参拝)。9月17日に学校正堂で本庄繁前関東軍司令官による満州事変1周年記念の講話を聴く。11月に遠足で茨城県の水戸に行く。12月に上野動物園見学。 |
1933年(昭和8年) | 8歳。2月に川崎市の明治製菓の工場見学。同月頃に学校の「旅順池」の渡りっこで氷が割れ1人だけ池に落下し号泣。小使いさんに救助される。3月に四谷区西信濃町16番地(現・新宿区信濃町8番)へ転居。5月に遠足で立川に行く。8月に祖父母に伴い2、3軒先離れた家に転居。両親・妹弟と別居することになる。11月に遠足で群馬県太田に行く(書生が付添う)。12月24日に学校正堂で皇太子殿下御降誕奉祝式。 |
1934年(昭和9年) | 9歳。5月の筑波山の遠足を体調不良で休む。6月5日に東郷平八郎元帥国葬のため英国大使館向い側に整列して葬送。夏休み中の7月22日に、慕っていた図画教師・大内一二先生が死去。9月に作文「大内先生を想ふ」を書く。11月に遠足で長瀞に行く。12月に肺門リンパ腺を患う。 |
1935年(昭和10年) | 10歳。4月6日に満州国皇帝・愛新覚羅溥儀来訪により赤坂離宮前で整列奉迎。4月8日に代々木練兵場で来訪特別観兵式を見学。5月に『世界童話大系 アラビヤン・ナイト』を買ってもらう。同月に遠足で潮来、鹿島、香取に行く。11月に遠足で日光に行く。 |
1936年(昭和11年) | 11歳。2月26日に二・二六事件が起こり、1時限目で臨時休校。5月に遠足で伊勢、奈良、京都に行く。6月に作文「我が国旗」を書く。11月に遠足で奥多摩に行く。この年、同級生に「お前の睾丸もアオジロだろうな」とからかわれ、逆に「おい、見ろ」と反撃。 |
1937年(昭和12年) | 12歳。1月に自作の童話・詩集ノート『笹舟』を編む。3月に学習院初等科を卒業。同月に父が欧州遊学。4月に学習院中等科に進学し、文芸部に入部。同月、両親の引っ越しに同伴し、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤二丁目4番8号)へ転居。祖父母と離れる。7月に作文「春草抄――初等科時代の思ひ出」を学習院校内誌『輔仁会雑誌』(159号)に発表。以降、毎号に習作(詩歌・散文作品・戯曲)を発表。 8月に母と妹弟と千葉県鵜原海岸に避暑に行く。秋頃に高等科3年の先輩文芸部員・坊城俊民から声をかけられ、交友が始まる。10月に父が農林省営林局事務官に就任し、大阪に単身赴任(昭和16年1月まで)。12月頃に自作の詩集ノート『こだま――平岡小虎詩集』などを編む。 |
1938年(昭和13年) | 13歳。3月に初めての小説「 |
1939年(昭和14年) | 14歳。1月18日に祖母・夏子が潰瘍出血のため死去(没年齢62歳)。3月に戯曲「東の博士たち」、詩篇「九官鳥」を『輔仁会雑誌』(163号)に発表。4月に、前年より成城高等学校(現・成城大学)から学習院に転任していた清水文雄が国文法と作文の担当教師となる。以降、生涯にわたる恩師となる。11月頃から俳句創作の際、綽名のアオジロをもじって「青城」を俳号とする。 |
1940年(昭和15年) | 15歳。1月に詩「凶ごと」を書く。2月から山路閑古主宰の月刊俳句雑誌『山梔(くちなし)』に俳句や詩歌をさかんに投稿発表(翌年にかけて)。6月に文芸部委員に選出。11月に小説「彩絵硝子」を『輔仁会雑誌』(166号)に発表。東文彦から初めて手紙をもらい、文通が始まる。同時期に徳川義恭とも交友が始まる。この年、母に連れられ、詩人・川路柳虹を訪問。しばらく師事する。 |
1941年(昭和16年) | 16歳。2月19日に東文彦宅を初訪問。5月に修学旅行で伊勢神宮、奈良、京都、舞鶴の海軍機関学校、天橋立、有馬温泉に行く。6月に野外演習で群馬県相馬ヶ原に行く。7月に「花ざかりの森」を書き上げ、清水文雄に批評を請う。同月に川路柳虹の紹介で萩原朔太郎を訪問。9月に清水の同人月刊誌『文藝文化』に「花ざかりの森」を発表(12月まで)。ペンネームを三島由紀夫とする。以降、同誌に同人として小説や随筆、詩歌を発表。12月8日に日米開戦(真珠湾攻撃)。 |
1942年(昭和17年) | 17歳。3月に学習院中等科を卒業(席次は2番)。謝恩会で「謝辞」を読む。同月に父が農林省を退官。日本瓦斯用木炭株式会社に天下る。4月に学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に入学。同月に詩「大詔」を『文藝文化』に発表。5月に文芸部委員長に選任。7月1日に東文彦、徳川義恭と共に同人誌『赤繪』を創刊。創刊号に「苧菟と瑪耶」を発表。 8月26日に祖父・定太郎が死亡(没年齢79歳)。11月に学校講演依頼のため、清水文雄と共に保田與重郎を初訪問。 |
1943年(昭和18年) | 18歳。1月に懸賞論文「王朝心理文學小史」が入選。2月に輔仁会の総務部総務幹事に就任。3月から「世々に残さん」を『文藝文化』に連載(10月まで)。6月6日の輔仁会春季文化大会で創作対話劇『やがてみ楯と』が上演。伊東静雄、蓮田善明の導きにより、6月9日に富士正晴と神田区の七丈書院で面会。富士を通じて林富士馬とも知り合う。 7月下旬に徳川義恭と共に世田谷区新町の志賀直哉を初訪問。10月3日に富士、林と共に佐藤春夫を初訪問。10月8日に東文彦が死去(没年齢23歳)。葬儀で弔辞を読む。『赤繪』は2号で廃刊。この年、堀辰雄を訪問。 |
1944年(昭和19年) | 19歳。4月に林富士馬と共に上石神井の檀一雄を初訪問。4月27日に徴兵検査通達書を受け取る(発信者は本籍地の兵庫県印南郡志方村村長・陰山憲二)。5月16日に兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川町公会堂で徴兵検査。第二乙種に合格(召集令状は翌年2月)。その足で翌17日と22日に大阪の伊東静雄を訪問。 8月に『文藝文化』が70号で終刊。同月下旬に三谷信ら友人4人で志賀高原に卒業旅行。9月に学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となり、天皇より恩賜の銀時計を拝受。10月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学。同月に処女小説集『花ざかりの森』を七丈書院より刊行。12月5日に祖父・橋健三が郷里の金沢で死去(没年齢83歳)。 |
1945年(昭和20年) | 20歳。学徒動員に伴い、1月から「東京帝国大学勤労報国隊」として群馬県新田郡太田町の中島飛行機小泉製作所に勤労動員。東矢島寮11寮35号室に入寮。肺の悪い同学生と2人で総務課調査部文書係に配属。2月に中河与一の厚意で、小説「中世」の第一回、第二回(途中)を『文藝世紀』に発表。2月4日に入営通知の電報を受け取り、出立までに遺書、遺髪、遺爪を用意。 2月10日に兵庫県富合村の高岡廠舎で入隊検査。右肺浸潤の診断が下され即日帰郷。栗山理一を通じ、2月22日に 野田宇太郎(『文藝』編集長)を訪問。3月8日に川端康成から来簡。3月9日から群馬県の前橋陸軍士官学校にいる三谷信を慰問。翌3月10日に東京大空襲。4月上旬頃、疎開する佐藤春夫を、林富士馬、庄野潤三らと餞別に行く。 5月から神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員。高座廠第五工員寄宿舎東大法学部第一中隊第二小隊に入る。6月に工廠内の法学部学生ら東大文化委員による回覧冊子『東雲』が作られ、編集を担当。同月中旬に軽井沢疎開中の三谷邦子(三谷信の妹で恋人)を訪問。邦子と接吻をする。 8月15日に疎開先の豪徳寺の親戚の家で敗戦を迎える。8月19日に蓮田善明が駐屯先のマレー半島・ジョホールバルでピストル自決(没年齢41歳)。8月下旬に遅れて発行された『文藝』(5・6月合併号)に「エスガイの狩」を発表。初めての原稿料を得る。10月23日に妹・美津子が腸チフスのため死去(没年齢17歳)。 |
1946年(昭和21年) | 21歳。1月1日に昭和天皇の詔書「人間宣言」に憤慨。1月27日に鎌倉市二階堂の川端康成宅を初訪問。以降、長きに亘り師事する。5月5日に三谷邦子が銀行員・永井邦夫と結婚。同月に林富士馬、庄野潤三、島尾敏雄と共に伊東静雄主催の同人誌『光耀』に参加。6月に「煙草」を『人間』に発表。9月16日に邦子と道で偶然出会う。11月17日に「蓮田善明を偲ぶ会」に出席。12月14日に矢代静一と一緒に、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加。太宰と初めて言葉を交わす。 |
1947年(昭和22年) | 22歳。1月10日に織田作之助が死去(没年齢33歳)。哀惜にたえず翌日梅崎春生と会い、一緒に赤坂書店に行く。4月に「軽王子と衣通姫」を『群像』に発表。6月27日に新橋の新夕刊で林房雄と会い、以降親交を持つ。7月に日本勧業銀行の第一次試験に合格するも面接で不採用。11月に東京大学法学部法律学科卒業。同月に短編集『岬にての物語』を桜井書店より刊行。 12月に「自殺企図者」(『盗賊』第2章の改題前)を『文学会議』に発表(以降、翌年にかけ各章が各誌に分載)。12月13日に高等文官試験合格。12月24日に大蔵省に初登庁。大蔵事務官に任官され、銀行局国民貯蓄課に勤務。 |
1948年(昭和23年) | 23歳。3月に随筆「重症者の兇器」を『人間』に発表。6月13日に太宰治が玉川上水で入水自殺(没年齢38歳)。6月に『近代文学』の第二次同人となる。7月下旬から8月頃、作家活動と官僚の二重生活の過労で出勤途中に渋谷駅プラットホームから線路に転落。8月下旬頃、河出書房の坂本一亀らが書き下ろし長編の執筆依頼に大蔵省仮庁舎を来訪。 9月2日に大蔵省に辞表を提出し、9月22日に依願退職。10月に河出書房の杉森久英企画の雑誌『序曲』の同人(椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生、野間宏、船山馨、中村真一郎、寺田透、島尾敏雄、埴谷雄高)に参加。同月に国際乗馬倶楽部に入会。7年ぶりに乗馬をする。11月に全5章から成る初の長編『盗賊』を真光社より刊行。12月に短編集『夜の仕度』を鎌倉文庫より刊行。同月に同人誌『序曲』が創刊(1号で終刊)。 |
1949年(昭和24年) | 24歳。2月に戯曲『火宅』が俳優座創作劇研究会により初演。7月に書き下ろし長編『仮面の告白』を河出書房より刊行。8月に作品集『魔群の通過』を河出書房より刊行。同月に舟橋聖一主宰の「 |
1950年(昭和25年) | 25歳。1月から「純白の夜」を『婦人公論』に連載(10月まで)。2月に小田切秀雄から共産党入党を勧誘される。6月に書き下ろし長編『愛の渇き』を新潮社より刊行。7月2日に金閣寺放火事件が起こる。同月から「青の時代」を『新潮』に連載(12月まで)。同月に執筆のため箱根町強羅に行く。 8月1日に目黒区緑ケ丘2323番地(現・緑が丘一丁目17-24)へ転居。同月に岸田国士提唱の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加。12月に能楽を戯曲化した初作『邯鄲』がテアトロ・トフンにより初演。この頃から中村光夫、福田恆存、吉田健一、大岡昇平、吉川逸治らの「鉢の木会」に参加。 |
1951年(昭和26年) | 26歳。1月から「禁色」(『禁色』第一部)を『群像』に連載(10月まで)。6月に初の評論集『狩と獲物』を要書房より刊行。7月に三島ファンの福島次郎や瀬戸内晴美が来訪。11月に文藝春秋祭の文士劇『父帰る』に出演(弟・新二郎役。新橋演舞場にて)。12月25日に朝日新聞特別通信員として横浜港からハワイに向け初の世界旅行に出帆(翌年5月まで)。 |
1952年(昭和27年) | 27歳。2月に近代能楽3作目の『卒塔婆小町』が文学座により初演。3月にパリにて50万円分のトラベラーズチェック詐取に遭う。日本人経営の宿・ぼたんやに移り、木下恵介、佐野繁次郎、黛敏郎と知り合う。最終訪問地ローマから5月10日に日本に帰着。6月に林房雄夫人・繁子の通夜の席で、川端康成の養女・政子との結婚を秀子夫人に切り出すが断られる。 8月から「秘楽」(『禁色』第二部)を『文学界』に連載(翌年8月まで)。10月に世界旅行記『アポロの杯』を朝日新聞社より刊行。11月20日に文藝春秋祭の文士劇『弁天娘女男白浪・浜松屋店先の場』に出演(浜松屋番頭・由兵衛役。帝国劇場にて)。 |
1953年(昭和28年) | 28歳。2月に作品集『真夏の死』を創元社より刊行。3月と8月、9月に神島へ取材旅行。3月12日に伊東静雄が死去(没年齢46歳)。5月28日に堀辰雄が死去(没年齢48歳)。12月3日に文藝春秋祭の文士劇『仮名手本忠臣蔵(討入りの場、引上げの場)』に出演(磯貝十郎左衛門役。帝国劇場にて)。12月22日に加藤道夫が縊死自殺(没年齢35歳)。加藤宅へ駆けつける。 |
1954年(昭和29年) | 29歳。3月5日に岸田国士が死去(没年齢63歳)。6月に書き下ろし長編『潮騒』を新潮社より刊行。この作品で第1回新潮社文学賞受賞(決定は10月)。同月に「伽羅の会」を脱退。8月に中村歌右衛門の楽屋で豊田貞子と出逢う。その後交際を開始。10月に短編集『鍵のかかる部屋』を新潮社より刊行。同月に須田貝ダムと奥只見ダムへ取材旅行。 11月に創作歌舞伎『鰯売恋曳網』が歌舞伎座で初演。同月29日に文藝春秋祭の文士劇『御所五郎蔵五条坂出会いの場』に出演(五郎蔵の子分・平平役。歌舞伎座にて)。 |
1955年(昭和30年) | 30歳。1月から「沈める滝」を『中央公論』に連載(4月まで)。7月に作品集『ラディゲの死』を新潮社より刊行。7月22日に田中澄江と「宗谷」に乗り、横浜港外での海上保安庁の観閲式に出席。9月からボディビルを始める(生涯にわたり継続)。10月に『白蟻の巣』が劇団青年座により初演。この作品で第2回岸田演劇賞受賞(決定は翌年1月)。 11月1日に文藝春秋祭りの文士劇『屋上の狂人』に出演(弟・末次郎役。東京宝塚劇場にて、NHKテレビで舞台中継)。同月に金閣寺、南禅寺、東舞鶴へ取材旅行。同月に日記風随筆『小説家の休暇』を講談社より刊行。 |
1956年(昭和31年) | 31歳。1月から「金閣寺」を『新潮』に連載(10月まで)。この作品で第8回読売文学賞受賞(決定は翌年1月)。2月に石原慎太郎と初対面。3月に文学座へ入座。同月7日に金閣寺放火犯・林養賢が死去(没年齢26歳)。同月17日に奥野健男の『太宰治論』出版記念会の二次会で北杜夫と出逢う。同月23日に自宅で「永すぎた春」執筆中の姿を写真家・林忠彦が撮影。4月に『近代能楽集』を新潮社より刊行。 この頃、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会(会員番号は12番)。6月に作品集『詩を書く少年』を角川書店より刊行。8月に自由が丘の熊野神社夏祭りで初めて神輿をかつぐ。同月に初の英訳『潮騒』が米国で刊行。9月中旬からボクシングを始める(翌年6月頃まで)。11月に『鹿鳴館』が文学座により初演。東京公演で連日、大工・植木職人役で出演。 |
1957年(昭和32年) | 32歳。1月から自伝エッセイ「わが思春期」を『明星』に連載(9月まで)。3月にラシーヌ原作『ブリタニキュス』の修辞脚色劇を文学座が初演。東京公演千秋楽に衛兵役で出演。この作品で第9回毎日演劇賞劇団賞を受賞(決定は翌年4月)。同月に母と共に聖心女子大学卒業式を参観。この年、同校の正田美智子と歌舞伎座で観劇し、銀座六丁目の割烹「井上」の2階でお見合い。 4月から「美徳のよろめき」を『群像』に連載(6月まで)。5月に豊田貞子と別離。6月に日活国際会館屋上での「日本空飛ぶ円盤研究会」主催のUFO観測会に参加。7月からクノップ社の招きで渡米(年末まで)。同月にノーマン・メイラーに会う。12月14日にニューヨークでのジャパン・ソサエティーのパーティーで、夫に伴い現地駐在中の永井邦子と偶然再会。 |
1958年(昭和33年) | 33歳。1月にマドリード、ローマ経由で日本に帰国。1月に短編集『橋づくし』を文藝春秋新社より刊行。3月に勝鬨橋、晴海を取材。4月13日に杉山瑤子(画家杉山寧の娘)と銀座でお見合い。同月20日に吉田健一、アイヴァン・モリスと共に、来日中のスティーブン・スペンダーを夕食に招く。6月1日に杉山瑤子と結婚し、明治記念館で挙式(媒酌人は川端康成夫妻)。同月に箱根、熱海、京都、大阪、別府、博多へ新婚旅行。 7月に『薔薇と海賊』が文学座により初演。この作品で週刊読売新劇賞受賞(決定は12月)。同月からエッセイ「不道徳教育講座」を『週刊明星』に連載(翌年11月まで)。10月に雑誌『声』(丸善出版)を創刊し、執筆中の「鏡子の家」第1章と第2章途中までを掲載。11月下旬から本格的に剣道を始める。同月29日・30日に文藝春秋祭の文士劇『助六』に出演(髭の意休役。東京宝塚劇場にて、NHKテレビで舞台中継)。12月に、ナビゲーターの作家役で2カット出演の映画『不道徳教育講座』の撮影(封切は翌年1月8日)。 |
1959年(昭和34年) | 34歳。1月に富士山麓の青木ヶ原樹海へ取材旅行。4月10日に皇太子ご結婚祝賀演奏会に出席。5月10日に大田区馬込東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32-8)の新築の邸宅へ転居。6月2日に長女・紀子が誕生。8月から小高根二郎が『果樹園』に連載開始した「蓮田善明とその死」を読む(以降、最終回の昭和43年11月まで)。9月14日に来日中のテネシー・ウィリアムズと対談。 9月に書き下ろし長編『鏡子の家』第一部(上巻)・第二部(下巻)を新潮社より刊行。11月に日記『裸体と衣裳』を新潮社より刊行。同月28日・29日に文藝春秋祭の文士劇『弁天娘女男白浪』に出演(弁天小僧菊之助役。東京宝塚劇場にて)。12月16日にテレビ番組『スター千一夜』に出演。 |
1960年(昭和35年) | 35歳。1月から「宴のあと」を『中央公論』に連載(10月まで)。同月24日にニューヨークCBSのテレビ番組『Twentieth Century』に出演。2月から、主演を務める大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)の撮影(封切3月23日)。3月1日の西銀座デパート内での撮影でエスカレーターに頭部を強打し、虎の門病院に10日間入院。4月にワイルド原作(訳・日夏耿之介)『サロメ』の脚色劇を文学座が初演。5月23日に自宅屋上にて早朝UFOを妻と目撃。 6月18日に日米安保条約反対の国会周辺デモを見学。8月に浜松航空自衛隊、浜名湖、西伊豆(安良里、田子)へ取材旅行。11月から夫人同伴で世界旅行に渡航(翌年1月まで)。同月にロサンゼルスのディズニーランドに行く。フォービアン・バワーズ宅でグレタ・ガルボに会う。12月にパリで憧れのジャン・コクトーと初対面。同月にロンドンでアーサー・ウェイリー、スティーブン・スペンダーと会う。 |
1961年(昭和36年) | 36歳。1月に「憂国」を『小説中央公論』に発表。同月にローマでジョヴァンニ・アルディニにアポロ像の作製を依頼。香港を最後に1月20日に日本に帰国。2月に深沢七郎の小説『風流夢譚』を巡る嶋中事件に巻き込まれ、右翼から脅迫。3月15日に『宴のあと』のモデル問題で有田八郎からプライバシー侵害だと提訴される。4月23日に剣道初段合格。5月に川端康成に依頼された英文のノーベル文学賞推薦文を送る。 6月から「獣の戯れ」を『週刊新潮』に連載(9月まで)。9月から写真家・細江英公の被写体となる(昭和38年3月に『薔薇刑』として刊行)。同月に米誌『ホリデイ』に招かれ、サンフランシスコでの日本シンポジウムに出席。「Japanese Youth(日本の青年)」と題し講演。ABCテレビでインタビューを受ける。11月に「鉢の木会」を脱会。同月に『十日の菊』が文学座により初演。この作品で第13回読売文学賞戯曲賞受賞(決定は翌年1月)。 12月にパリの雑誌『エクスプレス』が小説『金閣寺』を紹介。同月に金沢へ取材旅行。 |
1962年(昭和37年) | 37歳。1月から「美しい星」を『新潮』に連載(11月まで)。3月に『黒蜥蜴』がプロデューサー・システムにより初演。3月5日にハリー・マーティンソンの希望でスウェーデン参事官邸に川端康成、大岡昇平、伊藤整、石川淳ら約20名と共に招かれる。5月2日に長男・威一郎が誕生。7月に運転免許取得。7月20日に、6月から度々面会強要していた24歳青年が三島宅の住居侵入現行犯で逮捕。9月に横浜港で三井船舶の貨物船を取材。 12月22日に知人らを招いて自宅でクリスマスパーティーを開催(昭和40年まで毎年続く)。 |
1963年(昭和38年) | 38歳。1月14日に文学座から芥川比呂志、岸田今日子ら29人の劇団員が脱退。福田恆存を中心とする「劇団雲」が結成され、三島はとり残される。同月から「私の遍歴時代」を『東京新聞』に連載(5月まで)。3月24日に剣道二段に合格。6月に川端康成、谷崎潤一郎、伊藤整、大岡昇平、高見順、ドナルド・キーンらと共に中央公論社の『日本の文学』編集委員となる。8月に彦根、近江八景へ取材旅行。 9月に書き下ろし長編『午後の曳航』を講談社より刊行。11月に杉村春子らの出演拒否により『喜びの琴』が上演中止になり、三島は文学座を退団(喜びの琴事件)。12月に短編集『剣』を講談社より刊行。同月にスウェーデン有力紙の特集「世界の文豪」の中に入る。 |
1964年(昭和39年) | 39歳。1月から「絹と明察」を『群像』に連載(10月まで)。この作品で第6回毎日芸術賞受賞(決定は翌年1月)。同月10日に、文学座を一緒に脱退したメンバーと「劇団NLT」を結成。3月22日に剣道三段に合格。5月6日に佐藤春夫が死去(没年齢72歳)。告別式に行く。5月に『宴のあと』が1964年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。『金閣寺』も第4回国際文学賞で2位受賞。8月に伊豆下田へ家族旅行(以降、毎年恒例となる)。 9月28日に「宴のあと」裁判第一審で敗訴。10月に東京オリンピックの新聞特派員記者として連日取材活動。 |
1965年(昭和40年) | 40歳。2月から京都、奈良の圓照寺へ取材旅行。3月4日に有田八郎が死去(没年齢80歳)。同月にブリティッシュ・カウンシルの招待で渡英。ダフ・クーパー賞を受賞したアイヴァン・モリスを祝う。マーゴ・フォンテイン、エドナ・オブライエン、アンガス・ウィルソンらと会う。4月に村松剛と佐伯彰一らの復刊雑誌『批評』の同人となる。 4月30日に短編映画『憂国』完成(封切は翌年4月)。この作品でツール国際短編映画祭劇映画部門第2位受賞(決定は翌年1月)。7月30日に谷崎潤一郎が死去(没年齢79歳)。9月から「春の雪(豊饒の海 第一巻)」を『新潮』に連載(昭和42年1月まで)。同月から夫人同伴で米国、欧州、東南アジア、カンボジアへ取材旅行(11月まで)。10月にノーベル文学賞最終候補と報じられる。 11月から「太陽と鉄」を『批評』に連載(昭和43年6月まで)。同月に『サド侯爵夫人』が劇団NLTにより初演。この作品で第20回文部省芸術祭賞受賞(決定は翌年1月)。同月から居合抜きを習い始める。 |
1966年(昭和41年) | 41歳。1月31日に国会議員と剣道の親善試合。橋本龍太郎と対戦し引き分ける。2月11日に建国記念日祝賀行進に参加。5月29日に剣道四段に合格。6月に「英霊の聲」を『文藝』に発表。6月30日にビートルズ初日公演を観る。同月下旬にファンの青年が窓ガラスを割って三島宅に侵入。7月9日に丸山明宏のチャリティーリサイタルに出演。自作詞の歌を熱唱。同月に芥川賞選考委員となる(第55回から昭和45年度上半期・第63回まで)。 8月に大神神社、広島の江田島海上自衛隊第一術科学校、熊本神風連の地へ取材旅行。清水文雄、荒木精之、森本忠、蓮田善明未亡人と面会。日本刀を購入。9月に米誌『ライフ』が三島を特集。10月に自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者らに依頼。11月11日に両陛下主催の秋の園遊会に招待され出席。11月25日に有田八郎の遺族と裁判和解成立。 12月頃に舩坂弘から序文の礼として日本刀・関孫六をもらう(贋物をつかまされたという説もあり)。同月に雑誌『論争ジャーナル』創刊準備中の万代潔が林房雄の紹介で来訪。 |
1967年(昭和42年) | 42歳。1月に『論争ジャーナル』の万代潔、中辻和彦が来訪。後日、日本学生同盟の持丸博も初来訪。同月にゴールデン・アロー賞の話題賞受賞。2月から「奔馬 (豊饒の海 第二巻)を『新潮』に連載(翌年8月まで)。2月12日に居合初段に合格。2月28日に川端康成、安部公房、石川淳と共に、中共の文化大革命に対する抗議声明発表。4月19日から単身で本名の「平岡公威」で自衛隊体験入隊(5月27日まで)。 5月に『真夏の死 その他』が1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞(『午後の曳航』も候補作品)。同月に『平凡パンチ』の「オール日本ミスター・ダンディはだれか?」で19,590得票の第1位獲得(2位は三船敏郎)。6月19日に早大国防部の代表・森田必勝と出逢う。7月2日から1週間、森田ら早大国防部と自衛隊北海道北恵庭駐屯地で体験入隊。同月から空手を始める(6月に日本空手協会道場に入門)。 9月に『葉隠入門』を光文社より刊行。同月下旬から夫人同伴でインド、タイ、ラオスへ取材旅行。10月にインドでガンディー首相、フセイン大統領、陸軍大佐と面会。ラオスではルアン・プラバン王宮で国王に謁見。同月に『朱雀家の滅亡』が劇団NLTにより初演。同月に再びノーベル文学賞候補と報じられる。11月に『論争ジャーナル』グループと民兵組織「祖国防衛隊」構想の試案パンフレット作成。12月5日に航空自衛隊のF-104戦闘機に試乗。同月末に山本舜勝と初対面。 |
1968年(昭和43年) | 43歳。3月1日から1か月間、学生らを引率し自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で第1回自衛隊体験入隊(以降、昭和45年まで5回の体験入隊と、2回のリフレッシャー・コース体験入隊を実施)。4月に劇団浪曼劇場を結成。5月に日本学生同盟の理論合宿に林房雄、村松剛と共に参加。同月から評論「小説とは何か」を『波』に連載(昭和45年11月まで)。6月に日本文化会議設立の発起人に参加し理事となる。 7月に「文化防衛論」を『中央公論』に発表。8月11日に剣道五段に合格。9月から「暁の寺』(豊饒の海 第三巻)」を『新潮』に連載(昭和45年4月まで)。10月5日に「祖国防衛隊」から改め「楯の会」を正式結成。10月17日に川端康成がノーベル文学賞受賞。11月10日に阿川弘之と共に東大に赴き、全共闘により軟禁中の林健太郎に面会を求めるが果たせず(林健太郎監禁事件)。10月21日に国際反戦デーの新宿騒乱視察。 |
1969年(昭和44年) | 44歳。1月に『わが友ヒットラー』が劇団浪曼劇場により初演。5月13日に東大全共闘委員会主催の討論会に出席。同月に保利茂官房長官から東京都知事選出馬を勧誘される。6月に大映京都撮影所で田中新兵衛を演じる映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影(8月9日封切)。7月に『癩王のテラス』が劇団浪曼劇場+劇団雲+東宝により初演。同月に評論集『若きサムラヒのために』を日本教文社より刊行。 10月12日に、持丸博の退会に伴い「楯の会」学生長が森田必勝になる。10月21日に国際反戦デーの新宿デモ視察。11月3日に国立劇場屋上で「楯の会」結成1周年記念パレード。同月に最後の短編「蘭陵王」を『群像』に発表。歌舞伎『椿説弓張月』が国立劇場大劇場で初演。12月14日に居合二段に合格。 |
1970年(昭和45年) | 45歳。2月に男子高校生が来訪し、「先生はいつ死ぬんですか」と質問される。4月5日に第1回世界剣道選手権大会に参加。台湾の五段選手と対戦し引き分ける。同月に日本文化会議と『批評』同人を辞める。6月17日に空手初段に合格。7月から「天人五衰(豊饒の海 第四巻)」を『新潮』に連載(翌年1月まで)。7月7日に「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」を『サンケイ新聞』に発表。8月に毎年恒例の伊豆下田へ最後の家族旅行。 9月に対談集『尚武のこころ』を日本教文社より刊行。10月に対談集『源泉の感情』を河出書房新社より刊行。11月12日から17日まで池袋の東急百貨店で「三島由紀夫展」開催。11月25日に「楯の会」メンバー4名と共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東部方面総監部にて益田兼利総監を拘束し、バルコニーで演説(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決。 |
おもな作品
★印は学習院時代の作品。
◎印は映画化された作品。
◇印はテレビ・ラジオドラマ化(朗読含む)された作品。
△印は漫画化された作品。
■印は三島自身の肉声資料があるもの。
短編小説
酸模 ――秋彦の幼き思ひ出(輔仁会雑誌 1938年3月)★- 座禅物語(輔仁会雑誌 1938年3月)★
- 墓参り(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」の一作。
暁鐘聖歌 (輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」の一作。- 心のかゞやき(1940年3月)★ - 未完
- 仔熊の話(1940年6月)★
- 神官(1940年)★
彩絵硝子 (輔仁会雑誌 1940年11月)★- 花ざかりの森(文藝文化 1941年9月-12月)★
青垣山 の物語(1942年2月)★苧菟と瑪耶 (赤繪 1942年7月)★- みのもの月(文藝文化 1942年11月)★
玉刻春 (輔仁会雑誌 1942年12月)★- 世々に残さん(文藝文化 1943年3月)★
- 祈りの日記(赤絵 1943年6月)★
曼荼羅 物語(輔仁会雑誌 1943年12月)★檜扇 (1944年1月)★ - 2000年11月『新潮』初掲載[561]。- 朝倉(文藝世紀 1944年7月)★
- 中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃(文藝文化 1944年8月)★ - 改題前は「夜の車」
- 中世(文藝世紀 1945年2月-1946年1月、人間 1946年12月)
- エスガイの狩(文藝 1945年5・6月。戦乱のため発行は8月に遅延)
- 黒島の王の物語の一場面(東雲 1945年6月)
菖蒲前 (現代 1945年10月)- 贋ドン・ファン記(新世紀 1946年6月)
- 煙草(人間 1946年6月)
- 岬にての物語(群像 1946年11月)
- 恋と別離と(婦人画報 1947年3月)
- 軽王子と衣通姫(群像 1947年4月)
鴉 (光耀 1947年8月)- 夜の仕度(人間 1947年8月)
- ラウドスピーカー(文藝大学 1947年12月)
- 春子(人間 1947年12月)
- サーカス(進路 1948年1月)◇■
- 婦徳(令女界 1948年1月)
- 接吻(マドモアゼル 1948年1月)
- 伝説(マドモアゼル 1948年1月)
- 白鳥(マドモアゼル 1948年1月)
- 哲学(マドモアゼル 1948年1月)
- 蝶々(花 1948年2月) - 改題前は「晴れた日に」
- 殉教(丹頂 1948年4月)
- 親切な男(新世間 1948年4月)
- 家族合せ(文學季刊 1948年4月)
- 人間喜劇(1948年4月執筆[注釈 37]) - 1974年10月刊行の全集2巻に初収録。
- 頭文字(文學界 1948年6月)
- 慈善(改造 1948年6月)
- 宝石売買(文藝 1948年6月)
- 罪びと(婦人 1948年7月)
- 好色(小説界 1948年7月)
- 不実な洋傘(婦人公論 1948年10月)
- 山羊の首(別冊文藝春秋 1948年11月)
- 獅子(序曲 1948年12月)
- 幸福といふ病気の療法(文藝 1949年1月)
恋重荷 (群像 1949年1月)- 毒薬の社会的効用について(風雪 1949年1月)
- 大臣(新潮 1949年1月)
- 魔群の通過(別冊文藝春秋 1949年2月)
侍童 (小説新潮 1949年3月)- 天国に結ぶ恋(オール讀物 1949年6月)
訃音 (改造 1949年7月)- 舞台稽古(女性改造 1949年9月)
- 星(評論 1949年9月)
- 薔薇(文藝往来 1949年10月)
- 退屈な旅(別冊小説新潮 1949年10月)
- 親切な機械(風雪 1949年11月)
孝経 (展望 1949年11月)- 火山の休暇(改造文藝 1949年11月)
- 怪物(別冊文藝春秋 1949年12月)
花山院 (婦人朝日 1950年1月)- 果実(新潮 1950年1月)
鴛鴦 (文學界 1950年1月)- 修学旅行(週刊朝日 1950年3月1日)
- 日曜日(中央公論 1950年7月)
遠乗会 (別冊文藝春秋 1950年8月)◇孤閨悶々 (オール讀物 1950年8月)- 日食(朝日新聞夕刊 1950年9月19日)
- 食道楽(サンデー毎日別冊 1950年10月20日)
- 牝犬(別冊文藝春秋 1950年12月)
- 女流立志伝(オール讀物 1951年1月)
- 家庭裁判(文藝春秋 1951年1月)
- 偉大な姉妹(新潮 1951年3月)
- 箱根細工(小説公園 1951年3月)
- 椅子(別冊文藝春秋 1951年3月)
- 死の島(改造 1951年4月)
- 翼――ゴーティエ風の物語(文學界 1951年5月)
- 右領収
仕候 (オール讀物 1951年5月) - 手長姫(小説新潮 1951年6月)
- 朝顔(婦人公論 1951年8月)
- 携帯用(新潮 1951年10月)
- 離宮の松(別冊文藝春秋 1951年12月)
- クロスワード・パズル(文藝春秋 1952年1月)
- 学生歌舞伎
気質 (小説新潮 1952年1月) - 近世
姑気質 (オール讀物 1952年1月) - 金魚と奥様(オール讀物 1952年9月)
- 真夏の死(新潮 1952年10月)◇ - 1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
- 二人の老嬢(週刊朝日 1952年11月30日)
美神 (文藝 1952年12月)◇- 江口
初女 覚書(別冊文藝春秋 1953年4月) - 雛の宿(オール讀物 1953年4月)
- 旅の墓碑銘(新潮 1953年6月)
- 急停車(中央公論 1953年6月)
- 卵(群像 1953年6月)
- 不満な女たち(文藝春秋 1953年7月)
- 花火(改造 1953年9月)◇
- ラディゲの死(中央公論 1953年10月)
- 陽気な恋人(サンデー毎日 1953年10月30日)
- 博覧会(群像 1954年6月)
- 芸術
狐 (オール讀物 1954年6月) - 鍵のかかる部屋(新潮 1954年7月)
- 復讐(別冊文藝春秋 1954年7月)◇
- 詩を書く少年(文學界 1954年8月)
志賀寺上人の恋 (文藝春秋 1954年10月)水音 (世界 1954年11月)- S・O・S(小説新潮 1954年11月)
- 海と夕焼(群像 1955年1月)
- 新聞紙(文藝 1955年3月)
- 商ひ人(新潮 1955年4月)
- 山の魂(別冊文藝春秋 1955年4月)
- 屋根を歩む(オール讀物 1955年5月)
- 牡丹(文藝 1955年7月)
- 青いどてら(朝日新聞 1956年1月15日)
- 十九歳(文藝 1956年3月)◇
- 足の星座(オール讀物 1956年7月)
施餓鬼舟 (群像 1956年10月)- 橋づくし(文藝春秋 1956年12月)◇
- 女方(世界 1957年1月)
- 色好みの宮(オール讀物 1957年7月)
貴顕 (中央公論 1957年8月)- 影(オール讀物 1959年11月)
- 百万円煎餅(新潮 1960年9月)
- 愛の処刑(ADONIS 1960年10月)◎
- スタア(群像 1960年11月)
- 憂国(小説中央公論 1961年1月)◎
- 苺(オール讀物 1961年9月)
- 帽子の花(群像 1962年1月)
- 魔法瓶(文藝春秋 1962年1月)
- 月(世界 1962年8月)
- 葡萄パン(世界 1963年1月)
- 真珠(文藝 1963年1月)◇
- 自動車(オール讀物 1963年1月)
- 可哀さうなパパ(小説新潮 1963年3月)
- 雨のなかの噴水(新潮 1963年8月)
- 切符(中央公論 1963年8月)
- 剣(新潮 1963年10月)◎◇
- 月澹荘綺譚(文藝春秋 1965年1月)◇
- 三熊野詣(新潮 1965年1月)◇
- 孔雀(文學界 1965年2月)
- 朝の純愛(日本 1965年6月)
- 仲間(文藝 1966年1月)
- 英霊の聲(文藝 1966年6月)■
- 先行試作「悪臣の歌」(1966年)あり。
- 荒野より(群像 1966年10月)
- 時計(文藝春秋 1967年1月)
- 蘭陵王(群像 1969年11月)
長編小説
- 盗賊(1947年12月 - 1948年11月)
- 第1章(午前 1948年2月)
- 第2章(文學会議 1947年12月)
- 第3章(思潮 1948年3月)
- 第4章(文學会議 1948年10月)
- 第5章(新文學 1948年2月)
- 第6章(書き下ろし/真光社 1948年11月)
- 仮面の告白(書き下ろし/河出書房 1949年7月)
- 純白の夜(婦人公論 1950年1月-10月)◎◇
- 愛の渇き(書き下ろし/新潮社 1950年6月)◎
- 青の時代(新潮 1950年7月-12月)
- 禁色(群像 1951年1月-1953年8月)
- 第1章-第18章(群像 1951年1月-10月)
- 第19章-第33章(文學界 1952年8月-1953年8月)
- 夏子の冒険(週刊朝日 1951年8月5日-11月25日)◎◇
- につぽん製(朝日新聞 1952年11月1日-1953年1月31日)◎◇
- 恋の都(主婦之友 1953年8月-1954年7月)◎
- 潮騒(書き下ろし/新潮社 1954年6月)◎◇ - 第1回新潮社文学賞受賞。
- 女神(婦人朝日 1954年8月-1955年3月)◇
- 沈める滝(中央公論 1955年1月-4月)◇
- 幸福号出帆(読売新聞 1955年6月18日-11月15日)◎
- 金閣寺(新潮 1956年1月-10月)◎◇ - 第8回読売文学賞小説部門賞受賞。
- 永すぎた春(婦人倶楽部 1956年1月-12月)◎◇
- 美徳のよろめき(群像 1957年4月-6月)◎◇
- 鏡子の家(書き下ろし/新潮社 1959年9月)◇
- 第1章-第2章途中まで(聲 1958年10月)
- 宴のあと(中央公論 1960年1月-10月) - 1964年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
- お嬢さん(若い女性 1960年1月-12月)◎◇
- 獣の戯れ(週刊新潮 1961年6月12日-9月4日)◎
- 美しい星(新潮 1962年1月-11月)◎◇
- 愛の疾走(婦人倶楽部 1962年1月-12月)
- 肉体の学校(マドモアゼル 1963年1月-12月)◎◇
- 午後の曳航(書き下ろし/講談社 1963年9月)◎ - 1967年フォルメントール国際文学賞候補作品。
- 絹と明察(群像 1964年1月-10月) - 第6回毎日芸術賞文学部門賞受賞。
- 音楽(婦人公論 1964年1月-12月)◎
- 春の雪〈豊饒の海・第一巻〉(新潮 1965年9月-1967年1月)◎◇△
- 複雑な彼(女性セブン 1966年1月-7月)◎
- 三島由紀夫レター教室(女性自身 1966年9月26日-1967年5月15日)◇
- 夜会服(マドモアゼル 1966年9月-1967年8月)
- 奔馬〈豊饒の海・第二巻〉(新潮 1967年2月-1968年8月)
- 命売ります(週刊プレイボーイ 1968年5月21日-10月8日)
- 暁の寺〈豊饒の海・第三巻〉(新潮 1968年9月-1970年4月)
- 天人五衰〈豊饒の海・第四巻〉(新潮 1970年7月-1971年1月)
戯曲・歌舞伎
☆印は潤色・修辞作品
- 東の博士たち(輔仁会雑誌 1939年3月)★
- 路程(1939年9月28日以前)★
- 基督降誕記(1939年8月-9月)★
- 館(輔仁会雑誌 1939年11月)★ - 中断した未完の第2回は2000年11月『新潮』初掲載[561]。
- やがてみ楯と(1943年6月)★ - 学習院輔仁会春季文化大会で上演。
狐会菊有明 (まほろば 1944年3月) - 舞踊劇。未上演。- あやめ(婦人文庫 1948年5月)◇
- 火宅(人間 1948年11月)
- 愛の不安(文藝往来 1949年2月)
- 燈台(文學界 1949年5月)◇
- ニオベ(群像 1949年10月)
- 聖女(中央公論 1949年10月)
魔神礼拝 (改造 1950年3月)- 邯鄲――近代能楽集ノ内(人間 1950年10月)
- 綾の鼓――近代能楽集ノ内(中央公論 1951年1月)
艶競近松娘 (柳橋みどり会プログラム 1951年10月) - 舞踊劇。- 姫君と鏡(青山圭男若柳登・新作舞踊発表会プログラム 1951年11月) - 舞踊劇。
- 鯉になつた和尚さん(誠文堂新光社 1951年11月) - わだよしおみ(和田義臣)との共同脚本。上田秋成『雨月物語』の「夢応の鯉魚」を翻案とした童話劇。
- 卒塔婆小町――近代能楽集ノ内(群像 1952年1月)◇
- 紳士(演劇 1952年1月) - 無言劇。
- 只ほど高いものはない(新潮 1952年2月)
- 夜の
向日葵 (群像 1953年4月) 室町反魂香 (柳橋みどり会プログラム 1953年10月) - 舞踊劇。- 地獄変(1953年12月初演)◇ - 芥川龍之介の小説『地獄変』の竹本劇化(義太夫語りを含む歌舞伎)。
- 葵上――近代能楽集ノ内(新潮 1954年1月)◇
- 若人よ蘇れ(群像 1954年6月)
- 溶けた天女(新劇 1954年7月) - オペレッタ。未上演。
- ボン・ディア・セニョーラ(1954年9月初演) - オペレッタ。1974年の全集で初活字化。
- 鰯売恋曳網(演劇界 1954年11月)
- ボクシング(文化放送脚本 1954年11月)◇ - 第9回文部省芸術祭放送部門参加。
- 班女――近代能楽集ノ内(新潮 1955年1月)◇
- 恋には七ツの鍵がある(1955年3月初演) - 全19景のオムニバス劇(三島のほか、村松梢風、東郷青児、小牧正英、北條誠、トニー谷、三林亮太郎が執筆)の第2景-第4景の「恋を開く酒の鍵」を担当。
- 熊野(三田文学 1955年5月) - 歌舞伎舞踊。
- 三原色(知性 1955年8月)
- 船の挨拶(文藝 1955年8月)◇
- 白蟻の巣(文藝 1955年9月) - 第2回岸田演劇賞受賞。
芙蓉露大内実記 (文藝 1955年12月) - エウリピデスの『ヒッポリュトス』と、ジャン・ラシーヌの『フェードル』を翻案とした歌舞伎。大障碍 (文學界 1956年3月)◇- 鹿鳴館(文學界 1956年12月)◎◇
- オルフェ(1956年12月初演) - ジャン・コクトーの映画『オルフェ』の舞踊劇化。
- 道成寺――近代能楽集ノ内(新潮 1957年1月)◇
- ブリタニキュス(新劇 1957年4月)☆ - ジャン・ラシーヌ原作・安堂信也邦訳版。
- 朝の
躑躅 (文學界 1957年7月) - 附子(1957年) - 1971年4月『中央公論』初掲載。
- Long After Love(1957年) - 1971年5月『中央公論』初掲載。
- 薔薇と海賊(群像 1958年5月) - 週刊読売新劇賞受賞。
- 舞踊台本・橋づくし(柳橋みどり会プログラム 1958年10月)
- むすめごのみ
帯取池 (日本 1958年12月) - 山東京伝の読本『桜姫全伝曙草紙』を翻案とした歌舞伎。 - 熊野――近代能楽集ノ内(聲 1959年4月)◇
- 女は占領されない(聲 1959年10月)
- 熱帯樹(聲 1960年1月)
- サロメ(1960年4月初演)☆ - オスカー・ワイルド原作・日夏耿之介邦訳版。
- 弱法師――近代能楽集ノ内(聲 1960年7月)
- 十日の菊(文學界 1961年12月) - 第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞。
- 黒蜥蜴(婦人画報 1961年12月)◎ - 江戸川乱歩の小説『黒蜥蜴』の戯曲化。
- 源氏供養――近代能楽集ノ内(文藝 1962年3月)
- プロゼルピーナ(1962年11月初演)☆ - 翻訳独白劇。ゲーテ原作・三島由紀夫邦訳版。
- トスカ(1963年6月上演)☆ - ヴィクトリアン・サルドゥ原作・安堂信也邦訳版。
- 喜びの琴(文藝 1964年2月)
美濃子 (新潮社 1964年2月) - オペラ劇。黛敏郎の作曲が間に合わず、未上演。- 恋の帆影(文學界 1964年10月)
- ちびくろさんぼのぼうけん(学習院幼稚園 1964年12月)☆ - お遊戯会用。
- 聖セバスチァンの殉教(批評 1965年4月) - ダンヌンツィオ原作劇の翻訳(池田弘太郎との共訳)。
- サド侯爵夫人(文藝 1965年11月) - 文部省芸術祭演劇部門芸術祭賞受賞。
- 舌切雀(学習院幼稚園 1965年12月)☆ – お遊戯会用。
- リュイ・ブラス(1966年10月初演)☆ - ヴィクトル・ユゴー原作・池田弘太郎邦訳版。
- アラビアン・ナイト(1967年3月初演) - 『アラビアンナイト』を翻案とした戯曲。
- 朱雀家の滅亡(文藝 1967年10月)
- ミランダ(心 1968年10月) - バレエ劇。
- 双頭の鷲(1968年10月)☆ - 監修。ジャン・コクトー原作・池田弘太郎邦訳版。
- わが友ヒットラー(文學界 1968年12月)■[563]
- 癩王のテラス(海 1969年7月)
- 椿説弓張月(海 1969年11月)■[563] - 曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』の歌舞伎化。文楽浄瑠璃化もあり(1971年11月初演)。
随想・自伝・エッセイ・日誌・紀行
- 狸の信者(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「
鈴鹿鈔 」の一作。 惟神之道 (1941年9月)★- 芝居日記(1942年1月-1947年11月)★ - 原題「平岡公威劇評集」。1989年10月-1990年2月『マリ・クレール』初掲載。
- 東文彦 弔詞(1943年10月) - 1998年12月『新潮』掲載。
- 東徤兄を
哭 す(輔仁会雑誌 1943年12月)★ 柳桜雑見録 (文藝文化 1943年12月)★- 平岡公威伝(1944年2月)★
- 扮装狂(1944年8月)★ - 2000年11月『新潮』初掲載[561]。
- 廃墟の朝(1944年夏)★
- 詩論その他(1945年5月-6月) - 2000年11月『新潮』に初抜粋掲載[561]。
- 別れ(輔仁会報 1945年7月)
- 昭和廿年八月の記念に(1945年8月) - 1979年3月『新潮』初掲載。
- 戦後語録(1945年9月)
- 川端康成印象記(1946年1月)
- わが世代の革命(午前 1946年7月)
- 招かれざる客(書評 1947年9月)
- 重症者の兇器(人間 1948年3月)
- 師弟(青年 1948年4月)
- ツタンカーメンの結婚(財政 1948年5月)
- 反時代的な芸術家(玄想 1948年9月)
- 悲劇の
在処 (東京日日新聞 1949年6月28日) - 戯曲を書きたがる小説書きのノート(日本演劇 1949年10月)
- 大阪の連込宿――「愛の渇き」の調査旅行の一夜(文藝春秋 1950年6月)
- 虚栄について(美しい暮しの手帖 1950年10月)
- 声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性(スタイル 1950年12月)
- アポロの杯(各誌 1952年4月-8月、朝日新聞社 10月)
- 遠視眼の旅人(週刊朝日 1952年6月8日)
- 最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙(婦人公論 1952年12月)
- 私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に(別冊文藝春秋 1952年12月)
- 愉しき御航海を――皇太子殿下へ(1953年3月) - 発表誌未詳。
蔵相 就任の想ひ出――ボクは大蔵大臣(明窓 1953年4月・5月)- 堂々めぐりの放浪(毎日新聞 1953年8月22日)
- 芝居と私(文學界 1954年1月)
- 女ぎらひの弁(新潮 1954年8月)
- 好きな女性(知性 1954年8月)
- 私の小説の方法(河出書房 1954年9月) - 『文章講座4』収録。
- 空白の役割(新潮 1955年6月)
- 終末感からの出発――昭和二十年の自画像(新潮 1955年8月)
- 八月十五日前後(毎日新聞 1955年8月14日)
- 戯曲の誘惑(東京新聞 1955年9月6日-7日)
- 小説家の休暇(書き下ろし/講談社 1955年11月)
- 新恋愛講座(明星 1955年12月-1956年12月)
- 歴史の外に自分をたづねて――三十代の処生(中央公論 1956年2月)
- ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴(日本読書新聞 1956年2月20日)
- わが漫画(漫画読売 1956年3月5日)
- わが魅せられたるもの(新女苑 1956年4月)
- 自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒(文學界 1956年8月)
- ボディ・ビル哲学(漫画読売 1956年9月20日)
- 或る寓話(群像 1956年10月)
- 文学とスポーツ(新体育 1956年10月)
- ボクシングと小説(毎日新聞 1956年10月7日)
- 陶酔について(新潮 1956年11月)
- わが思春期(明星 1957年1月-9月)
- 旅の絵本(各誌 1957年12月-1958年4月)■
- 裸体と衣裳――日記(新潮 1958年4月-1959年9月)
- 外遊日記(新潮 1958年7月、9月、11月)
- 不道徳教育講座(週刊明星 1958年7月27日-1959年11月29日)◎◇
- 私の見合結婚(主婦の友 1958年7月)
- 作家と結婚(婦人公論 1958年7月)
- 母を語る――私の最上の読者(婦人生活 1958年10月)
- 同人雑記(聲 1958年10月-1960年10月)
- 十八歳と三十四歳の肖像画(群像 1959年5月)
- ぼくはオブジェになりたい(週刊公論 1959年12月1日)
- 夢の原料(輔仁会雑誌 1960年12月)
- ピラミッドと麻薬(毎日新聞 1961年1月28日)
- 美に逆らふもの(新潮 1961年4月) - タイガーバームガーデン紀行。
- 汽車への郷愁(弘済 1961年5月)
- 法律と文学(東大緑会大会プログラム 1961年12月)
- 第一の性(女性明星 1962年12月-1964年12月)
- 私の遍歴時代(東京新聞 1963年1月10日-5月23日)
- 私の中の“男らしさ”の告白(婦人公論 1963年4月)
- 小説家の息子(教育月報 1963年7月)
- 一S・Fファンのわがままな希望(宇宙塵 1963年9月)
- わが創作方法(文學 1963年11月)
- 写真集「薔薇刑」のモデルをつとめて――ぷらす・まいなす'63(読売新聞 1963年12月28日)
- 夢と人生(岩波書店 1964年5月) - 『日本古典文学大系77 篁物語・平中物語・浜松中納言物語』月報
- 私の小説作法(毎日新聞 1964年5月10日)
- 天狗道(文學界 1964年7月)
- 熊野路――新日本名所案内(週刊朝日 1964年8月28日)
- 秋冬随筆(こうさい 1964年10月-1965年3月)
- 実感的スポーツ論(読売新聞 1964年10月5日-6日、9日-10日、12日)
- 東洋と西洋を結び火――開会式(毎日新聞 1964年10月11日)
- 「別れもたのし」の祭典――閉会式(報知新聞 1964年10月25日)
- 男のおしやれ(平凡通信 1964年12月)
- 反貞女大学(産経新聞 1965年2月7日-12月19日)
- 法学士と小説(学士会会報 1965年2月)
- ロンドン通信・英国紀行(毎日新聞 1965年3月25日・4月9日-10日)
- 私の戦争と戦後体験――二十年目の八月十五日(潮 1965年8月)
- 太陽と鉄(批評 1965年11月-1968年6月)
- をはりの美学(女性自身 1966年2月14日-8月1日)
- 「われら」からの遁走――私の文学(講談社 1966年3月) - 『われらの文学5 三島由紀夫』収録。
- わが育児論(主婦の友 1966年4月)
- 二・二六事件と私(河出書房新社 1966年6月) - 作品集『英霊の聲』付録。
- 闘牛士の美(平凡パンチ 1966年6月10日)
- 私の遺書(文學界 1966年7月)
- 私のきらひな人(話の詩集 1966年7月)
- ビートルズ見物記(女性自身 1966年7月18日)
- 私の健康法――まづボデービル(読売新聞 1966年8月21日)
- 年頭の迷ひ(読売新聞 1967年1月1日)
- 男の美学(HEIBONパンチDELUXE 1967年3月)
紫陽花 の母(潮文社 1967年10月) - TBSラジオ「母を語る」活字化。- いかにして永生を?(文學界 1967年10月)
- 青年について(論争ジャーナル 1967年10月) - 万代潔との出逢いを語る。
- インドの印象(毎日新聞 1967年10月20日-21日)
- 「文芸文化」のころ(番町書房 1968年1月) - 『昭和批評大系2 昭和10年代』月報
- 日本の古典と私(秋田魁新報 1968年1月1日)
- F104(文藝 1968年2月) - F104戦闘機試乗体験記。
- 電灯のイデア――わが文学の揺籃期(新潮社 1968年9月) - 『新潮日本文学45 三島由紀夫集』月報1
- 軍服を着る男の条件(平凡パンチ 1968年11月11日)
- 怪獣の私生活(NOW 1968年12月)
- ホテル(朝日新聞PR版 1969年5月25日)
- 「人斬り」出演の記(大映グラフ 1969年8月)
- 劇画における若者論(サンデー毎日 1970年2月1日)
- 独楽(辺境 1970年9月)
- 愛するといふこと(女の部屋 1970年9月)
- 滝ヶ原分屯地は第二の我が家(たきがはら 1970年9月25日)
文芸評論・作家論・芸術論・劇評
- 田中冬二小論(1940年6月)★
- 王朝心理文学小史(1942年1月)★ - 学習院図書館の第4回懸賞論文に入選。
- 古今の季節(文藝文化 1942年7月)★
- 伊勢物語のこと(文藝文化 1942年11月)★
- うたはあまねし(文藝文化 1942年12月)★
- 夢野之鹿(輔仁会雑誌 1943年12月)★
- 古座の玉石――伊東静雄覚書(文藝文化 1944年1月)★
- 檀一雄「花筐」――覚書(まほろば 1944年6月)★
- 川端氏の「抒情歌」について(民生新聞 1946年4月29日)
- 宗十郎のことなど――俳優論」(日本演劇 1947年4月) - 改題前は「澤村宗十郎について」
- 宗十郎覚書(スクリーン・ステージ 1947年10月20日)
- 相聞歌の源流(日本短歌 1948年1月・2月)
- 情死について――やゝ矯激な議論(婦人文庫 1948年10月)
- 川端康成論の一方法――「作品」について(近代文学 1949年1月)
- 中村芝翫論(季刊劇場 1949年2月)
- 小説の技巧について(世界文学 1949年3月)
- 雨月物語について(文藝往来 1949年9月)
- 極く短かい小説の効用(小説界 1949年12月)
- オスカア・ワイルド論(改造文藝 1950年4月)
- 文学に於ける春のめざめ(女性改造 1951年4月)
- 批評家に小説がわかるか(中央公論 1951年6月)
- 新古典派(文學界 1951年7月)
- 日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?(演劇 1951年11月)
- 「班女」拝見(観世 1952年7月)
- 卑俗な文体について(群像 1954年1月)
- ワットオの《シテエルへの船出》(芸術新潮 1954年4月)
- 芥川龍之介について(文藝 1954年12月)
- 横光利一と川端康成(河出書房 1955年2月) - 『文章講座6』収録。
- 川端康成ベスト・スリー――「山の音」「反橋連作」「禽獣」(毎日新聞 1955年4月11日)
- 芸術にエロスは必要か(文藝 1955年6月)
- 福田恆存氏の顔(新潮 1955年7月)
- 加藤道夫氏のこと(毎日マンスリー 1955年9月)
- ぼくの映画をみる尺度・シネマスコープと演劇(スクリーン 1956年2月)
- 永遠の旅人――川端康成氏の人と作品(別冊文藝春秋 1956年4月)
- 西部劇礼讃(知性 1956年8月)
- 楽屋で書かれた演劇論(芸術新潮 1957年1月)
- 川端康成の東洋と西洋(国文学 解釈と鑑賞 1957年2月)
- 現代小説は古典たり得るか(新潮 1957年6月-8月)
- 心中論(婦人公論 1958年3月)
- 文章読本(婦人公論別冊 1959年1月)
- 川端康成氏再説(新潮社 1959年7月) - 『日本文学全集30 川端康成集』月報
- 六世中村歌右衛門序説(講談社 1959年9月) - 写真集『六世 中村歌右衛門』序文
- 「エロチシズム」――ジョルジュ・バタイユ著 室淳介訳」(聲 1960年4月)
- 石原慎太郎氏の諸作品(筑摩書房 1960年7月) - 『新鋭文学叢書8 石原慎太郎集』解説。
- ベラフォンテ讃(毎日新聞 1960年7月15日)
- 「黒いオルフェ」を見て(スクリーン 1960年8月)
- 春日井建氏の「未青年」の序文(作品社 1960年9月)
- 武田泰淳氏――僧侶であること(新潮社 1960年9月) - 『日本文学全集63 武田泰淳集』月報
- 存在しないものの美学――「新古今集」珍解(国文学 解釈と鑑賞 1961年4月)
- RECOMMENDING MR.YASUNARI KAWABATA FOR THE 1961 NOBEL PRIZE FOR LITERATURE(1961年5月) - 川端康成ノーベル文学賞推薦文。日本ペンクラブが6月12日付で英訳。
- 川端康成氏と文化勲章(北日本新聞 1961年10月22日) - 改題前「永遠に若い精神史」
- 終末観と文学(毎日新聞 1962年1月4日)
- 「純文学とは?」その他(風景 1962年6月)
- 現代史としての小説(毎日新聞 1962年10月9日-10日)
- 谷崎潤一郎論(朝日新聞 1962年10月17日-19日)
- 川端康成読本序説(河出書房新社 1962年12月) - 『文芸読本 川端康成』寄稿
- 踊り(毎日新聞 1963年1月4日)
- 林房雄論(新潮 1963年2月)
- 細江英公序説(集英社 1963年3月) - 『薔薇刑』序文
- ロマンチック演劇の復興(婦人公論 1963年7月)
- 変質した優雅(風景 1963年7月)
- 芸術断想(芸術生活 1963年8月-1964年5月)
- 文学座の諸君への「公開状」――「喜びの琴」の上演拒否について(朝日新聞 1963年11月27日)
- 雷蔵丈のこと(日生劇場プログラム 1964年1月)
- 解説(『日本の文学38 川端康成』 中央公論社 1964年3月)
- 解説(『現代の文学20 円地文子集』 河出書房新社 1964年4月)
- 文学における硬派――日本文学の男性的原理(中央公論 1964年5月)
- 現代文学の三方向(展望 1965年1月)
- 文学的予言――昭和四十年代(毎日新聞 1965年1月10日)
- 谷崎朝時代の終焉(サンデー毎日 1965年8月15日)
- 解説(『日本の文学2 森鴎外(一)』 中央公論社 1966年1月)
- 危険な芸術家(文學界 1966年2月)
- 映画的肉体論――その部分及び全体(映画芸術 1966年5月)
- ナルシシズム論(婦人公論 1966年7月)
- 谷崎潤一郎、芸術と生活(中央公論社 1966年9月)- 『谷崎潤一郎全集』内容見本
- 伊東静雄の詩――わが詩歌(新潮 1966年11月)
- 谷崎潤一郎頌(日本橋三越 1966年11月) - 『文豪谷崎潤一郎展図録』
- 青年像(芸術新潮 1967年2月)
- 古今集と新古今集(国文学攷 1967年3月)
- ポップコーンの心霊術―横尾忠則論(1968年2月) - 横尾忠則著『私のアイドル』(改題後『横尾忠則 記憶の遠近術のこと』)序文
- 『仙洞御所』序文(淡交新社 1968年3月) - 『宮廷の庭I 仙洞御所』序文
- 小説とは何か(波 1968年5月-1970年11月)
- 野口武彦氏への公開状(文學界 1968年5月)
- 解説(『日本の文学40 林房雄・武田麟太郎・島木健作』 中央公論社 1968年8月)
- 日沼氏と死(批評 1968年9月)
- 篠山紀信論(毎日新聞社 1968年11月) - 『篠山紀信と28人のおんなたち』寄稿
- All Japanese are perverse(血と薔薇 1968年11月) - 性倒錯論
- 解説(『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』 中央公論社 1969年1月)
- 序(矢頭保写真集『裸祭り』 美術出版社 1969年2月)
- 鶴田浩二論――「総長賭博」と「飛車角と吉良常」のなかの(映画芸術 1969年3月)
- 日本文学小史(群像 1969年8月-1970年6月) - 第6章目は未完のまま中断。
- 解説(『日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁』 中央公論社 1969年12月)
- 『眠れる美女』論(国文学 解釈と教材の研究 1970年2月)
- 末期の眼(新潮社 1970年3月) - 『川端康成全集13巻』月報
- 解説(『新潮日本文学6 谷崎潤一郎集』 新潮社 1970年4月)
- 性的変質から政治的変質へ――ヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」をめぐって(映画芸術 1970年4月)
- 解説(『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』 中央公論社 1970年6月)
- 柳田国男『遠野物語』――名著再発見(読売新聞 1970年6月12日)
- 忘我(映画芸術 1970年8月)
批評・世評・コラム・防衛論
- 死の分量(1953年9月) - 発表誌未詳。
- 道徳と孤独(文學界 1953年10月)
- モラルの感覚――芸術家における誠実の問題(毎日新聞 1954年4月20日)
- 新ファッシズム論(文學界 1954年10月)
- 欲望の充足について――幸福の心理学(新女苑 1955年2月)
- 電気洗濯機の問題(花園 1956年1月)
- 亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後進国の諸問題(中央公論 1956年9月)
- きのふけふ(朝日新聞 1957年1月7日-6月24日) - コラム
- 青春の
倦怠 (新女苑 1957年6月) - 憂楽帳(毎日新聞 1959年3月3日-5月26日) - コラム
巻頭言 (婦人公論 1960年1月-12月)- 社会料理三島亭(婦人倶楽部 1960年1月-12月)
- 一つの政治的意見(毎日新聞 1960年6月25日)
- 発射塔(読売新聞 1960年7月6日-10月26日) - コラム
- アメリカ人の日本神話(HOLIDAY 1961年2月) - “Japan:The Cherished Myths” と英訳。
- 魔――現代的状況の象徴的構図(新潮 1961年7月)
- 堀江青年について(中央公論 1962年11月)
- 天下泰平の思想(論争 1963年9月)
- 生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ(文芸朝日 1964年7月)
- 文武両道(月刊朝雲 1965年10月)
- 日本人の誇り(朝日新聞 1966年1月1日)
- お茶漬ナショナリズム(文藝春秋 1966年4月)
- 法律と餅焼き(法学セミナー 1966年4月)
- 団蔵・芸道・再軍備(20世紀 1966年9月)
- 序(舩坂弘著『英霊の絶叫』 文藝春秋 1966年12月)
- 日本への信条(愛媛新聞 1967年1月1日)
- 忘却と美化(戦中派 1967年2月)
- 「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について(文藝 1967年3月)
- 私の中のヒロシマ――原爆の日によせて(週刊朝日 1967年8月11日) - 改題前は「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」
- 人生の本――末松太平著『私の昭和史』(週刊文春 1967年8月14日)
- 葉隠入門――武士道は生きてゐる(光文社 1967年9月)
- 青年論――キミ自身の生きかたを考へるために(平凡パンチ 1967年10月5日)
- J・N・G仮案(Japan National Guard――祖国防衛隊)(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)
- 祖国防衛隊はなぜ必要か?(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)
- 愛国心(朝日新聞 1968年1月8日)
- 円谷二尉の自刃(産経新聞 1968年1月13日)
- 二・二六事件について――“日本主義”血みどろの最期(週刊読売 1968年2月23日)
- 若きサムラヒのための精神講話(PocketパンチOh! 1968年6月-1969年5月)
- フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて(読売新聞 1968年6月18日)
- 文化防衛論(中央公論 1968年7月)
- 機能と美(男子専科 1968年9月)
- 栄誉の絆でつなげ菊と刀(日本及日本人 1968年9月)
- 橋川文三への公開状(中央公論 1968年10月)
- 自由と権力の状況(自由 1968年11月)
- 「戦塵録」について(昭和文明研究会 1969年1月) - 木下静雄著への寄稿
- 東大を動物園にしろ(文藝春秋 1969年1月)
- 現代青年論(読売新聞 1969年1月1日)
- 維新の若者(報知新聞 1969年1月1日)
- 反革命宣言(論争ジャーナル 1969年2月)
- 自衛隊二分論(20世紀 1969年4月)
- 一貫不惑(光風社書店 1969年5月) - 影山正治著『日本民族派の運動』付録
- 砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(新潮社 1969年6月) - 『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘』付録
- 北一輝論――「日本改造法案大綱」を中心として(三田文学 1969年7月)
- 日本文化の深淵について(THE TIMES 1969年9月) - “A problem of culture” と英訳。
- 行動学入門(PocketパンチOh! 1969年9月-1970年8月)
- 三島由紀夫のファクト・メガロポリス(週刊ポスト 1969年10月17日、31日、11月14日、28日、12月12日)
- STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE(ニューヨーク・タイムズ 1969年11月29日) - “Okinawa and Madame Butterfly’s Offspring” と抄訳。
- 「楯の会」のこと(「楯の会」結成一周年記念パンフレット 1969年11月)
- 「国を守る」とは何か(朝日新聞 1969年11月3日)
- 「変革の思想」とは――道理の実現(読売新聞 1970年1月19日、21日-22日)
- 新知識人論(日本経済新聞 1970年1月22日)
- 『蓮田善明とその死』序文(筑摩書房 1970年3月) - 小高根二郎著への序文
- 問題提起(憲法改正草案研究会配布資料 1970年5月)
- 士道について――石原慎太郎への公開状(毎日新聞 1970年6月11日)
- 果たし得てゐない約束――私の中の二十五年(サンケイ新聞 1970年7月7日)
- 武士道と軍国主義(1970年7月) - 1978年8月『PLAYBOY』掲載。
- 正規軍と不正規軍(1970年7月) - 1978年8月『PLAYBOY』掲載。
- 革命哲学としての陽明学(諸君! 1970年9月)
- 武士道に欠ける現代のビジネス(近代経営 1970年12月)
- わが同志観(潮 1971年2月)
対談・座談・討論
- 青春の再建――二十代座談会(光 1947年12月) - 対:中村真一郎、加藤周一、田代正夫、寺沢恒信、石島泰、上野光平、三浦節、升内左紀。実施:9月20日
- 小説の表現について(序曲 1948年12月) - 対:埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、寺田透、椎名麟三。実施:10月6日
- 二十代・三十代・四十代の恋愛観(芸苑 1949年1月) - 対:池田亀鑑、亀井勝一郎、波多野勤子、岡本太郎
- 舟橋聖一との対話(文學界 1949年3月) - 対:舟橋聖一
- パンパンの世界――実態調査座談会(改造 1949年12月) - 対:飯塚浩二、宮城音弥、佐多稲子、森田政次、南博、田中文子、三浦美紀子、北沢とし子、藤沢七生、伊藤あき子
- 既成劇作家を語る(劇作 1950年1月) - 対:梅田晴夫、矢代静一、戸板康二
- 新しい文学の方向(展望 1950年2月) - 対:中村光夫、加藤周一、小田切秀雄、野間宏、椎名麟三
- 三島由紀夫・笠置シズ子 大いに語る――世相 文学 歌(日光 1950年4月) - 対:笠置シズ子
- 創作批評〈第4回〉(風雪 1950年4月) - 対:河上徹太郎。実施:2月8日
- どんな女性に魅力があるか――独身人気者の座談会(主婦之友 1950年9月) - 対:山本嘉次郎、池部良、岡本太郎、小松原博喜、花柳喜章
- 「女相続人」を観て――映画放談(スクリーン 1950年10月) -対:林芙美子、河盛好蔵、松田ふみ
- 新しき文学への道――文学の立体化(文藝 1950年10月) - 対:福田恆存、武田泰淳、加藤道夫
- 人生問答(新潮別巻・人生読本 1951年1月) - 対:久米正雄、林房雄
- 歌右衛門の美しさ(劇評別冊・六世中村歌右衛門 1951年4月1日) - 対:戸板康二
- 映画の限界 文学の限界(人間 1951年5月) - 対:吉村公三郎、渋谷実、瓜生忠夫
- 犬猿問答――自作の秘密を繞って(文學界 1951年6月) - 対:大岡昇平
- 演劇と文学(文學界 1952年2月)[564] - 対:芥川比呂志
- 廃墟の誘惑(群像 1952年7月) - 対:中村光夫
- 日本の短篇小説について(文藝 1952年9月) - 対:川端康成、舟橋聖一、山本健吉、臼井吉見、中島健蔵、青野季吉
- 僕たちの実体(文藝 1952年12月) - 対:大岡昇平、福田恆存
- 息子の文才を伸した両親の理解と愛情――親子のはなし(主婦之友 1952年12月) - 対:平岡倭文重、田村秋子。実施:初秋(緑ケ丘・三島宅)
- 柔道座談会――年齢別選手権大会を見ての…(柔道 1953年1月) - 対:伊原宇三郎、醍醐敏郎、富田常雄、中村常男、真杉静枝、大悟法利雄。実施:前年11月23日(日比谷・陶々亭)
- 二人の見たパリ(婦人朝日 1953年9月) - 対:越路吹雪
- 映画と文学のあいだ――映画監督の映画擁護論(改造 1953年12月) - 対:アンドレ・カイヤット。実施:10月
- デザイナーのあり方――映画「にっぽん製」を中心に(産業経済新聞 1953年12月) - 対:岩崎春子、伊東絹子
- 岸田今日子さんと恋愛を語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1954年9月) -対:岸田今日子
- 私の文学鑑定(群像 1954年11月) - 対:舟橋聖一
- 高峰秀子さんと映画・結婚を語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1954年12月)- 対:高峰秀子
- 芸術よもやま話(週刊NHK新聞 1955年2月20日)■ - 対:中村歌右衛門。NHKラジオ第一で2月8、15、22日に放送。
- シャンソン歌手石井好子さんと語る――三島由紀夫氏の希望対談(主婦の友 1955年3月) - 対:石井好子
- 三島由紀夫さんに聞く(若人 1955年6月) - 対:川田雄基。実施:3月下旬(緑ケ丘・三島宅)
- たのしきかな映画(小説公園 1955年12月) - 対:田中澄江、黛敏郎
- 日本の芸術1 歌舞伎(群像 1956年1月)[564] - 対:坂東三津五郎
- 三島由紀夫氏訪問(映画の友 1956年1月) - 対:淀川長治。実施場所:歌舞伎座3階稽古部屋
- 日本の芸術2 新派(群像 1956年2月)[564] - 対:喜多村緑郎
- 日本の芸術3 能楽(群像 1956年3月)[564] - 対:喜多六平太
- ウラーノワのバレエ映画――ロメオとジュリエットの物語(芸術新潮 1956年3月) - 対:谷桃子、松山樹子、芥川也寸志
- 日本の芸術4 長唄(群像 1956年4月)[564] - 対:杵屋栄蔵
- 新人の季節(文學界 1956年4月) - 対:石原慎太郎
- 日本の芸術5 浄瑠璃(群像 1956年5月)[564] - 対:豊竹山城少掾
- 日本の芸術6 舞踊(群像 1956年6月)[564] - 対:武原はん
- 戦前派 戦中派 戦後派(文藝 1956年7月) - 対:高見順、堀田善衛、吉行淳之介、村上兵衛、石原慎太郎、木村徳三。実施:5月
- 日本美の再発見――創作対談(短歌研究 1956年9月) - 対:生方たつゑ。実施場所:練馬区・生方宅
- 映画・芸術の周辺(スクリーン 1956年9月) - 対:荻昌弘
- 小説から演劇へ――私はなぜ戯曲を書くか(演劇手帖 1956年11月) - 対:武田泰淳、椎名麟三、安部公房、松島栄一
- 美のかたち――「金閣寺」をめぐって(文藝 1957年1月)[564] - 対:小林秀雄
- 愛国心(神戸新聞 1957年2月11日-13日) - 対:永田清、嘉治隆一
- 協同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎(演劇界 1957年5月) - 対:杉山誠、郡司正勝、利倉幸一
- ヨーロッパの青春(キング 1957年7月) - 対:犬養道子
- 涼風をよぶ風流よもやま噺(淡交 1957年9月) - 対:武智鉄二、井口海仙
- 女はよろめかず(中央公論 1957年9月) - 対:宇野千代
- ミュージカルみやげ話(中央公論 1958年3月) - 対:越路吹雪
- 作家の女性観と結婚観(若い女性 1958年4月) - 対:石原慎太郎
- マクアイ・リレー対談(幕間 1958年5月) - 対:中村歌右衛門。実施:4月7日(新橋・金田中)
- 映画「炎上」を語る(毎日新聞 1958年8月18日) - 対:市川崑、市川雷蔵。実施:8月15日(京橋・大映本社)
- 狐狗狸の夕べ(宝石 1958年10月) - 対:江戸川乱歩、杉村春子、芥川比呂志、松浦竹夫、山村正夫
- やァこんにちは〈日出造見参 第222回〉(週刊読売 1958年10月5日) - 対:近藤日出造
- 女は悲しくない(若い女性 1959年1月) - 対:有吉佐和子
- T・ウィリアムズと語る――紙上録音版(図書新聞 1959年10月10日) - 対:テネシー・ウィリアムズ。実施:9月14日(赤坂・米国大使館文化交換局)。放送・報道:10月2日(ニッポン放送)。9月30日に「T・ウィリアムズ氏の文芸談」として抄録(毎日新聞)。
- 劇作家のみたニッポン(芸術新潮 1959年11月)[564] - 対:テネシー・ウィリアムズ、オブザーバー参加:フランク・マーロ(秘書)、ドナルド・リチー
- ニュー・フェイス三島由紀夫“センパイ”フランキー堺と大いに語る(週刊明星 1959年12月6日) - 対:フランキー堺。実施:11月19日
- 「サロメ」とその舞台(古酒 1960年5月) - 対:矢野峰人、岸田今日子、燕石猷、関川左木夫、太田博。実施:4月16日(渋谷・東横ホール)
- 外から見た日本(週刊公論 1961年2月13日) - 対:大宅壮一。実施:1月30日(福田家)
- 世界の旅から帰った三島由紀夫氏――ファニーフェイスtoフェイス(婦人公論 1961年3月) - 対:芳村真理
捨身飼虎 〈希望対談8〉(淡交 1961年8月)[564] - 対:千宗興。実施:6月19日(中洲・其角)- 結婚身上相談――雪村さんが三島先生に聞く(若い女性 1961年9月) - 対:雪村いづみ
- 「薔薇刑」について(カメラ芸術 1962年3月) - 対:細江英公
- 川端康成氏に聞く(河出書房新社 1962年12月) - 対:川端康成、中村光夫。『文芸読本 川端康成』収録。
- 現代の文学と大衆(文藝 1963年5月) - 対:川端康成、丹羽文雄、円地文子、井上靖、松本清張
- たのしいいじわるデイト――移動座談会(女性セブン 1963年5月5日) - 対:有吉佐和子
- 子のしつけ親のしつけ――7月のサロン(太陽 1963年7月) - 対:黛敏郎、加藤芳郎、谷川俊太郎、石井好子
- 七年目の対話(風景 1964年1月)[564] - 対:石原慎太郎
- 初釜清談(京都新聞 1964年1月5日) - 対:谷崎潤一郎、谷川徹三、佐伯米子、入江相政、千宗興
- ヤンキー気質うらおもて(毎日新聞 1964年4月6日) - 対:桂ユキ子、古波蔵保好
- 歌舞伎滅亡論是非(中央公論 1964年7月)[564] - 対:福田恆存
- 現代作家はかく考える(群像 1964年9月)[564] - 対:大江健三郎。実施:7月13日
- 敗者復活五輪大会――雑談・世相整理学(中央公論 1964年12月) - 対:大宅壮一、司馬遼太郎
- 戦後の日本文学(群像 1965年1月) - 対:伊藤整、本多秋五。実施:前年11月12日
- 三島文学と国際性(中央公論社 1965年1月) - 対:ドナルド・キーン。『日本の文学69 三島由紀夫』月報。実施:前年6月18日(虎ノ門・福田家)
- 「源氏物語」と現代(文藝 1965年7月) - 対:瀬戸内晴美、竹西寛子
- 大谷崎の芸術(中央公論 1965年10月)[564] - 対:舟橋聖一
- 父・森林太郎(中央公論社 1966年1月) - 対:森茉莉。『日本の文学2 森鴎外(一)』月報。実施:前年11月8日(赤坂・シド)
- 二十世紀の文学(文藝 1966年2月)[564] - 対:安部公房
- ニーチェと現代(中央公論社 1966年2月) - 対:手塚富雄。『世界の名著46 ニーチェ』月報。実施:1月10日(虎ノ門・福田家)
- なんでもやってのけよう〈連載トップ対談 ふたりで話そう31〉(週刊朝日 1966年8月5日) - 対:團伊玖磨
- 文武両道(新刊ニュース 1966年9月) - 対:巖谷大四
- 対話・日本人論(番町書房 1966年10月) - 対:林房雄。
- エロチシズムと国家権力(中央公論 1966年11月)[564] - 対:野坂昭如。実施:9月
- アメリカとアメリカ人(批評 1966年12月) - 対:村松剛、山崎正和、西義之、佐伯彰一
- 2・26事件と殉国のロマン(論争ジャーナル 1967年3月) - 対:高橋正衛、土屋道雄、池田弘太郎
- 文革・黙っていられない!〈日出造対談646回〉(週刊読売 1967年3月31日) - 対:近藤日出造
- 合理主義と非合理主義――土曜放談(山陽新聞 1967年4月8日) - 対:藤原弘達
- われわれはなぜ声明を出したか――芸術は政治の道具か?(中央公論 1967年5月)[565] - 対:川端康成、石川淳、安部公房
- 文武両道と死の哲学(論争ジャーナル 1967年11月)[564] - 対:福田恆存
- 反ヒューマニズムの心情と論理(番町書房 1967年11月) - 対:伊藤勝彦。伊藤著『対話・思想と発生』に収録。実施:8月25日(紀尾井町・福田家)
- 意外な親類――オジとオイ(週刊朝日 1967年12月22日) - 対:磯崎叡。実施場所:丸の内・国鉄副総裁室
- ファシストか革命家か(映画芸術 1968年1月)[564] - 対:大島渚。司会:小川徹
- 武器の快楽――剣豪三島由紀夫とガンマン大藪春彦の決闘(週刊プレイボーイ 1968年1月9日) - 対:大藪春彦
- 天皇と現代日本の風土(論争ジャーナル 1968年2月) - 対:石原慎太郎
- 文武の達人 国防を語る――国防対談(国防 1968年4月) - 対:源田実
- 私の文学を語る(三田文学 1968年4月) - 対:秋山駿。実施1月11日(南馬込・三島宅)
- 対談・人間と文学(講談社 1968年4月) - 対:中村光夫。実施:前年7月10日、8月17日、9月13日、11月10日
- 東と西――その接触、交流、反発(読売新聞 1968年5月13日) - 対:ルイス・ディエス・デル・コラール。実施場所:四谷・福田家
- 12歳のとき映画に開眼したんです〈東和創立40周年を迎えて! 3〉(東和シネクラブ 1968年5月) - 対:小森和子。実施:4月11日(南馬込・三島宅)
- デカダンス意識と生死観(批評 1968年6月) - 対:埴谷雄高、村松剛
- 日本を考える――学生文化フォーラム詳細報告(学生評論 1968年7月) - 対:林房雄、村松剛。実施:5月(八王子・大学セミナーハウス)
- 負けるが勝ち(自由 1968年7月) - 対:福田赳夫
- 放談・天に代わりて(言論人 1968年7月16日)[516] - 対:小汀利得。実施:7月3日。改題前:「放談・天に代わりて」
- 討論・現代日本人の思想(原書房 1968年7月) - 対:会田雄次、大島康正、鯖田豊之、西義之、林健太郎、福田恆存、福田信之、村松剛。『国民講座・日本人の再建1討論・現代日本人の思想』に収録。実施:1月14日-15日(箱根湯本・松之茶屋)
- 戦後のデモクラシーと反抗する世代(論争ジャーナル 1968年8月) - 対:エドワード・G・サイデンステッカー、村松剛
- 肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術(文學界 1968年9月) - 対:石川淳
- エロス 権力 ユートピア――〈美的日本文化〉論(週刊読書人 1968年11月) - 対:磯田光一、種村季弘
- 原型と現代小説(批評 1968年12月) - 対:山本健吉、佐伯彰一
- 安保問題をどう考えたらよいか――腹の底から話そう(現代 1969年1月)- 対:猪木正道
- 泉鏡花の魅力(中央公論社 1969年1月) - 対:澁澤龍彦。『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』月報。実施:前年11月4日(赤坂・シド)
- 「葉隠」の魅力(筑摩書房 1969年1月) - 対:相良亨。相良著『日本の思想9 甲陽軍鑑・五輪書・葉隠集』月報。実施:前年11月25日
- 政治行為の象徴性について――小説家と政治(文學界 1969年2月) - 対:いいだもも。
- 国家革新の原理――学生とのティーチ・イン(新潮社 1969年4月) - 対:大学生。実施:前年6月16日(一橋大学小平校舎)、前年10月3日(早稲田大学大隈講堂)■、前年11月16日(茨城大学講堂)
- サムライ(勝利 1969年6月)[516] - 対:中山正敏
- 討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――〈美と共同体と東大闘争〉(新潮社 1969年6月)■ - 対:全共闘。実施:5月13日(駒場・東京大学教養学部900番教室)。
- 刺客と組長――男の盟約(週刊プレイボーイ 1969年7月8日)[516] - 対:鶴田浩二。改題前「刺客と組長――その時は、お互い日本刀で斬り込むという男の盟約」
- おじさまは男として魅力あるわ〈連載対談 カンナ知りたいの2〉(女性自身 1969年7月26日・8月2日) - 対:神津カンナ
- 十年後、BIセクシャル時代がやってくる?!(小説セブン 1969年9月) - 対:丸山明宏
- 軍隊を語る(伝統と現代 1969年9月) - 対:末松太平。実施:6月20日
- 日本は国家か――「権力なき国家」の幻想(読売新聞社 1969年9月) - 対:江藤淳、高坂正堯、山崎正和、武藤光朗。『日本は国家か』に収録。実施:4月12日(平河町・北野アームス日本経済研究所会議室)。日本文化会議「日本は国家か」特別研究会
- 三島部隊“憂国の真情”(読売新聞 1969年10月21日) - 対:村上兵衛
- 大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任(潮 1969年11月)[516][566] - 対:高橋和巳
- 守るべきものの価値――われわれは何を選択するか(月刊ペン 1969年11月)[516] - 対:石原慎太郎
- この激動する時代の中で日本人である私はこう思う(主婦の友 1969年11月) - 対:中丸薫
- 私小説の底流(中央公論社 1969年12月) - 対:尾崎一雄。『日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁』月報。実施:10月7日(銀座・出井)
- 現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし(流動 1969年12月)[516] - 対:林房雄
- 戦争の谷間に生きて――青春を語る(学習研究社 1969年12月)■[563] - 対:徳大寺公英。『現代日本の文学35 三島由紀夫集』月報。実施:11月12日(有楽町・日活ホテル)。
- 剣か花か――七〇年代乱世・男の生きる道(宝石 1970年1月)[516] - 対:野坂昭如。実施:前年12月末(銀座・マキシム)
- 二・二六将校と全学連学生との断絶〈財界放談室 堤清二対談6〉(財界 1970年1月1日・15日)[516] - 対:堤清二。実施場所:有楽町・胡蝶
- 尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命(日本読書新聞 1970年1月1日〈1969年12月29日・1970年1月5日合併号〉)[516] - 対:村上一郎。
- "菊と刀"と論ずる(時の課題 1970年2月) - 対:伊沢甲子麿
- 中曽根防衛庁長官 作家三島由紀夫氏(朝雲 1970年2月12日) - 対:中曽根康弘
- 三島由紀夫とジョン・ベスターの対談(1970年2月19日)■ - 対:ジョン・ベスター(英国の翻訳家) - 2013年(平成25年)秋に東京赤坂のTBSのアーカイブ推進部保管の「放送禁止」扱いの放擲テープ群の中から、両者の1時間20分にわたる対談を記録したテープのコピーが見つかったことが2017年(平成29年)1月に公表された[477][479][567]。対談は三島が書く予定だったエッセイをべスターが翻訳するにあたり、海外読者の理解を手助けする目的で講談社の仲介により行われたものとみられ、『豊饒の海』第3巻『暁の寺』を脱稿した日に行われたことから2月19日とみられる[477][479][568]。対談中、三島は「僕の文学の欠点は、あんまり小説の構成が劇的すぎる」、「死が、肉体の外から中に入ってきた気がする」、「戦後、日本では偽善がひどくなった。その元は平和憲法だ」、音楽への興味は「全然ない」としながらも『獣の戯れ』を書く直前にはベートーヴェンを、『暁の寺』の執筆中にはドビュッシーの曲「シャンソン・ド・ビリティス」を聴くことで「イメージが出てきた」などと話した[480]。また、川端康成については「怖いようなジャンプするんですよ。僕、ああいう文章書けないな、怖くて」などと述べた[479][480][568]。
- 三島文学の背景(国文学 解釈と教材の研究 1970年5月25日) - 対:三好行雄
- タルホの世界(中央公論社 1970年6月) - 対:澁澤龍彦。『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』月報。実施:5月8日(赤坂・シド)
- エロスは抵抗の拠点になり得るか(潮 1970年7月)[516] - 対:寺山修司
- 世阿弥の築いた世界(筑摩書房 1970年7月) - 対:ドナルド・キーン、小西甚一。小西編『日本の思想8 世阿弥集』月報。実施:1968年7月12日
- 現代歌舞伎への絶縁状(芸術生活 1970年10月) - 対:武智鉄二
- 文学は空虚か(文藝 1970年11月)[569] - 対:武田泰淳。実施:9月14日
- 破裂のために集中する(中央公論 1970年12月)[565] - 対:石川淳
- 三島由紀夫対談――ザ・パンチ・パンチ・パンチ(VIVA YOUNG 1970年12月) - 対:高橋基子、シリア・ポール。実施場所:南馬込・三島宅。放送:前年2月3日-5日(ニッポン放送)
- 戦争映画とやくざ映画(映画芸術 1971年2月) - 対:石堂淑朗。司会:小川徹。実施:前年10月21日(有楽町・フジ・アイス)
- 三島由紀夫 最後の言葉(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日)■[563] - 対:古林尚。実施:11月18日(南馬込・三島宅)。元題は「三島由紀夫対談 いまにわかります――死の一週間前の最期の言葉」、「戦後派作家対談7 もう、この気持は抑えようがない――三島由紀夫 最後の言葉」
講演・声明
- 日本文壇の現状と西洋文学との関係(1957年7月9日) - ミシガン大学での講演。同年9月『新潮』掲載。
- INFLUENCES IN MODERN JAPANESE LITERATURE/YOMIURI JAPAN NEWS(1958年2月) - Tokyo Women’s Club での講演。
- 美食と文学(1958年2月5日) - 『谷崎潤一郎全集』刊行記念中央公論社愛読者大会での講演。同年4月『婦人公論』掲載。
- JAPANESE YOUTH(1961年9月18日) - バークレーのクレアモント・ホテルで行われた米誌『ホリデイ』とカリフォルニア大学共催のシンポジウムでの英語による講演。
- 私はいかにして日本の作家となつたか(1966年4月18日)■[563] - 日本外国特派員協会での英語によるスピーチと質疑応答。野口武彦訳で1990年12月『新潮』掲載[308]。
- 文化大革命に関する声明(1967年2月28日) - 川端康成、石川淳、安部公房との共同声明。全文は同年3月1日の『東京新聞』、『産経新聞』掲載。
- 古典芸能の方法による政治状況と性――作家・三島由紀夫の証言(1967年2月23日) - 東京地裁で行われた映画『黒い雪』裁判における証言。同年4月24日に『日本読書新聞』掲載。
- 私の自主防衛論(1968年10月24日) - 日経連臨時総会での特別講演。
- 同年10月31日に『日経連タイムズ』掲載。 - 素人防衛論(1968年11月20日)■ - 横須賀の防衛大学校での講演。2005年12月『WiLL』に掲載(不明な部分など一部削除)。
- 日本の歴史と文化と伝統に立つて(1968年12月1日) - 東京都学生自治体・関東学生自治体連絡協議会主催の講演。1970年5月刊行の全国学生自治体連絡協議会編『“憂国”の論理』(日本教文社)に収録。
- 日本とは何か(1969年10月15日) - 大蔵省100年記念での講演。1985年12月『文藝春秋』掲載。
- 現代日本の思想と行動(1970年4月27日) - 山王経済研究会例会での講演。同月同研究会誌の特集号掲載。
- 私の聞いて欲しいこと(1970年5月28日) - 皇宮警察創立84周年記念講演。皇居内皇宮警察本部庁舎にて行う。
- 悪の華――歌舞伎(1970年7月3日)■[563] - 国立劇場歌舞伎俳優養成所での特別講演。1988年1月『新潮』掲載。
- 「孤立」のススメ(1970年6月11日)■ - 尚史会主催講演。9月『青雲』(6号)掲載。
- 我が国の自主防衛について(1970年9月3日)■[563] - 第3回新政同志会青年政治研修会(中曽根康弘主宰)での講演。
- 檄(1970年11月25日)■ - 自衛隊市ヶ谷駐屯地・東部方面総監部室のバルコニーから撒かれた声明文と、決起を呼びかける演説。
作文・習作
詩歌・俳句・作詞
- アキノヨニ…(小ざくら 1931年12月)★ - 俳句
- 日ノマルノ…(小ざくら 1932年5月)★ - 俳句
- おとうとが…(小ざくら 1932年12月)★ - 俳句
- 秋(小ざくら 1932年12月)★
- 妹は…(小ざくら 1933年12月)★ - 短歌
- 蜜柑(1937年1月10日)★ - 詩ノート「笹舟」に記録。
- こだま(輔仁会雑誌 1937年12月)★ - 詩ノート「こだま――平岡小虎詩集」に記録。
- 斜陽(輔仁会雑誌 1937年12月)★ - 詩ノート「HEKIGA――A VERSE-BOOK」に記録。
- 秋二題(輔仁会雑誌 1937年12月)★
- 詩篇「金鈴」(輔仁会雑誌 1938年3月)★ - 光は普く漲り、金鈴、雨、海、墓場、ほか
- 蜃気楼の国/月夜操練/隕星(輔仁会雑誌 1938年7月)★ - 連作「鈴鹿鈔」中の3詩。
- 詩篇「九官鳥」(輔仁会雑誌 1939年3月)★ - 森たち、第五の喇叭 黙示録第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥
- 誕生日の朝(1939年1月14日)★ - 詩ノート「公威詩集I」に記録。
- 見知らぬ部屋での自殺者(1939年12月24日)★ - 詩ノート「Bad Poems」に記録。1949年3月『新現実』掲載。
凶 ごと(1940年1月15日)★ - 詩ノート「Bad Poems」に記録。- 詩篇「小曲集」(輔仁会雑誌 1940年3月)★ - 古墳、朝、昼の館、花の闇、倦怠、明るい樫、或る朝、ほか
- 詩篇「
青城 詩抄」(山梔 1940年7月-1941年1月)★ - 町、故苑、鶴、死都、ほか - 詩篇「抒情詩抄」(輔仁会雑誌 1941年12月)★ - 小曲〈第三番、第八番、ほか〉、風の抑揚、序曲、馬、ほか
- わたくしの希ひは熾る(文藝文化 1941年11月)★
大詔 (文藝文化 1942年7月)★- かの花野の露けさ(文藝文化 1942年10月)★
- 菊(文藝文化 1942年12月)★
- 恋供養(赤繪 1943年6月)★
- 夜の蝉(輔仁会雑誌 1943年12月)★
- 詩人の旅(1944年) - 1950年7月『文藝』掲載。
- もはやイロニイはやめよ(1945年4月20日) - 曼荼羅草稿。
絃歌 ――夏の恋人(東雲 1945年7月) - 三谷邦子を題材。- 饗宴魔(東雲 1945年7月)
- 落葉の歌(光耀 1946年5月)
- 乾盃(1946年3月24日) - 1955年刊『創作ノオト“盗賊”』に収録。
- 逸題詩篇(叙情 1946年6月)
- 負傷者(1946年7月23日) - 1949年1月『海峡』掲載。
- 故・蓮田善明への献詩(おもかげ 1946年11月17日)
軽王子 序詩(舞踏 1948年6月)- 新しきコロンブス(1955年8月2日) - ニーチェの詩の邦訳。随筆『小説家の休暇』内掲載。
- 理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係(総合 1957年7月)
- 詩篇「十五歳詩集」(新潮社 1957年11月)★ - 『三島由紀夫選集1』に収録。凶ごと、日輪礼讃、悲壮調、風と
辛夷 、別荘地の雨、街のうしろに、遺物、石切場、熱帯、鶴、甃 のむかうの家、建築存在、港町の夜と夕べの歌、つれづれの散漫歌、幸福の胆汁、冬の哀感 - 狂女の恋唄(1958年9月11日)
- むかしと今(聲 1958年10月) - ヘルダーリンの詩(むかしと今、夕べの幻想、ソクラテスとアルキビアデス)の邦訳。
- 祝婚歌 カンタータ(奉祝 1959年4月) - 作曲:黛敏郎。皇太子ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。
- からつ風野郎(同名映画主題歌)(1960年3月)■[563] - 作曲:深沢七郎
- お嬢さん(同名映画主題歌)(1961年1月) - 作曲:飯田三郎
- 黒蜥蜴の歌/黒とかげの恋の歌/用心棒の歌(1962年3月) - 作曲:黛敏郎。ミュージカル映画『黒蜥蜴』(監督:井上梅次。主演:京マチ子)の主題歌と挿入歌。
- 微笑(文藝 1964年5月) - ジェイムス・メリルの詩(微笑、世界の子供)の邦訳。
- 造花に殺された舟乗りの歌(1966年7月) - 作曲:丸山明宏。丸山明宏チャリティーリサイタルでマドロススタイルで歌唱。
- イカロス(1967年3月14日) - 随筆『太陽と鉄』エピロオグに収録。
- 隊歌(祖国防衛隊)(祖国防衛隊ちらし 1968年1月)
- 起て! 紅の若き獅子たち(楯の会の歌)(楯の会隊員手帳 1970年1月)■[563] - 作曲:越部信義
- 辞世の句(1970年11月25日)
- 「
益荒男 が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 - 「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く
小夜嵐 」
- 「
音楽作品
- 「皇太子ご結婚祝賀演奏会」(NHKテレビ 1959年4月10日)
- 作詞:三島由紀夫。作曲:黛敏郎。演奏:NHK交響楽団。指揮:ウィルヘルム・シュヒター
- ※ NHKラジオ第一と同時放送。
- 「からっ風野郎」(キングレコード 1960年3月20日発売)■[563] - 同名映画の主題歌
- 「お嬢さん」(キングレコード 1961年1月31日発売)- 同名映画の主題歌
- 『ポエムジカ 天と海――英霊に捧げる七十二章』(タクトレコード 1967年5月1日発売)
- 「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」(クラウンレコード 1970年4月29日発売)■[563]
- 「起て! 紅の若き獅子たち――楯の会の歌」(クラウンレコード 1970年4月29日発売)■[563]
- 作詞:三島由紀夫。作曲・編曲:越部信義。歌唱:三島由紀夫と楯の会
- ※ EPレコード。B面は「英霊の声――三島由紀夫作『英霊の聲』より」
- 「軍艦マーチのすべて」(キングレコード 1998年4月24日発売)
写真集被写体・映画出演
映画出演
□印は三島以外の原作・脚本。
- 『純白の夜』(松竹大船、1951年8月) - 三島が端役でダンスパーティーのシーンに出演
- 『不道徳教育講座』(日活、1959年1月) - 三島が冒頭と最後のナビゲーター役で特別出演。
- 『からっ風野郎』(大映東京、1960年3月)□ - 主役
- 『憂国』(東宝/ATG、1966年4月) - 主役
- 『黒蜥蜴』(松竹大船、1968年8月) - 三島が日本人青年の生人形役で特別出演
- 『人斬り』(勝プロ、1969年8月)□
写真
- 薔薇刑(撮影1961年9月13日-1962年春) - カメラマン:細江英公。1963年3月刊行(限定1,500部)。
- 男の死(撮影1970年9月17日以降-11月17日) - カメラマン:篠山紀信。もう1人のモデル横尾忠則の病気入院のため企画が途絶し未発売。しかし2020年11月の三島の没後五十年を前にした9月に米国出版された[570][571]。その後日本でも2020年11月に1冊50万円で刊行されることが決定した[572]。
- 切腹や褌ポーズの写真(撮影日不明) - カメラマン:矢頭保
翻案された作品
記事立項されていない作品の映画化のみ記載。立項されている作品は、作品リストの◎印(映画化)、◇印(テレビ・ラジオドラマ化)の当該記事内を参照のこと。
映画化
テレビドラマ化
- 文学座アワー『灯台』(日本テレビ 1958年4月24日)
- お母さん『大障碍』(KRテレビ 1959年12月10日)
- 近鉄金曜劇場『十九歳』(TBSテレビ 1963年11月15日)
- NHK劇場『真珠』(NHKテレビ 1964年6月19日)
- 月曜・女のサスペンス『復讐・死者からの告発状』(テレビ東京 1988年10月24日)
- 月曜・女のサスペンス『花火・身代わり首の男』(テレビ東京 1988年12月12日)
ラジオドラマ化
- 自作朗読『美神』(ラジオ東京 1954年7月1日)
- 現代劇場『ボクシング』(文化放送 1954年11月21日) - 三島が台本構成。
- 続高峰秀子ドラマ集『遠乗会』(ニッポン放送 1956年4月13日)
- ラジオのためのオペラ『あやめ』(中部日本放送 1960年11月27日) - 昭和35年度芸術祭賞。
- 物語り『真珠』(NHKラジオ第一 1963年5月23日)
- ドラマ・スタジオ8『モノローグ・ドラマ 船の挨拶』(中部日本放送 1965年7月20日)
刊行書籍
初版刊行本を記載(後発の刊行情報は各記事を参照)。▲印は限定本。ダッシュ以下は収録作品、説明など。
著作権は、酒井著作権事務所が一括管理している[573]。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上[574]。
単独の単行本
- 『花ざかりの森』(七丈書院、1944年10月15日) - みのもの月、世々に残さん、苧菟と瑪耶、祈りの日記、花ざかりの森、跋に代へて
- 『岬にての物語』(桜井書店、1947年11月20日) - 岬にての物語、中世、軽王子と衣通姫、跋
- 『盗賊』(真光社、1948年11月20日) - 序(川端康成)、盗賊
- 『夜の仕度』(鎌倉文庫、1948年12月1日) - 夜の仕度、序章、春子、煙草、ラウドスピーカー、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、蝶々、サーカス、彩絵硝子
- 『宝石売買』(大日本雄弁会講談社、1949年2月28日) - 偽序(渡辺一夫)、獅子、殉教、頭文字、慈善、宝石売買
- 『仮面の告白』(河出書房、1949年7月5日) - 仮面の告白、「仮面の告白」ノート(月報)
- 『魔群の通過』(河出書房、1949年8月15日) - 魔群の通過、不実な洋傘、山羊の首、恋重荷、大臣、幸福といふ病気の療法、毒薬の社会的効用について、岬にての物語、火宅、あやめ、愛の不安
- 『燈台』(作品社、1950年5月30日) - 訃音、薔薇、侍童、星、退屈な旅、親切な機械、孝経、鴛鴦、燈台、ニオベ、聖女
- 『怪物』(改造社、1950年6月10日) - 怪物、火山の休暇、果実、獅子、修学旅行、魔神礼拝
- 『愛の渇き』(新潮社、1950年6月30日)
- 『純白の夜』(中央公論社、1950年12月30日)
- 『青の時代』(新潮社、1950年12月25日)
- 『仮面の告白 その他』(改造社、1951年3月31日) - 仮面の告白、日曜日、遠乗会、春子、火山の休暇、怪物、など26篇
- 『聖女』(目黒書店、1951年4月15日) - 盗賊、春子、聖女、あとがき
- 『狩と獲物』(要書房、1951年6月15日) - オスカア・ワイルド論、ドルヂェル伯の舞踏会、クレエヴ公爵夫人、ジイドの「背徳者」、雨月物語について、川端康成論の一方法、など26篇。初の評論集
- 『遠乗会』(新潮社、1951年7月15日) - 日曜日、箱根細工、牝犬、椅子、朝倉、花山院、死の島、偉大な姉妹、綾の鼓、遠乗会
- 『三島由紀夫短篇集』(創芸社、1951年10月31日) - 1950年5月30日刊行の『燈台』(作品社)と同一内容。
- 『禁色』〈禁色 第一部〉(新潮社、1951年11月10日) - カバー(表)下辺に三島の無題文章あり。
- 『夏子の冒険』(朝日新聞社、1951年12月5日)
- 『愛の渇き・仮面の告白』(筑摩書房、1952年9月25日) - 愛の渇き、仮面の告白。解説:吉田健一
- 『アポロの杯』(朝日新聞社、1952年10月5日) - 航海日記、北米紀行、南米紀行、欧州紀行、旅の思ひ出。本扉裏に三島の文章「野尻抱影氏による」あり。
- 『真夏の死』(創元社、1953年2月15日) - 真夏の死、クロスワード・パズル、美神、翼、只ほど高いものはない、卒塔婆小町
- 『につぽん製』(朝日新聞社、1953年3月20日) - 帯(表)に浦松左美太郎による作品評あり。
- 『夜の向日葵』(大日本雄弁会講談社、1953年6月15日) - 夜の向日葵、あとがき。帯(表)に川端康成による作品評、帯(裏)に匿名批評(『週刊朝日』掲載)あり。
- 『秘楽』〈禁色 第二部〉(新潮社、1953年9月30日) - カバー(表)下辺に三島の無題文章あり。
- 『綾の鼓』(未来社、1953年10月15日) - 作者の言葉、綾の鼓――近代能楽集ノ内。そのまま台本として使用可能な本。
- 『潮騒』(新潮社、1954年6月10日) - 帯(裏)に吉田健一による作品評「『潮騒』について」あり。
- 『恋の都』(新潮社、1954年9月20日)
- 『鍵のかかる部屋』(新潮社、1954年10月15日) - 鍵のかかる部屋、旅の墓碑銘、真夏の死、クロスワード・パズル、椅子、孝経、山羊の首、獅子、殉教。解説:中村光夫
- 『若人よ甦れ』(新潮社、1954年11月25日) - 若人よ甦れ、あとがき。カバー袖に無著名の文章「本書について」あり。
- 『文学的人生論』(河出書房、1954年11月30日) - 一青年の道徳的判断、重症者の兇器、新古典派、批評家に小説がわかるか、死の分量、卑俗な文体について、など39篇
- 『沈める滝』(中央公論社、1955年4月30日) - 帯に臼井吉見、本多顕彰、寺田透による作品評あり。
- 『女神』(文藝春秋新社、1955年6月30日)
- 『ラディゲの死』(新潮社、1955年7月20日) - 花火、離宮の松、水音、新聞紙、不満な女たち、卵、海と夕焼、旅の墓碑銘、ラディゲの死、地獄変、鰯売恋曳網、あとがき
- 『創作ノオト“盗賊”』(ひまわり社、1955年7月25日)▲ - 「盗賊」創作ノート。4頁の別刷リーフレット(三島由紀夫「『盗賊』ノオトについて」掲載)あり。記番入りの限定3,000部
- 『小説家の休暇』(大日本雄弁会講談社、1955年10月25日) - 小説家の休暇、ワットオの《シテエルへの船出》。帯(裏)に福田恆存による作品評あり。
- 『白蟻の巣』(新潮社、1956年1月25日) - 白蟻の巣、船の挨拶、三原色。函(表)に川端康成による作品評あり。
- 『幸福号出帆』(新潮社、1956年1月30日)
- 『近代能楽集』(新潮社、1956年4月30日) - 綾の鼓、邯鄲、卒塔婆小町、葵上、班女、あとがき
- 『詩を書く少年』(角川書店、1956年6月30日) - 詩を書く少年、復讐、江口初女覚書、家庭裁判、牡丹、山の魂、商ひ人、志賀寺上人の恋、あやめ、恋重荷、鴛鴦、おくがき。カバー袖に吉田健一による作品評「小説の魅力」あり。
- 『亀は兎に追ひつくか』(村山書店、1956年10月12日) - 亀は兎に追ひつくか?、芸術にエロスは必要か、空白の役割、堂々めぐりの放浪、学生の分際で小説を書いたの記、自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒、終末感からの出発――昭和二十年の自画像、など48篇
- 『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日) - 私家限定本4部あり。
- 豪華版『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日)▲ - 記番・署名入りの限定200部
- 『永すぎた春』(大日本雄弁会講談社、1956年12月25日)
- 『鹿鳴館』(東京創元社、1957年3月5日) - 鹿鳴館、大障碍、道明寺、あとがき
- 『美徳のよろめき』(大日本雄弁会講談社、1957年6月20日)
- 豪華版『美徳のよろめき』(大日本雄弁会講談社、1957年9月)▲ - 署名入りの限定500部
- 『現代小説は古典たり得るか』(新潮社、1957年9月25日) - 現代小説は古典たり得るか、文壇崩壊論の是非、個性の鍛錬場、「アウトサイダー」をめぐつて、陶酔について、呉茂一の「ぎりしあの詩人たち」評、川端康成の東洋と西洋、舟橋聖一の「木石・鵞毛」について、など35篇
- 『橋づくし』(文藝春秋新社、1958年1月31日) - 橋づくし、施餓鬼舟、急停車、博覧会、十九歳、女方、貴顕、あとがき
- 『旅の絵本』(大日本雄弁会講談社、1958年5月1日) - 旅の絵本、ニューヨークの奇男奇女、ニューヨークの金持、ニューヨーク貧乏、ニューヨークで感じたこと、ニューヨークの炎、など16篇、跋
- 『薔薇と海賊』(新潮社、1958年5月30日) - 薔薇と海賊、あとがき
- 『不道徳教育講座』(中央公論社、1959年3月16日) - 前半の30篇。帯(裏)に有吉佐和子、池田弥三郎、河盛好蔵、杉靖三郎、永井道雄による作品評あり。
- 『文章読本』(中央公論社、1959年6月25日) - 文章読本、質疑応答(附録)
- 『鏡子の家』〈第一部〉(新潮社、1959年9月20日) - 第1章-第5章。帯(裏)に三島の文章「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」(第二部も同じ)あり。
- 『鏡子の家』〈第二部〉(新潮社、1959年9月20日) - 第6章-第10章
- 『裸体と衣裳』(新潮社、1959年11月30日) - 裸体と衣裳――日記、外遊日記
- 『続不道徳教育講座』(中央公論社、1960年2月5日) - 後半の40篇。帯(裏)に「著者のことば」(本文から抜粋)あり。
- 『宴のあと』(新潮社、1960年11月15日) - 帯(裏)に臼井吉見、河上徹太郎、中村光夫、平野謙による作品評あり。
- 『お嬢さん』(講談社、1960年11月25日)
- 『スタア』(新潮社、1961年1月30日) - スタア、憂國、百万円煎餅
- 『獣の戯れ』(新潮社、1961年9月30日)
- 『美の襲撃』(講談社、1961年11月15日) - 序、六世中村歌右衛門、魔――現代的状況の象徴的構図、十八歳と三十四歳の肖像画、一つの政治的意見、俵屋宗達、存在しないものの美学――「新古今集」珍解、川端康成再説、舟橋聖一の「若いセールスマンの死」、大岡昇平氏――友情と考証、など83篇
- 『美しい星』(新潮社、1962年10月20日) - 帯(裏)に武田泰淳、福田恆存、高橋義孝による作品評あり。
- 『愛の疾走』(講談社、1963年1月20日)
- 『林房雄論』(新潮社、1963年8月30日)▲ - 林房雄論、林房雄年譜(林房雄)、跋。限定1,000部
- 『午後の曳航』(講談社、1963年9月10日) - 帯(裏)に江藤淳による作品評「三島由紀夫の文学」あり。
- 『剣』(講談社、1963年12月10日) - 剣、月、葡萄パン、雨のなかの噴水、苺、帽子の花、魔法瓶、真珠、切符
- 『肉体の学校』(集英社、1964年2月15日)
- 『喜びの琴 附・美濃子』(新潮社、1964年2月25日) - 喜びの琴、美濃子
- 『私の遍歴時代』(講談社、1964年4月10日) - 私の遍歴時代、八月二十一日のアリバイ、この十七年の“無戦争”、谷崎潤一郎論、現代史としての小説、など51篇。函(裏)に大江健三郎による作品評「最も魅力的な三島由紀夫神話」あり。
- 『三島由紀夫自選集』(集英社、1964年7月10日)▲ - 潮騒、美徳のよろめき、金閣寺、憂國、百万円煎餅、沈める滝、大障碍、ワットオの《シテエルへの船出》。解説:橋川文三「夭折者の禁欲」。記番・署名入りの限定1,000部
- 『絹と明察』(講談社、1964年10月15日) - 帯(裏)に磯田光一による作品評「現代小説の秀作の一つ」(『図書新聞』文芸時評)あり。
- 『第一の性』(集英社、1964年12月30日)
- 『音楽』(中央公論社、1965年2月20日)
- 『レスボスの果実』(プレス・ビブリオマーヌ、1965年6月)▲ - レスボスの果実(「果実」抄)、「memo」(佐々木桔梗)。限定195部。コレクション「サフィール」シリーズのXV
- 『三熊野詣』(新潮社、1965年7月30日) - 三熊野詣、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛、あとがき
- 『目――ある芸術断想』(集英社、1965年8月20日) - 芸術断想(10篇)、PLAY BILLS(15篇)など26篇、あとがき
- 『サド侯爵夫人』(河出書房新社、1965年11月15日) - 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋(三島)
- 『反貞女大学』(新潮社、1966年3月5日)
- 『憂國 映画版』(新潮社、1966年4月10日) - 憂國、撮影台本、スチール、製作意図及び経過
- 『サーカス』(プレス・ビブリオマーヌ、1966年春)▲ - サーカス、刊行後記(佐々木桔梗)。記番・署名入りの限定375部
- 『英霊の聲』(河出書房新社、1966年6月30日) - 英霊の聲、憂國、十日の菊、二・二六事件と私
- 『複雑な彼』(集英社、1966年8月30日)
- 『荒野より』(中央公論社、1967年3月6日) - 荒野より、時計、仲間」の小説3篇、谷崎潤一郎について、ナルシシズム論、現代文学の三方向、石原慎太郎の「星と舵」について、団蔵・芸道・再軍備、など評論36篇、アラビアン・ナイト
- 豪華版『サド侯爵夫人』(中央公論社、1967年8月18日)▲ - 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋、豪華版のための捕跋(三島)。記番・署名入りの限定380部
- 『葉隠入門――武士道は生きている』(光文社、1967年9月1日) - プロローグ――「葉隠」とわたし、わたしの「葉隠」、「葉隠」名言抄(訳:笠原伸夫)。カバー袖に三島の「わたしのただ一冊の本『葉隠』」と、石原慎太郎による作品評「三島由紀夫氏のこと」あり。
- 『夜会服』(集英社、1967年9月30日)
- 『朱雀家の滅亡』(河出書房新社、1967年10月25日) - 朱雀家の滅亡、後記
- 『三島由紀夫レター教室』(新潮社、1968年7月20日)
- 『太陽と鉄』(講談社、1968年10月20日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104
- 豪華版『岬にての物語』(牧羊社、1968年11月15日)▲ - 岬にての物語、蕗谷虹児氏の少女像。記番・署名入りの限定300部
- 『わが友ヒットラー』(新潮社、1968年12月10日)
- 『命売ります』(集英社、1968年12月25日)
- 『春の雪』〈豊饒の海・第一巻〉(新潮社、1969年1月5日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に川端康成、北杜夫による作品評あり。
- 『奔馬』〈豊饒の海・第二巻〉(新潮社、1969年2月25日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に川端康成による作品評あり。
- 『文化防衛論』(新潮社、1969年4月25日) - 反革命宣言、反革命宣言捕注、文化防衛論、橋川文三への公開状、「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について、自由と権力の状況、の評論6篇と、政治行為の象徴性について(いいだももとの対談)、国家革新の原理(学生とのティーチ・イン)、あとがき、本書関連日誌(附録)
- 合本『不道徳教育講座』(中央公論社、1969年5月10日) - 「暗殺について」を除く全69篇、あとがき
- 『黒蜥蜴』(牧羊社、1969年5月20日)
- 『癩王のテラス』(中央公論社、1969年6月28日) - 癩王のテラス、あとがき
- 『若きサムラヒのために』(日本教文社、1969年7月10日) - 若きサムラヒのための精神講話、お茶漬ナショナリズム、東大を動物園にしろ、安保問題をどう考えたらよいか(猪木正道との対談)、負けるが勝ち(福田赳夫との対談)、文武両道と死の哲学(福田恆存との対談)、あとがき
- 豪華版『椿説弓張月』(中央公論社、1969年11月25日)▲ - 椿説弓張月、「弓張月」の劇化と演出。記番入りの限定1,000部
- 豪華版『黒蜥蜴』(牧羊社、1970年1月15日)▲ - 記番・署名入りの限定350部。別に著者本50部あり。
- 『椿説弓張月』(中央公論社、1970年1月30日) - 豪華限定版と同内容。
- 『三島由紀夫文学論集』(講談社、1970年3月28日) - 序文、太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走――私の文学、私の中の“男らしさ”の告白、精神の不純、など48篇。あとがき:虫明亜呂無
- 豪華版『鍵のかかる部屋』(プレス・ビブリオマーヌ、1970年6月)▲ - 鍵のかかる部屋、あとがき、捕記(別紙1葉)。A版とB版の2種。A版は記番・署名入りの限定395部。B版は記番入りの限定180部
- 『暁の寺』〈豊饒の海・第三巻〉(新潮社、1970年7月10日) - 私家限定本4部あり。帯(裏)に三島の文章「読者へ」(「小説とは何か」からの抜粋)あり。
- 『行動学入門』(文藝春秋、1970年10月15日) - 行動学入門、おわりの美学、革命哲学としての陽明学、あとがき
- 『作家論』(中央公論社、1970年10月31日) - 森鷗外、尾崎紅葉、泉鏡花、谷崎潤一郎、内田百閒、牧野信一、稲垣足穂、川端康成、尾崎一雄、外村繁、上林暁、林房雄、武田麟太郎、島木健作、円地文子論、あとがき
- 豪華版『橋づくし』(牧羊社、1971年1月7日)▲ - 雪の巻、月の巻、花の巻の3種。記番・署名入りの限定360部(各種120部)。別に非売品の著者自筆署名特装本23部あり。
- 『三島由紀夫十代作品集』(新潮社、1971年1月25日) - 彩絵硝子、花ざかりの森、苧菟と瑪耶、玉刻春、みのもの月、世々に残さん、祈りの日記、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃
- 『天人五衰』〈豊饒の海・第四巻〉(新潮社、1971年2月25日) - 天人五衰、認識と行動と文学――〈豊饒の海〉四部作をめぐって(佐伯彰一と村松剛の対談)。私家限定本4部あり。
- 自筆原稿完全復元版『蘭陵王』(講談社、1971年3月5日)▲ - 蘭陵王(復元原稿)。別冊子(蘭陵王、中村光夫「『蘭陵王』と『最後の一句』」)あり。記番入りの限定1,500部
- 『蘭陵王――三島由紀夫1967.1〜1970.11』(新潮社、1971年5月6日) - 「年頭の迷い」から「わが同志観」まで1967年-1970年に執筆した評論・随筆と、蘭陵王
- 豪華版『仮面の告白』(講談社、1971年11月25日)▲ - 記番入りの限定1,000部。
- 『小説とは何か』(新潮社、1972年3月20日)
- 『日本文学小史』(講談社、1972年11月24日) - 解説:磯田光一
- 『わが思春期』(集英社、1973年1月15日) - 解題:粉川宏
- 『ぼくの映画をみる尺度』(潮出版社、1980年2月25日) - ぼくの映画をみる尺度・シネマスコープと演劇、私の洋画遍歴、西部劇礼讃、映画的肉体論――その部分及び全体、忘我、映画見るべからず、など39篇
- 『実感的スポーツ論』(共同通信社、1984年5月1日) - 美しきもの、見事な若武者――矢尾板・ペレス戦観戦記、追う者追われる者――ペレス・米倉戦観戦記、冷血熱血――小坂=オルチス、未知への挑戦――海老原=ポーン、狐の宿命――関・ラモス戦観戦記、など54篇
- 『生きる意味を問う』(大和出版、1984年10月30日)- 私の遺書、明るい樫、朝、薄化粧をした…、私の文学、わが創作方法、作家を志す人々の為に、芸術にエロスは必要か、など詩・評論45篇。編・解説:小川和佑「三島由紀夫の人と作品」。年譜作成:小川和佑、斉藤孝祐
- 『芝居日記』(中央公論社、1991年7月5日) - 第一冊(一番-四十四番)、第二冊(四十七番-百番)、未完小説集ほか覚書、随想一束。付録:織田紘二「『芝居日記』について」、六世中村歌右衛門「『三島歌舞伎』の世界」、『芝居日記』観劇目録。解説:戸板康二「若書きの新鮮さ」。ドナルド・キーン「『芝居日記』の底に流れるもの」
- 『芝居の媚薬』(角川春樹事務所・ランティエ叢書、1997年11月18日) - 戯曲を書きたがる小説書きのノート、私の遍歴時代(一部分)、踊り、玉三郎のこと、六世中村歌右衛門序説、など23篇。年譜作成:高丘卓・稲田智宏。解説:柳美里「王の恵みと宿命」
- 『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社、1998年5月25日) - キーン宛ての97通の書簡。編集部後記
- 『日本人養成講座』(メタローグ、1999年10月8日/平凡社、2012年5月) - アメリカ人の日本神話、お茶漬ナショナリズム、文章読本(抄)、小説家の休暇(断片)、若きサムライのための精神講話(抄)、心中論、など12篇。付録:村松英子「巻末エッセイ」、高丘卓「三島由紀夫のパサージュ」。編者・年譜作成:高丘卓
- 『三島由紀夫 十代書簡集』(新潮社、1999年11月20日) - 東文彦宛ての64通、弔詞1篇、東菊枝(文彦の母)宛ての1通の書簡。付録:富岡幸一郎「十代の思想への帰郷」
- 『三島由紀夫 映画論集成』(ワイズ出版、1999年11月25日) - 多数の映画論・対談・座談など。編者:山内由紀人。監修:三島威一郎・藤井浩明
- 『三島由紀夫詩集』(山中湖文学の森「三島由紀夫文学館」、2000年7月14日) - 秋、寂秋、巡礼老者、光は普く漲り、幼なき日、斜陽、など多数の詩篇。あとがき:佐伯彰一「『詩を書く少年』の実像」。解題:工藤正
- 『師・清水文雄への手紙』(新潮社、2003年8月30日) - 清水文雄宛ての99通の書簡。付録:清水文雄「『花ざかりの森』をめぐって、三島由紀夫のこと」。解説:宇野憲治
- 『告白――三島由紀夫未公開インタビュー』(講談社、2017年8月8日) - 生前未公開インタビュー(1970年2月19日実施のジョン・ベスターとの対談)、太陽と鉄。あとがき:小島英人「発見のこと――燦爛へ」。編集:TBSヴィンテージ クラシックス
- 『夜告げ鳥 初期作品集』(平凡社、2020年1月) - 解説:井上隆史
共著の単行本
- 『対話・日本人論』(番町書房、1966年10月25日) - 林房雄との対談。夏目書房版(2002年3月25日再刊)は、三島の「林房雄」(抄)、林の「悲しみの琴――三島由紀夫への鎮魂歌」(抄)を併せて収録、富岡幸一郎・解説「日本人へのメッセージ」。
- 『対話・人間と文学』(講談社、1968年4月28日) - 中村光夫との対談
- 『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》』(新潮社、1969年6月25日) - 美と共同体と東大闘争(全共闘との討論)、砂漠の住人への論理的弔辞――討論を終へて(三島)、全共闘代表3名の感想文
- 『尚武のこころ 対談集』(日本教文社、1970年9月25日) - 小汀利得、中山正敏、鶴田浩二ら10名10編の対談、三島自身のあとがき
- 『源泉の感情 対談集』(河出書房新社、1970年10月30日) - 小林秀雄、大江健三郎、舟橋聖一ら17名19編の対談、三島自身のあとがき
- 『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(新潮社、1997年12月10日) - はじめに(佐伯彰一)、川端と三島の往復書簡。解説「恐るべき計画家・三島由紀夫」(佐伯彰一・川端香男里の対談)、川端へのノーベル文学賞推薦文(英文、佐伯彰一訳)、両者の略年譜
写真被写体の著書
- 『薔薇刑――細江英公写真集』(集英社、1963年3月25日)▲ - 記番・署名入りの限定1,500部。のち様々な版で改訂再刊。
- 『グラフィカ三島由紀夫』(新潮社、1990年9月10日)
- 『三島由紀夫の家』(美術出版社、1995年11月。普及版2000年11月)
- 写真撮影:篠山紀信。文章:篠田達美
- YUKIO MISHIMA: THE DEATH OF A MAN〈三島由紀夫:男の死〉(Rizzoli、2020年9月29日)▲ - 三島歿後50周年を前に、米国初発行。
- 写真撮影:篠山紀信。文章:ON THE ART OF KISHIN SHINOYAMA〈篠山紀信論〉(三島由紀夫)、THE DEATH OF A MAN CHRONICLES〈「男の死」始末記〉(横尾忠則)
- 『OTOKO NO SHI』(CCCアートラボ株式会社、2020年11月25日)▲ - 写真集『男の死』を再構成。初版50部。B2判。横尾忠則、篠山紀信の直筆サイン入り。
- 写真撮影:篠山紀信。構成・装幀・絵画:横尾忠則
翻訳書
- 『ブリタニキュス』(新潮社、1957年5月20日)
- 『プロゼルピーナ』(原作:ゲーテ、人文書院「ゲーテ全集 第4巻」、1960年3月)
- 解説「独白劇「プロゼルピーナ」」
- 『聖セバスチァンの殉教』(美術出版社、1966年9月30日)
- 霊験劇 聖セバスティアンの殉教(原作:ガブリエーレ・ダンヌンツィオ/邦訳:三島・池田弘太郎。付録:あとがき(三島・池田)。別刷に写真50頁49葉の「名画集 聖セバスティアンの殉教」(三島編)あり。
- 新版は国書刊行会〈クラテール叢書〉、1988年4月。画集は大幅に割愛されている。
全集・選集
- 『三島由紀夫作品集』〈全6巻〉(新潮社、1953年7月25日-1954年4月30日)
- 『三島由紀夫選集』〈全19巻〉(新潮社、1957年11月30日-1959年7月10日)
- ジャンルを問わない編年体の編集。3巻-5巻、9巻、11巻-19巻には付録として、文芸評論家や作家による同時代作品評あり。
- 『三島由紀夫戯曲全集』(新潮社、1962年3月20日)
- 『三島由紀夫短篇全集』(新潮社、1964年2月10日)
- 『三島由紀夫短篇全集』〈全6巻〉(講談社、1965年3月10日-8月5日)
- 各巻に三島自身の「あとがき」
- 『三島由紀夫評論全集』(新潮社、1966年8月10日)
- 1947年1月から1964年4月までの評論
- 『三島由紀夫長篇全集』〈全2巻〉(新潮社、1967年12月10日、1968年2月25日)
- 「盗賊」から「音楽」までの主要16篇
- 『三島由紀夫短篇全集』〈全6巻〉(講談社、1971年1月20日- 5月20日)
- 各巻に三島の「あとがき」あり。月報:田中美代子(全巻連載)。
- 『三島由紀夫全集』〈全35巻+補巻1〉(新潮社、1973年4月25日-1976年6月25日)
- 『三島由紀夫短篇全集』〈全2巻(上・下セット)〉(新潮社、1987年11月20日)
- 『三島由紀夫評論全集』〈全4巻(セット)〉(新潮社、1989年7月5日)。解題:田中美代子
- 『三島由紀夫戯曲全集』〈全2巻(上・下セット)〉(新潮社、1990年9月10日)
- 『決定版 三島由紀夫全集』〈全42巻+補巻1、別巻1〉(新潮社、2000年11月10日-2006年4月28日)
- 編集委員:田中美代子。佐藤秀明、井上隆史、山中剛史。解題・校訂:田中美代子。
月報:ゆかりの人物が各巻2名ずつ寄稿、田中美代子《思想の航海術》(全巻連載)。
- 編集委員:田中美代子。佐藤秀明、井上隆史、山中剛史。解題・校訂:田中美代子。
文庫本
刊行年月は原則初版のみ記載。
新潮文庫(新潮社)
- 『仮面の告白』(1950年6月25日) - 解説:福田恆存。改版1987年7月から、注解(作成:田中美代子)、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加。
- 『頭文字』(1951年10月30日) - 花ざかりの森、中世、春子、山羊の首、頭文字、宝石売買、魔群の通過、遠乗会。解説:神西清
- 『愛の渇き』(1952年3月31日) - 解説:吉田健一
- 『盗賊』(1954年4月30日) - 解説:武田泰淳
- 『禁色』〈上巻〉(1954年11月10日) - 第1章-第18章。解説:大井廣介
- 『禁色』〈下巻〉(1954年11月15日) - 第19章-第33章
- 『潮騒』(1955年12月25日) - 解説:中村真一郎。改版1985年9月から、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加し、解説:佐伯彰一「『潮騒』について」となる。
- 『金閣寺』(1960年9月15日) - 解説:中村光夫。改版1977年4月から、注解、佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」、年譜を追加。
- 『美徳のよろめき』(1960年11月5日) - 解説:北原武夫
- 『永すぎた春』(1960年12月10日) - 解説:十返肇
- 『沈める滝』(1963年12月5日) - 解説:村松剛
- 『禁色』(1964年4月30日) - 全章。解説:大井廣介。改版1969年1月から、解説:野口武彦
- 『鏡子の家』(1964年10月5日) - 解説:田中西二郎
- 『獣の戯れ』(1966年7月10日) - 解説:田中美代子
- 『美しい星』(1967年10月30日) - 解説:奥野健男
- 『近代能楽集』(1968年3月25日) - 邯鄲、綾の鼓、卒塔婆小町、葵上、班女、道成寺、熊野、弱法師。解説:ドナルド・キーン
- 『午後の曳航』(1968年7月15日) - 解説:田中美代子
- 『花ざかりの森・憂国――自選短編集』(1968年9月15日) - 花ざかりの森、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、遠乗会、卵、詩を書く少年、海と夕焼、新聞紙、牡丹、橋づくし、女方、百万円煎餅、憂国、月。自作解説:三島由紀夫
- 『宴のあと』(1969年7月20日) - 解説:西尾幹二
- 『音楽』(1970年2月20日) - 解説:澁澤龍彦
- 『真夏の死――自選短編集』(1970年7月15日) - 煙草、春子、サーカス、翼、離宮の松、クロスワード・パズル、真夏の死、花火、貴顕、葡萄パン、雨のなかの噴水。自作解説:三島由紀夫
- 『獅子・孔雀』(1971年2月27日) - 軽王子と衣通姫、殉教、獅子、毒薬の社会的効用について、急停車、スタア、三熊野詣、孔雀、仲間。解説:高橋睦郎
- 『青の時代』(1971年7月23日) - 解説:西尾幹二
- 『春の雪』(1977年7月30日) - 解説:佐伯彰一
- 『奔馬』(1977年8月30日) - 解説:村松剛
- 『暁の寺』(1977年10月30日) - 解説:森川達也
- 『天人五衰』(1977年11月30日)- 解説:田中美代子
- 『女神』(1978年3月30日) - 女神、接吻、伝説、白鳥、哲学、蝶々、恋重荷、侍童、鴛鴦、雛の宿、朝の純愛。解説:磯田光一
- 『岬にての物語』(1978年11月27日) - 苧菟と瑪耶、岬にての物語、頭文字、親切な機械、火山の休暇、牝犬、椅子、不満な女たち、志賀寺上人の恋、水音、商い人、十九歳、月澹荘綺譚。解説:渡辺広士
- 『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(1979年4月25日) - サド侯爵夫人、わが友ヒットラー。自作解題:(跋(サド侯爵夫人)、「サド侯爵夫人」について、「サド侯爵夫人」の再演、豪華版のための補跋(サド侯爵夫人)、作品の背景――「わが友ヒットラー」、「わが友ヒットラー」覚書、一対の作品――「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」)
- 『鍵のかかる部屋』(1980年2月25日) - 彩絵硝子、祈りの日記、慈善、訃音、怪物、果実、死の島、美神、江口初女覚書、鍵のかかる部屋、山の魂、蘭陵王。解説:田中美代子
- 『ラディゲの死』(1980年12月25日) - みのもの月、山羊の首、大臣、魔群の通過、花山院、日曜日、箱根細工、偉大な姉妹、朝顔、旅の墓碑銘、ラディゲの死、復讐、施餓鬼舟。解説:野島秀勝
- 『小説家の休暇』(1982年1月25日) - 小説家の休暇、重症者の兇器、ジャン・ジュネ、ワットオの《シテエルへの船出》、私の小説の方法、新ファッシズム論、永遠の旅人――川端康成氏の人と作品、楽屋で書かれた演劇論、魔――現代的状況の象徴的構図、日本文学小史。解説:田中美代子
- 『殉教』(1982年4月25日) - 新潮文庫より1971年2月27日刊行の『獅子・孔雀』と同一内容。解説:高橋睦郎
- 『アポロの杯』(1982年9月25日) - アポロの杯、沢村宗十郎について、雨月物語について、オスカア・ワイルド論、陶酔について、心中論、十八歳と三十四歳の肖像画、存在しないものの美学――「新古今集」珍解、北一輝論――「日本改造法案大綱」を中心として、小説とは何か。解説:佐伯彰一
- 『葉隠入門』(1983年4月25日) - プロローグ――「葉隠」とわたし、一 現代に生きる「葉隠」、二「葉隠」四十八の精髄、三「葉隠」の読み方。「葉隠」名言抄(訳:笠原伸夫)。解説:田中美代子
- 『裸体と衣裳』(1983年12月25日) - 裸体と衣裳――日記、ドルヂェル伯の舞踏会、戯曲を書きたがる小説書きのノート、空白の役割、芸術にエロスは必要か、現代小説は古典たり得るか、谷崎潤一郎論、変質した優雅、文化防衛論。解説:西尾幹二
- 『鹿鳴館』(1984年12月20日) - 鹿鳴館、只ほど高いものはない、夜の向日葵、朝の躑躅。自作解題(作者の言葉(鹿鳴館)、「鹿鳴館」について(文学座プログラム掲載)、「鹿鳴館」について(毎日新聞掲載)、あとがき(鹿鳴館)、美しき鹿鳴館時代――再演「鹿鳴館」について、「鹿鳴館」再演、上演される私の作品――「葵上」と「只ほど高いものはない」、「葵上」と「只ほど高いものはない」、あとがき(夜の向日葵)、「朝の躑躅」について)
- 『熱帯樹』(1986年2月25日) - 熱帯樹、薔薇と海賊、白蟻の巣」、自作解題(「熱帯樹」の成り立ち、「薔薇と海賊」について(毎日マンスリー掲載)、あとがき(薔薇と海賊)、「薔薇と海賊」について(文学座プログラム掲載)、「薔薇と海賊」について(劇団浪曼劇場プログラム掲載)、「白蟻の巣」について)
- 『絹と明察』(1987年9月25日) - 解説:田中美代子
- 『憂国/橋づくし』(1996年8月15日) - 憂国、海と夕焼、橋づくし、百万円煎餅。コンビニ店「セブンイレブン」のみの発売品の新潮ピコ文庫。
- 『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(2000年11月1日) - 1997年12月10日刊行の単行本と同一内容。なお著者の記載は川端側。
- 『三島由紀夫 十代書簡集』(2002年11月1日) - 1999年11月20日刊行の単行本と同一内容(表記は現代仮名遣い)。
- 『手長姫 英霊の声 1938 -1966』(2020年10月28日) 酸模、家族合せ、日食、手長姫、携帯用、S・O・S、魔法瓶、切符、英霊の声。解説:保坂正康
角川文庫(角川書店)
- 『愛の渇き』(1951年7月15日) - 解説:花田清輝
- 『花ざかりの森 他六篇』(1955年3月30日) - 彩絵硝子、花ざかりの森、みのもの月、軽王子と衣通姫、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃、中世、岬にての物語。解説:戸板康二
- 『真夏の死 他五篇』(1955年8月20日) - 真夏の死、怪物、大臣、親切な機械、獅子、クロスワード・パズル。解説:奥野健男
- 『純白の夜』(1956年7月30日) - 解説:蘆原英了。改版2009年2月から、解説:小池真理子
- 『女神』(1959年4月10日) - 解説:十返肇
- 『夏子の冒険』(1960年4月10日) - 改版2009年3月から、解説:千野帽子
- 『不道徳教育講座』(1967年11月30日) - 改版1999年9月から、「暗殺について」を除く69篇。解説:奥野健男
- 『美と共同体と東大闘争』(2000年7月25日) - 新潮社より1969年6月25日刊行の『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘《美と共同体と東大闘争》』と同一内容だが、人権擁護の見地から「われわれはキチガイではない」の章名が「目の中の不安」と変更。
- 『夜会服』(2009年10月25日) - 解説:田中和生
- 『複雑な彼』(2009年11月25日) - 解説:安部譲二
- 『お嬢さん』(2010年4月25日) - 解説:市川真人
- 『にっぽん製』(2010年6月25日) - 解説:田中優子
- 『幸福号出帆』(2010年11月25日) - 解説:藤田三男
- 『愛の疾走』(2010年11月25日) - 解説:横尾忠則
中公文庫(中央公論社)
- 『沈める瀧』(1959年8月25日)- 解説:寺田透。表記は「中央公論文庫」
- 『不道徳教育講座』(1962年5月15日)- 「暗殺について」を除く69篇。表記は「中央公論文庫」
- 『文章読本』(1973年8月10日、改版1995年12月) - 解説:野口武彦。新装改版2020年3月、人名索引を増補
- 『作家論』(1974年6月10日) - 1970年10月刊の単行本と同一内容。解説:佐伯彰一。新装改版2016年5月、解説:関川夏央
- 『荒野より』(1975年1月10日) - 1967年3月刊の単行本と同一内容。解説:村松剛。新装改版2016年6月、解説:猪瀬直樹
- 『癩王のテラス』(1975年8月10日) - 癩王のテラス、あとがき。解説:宗谷真爾
- 『椿説弓張月』(1975年11月10日) - 椿説弓張月、「弓張月」の劇化と演出、「椿説弓張月」の演出、歌舞伎の脚本と現代語。解説:磯田光一
- 『太陽と鉄』(1987年11月10日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104、私の遍歴時代。解説:佐伯彰一。新装改版2020年1月、最後のロングインタビュー「三島由紀夫 最後の言葉」(聞き手・古林尚)を増補
- 『三島由紀夫未発表書簡 ドナルド・キーン氏宛の97通』(2001年3月25日) - キーン宛ての97通の書簡、編集部後記。解説:松本徹「十七年の交友」
- 『小説読本』(2016年10月25日) - 作家を志す人々の為に、小説とは何か、私の小説の方法、わが創作方法、小説の技巧について、極く短かい小説の効用、法律と文学、私の小説作法、法学士と小説、法律と餅焼き、私の文学、自己改造の試み、「われら」からの遁走。解説:平野啓一郎。元版:中央公論新社(2010年10月)
- 『古典文学読本』(2016年11月25日) - 日本の古典と私、わが古典、相聞歌の源流、古今集と新古今集、存在しないものの美学、清少納言「枕草子」、雨月物語について、能、変質した優雅、「道成寺」私見、葉隠二題、日本文学小史、「文芸文化」のころ、「花ざかりの森」出版のころ、「花ざかりの森」のころ、古今の季節、伊勢物語のこと、うたはあまねし、寿、柳桜雑見録、古座の玉石、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃。解説:富岡幸一郎
- 『戦後日記』(2019年4月23日) - 「小説家の休暇」「裸体と衣裳」ほか日記形式の全エッセイ集。解説:平山周吉
- 『谷崎潤一郎・川端康成』(2020年5月21日) - 両者に関する批評・随筆を初集成。解説:梶尾文武
- 『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』(2020年7月22日) - 石原慎太郎との全対話9編を初集成。公開状「士道について」と石原の返答「政治と美について」も収録。あとがきにかえて:石原慎太郎「三島さん、懐かしい人」(2010年10月刊の『中央公論特別編集 三島由紀夫と戦後』掲載のインタビュー記事をまとめたもの)
講談社文庫・講談社文芸文庫(講談社)
- 『剣』(1971年7月1日) - 剣、月、葡萄パン、雨のなかの噴水、苺、帽子の花、魔法瓶、真珠、切符。解説:佐伯彰一
- 『絹と明察』(1971年7月1日) - 解説:佐伯彰一
- 『太陽と鉄』(1971年12月15日) - 太陽と鉄、エピロオグ――F104、私の遍歴時代。解説:田中美代子
- 『中世・剣』(1998年3月10日) - 中世、夜の仕度、家族合せ、宝石売買、孝経、剣。解説:室井光広
- 『対話・人間と文学』(2003年7月10日) - 中村光夫との対談。解説:秋山駿「対談による精神のドラマ」
- 『三島由紀夫文学論集 I』(2006年4月10日) - 序文、太陽と鉄、小説家の休暇、「われら」からの遁走、私の中の「男らしさ」の告白、精神の不純、わが非文学的生活、自己改造の試み、実感的スポーツ論、体操、ボクシングと小説、私の健康、私の商売道具。編集:虫明亜呂無。解説:高橋睦郎
- 『三島由紀夫文学論集 II』(2006年5月10日) - 裸体と衣裳、アポロの杯――パリ、ジョルジュ・バタイユ「エロチシズム」、陶酔について、個性の鍛錬場、ナルシシズム論、「純文学とは?」その他、余暇善用、私の遍歴時代。編集:虫明亜呂無。解説:橋本治
- 『三島由紀夫文学論集 III』(2006年6月10日) - 古今集と新古今集、美に逆らうもの、変質した優雅、魔的なものの力、現代史としての小説、団蔵・芸道・再軍備、六世中村歌右衛門序説、沢村宗十郎について、『班女』拝見、海風の吹きめぐる劇場、楽屋で書かれた演劇論、戯曲の誘惑、「演劇のよろこび」の復活、ロマンチック演劇の復興、文学座の諸君への「公開状」、「道義的革命」の論理、「葉隠」とわたし、美しき時代、死の分量、モラルの感覚、レイモン・ラディゲ、ジャン・コクトー、オスカア・ワイルド、ジャン・ジュネ、コリン・ウィルソン、ノーマン・メイラー。あとがき(虫明亜呂無〈再録〉)。編集:虫明亜呂無。解説:加藤典洋。1970年3月刊の単行本を文庫化(3分冊)。
- 『告白―三島由紀夫未公開インタビュー』(2019年11月、TBSヴィンテージクラシックス編) - 他に「太陽と鉄」
文春文庫(文藝春秋社)
- 『行動学入門』(1974年10月25日) - 1970年10月刊行の単行本と同一内容。解説:虫明亜呂無
- 『若きサムライのために』(1996年11月10日) - 日本教文社より1969年7月刊行の単行本と同一内容。解説:福田和也
集英社文庫(集英社)
河出文庫(河出書房新社)
- 『F104――英霊の声/朱雀家の滅亡』(1981年6月4日) - F104、英霊の声、朱雀家の滅亡。著者ノートにかえて(二・二六事件と私(抄)、後記(朱雀家の滅亡))
- 『英霊の声』(1990年10月4日) - 英霊の声、F104、朱雀家の滅亡、「道義的革命」の論理――磯部一等主計の遺稿について、二・二六事件と私(抄)、後記(朱雀家の滅亡)。解説:富岡幸一郎
- 『文豪ミステリ傑作選 三島由紀夫集』(1998年8月4日) - サーカス、毒薬の社会的効用について、果実、美神、花火、博覧会、復讐、水音、月澹荘綺譚、孔雀、朝の純愛、中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃。編集・解題:井上明久
- 改題新版『復讐 三島由紀夫×ミステリ』(2022年5月9日)
- 『英霊の聲 オリジナル版』(2005年10月20日) - 1966年6月刊行の単行本と同一内容。解説:藤田三男
- 『サド侯爵夫人/朱雀家の滅亡』(2005年12月10日) - 序・サド侯爵の真の顔(澁澤龍彦)、サド侯爵夫人、跋(三島)、朱雀家の滅亡、後記(三島)。解説:藤田三男
- 『源泉の感情』(2006年2月20日) - 1970年10月刊行の単行本から6編削除、1編追加。小林秀雄、舟橋聖一、安部公房、野坂昭如、武田泰淳らとの対談14編。解説:藤田三男
ちくま文庫(筑摩書房)
- 『三島由紀夫レター教室』(1991年12月4日) - 解説:群ようこ
- 『肉体の学校』(1992年6月22日) - 解説:群ようこ
- 『愛の疾走』(1994年3月24日) - 解説:清水義範
- 『反貞女大学』(1994年12月5日) - 反貞女大学、第一の性。解説:田中美代子
- 『私の遍歴時代――三島由紀夫のエッセイ1』(1995年4月24日) - わが思春期、私の遍歴時代、師弟、高原ホテル、学生の分際で小説を書いたの記、わが魅せられたるもの、作家と結婚、母を語る――私の最上の読者、ぼくはオブジェになりたい、小説家の息子、実感的スポーツ論、私の遺書、私のきらいな人、男の美学、雪、独楽。解説:田中美代子
- 『新恋愛講座――三島由紀夫のエッセイ2』(1995年5月24日) - 新恋愛講座、おわりの美学、若きサムライのための精神講話。解説:田中美代子
- 『外遊日記――三島由紀夫のエッセイ3』(1995年6月22日) - 旅の絵本、遠視眼の旅人、日本の株価、南の果ての都へ、外遊日記、ニューヨークの溜息、ニューヨークぶらつ記、紐育レストラン案内、大統領選挙、口角の泡、ピラミッドと麻薬、旅の夜、美に逆らうもの、冬のヴェニス、熊野路、英国紀行、インド通信、アメリカ人の日本神話。解説:田中美代子
- 『芸術断想――三島由紀夫のエッセイ4』(1995年8月24日) - 芸術断想、あとがき(目――ある芸術断想)、盛りあがりのすばらしさ、ベラフォンテ讃、迫力ある「ウエストサイド物語」――初日を見て、篠山紀信論、など32篇。解説:田中美代子
- 『幸福号出帆』(1996年7月24日) - 解説:鹿島茂
- 『三島由紀夫のフランス文学講座』(1997年2月24日) - 序(鹿島茂)、ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴、一冊の本――ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」、私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に、ラディゲ病、レイモン・ラディゲ、小説家の休暇、からの抜粋などフランス文学論多数。編者あとがき:鹿島茂
- 『命売ります』(1998年2月24日) - 解説:種村季弘
- 『三島由紀夫の美学講座』(2000年1月6日) - 序(谷川渥)、美について、唯美主義と日本、ヴォリンガア「抽象と感情移入」をめぐって、など35篇。編集・解説:谷川渥
- 『文化防衛論』(2006年11月10日) - 新潮社で1969年4月刊行の単行本とほぼ同一内容(果たし得ていない約束――私の中の二十五年、を追加)。解説:福田和也
- 『文豪怪談傑作選 三島由紀夫集――雛の宿』(2007年9月10日) - 朝顔、雛の宿、花火、切符、鴉、英霊の聲、邪教、博覧会、仲間、孔雀、月澹荘綺譚、など18篇。編集・解説:東雅夫
- 『恋の都』(2008年4月10日) - 解説:千野帽子
岩波文庫(岩波書店)
- 『三島由紀夫紀行文集』(2018年9月15日)- 「アポロの杯」ほか海外・国内紀行を3章に分け収録。編・解説:佐藤秀明
- 『若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇』(2018年11月17日)- 他に「喜びの琴」を収録。解説:佐藤秀明
- 『三島由紀夫スポーツ論集』(2019年5月17日)。編・解説:佐藤秀明
上記以外の他社
- 『生きる意味を問う――私の人生観』(学陽書房:人物文庫、1997年9月) - 単行版は大和出版(1984年10月、新版1992年4月)、複数の作品を入れ替え再編(「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」(高橋和巳との対談)を追加)。編・解説:小川和佑
- 『文学的人生論』(光文社知恵の森文庫、2004年11月) - 1954年11月刊行の河出書房(河出新書)初刊より一編(「日本の小説家はなぜ戯曲を書かないか?」)を割愛。解説:福田和也
- 『黒蜥蜴』(学研M文庫、2007年6月)- 黒蜥蜴、自作解題(「黒蜥蜴」について(西武生活掲載)、関係者の言葉、「黒蜥蜴」、「黒蜥蜴」について(婦人画報掲載)、映画「黒蜥蜴」の収録歌)。付録・座談会(江戸川乱歩、杉村春子、芥川比呂志、松浦竹夫、山村正夫)、対談(丸山明宏)。解説:美輪明宏
- 『三島由紀夫 近代浪漫派文庫42』(新学社、2007年7月) - 十五歳詩集、花ざかりの森、橋づくし、憂国、三熊野詣、卒塔婆小町、太陽と鉄、文化防衛論。歴史的仮名遣い表記。
- 『終わり方の美学 戦後ニッポン論考集』(徳間文庫カレッジ、2015年10月)- 『日本人養成講座』メタローグ(1999年10月)、新版・平凡社(2012年5月)の改題・増補(現代の夢魔、鶴田浩二論、「憂国」の謎、など10篇増補)。編・解説:高丘卓
- 『幻想小説とは何か 三島由紀夫怪異小品集』(平凡社ライブラリー、2020年8月)。短編や小論など31編を収録。編・解説:東雅夫
名言集
- 『芸術の顔 三島由紀夫 人生のことば』(巖谷大四編、番町書房、1967年7月) - 『人生のことば 第2巻』(川端康成監修、全10巻)
- 筋肉、力、スポーツ、肉体、男性、女性、男性対女性、青年、人間、人生、旅、時など、37のテーマに分け三島作品から採った箴言集、三島自身による跋。
- 『三島由紀夫語録』(秋津建編、鷹書房、1975年12月/鷹書房弓プレス(改訂版)、1993年2月)
- 『三島由紀夫 ロゴスの美神』(山内由紀人編、岳陽舎、2003年7月)
- 『人間の性 三島由紀夫の言葉』(佐藤秀明編、新潮新書、2015年11月20日)
- 「男女の掟、世間の掟、人間の性、芸術の罠、国家の檻」のテーマに分け、三島作品・対談などから引用し解説。
- 『三島由紀夫 行動する言葉100』(英和出版社、2016年3月)。下記とも、写真と併せた語句解説。
- 『三島由紀夫100の言葉――日本を心の底から愛するための心得』(適菜収監修、別冊宝島編集部編、宝島社、2016年7月)
肉声資料
記事立項されている「サーカス」朗読に附随したインタビュー、東大全共闘との討論会、檄文演説などは各記事を参照。
- 『人とその作品――三島由紀夫の魅力』(朝日ソノラマ、1967年4月1日・4月号)
- 『学生との対話』(新潮社・新潮カセット講演、1988年4月22日。新潮CD講演、2002年6月25日)
- 『三島由紀夫 最後の言葉』(新潮社・新潮カセット対談、1989年4月20日。新潮CD講演、2002年6月25日)
- 『学習院時代の秘密』(悠飛社、1996年12月)
- 『決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)』(新潮社、2004年9月10日)[563]
三島を題材・ヒントにしている作品
小説・物語・散文作品
- 殺人教室(石原慎太郎、1959年) - 三島は五島由紀夫で登場。
- 小説三島由紀夫(平林たい子、1960年)
- 富士(武田泰淳、1969年)
- 天皇裕仁と作家三島由紀夫の幸福な死(奥月宴、1970年)
- 小説三島由紀夫(千家紀彦、1971年)
- 小説三島氏切腹(夏文彦、1971年)
- 小説三島由紀夫(村上兵衛、1971年)
- 冬の旅(円地文子、1971年)
- みずから我が涙をぬぐいたまう日(大江健三郎、1971年)
- 三島由紀夫の首(武智鉄二、1972年)
- 眠狂四郎無情控(柴田錬三郎、1972年)
- 順逆の人――小説・三島由紀夫(豊田穣、1973年)
- 帰らざる夏(加賀乙彦、1973年)
- スーパースター(吉行淳之介、1974年)
- 木蓮の皇帝 ("Der Magnolienkaiser: Nachdenken über Yukio Mishima")(ドイツの作家ハンス・エッペンドルファー、1984年)
- 帝都物語(荒俣宏、1985年) - 「6 不死鳥篇」(新装版の「第四番」)、「7 百鬼夜行篇」「8 未来宮篇」(新装版の「第伍番」)に登場。「9 喪神篇」(新装版の「第六番」)で大沢美千代という女性に転生。
- 僕は模造人間(島田雅彦、1986年)
- ポポイ(倉橋由美子、1987年)
- 淫魔教団(矢切隆之、1992年)
- 伝説――夏の朝、幻の岸辺で(中山雅仁、1993年)
- 天皇ごっこ(見沢知廉、1995年)
- 天啓の宴(笠井潔、1996年)
- あ・じゃ・ぱん(矢作俊彦、1997年) - 三島は田中角栄の右腕として飯沼勲こと平岡公威で登場。
- さよなら、ハニー(中山紀、1998年)
- 三島由紀夫――剣と寒紅(福島次郎、1998年)
- 小説三島由紀夫事件(山崎行太郎、2000年、四谷ラウンド)
- もうひとつの憂國(荻原雄一、2000年) - 森田必勝による介錯が失敗し苦しむ三島を見かねた益田兼利総監が実はとどめの介錯をしていたことを、総監自らの霊が回想するフィクションの物語。
- 蕭々館日録(久世光彦、2001年) - 三島は6歳の天才児・比呂志で登場。
- 薔薇とペルソナ――小説三島由紀夫(葉山修平、2002年)
- 第二部 僕のお腹の中からはたぶん「金閣寺」が出てくる。(舞城王太郎、2003年)
- ロンリー・ハーツ・キラー(星野智幸、2004年)
- 銀河(水原紫苑、2004年) - 師の春日井建と、三島を鎮魂する幻想小説。
- さようなら、私の本よ!(大江健三郎、2005年)
- ようこそ、自殺用品専門店へ(Le Magasin des suicides)(フランスの作家ジャン・トゥーレ、2006年) - 自殺用具店を経営する一家の物語。一家の父親がMishimaという名前で、日の丸の鉢巻を締め、日本刀を振り回して客にハラキリの作法を伝授する。2012年にはパトリス・ルコントによりアニメ映画化された。
- 三島転生(小沢章友、2007年、ポプラ社) - 市ヶ谷駐屯地で死んだ三島の霊が浮遊して自身の生涯を振り返る物語。
- 見出された恋「金閣寺」への船出(岩下尚史、2008年)
- 蒼白の月(広瀬亮、2009年)
- 水死(大江健三郎、2009年)
- 不可能(松浦寿輝、2011年、講談社) - 三島が死を免れて生き延びていると想定して創作したもの。
- 奇妙な共闘(作者名称不明、2011年) - クトゥルフ神話という独特な世界観の中、三島由紀夫が死後、「グール」として本来相容れない筈の探索者達との共闘を果たす。ミステリーホラー作品。
- 憂国者たち――The patriots(三輪太郎、2015年)
- 三島由紀夫――金閣寺は燃えているか?(鯨統一郎、2021年) - 『金閣寺は燃えているか?――文豪たちの怪しい宴』(創元推理文庫)の1篇。
詩・和歌
- Harakiri〈ハラキリ〉(ハンガリーの詩人イシュトヴァーン・バーリント) - アンデルセンの童話『エンドウ豆の上に寝たお姫さま』と融合して創作。
- ユキオ・ミシマの墓(フランス人翻訳者ピエール・パスカル、1970年) - フランス語版『平和の発見――巣鴨の生と死の記録』(花山信勝)に付録された俳句12句と短歌3首。
- 愛と死の儀式〈三島にささげる詩〉(フランスの詩人エマニュエル・ローテン、1971年) - 映画『憂国』から創案した詩。
- 哭三島由紀夫(浅野晃、1971年)- 弔文「虹の門」の結びに記載[576]。
- 廃墟、挽歌(井上靖、1971年)-2作とも詩集『季節』に収録。後者については、のち随筆集『わが一期一会』で三島への弔詩であったことが明かされた。
- 「天と海」から――三島由紀夫君を偲びて(浅野晃、1975年)[577]
- RHETORICS――三島由紀夫であった(なかった)非在に(高橋睦郎、1985年)
- 雪の中の魂二つ――大江健三郎に(高橋睦郎、2001年)
- 正午だった(藤井厳喜、2007年) - 没後37周年(第38回)憂国忌で朗読。
漫画・ゲーム
- 鉄拳(ナムコ、1994年) - 三島一八のキャラクターは三島がベースになり、一族の三島姓は三島由紀夫の姓が由来[578]。
- 真・女神転生(アトラス、1992年)登場キャラクターのゴトウ(五島)のモデルが三島である[579]。市ヶ谷駐屯地で神と悪魔の登場について持論を演説する。
- ジャコモ・フォスカリ(ヤマザキマリ、2012年) - 三島や安部公房をモデルにした人物が登場する。
映画
- 地獄の黙示録(フランシス・フォード・コッポラ、1979年) - コッポラは撮影フィルム編集時に『豊饒の海』全巻を読み続けた[580][581]。『暁の寺』を読んだ数か月後、エンディングの追加撮影や、カーツ大佐が殺されるシーンと生贄の水牛が殺されるシーンが交錯する劇的演出に工夫が凝らされている[582][583]
- ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(ポール・シュレイダー、1985年)
- みやび 三島由紀夫(田中千世子、2005年) - ドキュメンタリー映画。
- 出演:平野啓一郎、岡泰正、柳幸典、野村万之丞、関根祥人、坂手洋二、松下恵、靳飛(チン・フェイ)、ラウラ・テスタヴェルデ、バログ・B・マールトン、ホイクール・グンナルソン
- 11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち(若松孝二、2012年)
- 三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜(豊島圭介、2020年)
アニメ
- 攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG(Production I.G、2004年) - 劇中に登場する革命評論家「パトリック・シルベストル」は三島がモデル。シルベストルが著した書籍「初期革命評論集」は『近代能楽集』がモデルになっている[584]。なお、初期プロットでは三島と『近代能楽集』がより詳しく扱われる予定だったが、諸事情によりこの形に変更された[584]。詳しくは同記事内の「初期プロットからの変更」を参照のこと。
音楽作品
- Harakiri〈ハラキリ〉(エトヴェシュ・ペーテル、1973年) - ハンガリーの詩人イシュトヴァーン・バーリント (Bálint István)の「Harakiri」の日本語訳を基に作曲。声楽家の青木涼子の2014年のアルバム『能・現代音楽』に収録[585]。
- Death & Night & Blood (Yukio)〈死と夜と血〉(ストラングラーズ、1978年) - アルバム『Black and White』収録曲。『仮面の告白』の中の言葉「死と夜と血潮」から創案した詞。
- Ice(ストラングラーズ、1978年) - アルバム『The Raven』収録曲。『葉隠入門』から創案した詞。
- Forbidden Colours〈禁じられた色彩〉(デヴィッド・シルヴィアン・坂本龍一、1983年) - 『禁色』の主人公から創案した詞。
- M(モーリス・ベジャール、1993年) - 三島をオマージュしたバレエ・スペクタクル作品[586]。
- ミュージックシアター「浄土」The Pure Land(ジェームズ・ウッド・加藤訓子、1999年。日本公演2005年) - 『志賀寺上人の恋』から翻案。
- 由紀夫のためのソナタ〜C.P.E.バッハ:チェンバロ・ソナタ集(ジョスリーヌ・キュイエ、2011年) - 『春の雪』の各場面と構成したプログラム。
その他のアート
- 恒(分部順治、1976年) - 彫刻。三島をモデルにした等身大の男性像。1970年(昭和45年)秋に三島から依頼されていたもので(日曜ごとにモデルに通った)、同年11月22日には原型が出来ていた[587]。1976年(昭和51年)4月7日 の第6回日彫展に出品された。
- 烈火の季節/なにものかへのレクイエム・その壱 ミシマ(森村泰昌、2006年) - 扮装パフォーマンス
- 美の教室、清聴せよ(森村泰昌、2007年) - 同上。
- Objectglass 12(石塚公昭、2007年) - 人形作品
- 三島由紀夫へのオマージュ展「男の死」(石塚公昭、2011年)
関連人物
- 芥川比呂志
- 演出家、俳優。共に岸田国士の「雲の会」に同人参加。『邯鄲』は芥川が上演企画・演出した。芥川が福田恆存と共に「文学座」を離れた後も三島は自著を献呈し続け、『美しい星』を読んで興奮した芥川が劇化したいと三島に電話したが、実現に至らなかった[588]。瑠璃子夫人との会話で三島の話題になると言う「三島、あれは天才だよ」は、ずっと変わらなかったという[588]。
- 東文彦
- 学習院の5歳年長の文学仲間。23歳で夭折するまでの約2年間、三島と文通した友人で、同人誌『赤繪』を共に創刊した。三島は自決前に『東文彦作品集』(1971年)の出版に尽力し、東との思い出を序文に記した[88]。
- 安部公房
- 小説家、劇作家。政治的思想や作風は三島と異なるが、共にSF好きであった。対談でも対立点はあるものの互いに協調的で、安部は三島をユーモア感覚のある「対話の名手」と評し、「けっして謙虚ではなかったが、意味のない傲慢さはなかった」「三島君はつねに他者に対する深い認識と洞察があった。絶望はいわばその避けがたい帰結だったのだ」と語り[589]、自身と三島との共通点を「文化の自己完結性に対する強い確信だった」としている[590]。なお、安部と三島は1968年(昭和43年)に起きたプラハの春について意見を交わしていたとみられ、三島は〈この間、安部公房君と一晩ゆつくり話し、彼が、「僕はチェコに夢をかけてゐた。チェコにいつか亡命するつもりだつた。夢が砕けて悲しい」と言つてゐた言葉が心を搏ちました〉とドナルド・キーンへの手紙の中で語っている[591]。
- 安部譲二
- 作家。元暴力団員(安藤組)、元日本航空客室乗務員。三島が通っていたゲイバーの用心棒をしていた時に知り合った。三島は安部の半生を題材に『複雑な彼』(1966年)を執筆し、その主人公「宮城譲二」は安部のペンネームの一部となった[592]。
- 伊沢甲子麿
- 教育評論家。國學院大學在学中の1947年(昭和22年)3月、豊川登(学習院教諭、ドイツ文学者)と磯部忠正(元学習院長)を介して三島と知り合い、終生の友人となった。三島との初対面の際、保田與重郎を好きか嫌いか質問された伊沢は、保田を「尊敬する人物」と答え、戦後に保田を戦犯扱いして右翼・軍国主義と非難する意見と真っ向から戦っていると明言し、三島から信頼を得たという[373]。三島の自決1週間前の清水文雄宛の書簡には、〈文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏一人になりました〉と記されている[410]。
- 石原慎太郎
- 小説家、政治家、元東京都知事。三島は石原文学のよき理解者で、作品集の編纂や翻訳化にも尽力し、石原の己惚れの強さも陽性の好ましいものとして『不道徳教育講座』などで擁護していたが、後年になると徐々に両者の意見の相違が露見し、関係が離れていった。三島は、政治家・石原の内部批判のあり方を叱咤する『士道について』(1970年)を発表し、村上一郎との対談でも、〈石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな〉と批判した[593]。
- 石原は、三島自決直後の追悼文では、「狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない」と哀悼した[594]。その後は否定的な見解も示して三島の死を辛辣に批評しつつ[595][596]、三島という論客がいなくなった日本を「退屈」だと残念がり、バルコニーでの演説を終え総監室で最後の準備をメンバーに指示している三島の無意識の表情の写真(バリケード越しに自衛隊撮影班が隠し撮りした数枚の写真)を「実にきれいなんだ。いつものすごんだ顔と違う、素のいい顔です」とも語った[595][597]。
- 磯田光一
- 文芸評論家、イギリス文学者。三島の存命中から三島論を展開し、彼の死を哀悼して自著『殉教の美学』の刊行を1年間停止するなど喪に服した[598]。三島にとっての天皇は「“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョン」であり、「存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった」と論じた[599]。自決1か月前の三島からは、人間天皇を抹殺することで超越者としての天皇を逆説的に証明するため、「本当は宮中で天皇を殺したい」と直接聞いたという[498]。
- 伊東静雄
- 日本浪曼派の詩人。三島は伊東を〈私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ〉と述べている[600]。伊東の詩『春の雪』の影響は、少年時代の三島の詩『大詔』や小説、晩年の『春の雪』にまで及んでいる[601]。伊東は葉書で、「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と17歳の三島を励ました[602]。三島のことを日記に「俗人」と記したこともあったが、その後は再び激励している[123][126]。
- 市川雷蔵
- 歌舞伎役者、俳優。三島作品原作の映画『炎上』(1958年)と『剣』(1963年)で主演。『炎上』の撮影現場を見学した8月12日の三島の記録には、〈頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない〉と記されている[270]。雷蔵の歌舞伎公演に寄せた文でも、放火僧の演技について〈ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう〉と激励した[603]。雷蔵による企画で主演が予定されていた映画『獣の戯れ』は多忙で、『春の雪』の舞台公演は病気のため、実現しなかった。雷蔵は二・二六事件の青年将校役もやりたいと、増村保造に相談していたという(詳細は炎上 (映画)#市川雷蔵と三島由紀夫を参照)。
- 梅田晴夫
- 劇作家。三島がまだ大蔵省に居た頃、世界文化社主催の講演会で京都に行った時に同行した。終戦後間もない時代で甘味に飢えていた2人は、夜の新京極をショートケーキと紅茶で「はしご」した。梅田はこの1週間の短い京都旅行で、「茶目っ気」たっぷりの三島の「天才」を思い知らされたという[604]。
- 遠藤周作
- 小説家。晩年の代表作『深い河』は、『暁の寺』で描かれたベナレスが舞台となっており、人生観の広がりに『暁の寺』の影響が見られる[605]。遠藤に連れられて三島邸を訪問したことのある秋山駿は、玄関で出迎えた三島に遠藤が花束を手渡していたエピソードを語っている[137]。遠藤はクリスチャンであったが、三島の自死について「社会的には批判もあろう。しかし、三島さんの思想と行動は、最後の一点で完全に結びついた、壮烈であり、清潔である」と理解を示し[606]、作家の中では珍しく憂国忌発起人として名を連ねた[607]。織田信長の妹・お市をモデルに描いた遠藤の遺作『女』には、三島の『天人五衰』の結尾と酷似する描写もある[605]。
- 大江健三郎
- 小説家。大江と三島は政治的には「左翼」と「右翼」といった違いで分化されがちであるが、両者には裏返しの形での照応性もみられ、「性」や「天皇」を主題とした2人の作品の共通点や相違点などがしばしば研究対象になっている[608]。三島は大江の文学的才能やその作品に常に注目し、初期作品『性的人間』の真実性を賞揚していたが[609][610][611]、その後の大江の『個人的な体験』の結末に関しては、〈ニヒリストたること〉を性急に放棄した大江が最後に〈明るい結末〉を安易に与えていることを〈主人持ちの文学〉だと批判したこともよく知られており[610][608]、澁澤龍彦宛ての書簡では〈あいつは、しかし、肉体的に美しくないのが最大欠点です〉とも語っていた[612]。また『万延元年のフットボール』に登場する右翼の弟の行動の描き方から大江がそれに〈憧れと愛情をつよく持って〉いることを看取した三島は、その大江の右翼的なものへの〈大変なアフェクション〉と戦後民主主義を守ろうとする大江には矛盾があるとした[306]。イルメラ・日地谷・キルシュネライトは、大江があらゆる三島的なものから、ひたすら距離を置こうと試みつつも、三島が死んだ後までもずっと三島にこだわり続けて「三島に焦点を合わせずにはいられない」大江を論じ、その多くの作品に「三島に取り憑かれたかのような現象“enduring obsession with Mishima”」が確認されるとしている[613]。
- 小川正洋
- 政治活動家。三島が結成した楯の会2期生で第7班班長。三島事件の実行メンバー。「三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。日本をこよなく愛している本当の日本人に違いないと思い、三島先生こそ信頼し尊敬できるおかただ、先生についていけば必ず日本のために働けるときがくるだろうと考えました」と裁判陳述で述べた[614]。
- 加藤道夫
- 劇作家。芥川比呂志同様、共に「雲の会」の同人で劇作家仲間として親交があった。三島は加藤を、〈純にして純なる、珠のごとき人柄〉のゆえに自作の不評に傷つきやすく〈大劇作家たらしめなかつた〉のではないか[55]、〈加藤氏ほど心のきれいな人を見たことがない〉と語り[615]、腐敗した劇檀人種の中で〈心やさしい詩人は、「理想の劇場の存在する国」へと旅立つた〉と加藤の自殺を追悼した[616]。加藤の死から間もない頃、矢代静一と奥野健男は、三島から「僕のペンネームは魅死魔幽鬼尾にしたよ」と勘亭流で書かれたメモの字を見せられたとされる[617][618]。
- 川端康成
- 小説家。戦後の三島の出発の礎を形づくった。三島の『盗賊』創作ノートの端々や、伊東静雄への書簡には、川端に対する尊敬や共感の念が綴られ[113][126]、〈天狗〉を芸術家の比喩とした随筆では、〈「我師」といふ一句に、川端康成氏の名を当てはめたい誘惑にかられるが、それでは私も天狗の端くれを自ら名乗ることになつて、不遜のそしりを免れまい〉としている[619]。
- 三島は20代の頃、川端令嬢(養女・政子)の家庭教師をしていた時期があり、来訪時の手土産に可愛いお菓子や高級ケーキを持参し、秀子夫人らを介さずに直接政子に手渡そうとしていたという[620]。川端夫人は1952年(昭和27年)6月の林房雄夫人の通夜の席で、三島から政子との結婚を申し込まれ、夫に相談することなく「さりげなく、しかし、きっぱりとお断りした」としている[620]。
- 1971年(昭和46年)の都知事選挙に立候補した秦野章の応援で選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで按摩を取っている時に突然起き上がって扉を開け、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら再び飛び起き、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言ったため、按摩が鳥肌を立てて早々と逃げ帰ったというエピソードがある[621][622][623]。
- 岸田今日子
- 女優。三島が「鉢の木会」メンバーらと行った岸田国士の別荘で娘の今日子と知り合い、グループ交遊した[624]。今日子が「文学座」の女優となってからも親交を持ち続け、三島演出の『サロメ』の主役に抜擢された。三島は今日子に気があったようで、同座の仲谷昇と今日子の関係の進展ぐあいを長岡輝子に訊いていたという[625]。
- 北村小松
- 脚本家、小説家。1955年(昭和30年)7月に発足した「日本空飛ぶ円盤研究会」創立メンバーで、翌年この会に入会した三島と知り合い、交流した[272][626]。同会には他に、星新一、黛敏郎、石原慎太郎などが入会した[272]。
- 北杜夫
- 小説家。年齢が近く、同じ山の手出身。奥野健男を通じて1961年(昭和36年)から交友が始まった[429]。三島は北の『楡家の人びと』を気に入り、推薦した。北の父・斎藤茂吉と三島の伯父で精神科医の橋健行は親友同士で、健行は北の『楡家の人びと』の聖子(モデルは北の叔母・斎藤清子)の婚約者だった男性として言及されている[627][547]。
- 木下恵介
- 映画監督、脚本家。三島が初の世界旅行中(アポロの杯参照)の1952年(昭和27年)3月、パリに着いた早々見知らぬ男(闇ドル屋)から銀行よりも有利に換金してやると騙され、カフェの裏部屋でトラベラーズ・チェック約50万円分を奪われた。その窮状を知った東京新聞の記者を通じ当時パリに滞在中だった木下恵介を紹介された三島は、木下の下宿先のパンシオン「ぼたんや」(日本人経営)に再発行までの1か月ほど宿泊することができ、それが縁で木下や当時留学生だった黛敏郎、佐野繁次郎とも交流した[628]。木下はトラベラーズ・チェックを摺られたという三島に対して「あの高名な、頭のいい三島さんにも、こんな人間味のある失敗があるのかと親しみを覚えた」という[629]。ある時、木下が、もっと国政について発言をしてはどうか、小説家も日本の運命の中で生きているのだから、もっとこうなって欲しいという願いはあるのではないか、と問うてみたところ、三島は「小説家ってね、そんなことはどうでもいいんだ。日本の国がどうなろうと、小説家が書くことは別のことだからね、僕が書きたいことはさ」と返答したという[629]。その18年後の三島の自決について木下は、「三島さんほどの人が、あのむごたらしい死を賭して言い残したことは、あの基本思想[注釈 38]と一脈相通じているように思えてならない。そして、完璧に日本人であろうとし、日本人でなければ考えられない死にざまをもって、自分を清らかなものとして飾ろうとしたのであろうか」「なつかしい人でもあるし、思い出したくない記憶でもある」と追想している[629]。1954年(昭和29年)公開の『潮騒』は、当初、木下が監督する予定で企画が進められていたが、三島が「木下だったら、どんな映画か想像がつく」と述べたことから、東宝は監督を谷口千吉に変更した[630]。
- 紀平悌子
- 三島の亡き妹・美津子と同級生だった縁もあり、三島と交際していた時期があった[631]。実弟の佐々淳行は、新左翼による暴徒鎮圧に従事していた警視庁警務部参事官時代に三島と知り合い、東大安田講堂事件の際には彼らを飛び降り自殺させないようにヘリコプターで催眠ガスを撒いてくれと三島から警視庁に電話が来たという[336]。
- 神津カンナ
- 随筆家。1969年(昭和44年)夏、10歳の時に三島と対談し、カンナが8歳時に作った詩「ふんすい」を何度も朗読した三島は、「素晴らしいね、とてもいい詩だ」と涙をためて褒めたという[632]。どんな本を読んだらいいか質問すると、「おじさんはもうすぐ死ぬけれど、そんなおじさんが、責任をもってあなたに読むことを勧められるのは、辞書だけです」と三島は言ったという[633]。カンナは、その年の秋の楯の会1周年記念パレードに招待されて参列した[633]。
- 古賀浩靖
- 政治活動家。宗教家。三島が結成した楯の会2期生で第5班副班長。三島事件の実行メンバー。剣道の心得があることから、森田必勝に代わって三島を介錯した後、森田を介錯した。伊藤邦典(1期生)が出所後の古賀に「あの事件で、何があなたに残ったか」を訊ねると、彼はただ掌を上に向けて、三島と森田の首の重さを持つようにしてじっとそれを見つめていただけだったという[634]。
- 小賀正義
- 政治活動家。三島が結成した楯の会2期生で第5班班長。三島事件の実行メンバー。自動車運転を任されていた。「三島先生と同じかまの飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら、こういう人が文化人の中にもいたのかと心強かったし、先生の真心が感じられた。ほんとうに信頼できる人だと思った。生命は日本と日本民族の源流からわき出た岩清水のようなものです。生命をかけて行動するのはその源流に戻ること。源流とは天皇だと考えた。先生とともに行動することは、生命をかけることだった」と裁判陳述で述べた[635]。
- 越路吹雪
- 女優、歌手。三島が越路の『モルガンお雪』を観て大ファンとなり、交友関係が始まった[636]。三島が越路主演のために書いた戯曲には、未上演の『溶けた天女』(1954年)と、『女は占領されない』(1959年)があり、独身時代の三島の恋人だという噂もあった[637][638]。若い頃、越路と湘南の海岸でキスしたことがあると、三島は楯の会会員の井上豊夫に話したという[639]。なお、越路の愛称「コーちゃん」は三島が子供の時の愛称「公ちゃん」と同じ読みである。
- 坂本一亀
- 河出書房の編集者。三島に初の書き下ろし長編を依頼したことが、彼に大蔵省を辞めて小説家一本で生計を立てることを決意させ、『仮面の告白』執筆に集中するきっかけとなった。三島は昼休みのベルが鳴ると「食事しようや、前祝いだ」と坂本らを誘い、銀座でハンバーグステーキを食べた[229]。兵隊に行ったのかを三島に聞かれ、行ったと答えると、「そうか、よかったな、うらやましいよ」と言われたという[229]。
- 佐藤春夫
- 日本浪曼派の詩人。三島は18歳の時に富士正晴ら共に佐藤を初訪問して以来交流し、東京大空襲後に疎開する佐藤の餞別会にも林富士馬や庄野潤三と共に参加し、別れの俳句を贈った。終戦の翌年に佐藤が蓮田善明を哀悼した詩「哭蓮田善明」は『人間』に掲載予定だったが、GHQの検閲を恐れて上梓されなかった。これを惜しんだ編集員が校正刷りを三島に託し、それを三島から清水文雄が預かっていたため[640]、1968年(昭和43年)に日の目を見ることができた[118]。
- 志賀直哉
- 小説家。三島は18歳の時に徳川義恭と共に志賀宅を初訪問したが、志賀の印象を〈我々としても摂るべきところも多くあり、決して摂つてはならぬ所も多々あり、こちらの気持がしつかりしてゐれバ、決して単なるわがまゝな白樺式自由主義者ではいらつしやらぬことを思ひました〉、〈仰言ることは半ばは耳傾けてうかゞつて頗る有益なことであり、半ばは、我らの学ぶべき考へ方ではないといふことでございました〉と清水文雄に報告している[641]。三島は、志賀が敗戦直後に日本語を廃止して国語をフランス語にしたらどうかと発言したことに呆れ蔑んだ[524]。
- 島尾敏雄
- 小説家。1946年(昭和21年)5月に伊東静雄が主宰した同人誌『光耀』(3号で終刊)に共に参加した。島尾は敗戦直後に『花ざかりの森』を読んで「文学的興奮」を覚え、すぐに「豊潤な若武者」のような三島に手紙を書いたのが知り合うきっかけだった[642]。初対面の時の三島の印象を、「相手に有無をも言わせぬのぶとい声が、どうしてこの華奢なからだつきの少年の口から出てくるのかふしぎであった」と島尾は語っている[642]。
- 清水文雄
- 日本浪曼派系の国文学者、和泉式部研究家。筆名「三島由紀夫」を提案し、著作活動を促した恩師。戦後は、発足間もない新制の広島大学に赴任し、1967年(昭和42年)の退官の際には、大学の国文学攷に三島が評論『古今集と新古今集』を寄稿した[452]。
- 澁澤龍彦
- フランス文学者、小説家。澁澤が自ら訳した『マルキ・ド・サド選集』(1956年)の序文を三島に依頼して以来親交し、『サド侯爵夫人』の着想も、澁澤の『サド侯爵の生涯』(1964年)から得られた。澁澤は追悼文で、「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と三島を哀悼した[643]。三島の死後は、憑かれたように古寺巡礼の旅に出た[644]。
- 篠山紀信
- 写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』(1968年)に三島が序文「篠山紀信論」を寄せた。1970年(昭和45年)9月に薔薇十字社から企画され、編集者・内藤三津子の執拗な再三の要請で三島がやっとモデルを引き受けた写真集『男の死』の撮影が11月17日に完了して出版が決定していたが、写真は数点が公開されたのみで三島事件によって立ち消えとなり、篠山側の意向もあって未出版である[645][646]。
- 庄野潤三
- 小説家。三島が19歳の時に作品を投稿した雑誌『まほろば』に、庄野が初小説『雪・ほたる』を載せた。三島が大阪の伊東静雄を訪ねた時のことを、「先日、平岡君が学校へ訪ねて来て、あなたのことをいろいろ話しました」と伊東は庄野に伝えている。翌年4月、海軍少尉の制服で林富士馬宅を訪問した庄野は、「身だしなみのいい、礼儀正しい」学生の三島と初対面し[647]、戦後に伊東が主宰した『光耀』の同人同志となった[642]。
- 高橋和巳
- 小説家、中国文学者。三島の自決時、結腸癌を患っていた高橋は新聞で「悪しき味方よりも果敢なる敵の死はいっそう悲しい」とコメントし、「もし三島由紀夫氏の霊にして耳あるなら、聞け。高橋和巳が〈醢をくつがえして哭いている〉その声を」と哀悼した[648]。三島の自死の意味については、ドストエフスキーの『悪霊』の登場人物・キリーロフや、エドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』を想起したと語っている[649][650]。
- 高橋睦郎
- 詩人。三島に詩集『薔薇の木、にせの恋人たち』を送って認められ、交友した。三島は自身が多くの先輩作家から恩恵を受けてきたためか、新人や若い人にとても優しかった[651]。高橋によれば、三島はサービス精神旺盛であったため、親交を持った誰しもが自分こそが三島と最も親しかったと思い込ませてしまうところがあったという[651]。ワイルドばりの逆説が好きな三島は、高橋に「小説というものは、精神なんかで書くんじゃなくて、肉体で書くんだよ」「不健全な精神は健全な肉体にこそ宿る」と教えたという[651]。
- 武田泰淳
- 小説家、僧侶。『近代文学』の第2次同人拡大時に共に参加し、その後も互いの文学を認め合う仲だった[652]。三島は自決直前、武田との対談中に、自分が戦後社会を否定しつつもそこから金銭を得て生きてきたことを〈恥ずかしい〉〈僕のギルティ・コンシャスだ〉と吐露し、武田は「それだけは言っちゃいけないよ。あんたがそんなことを言ったらガタガタになっちゃう」と懸命になだめた[653]。告別式では袈裟姿で弔辞を読んだ[431]。
- 太宰治
- 小説家。三島は〈太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない〉と批判し太宰嫌いを公言していたが[450]、〈氏は私のもつとも隠したがつてゐた部分を故意に露出する型の作家であつた〉とも述べていたように[55]、両者には相通ずる性質も見られ、没落貴族を通して戦後批判をモチーフとした類似点や(『斜陽』と『宝石売買』)、普通の人間生活からの疎外感を持つ主人公(道化と仮面の人物)を視点として語る作品(『人間失格』と『仮面の告白』)などがあり、戦後的な世界秩序への反逆として作者自身が死(心中、自殺)へ向かっていく共通性が挙げられるが[654][655][656]、自死を「処世術みたいな打算的なもの」と、あえて小説家の苦悩の演出かのように表白してみせる自己劇画的な太宰と、「官能的な美」を表現する「様式」「芸術的・創造的行為」として自死を捉えた三島には、大きな隔たりがあることも指摘されている[198][654]。
- 谷崎潤一郎
- 小説家。共に中央公論社出版の『日本の文学』〈全80巻〉の編集委員になった。三島は谷崎から『美しい星』を褒められ、礼状を送っている[657]。少年時代から谷崎文学に親しんでいた三島は数々の谷崎論を書き、その小説家としての天才を賞揚しているが、〈谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然〉とも述べ、戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めた岸田国士とは対極の意味合いで、〈結局別の形で自分の文学を歪められた〉作家だと評している[658]。三島は1958年(昭和33年)度のノーベル文学賞推薦文を谷崎のために書いていたが[332]、実際に谷崎が有力候補と目されていた頃は毎年新聞社に依頼され、あらかじめ受賞祝いコメントを3回も書かされていたという[393]。奥野健男によれば、三島は「谷崎潤一郎の晩年はノーベル賞をもらうために生きていたようなものだった。とうとう間に合わなかったが。ノーベル文学賞なんか、そんなものだ」と言っていたとされる[393]。
- 団藤重光
- 最高裁判所裁判官。帝大法学部時代の三島に刑事訴訟法を教えていた教授。団藤は、三島没後の回想文で、『仮面の告白』の表層と深層の錯綜する二重構造的な構成を、三島の「美」の世界が比類のない論理と言語の魔術によって現成されたとして、その文学を賞讃している[659]。
- 堤清二
- 実業家、小説家。筆名「辻井喬」などで小説や詩を書き、三島とも交友が深かった。三島が組織した祖国防衛隊(のちの「楯の会」)の軍服のため、デザイナー・五十嵐九十九を紹介した[422]。三島の自決直後に開かれた追悼会では、ポケットマネーから資金を提供したほか、三島映画の上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も協力した[660]。なお、86歳で堤が逝去した日は三島の命日と同日だった[660]。
- 椿實
- 小説家。椿が1948年(昭和23年)に『新思潮』に発表した「人魚紀聞」に対し、三島が讃辞の葉書を送ったのをきっかけに、椿が三島の務める大蔵省を訪ねたのが交友の始まりとなった。三島が口述した稲垣足穂論を椿がノートに取り、「クナアベンリーベ」(少年愛)と名付けて玄文社に渡したが、当時の出版不況のために未発表となった。『永すぎた春』は、椿が「木内書店の娘はいいぞ」と言ったのが元となり、主人公の青年は椿がモデルの一部となっている[661]。
- 鶴岡淑子
- 女優。三島が映画『憂国』で相手役のために選んだ無名女優。「鶴岡淑子」という芸名は三島が付けた[333]。撮影中に切腹シーンを見て、情緒不安定なところが見受けられたという[662]。映画出演直後はファッション雑誌のモデルをしていたが、異性関係のトラブルでメンタル面に不調をきたして入退院を繰り返し、8年後はピンクキャバレーのホステスをし、ストリップで踊っていたとされる[662]。
- 徳川義恭
- 美術研究者。徳川義恕の四男。学習院の先輩で、東文彦と共に3人で同人誌『赤繪』を創刊した文学仲間。『花ざかりの森』の装幀を担当した。1949年(昭和24年)に28歳で病死し、三島は義恭をモデルにした短編『貴顕』(1957年)を書いた[663]。また、義恭の姉の徳川祥子に三島は憧れ、17歳の時に書いた『玉刻春』の中で祥子の美しさを描いている[664]。
- 中井英夫
- 小説家、詩人。三島は、中井の『虚無への供物』出版を祝う会の発起人となった。中井は、三島の自決後に週刊誌が「異常性格者」「ホモだオカマだ」とスキャンダラスに騒ぐ狂乱ぶりを批判し、「死んだのは流行歌手でも映画スターでもない、戦後にもっとも豊かな、香り高い果実をもたらした作家である」と三島を哀悼した[665]。三島が榊山保の筆名で発表した『愛の処刑』(1960年)の自筆原稿ノートは、2005年(平成17年)に中井宅から発見されている[666]。
- 中村歌右衛門(六世)
- 歌舞伎役者。三島は歌右衛門を高く評価し、『熊野』『芙蓉露大内実記』などの歌舞伎台本を彼のために書いたほか、『中村芝翫論』『六世中村歌右衛門序説』などの評論も書いた。歌右衛門をモデルにした短編『女方』は、歌右衛門を主役に据えた最初の三島歌舞伎『地獄変』上演の際の様子が元となっている[667](2人の交流の詳細については女方 (小説)#三島と中村歌右衛門を参照)。歌右衛門が最後に三島と会ったのは、1970年(昭和45年)10月2日のトーク番組『人に歴史あり』で、久しぶりに見た三島の顔には昔日の面影がなく、やつれた感じを受けたという[668]。三島の死については、「本当に惜しい方」が亡くなって口惜しくて仕方ないと嘆き悲しみ、稀有な才能が失われたことは「いろんな意味での喪失」だが、その人生や死も「運命」だったとも言え、残してくれた作品を思うと諦めもつき、死によって「偉大さがより大きく残ったとも言える」として、その意味で三島は「不世出の名優」でもあったが生きていてほしかったと述懐している[668]。
- 中村伸郎
- 俳優。三島が喜びの琴事件で「文学座」を脱退した際、劇団主要幹部でありながらも彼に追随して退団し、「劇団NLT」、「浪曼劇場」と、演劇面において行動を共にした。後年、「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。三島は中村伸郎の主役を念頭に『朱雀家の滅亡』を書いた[366]。
- 西尾幹二
- ドイツ文学者、ニーチェ研究家。三島は、西尾の初期の著作『ヨーロッパ像の転換』(1969年)に推薦文を書き、その後の『文学の宿命――現代日本文学にみる終末意識』(1970年)にも注目した[669]。西尾は三島宅を訪問した時のことを述懐し、礼儀正しく物言いは率直ながらも、無名で年下の人間にも分け隔てなく、友人のように接する三島の偉ぶらない物腰に感銘を受けたと語っている[670]。三島が嫌いな文化人の悪口を言っても、からっとしていて陰湿さがまったく無く、小田実が六本木のレストラン前に立っているのを見て、その辺りの空気がいっぺんに汚れているように感じて一目散に逃げ出したという話も面白く聞かされ、大笑いしたという[670]。
- 野坂昭如
- 小説家、放送作家。三島は、雑文家だった野坂の処女小説『エロ事師たち』をいち早く評価し、野坂の小説家としての道を開いた[671]。野坂は、三島のことを「もっとも尊敬する小説家であり、存在そのものに、戦慄せしめられていた」と評した[672]。三島の没後17年には、自身の生い立ちと重ねながら三島の祖父母に言及した三島本を著し、従来の三島研究になかった視点を盛り込んで、後発の猪瀬直樹や村松剛著の三島評伝成立を促した[671]。野坂は若い頃、三島が『禁色』のゲイバー「ルドン」のモデルにした銀座五丁目の店「ブランスウィック」でバーテンダー見習いのアルバイトをしていたことがあった。店に来る三島に煙草の火をつけたことがあり、「ありがとう」と明瞭な発音でお礼を言われたことがあるという[673]。カウンターに座っていた三島は上機嫌で、眉を八の字に「ガハハハ」と笑っていたと野坂は述懐している[673]。
- 橋川文三
- 思想史家、評論家。戦中・戦後精神史の観点から三島作品を論じて『鏡子の家』を高評し、三島から信頼されて三島伝を書くなどしたが、『文化防衛論』に関しては政治学的視点から文化的天皇の機能についての問題点を指摘し、それに答える形で三島は『橋川文三への公開状』で反論した[674]。橋川は三島の自死の意味を、高山彦九郎、神風連、横山安武、相沢三郎や、「無名のテロリスト」の朝日平吾や中岡艮一と同じように位置づけた[675]。
- 蓮田善明
- 日本浪曼派系の国文学者、陸軍中尉。同人雑誌『文藝文化』を主宰した。清水文雄を通じて三島を知り、少年時代の彼の感情教育の師となった[147]。富士正晴が三島を連れて蓮田宅に行った帰り、蓮田がわざわざ駅まで見送り、まるで恋人と離れるかのように三島との別れを惜しんでいたとされる[119]。蓮田が駐屯地のマレー半島のジョホールバルで、敗戦時に天皇を愚弄した上官を射殺後にピストル自決した事件は、三島の生涯にわたって影響を及ぼした[117][119]。
- 林房雄
- 小説家、文芸評論家。三島が22歳の時に知り合い、生涯にわたって親しく交流した。三島は林の〈人間的魅力〉に惹かれたと語っている[205]。三島は『林房雄論』を書き、2人の対談の共著『対話・日本人論』もある。三島の自決後、林房雄は憂国忌の運営に積極的に携わった。追悼書『悲しみの琴』(1972年)には、林とも親しかった川端康成の序文が添えられている[676]。
- 林富士馬
- 詩人、医師。富士正晴を通じて知り合い、同人雑誌『まほろば』『曼荼羅』『光耀』などで交遊を持った。初対面の時に林が「ビールでも飲もうか」と振る舞おうとするが、三島はきれいな言葉遣いで断ったため、「それで林はゾッコン参っちゃったんや」と富士は回想している[101]。林は三島が19歳の時、〈戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ時代がくることを、それらを私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい〉[102] と決意していたことに触れ、決して器用ではない三島はそれを獲得するために「刻苦勉励の一生」を送り、「人の知らぬ屈辱のなかで、男らしく愚痴を云わずに、ひとり、たたかっていたのである」と追悼した[101]。
- 土方巽
- 舞踏家、振付家。土方が1959年(昭和34年)に『禁色』と同名の舞踏公演をして以来、交友を深めた。三島も土方巽を被写体とした写真集『おとこと女』(1961年)を見て気に入り、撮影者の細江英公に自身の評論集『美の襲撃』の口絵写真を依頼した後、『薔薇刑』(1963年)で自らの肉体を披露した[677]。この時の撮影では、土方がスタジオを提供し、後に夫人となる元藤燁子もモデルで参加した。
- 日沼倫太郎
- 文芸評論家。三島と会うたびに、自殺によって三島文学はキリーロフのように完成すると勧告し、自ら生命を絶つことで「芸術と実生活との悪循環」を断ち切る方法が、「三島氏が賛美する夭折の美学を名実ともに現実化する最上の道」と書いた[678]。その7日後、日沼自身が急逝(病死)したことに強い衝撃を受けた三島は、日沼が自殺したのかと思ったという[679]。その追悼文で三島は、〈私はモラーリッシュな自殺しかみとめない〉〈武士の自刃しかみとめない〉と表明した[679]。
- 深沢七郎
- 小説家、ギタリスト。三島が深沢のデビュー作『楢山節考』を高評価したのをきっかけに、『東京のプリンスたち』の出版記念会で一緒に歌うなど交流した。『からっ風野郎』の主題歌(作詞は三島)は、深沢の方から作曲したいと頼み込んだ[680]。新進作家時代の深沢は、三島を「三島由紀夫先生」と呼び、「雲の上の人のような高貴な」存在と崇めてすり寄っていたが、彼の自決後は手のひらを返したように三島作品を批判した[681]。
- 福島次郎
- 小説家、高校教師。三島のファンだった福島が1951年(昭和26年)に三島宅を訪問して1か月ほど交友したがすぐに疎遠となり、約11年後に福島が自著を献呈したのをきっかけに文通し、1966年(昭和41年)に三島が熊本県に取材に行った際には、福島の勤務する工業高校も見学した[682]。福島は三島の没後28年に実名小説で三島との思い出を著したが、私信の無断転載による訴訟を経て著作権侵害で絶版となった(『剣と寒紅』裁判を参照)。
- 福田恆存
- 英文学者、劇作家、演出家。「雲の会」同人で「鉢の木会」でも交遊し、「文学座」や同じ保守派の論客としても親しかった。福田が「文学座」から分裂し、芥川比呂志や岸田今日子を引き連れて「劇団雲」を結成した際には、発表の前夜になってから三島に参加を呼びかけたため、彼だけが参加できなかった[683]。それ以後、演劇活動は共にしなかったが、三島は「劇団雲」の機関紙に寄稿して対談も行うなど、関係断絶には至らなかった[496]。
- 富士正晴
- 小説家。七丈書院の関西駐在員。三島を後援する伊東静雄や蓮田善明から『花ざかりの森』刊行の話を相談され、出版実現に奔走して三島の恩人となった[55][100]。戦後の1947年(昭和22年)にも三島の評論集出版の話を持ちかけ、彼から感謝されている[684]。
- 舟橋聖一
- 小説家、劇作家。舟橋が主宰する「伽羅の会」に参加するなど交流した。三島は自死前に、入院中の舟橋を見舞いに来たという[685]。舟橋は三島の自決を、「表現しても、表現しても、その表現力が厚い壁によって妨げられる時、ペンを擲って死ぬほかはない」と哀悼した[686]、舟橋は心筋梗塞を患っていたが、告別式に出席して弔辞を読み、途中から北条誠が代読した[431]。
- 坊城俊民
- 国文学者。学習院文芸部の先輩。三島が中等科の時に文通など交友し、『詩を書く少年』の先輩Rとして描かれた。長く疎遠となっていたが、『春の雪』を読んだ坊城がその感動を三島に送ったのをきっかけに、交流が再開した[394]。三島が自決6日前に坊城に送った書簡には、〈十四、五歳のころが、小生の黄金時代であつたと思ひます〉と記されている[687]。
- 細江英公
- 写真家。三島を被写体とした『薔薇刑』(1963年)を出版し、三島が序文を寄せた。『薔薇刑』は戦後昭和を代表する写真集になり、英語版も数度出版された。細江は三島のことを、文字通りの「誠実の人」だったと述懐し、彼が憂いていたのは「根源的な、日本人の精神的な危機そのものだった」と追悼した[688]。
- 堀辰雄
- 小説家。堀の文体を真似するなど影響を受けていた三島は、18歳の時に一度だけ堀宅を訪問した。堀から〈シンプルになれ〉と忠告され、〈シンプルにならうとしてそれに成功するなんで、さうおいそれと出来るものぢやない〉と三島はノートに記した[113]。その後、肉体改造と文体改造をした三島は、次第に堀文学から離れていった[266]。
- 増村保造
- 映画監督。東大法学部の同窓生で、三島の主演映画『からっ風野郎』を監督するに際し、彼の下手な演技を遠慮なく罵倒し、徹底的にしごいた[689]。三島が撮影中の事故で頭部を強打して脳震盪で病院に担ぎ込まれた時、平岡梓は「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し[690]、入院中の三島は見舞いに来た友人のロイ・ジェームスに「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたという[162]。しかし、増村は映画の完成後に三島邸に招待され、怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに、梓から「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と逆に礼を言われ、帰り道に「明治生まれの男は偉い」と褒めていたという[691](詳細はからっ風野郎#増村保造と三島由紀夫を参照)。
- 黛敏郎
- 作曲家。三島が初の世界旅行中のパリで、現地の詐欺師にトラベラーズチェックを盗まれたことをきっかけに留学中の黛と知り合い、交友が始まった。黛は、ラジオドラマ『ボクシング』や、オペラ『金閣寺』や映画化された三島作品、戯曲の音楽を多く担当し、三島自決の翌年には、フランス人有志らと「パリ憂国忌」を開催した[692][693]。
- 三谷信
- 学習院時代の同級生、銀行員。三谷が入隊前後から敗戦直後の間に書簡を取り交わし、その後も交流した。『仮面の告白』では、三島と交際していた妹・邦子と共に、「草野」として登場している[18]。三谷は三島の願いを、「日本の泉を汲み、自分なりにその泉を“豊饒”にして次の世に譲ることであった」と追悼した[44]。
- 美輪明宏
- 歌手、俳優。「ブランスウィック」(『禁色』のモデルのゲイバー)でアルバイトしていた16歳の時、客として訪れた三島と出会い、シャンソン喫茶『銀巴里』で専属歌手となった時にも訪れた彼と親友として交流するようになった[694][695]。「神武以来の美少年」とマスコミから注目され、三島も報道陣に「丸山君の美しさは、“天上界の美”ですよ」と讃辞を送った[695]。美輪の自伝著作『紫の履歴書』(1968年)には三島が序文を寄せている。映画『永すぎた春』に歌手として初出演した[696]。その後、戯曲『卒塔婆小町』『双頭の鷲』『黒蜥蜴』でも、三島戯曲特有の絢爛な台詞を「見事に肉体化し切る表現者として稀有な存在」として注目された[697]。三島が自決の数日前に「山のように抱えきれないほどの薔薇の花束」を持って楽屋を訪れ、「君には感謝している」と言ったとされる[694]。
- 村上一郎
- 評論家、小説家。思想的な差異を超えて意気投合し、三島は村上の『北一輝論』(1970年)を高評価し、楯の会会員にも読ませた。三島は村上との対談で、政治家たちの言葉に対する軽視を批判し、〈「十一月に死ぬぞ」といったら絶対死ななければいけない〉と発言した[593]。村上は三島の決起の報を聞き、市ヶ谷駐屯地に駆けつけて門衛に誰何された際、「自分の官姓名は正七位海軍主計大尉・村上一郎である」と叫んだとされ、三島の自決5年後に自宅で自刃した。なお、三島が生前最後に出した手紙の1通が村上一郎宛てであり(もう1通は学校の先輩宛て)、その村上宛ての手紙の中で三島は、自身の天皇主義について評論家から「分からない」と言われたことについて、〈わからぬものはわからぬでいい。もう解説する気にもなりません〉と記し、最近プラトン『パイドン』や、『久坂玄瑞遺文集』を読んでいることを伝えながら、久坂玄瑞の2首の和歌(「あだなる命」「何か惜しまむ武士の」などの言葉がある)を抜き出し綴っている[698]。
- 村松英子
- 女優。兄・村松剛が三島の友人。「文学座」研究生だった英子に初めて会った日の夜、三島は村松剛に、「きみは、あんなにすてきで可愛い妹さんをいままでどこに隠していたの?」と電話してきたという[699]。その後、英子は三島に師事し、三島戯曲の舞台に多数出演した。喜びの琴事件(1963年)では三島に附随して「文学座」を脱退したが、福田恆存からの強い要請で1年間「劇団雲」に移籍した後、三島の「劇団NLT」、「劇団浪曼劇場」と行動を共にした[699]。ある日突然と三島から「英子はね、女の子だから幸せにならなくちゃ、いけないよ」としみじみ言われたため、女の幸せは何か訊ねると三島は、「女の幸せはね、母親になることだよ」と答えたとされる[408]。のちに英子が産まれた我が子を抱いた瞬間その言葉が鮮明によみがえり、その幸福を実感したという[408]。
- 持丸博
- 政治活動家。楯の会の初代学生長。持丸は全共闘運動が吹き荒れ、「左翼でなければ人にあらず」と言われた時代を、三島と共に過ごした日々として述懐し、「先生は、当時一つの輝く北斗の星でしたよ。文学者としてではなく、思想家として見てました。小説家三島由紀夫とは見てなかったですよ。おそらく(楯の会会員は)誰も」と語っている[700]。
- 森田必勝
- 政治活動家。楯の会の第2代学生長。三島事件で三島と共に自決した。決起に至るまでの経緯には、森田が主導した面もあったという見解もある[701][702]。三島の知人の金子國義によると、三島が決起の8日前に寿司をおごってくれた時の会話の中でふと、「ずっと捜し続けていた青年に会えたよ」とポツリと呟いていたという[703][704]。三島にとって森田の登場は、小説の中で描き続けた純粋無垢な青年、理想の主人公(『潮騒』の久保新治、『剣』の国分次郎、『奔馬』の飯沼勲)、アンティノウス像がまさに自分の目の前に現実の存在として具現化した人物だったと見られている[701][704]。
- 矢代静一
- 劇作家。三島が21歳の時に川路明を通じて知り合い、一緒に太宰治に会いに行くなど交流を深めた。矢代は、一緒に〈悪所〉に行った〈例の友人〉として『仮面の告白』に登場する[705]。その後、新劇界に進んだ矢代を通じて劇作をするようになった三島は芥川比呂志や加藤道夫らとも知り合い、演劇仲間として矢代と長く行動を共にした[249]。
- 保田與重郎
- 日本浪曼派の文芸評論家。保田に影響を受けていた三島は17歳の時、学習院の講演依頼のために清水文雄と共に保田宅を初めて訪れ、それ以降、東京帝国大学の学生となってからも何度か保田宅を訪れた[91]。三島は伊澤甲子麿に、保田を悪く言う人間は大嫌いだと言ったとされ[373]、埴谷雄高や村松剛との後年の対談では、予言者・啓示者は死ななくていいとする埴谷に反論し、もしも保田が戦後を隠居で生き延びずに死んでいたとしたら、〈小型ゲバラ、小型キリストだったかもしれない〉としている[706]。
- 矢頭保
- 写真家。三島は、矢頭の作品集『裸祭り』(1969年)や『体道・日本のボディビルダーたち』(1966年)に序文を寄せ、『体道・日本のボディビルダーたち』では三島自身も褌姿で日本刀を携えてモデルも務めた[707]。矢頭は三島の「切腹演戯」と題する写真も撮影し、『宝島30』(1996年4月号)や『yaso夜想』(2006年4月号)に掲載された[707]。
- 山本舜勝
- 元陸軍少佐、元陸軍中野学校研究部員兼教官。陸上自衛隊調査学校情報教育課長。三島と楯の会を自衛隊調査学校で直接指導した実質的な「軍師」で、三島の決起に至るまでの過程に深く関与した[111]。次第に三島の計画と意見の相違が生じ始め、1969年(昭和44年)11月頃から疎遠となったが、翌年8月、中曽根康弘の阻止で閣僚会議に提出されなかった建白書を三島から送付された[401]。山本は「三島由紀夫はもっとも雄々しく、優れた『魂』であった」と語っている[708]
- 横尾忠則
- グラフィックデザイナー。三島は横尾の絵を気に入り、横尾忠則論『ポップコーンの心霊術』を書いた。当初、写真集『男の死』は横尾も被写体になる予定だったが、病気で入院したために三島だけとなった[414][646]。三島は横尾に「人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する」と言っていたとされ[709]、自決3日前にもインドは生を学ぶところだとして、「君もそろそろインドへ行ってもいいな」と助言したという[413][414]。
- 吉田健一
- 英文学者、文芸評論家。「鉢の木会」の同人仲間として交流があったが、不和が生じて断交した。その原因は、三島の新居引っ越し時に家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期の力作『鏡子の家』を「鉢の木会」の月例会で酷評されたとの説もあるが[311][710]、『宴のあと』に対して訴訟を起こした有田八郎と旧知の仲だった吉田が、裁判で有田側に立った発言をしたため、不仲になったのが主因とされる[278][282]。吉田は三島の死を、一流の文士が道楽で身を誤ることがあっても不思議ではないという喩えで、「蝶気違ひの文士が崖に蝶を追つて墜落死することもある」として一種の事故死と捉えた[711]。
- 吉田満
- 作家。日本銀行職員。吉田の体験戦記『戦艦大和ノ最期』(1946年)が改稿の紆余曲折を経て執筆から6年後に刊行された際に三島は跋文を寄せた。当初この戦記の初稿がGHQの検閲でお蔵入りとなり翌年1947年(昭和22年)に吉田が「細川宗吉」名義で改定稿「戦艦大和」を『新潮』に掲載した折、三島は直接吉田本人と会って〈門外不出の〉初稿原文を読ませてもらい、その感想を、〈日本人がうたつた最も偉大な叙事詩ともいへます〉、〈日本人のテルモピレエの戦の細述です〉と林房雄に伝えて初稿原文の一読を勧めていた[223]。吉田は三島を「まだ手書きの草稿のままの拙作『戦艦大和ノ最期』を読み、率直な感想をのべてくれた数少ない友人の一人であった」と述懐し、その縁もあって、2歳年下で同じ帝大法学部出身の三島と一時期親しく付き合っていた[224] [712]。三島が大蔵省の事務官として貯蓄奨励の懸賞作文審査のため日銀の一室に出張した際にも接点があり、三島は職務外で吉田の幹事により日本銀行文芸部主催で「小説の書き方、味わい方」という講演もしていた[224][225]。まだ大蔵省にいた頃の三島は「自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ」と言っていたという[712]。三島没後に吉田は、三島が生涯かけて取り組もうとした課題の基本にあるものは「戦争に死に遅れた」事実に胚胎しているとする評論「三島由紀夫の苦悩」や[712]、三島との約9年ぶりの再会の思い出などを綴った「ニューヨークの三島由紀夫」を寄せている[224]。
- 若尾文子
- 女優。三島のお気に入りの女優で、三島原作の映画作品『永すぎた春』『お嬢さん』『獣の戯れ』に出演し、増村保造の『からっ風野郎』では三島から選ばれて共演もした。三島が増村から何度も執拗にNGを出されていたことを、「増村さんてそういう人ですけど、私の見た範囲ではあんなのはちょっとないですね。陰で祈ってたわ。普通の人だったら、並みの俳優だったら、もう辞めてますね」と、増村の度を越したいびりに三島がよく耐え我慢していたことを述懐している[689]。三島が若尾について語った随筆・評論は、『若尾文子さん――表紙の女性』(1960年)、『若尾文子讃』(1962年)がある(詳細はからっ風野郎#若尾文子と三島由紀夫を参照)。
- 和久田誠男
- 演出家。劇団NLT、浪曼劇場において三島作品の舞台監督などを務め、三島由紀夫追悼公演となった『サロメ』においては演出補を担当した。三島事件の四日前に三島と最後の『サロメ』演出の打ち合わせを行い会食、その際三島が異常に寒がる様子を目撃している[713]。
- アイヴァン・モリス
- 日本文学研究者。『金閣寺』英訳者であり友人。英訳で上演された『班女』の吉雄役を演じた[285]。モリスの著書『光源氏の世界』が1965年(昭和40年)にイギリスで文学賞を受賞した際には三島も訪英しており、授賞式に立ち会った[714]。
- ジョン・ネイスン
- 翻訳者、日本研究者。『午後の曳航』を翻訳。ネイスンは『絹と明察』の翻訳依頼も受けたが、途中で放棄したまま大江健三郎の翻訳に乗り換えたため、三島とネイスンの関係は感情的もつれを生み、三島は知人にネイスンのことを「左翼に誘惑された与太者」と呼んでいたとされる[311]。
- ドナルド・キーン
- 日本文学研究・翻訳者。三島文学を高く評価し、友人関係にもなった。三島は1961年(昭和36年)頃からキーン宛ての手紙の末尾に〈幽鬼夫〉〈幽鬼亭〉〈雪翁〉〈幽鬼尾〉と署名するようになり、1965年(昭和40年)頃から〈魅死魔幽鬼尾〉と記し、キーンを〈鬼韻様〉〈奇因先生〉としていた。キーンは、作家たちが自分の癖字や悪筆を、むしろ誇りにし汚い原稿のまま出す傾向がある中、三島が印刷所に対する礼儀として原稿用紙の字を読みやすく綺麗に書いていた習慣を「偉いこと」と語っている[715]。『近代能楽集』『宴のあと』『サド侯爵夫人』などを翻訳したキーンは、1968年度のノーベル文学賞受賞が三島ではなかったのが不思議だとして、この時の受賞選考に関与した某人物(東京での1957年の国際ペンクラブ大会に出席していた人物)が、三島を「左翼の過激派」と判断し、川端の方を強く推していたという内幕を語っている[321][322]。キーンは平野啓一郎に対し、「大抵の日本人は自分が話している英語が相手に通じないと、だんだん声が小さくなる。けれど三島さんは反対で、話が通じないほど、どんどん声が大きくなる珍しい日本人だった」と述べている[716]。
- ヘンリー・スコット・ストークス
- イギリスのジャーナリスト。ロンドンの『タイムズ』東京支局長当時、三島の自衛隊体験入隊や楯の会を取材した。1970年(昭和45年)9月3日に三島から「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている」と言われ[403]、「緑色の蛇」の意味をずっと考え続けていたが、1990年(平成2年)頃に突然、「米ドル」(グリーンバックス)のことだと解ったという[717]。ストークスは、三島がよく家族と夏を過ごしていた伊豆下田で三島と一緒に地元の食堂で会食することもあり彼の家族とも交流があったが、食事の後ストークスが宿泊している宿まで三島がタクシーで送ろうとした際、三島から宿名を聞かれ「黒船」と答えると、三島が急に不機嫌な低い声になり、「そんなところに泊まっているのか?」「どうして、そんなところに泊まるんだ!」と苛立ってしまったためストークスはそれを和らげようと、「ただ、あなたをからかいたかっただけだ」と笑って応じたことがあったという[718]。三島はストークスにアメリカへの敵愾心を全くみせることはなく新婚時代の旅行でディズニーランドにも行っていたくらいだったが、「黒船」に対しては強い嫌悪を抱いていた様子だったという[718]。
脚注
注釈
- ^ 祖父・定太郎と『国際私法』を共著した福原鐐二郎(第14代学習院院長)の紹介もあったのではないかという推察もある[38]。
- ^ しかし、三島が使用していた原稿用紙は36種類あり、その中には、翌年1942年(昭和17年)に梓が天下りした日本瓦斯木炭株式会社の社報用の原稿用紙や、農林省蚕糸局にいた時に入手したと思われる日本蚕糸統制株式会社の原稿用紙もあり、暴君を気取っていた梓も戦況が激しくなるに従い、次第に息子の形見のためにせっせと原稿用紙を調達していたことが推察されている[4][68][69]。
- ^ 2016年(平成28年)9月に、三島直筆の「花ざかりの森」元原稿が熊本市の蓮田晶一(蓮田善明の長男。2016年8月に死去)の家で見つかった[74][75]。冒頭の著名は「平岡公威」を2本線で消して「三島由紀夫」に書き直してあり、ペンネーム誕生の経緯を物語る貴重な資料発見となった[74][75]。
- ^ ちなみに三島自身はペンネームの由来について次のように語っている。
- ^ 貰った希望賞品は、光吉夏弥編・筑摩書房刊の豪華本『文楽』となった[81]。
- ^ 三島は『東文彦作品集』の序文で東との交友を振り返りつつ、当時を〈文学に集中できたむしろアリストテレス的静的な時代〉であったと語っている[88]。
- ^ a b なお、エッセイ「学習院の卒業式」では、総代として卒業生代表で免状を受け取った三島は、〈正面の御名代の宮殿下に最敬礼し斜右の宮内大臣から免状をもらつた〉とある[127]。『昭和天皇実録』の昭和19年9月9日条では、「学習院において卒業式挙行につき、朝融王を差し遣わされる」とされている。清水文雄の「戦中日記」にも「十時三十分御差遣宮殿下を奉送申上げ、」とあり、この年に実際に臨席したのは昭和天皇の義兄の久邇宮朝融王だと考えられる[129]。ちなみに三島の在学中に昭和天皇が卒業式に臨席したのは、昭和9年、12年、16年の3回だった[129]。
- ^ なお、三谷隆信の三女・正子は、鮎川義介の息子・鮎川弥一に嫁いだため、邦子は鮎川純太の義理の伯母となった。
- ^ 三島より2、3歳年長の斎藤吉郎は1942年(昭和17年)に一高を卒業してから東大に入り、友人らと雑誌『故園』を1943年(昭和18年)に発刊した[165]。『故園』第1号は、蓮田善明の「神韻のしらべ」が巻頭を飾り、三島の詩「春の狐」も掲載された[165]。斎藤の雑誌は終戦後『叙情』として発刊し、三島はその第1号に戦時中に創作した「絃歌――夏の恋人」を寄稿した。この詩には、邦子とのことを題材にしているのが看取される[165]。
- ^ 野田宇太郎は当時を振り返る随想で、まだ学生の三島が有名な作家になりたいという野心を持って川端康成を訪問し、そのために自分をずっと利用していたと悪し様に語っているが[149]、野田の知らないところで、三島と川端との繋がりは学習院在学中の頃からあったという説もある[172]。越次倶子が三島の母・倭文重に取材したところによると、1943年(昭和18年)、三島の詩や短編を読んだ川端から手紙(宛名は平岡公威)が突然来て、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と三島が大喜びし、はしゃいでいたという[172]。それから翌1944年(昭和19年)の『花ざかりの森』出版まで、三島は川端へ2、3度手紙を出し、本ができあがると贈呈した[172]。三島は15歳頃に川路柳虹に師事していたが、川路が三島の文学的早熟に驚き、教えることがないと周囲に漏らしていたため、親交のあった川端にも三島少年の詩篇を見せた可能性もあり、それ以降、各所で発表される三島の作品に川端が注目していたと越次は推察し、それが三島の言う〈何か私を勇気づける事情〉のことだとしている[172]。
- ^ 当時は物資不足で大学の学生服の新調はできず、三島は終戦までは、召集されていく先輩の制服を借り、戦後は自分の学習院時代の制服を改造した(仕立て直した)窮屈なものを学生服として着て、講義を受けていた[131]。
- ^ なお、三島の母・倭文重も、娘時代に兄と2人でよく銀座(まだ関東大震災前の)の喫茶店に通っていた頃、芥川龍之介や南部修太郎と一緒にいる目のぎょろぎょろした川端や、無精髭の横光利一を見かけていたという[36]。
- ^ 彼らは、第五中学校の校内誌『開拓』に投稿していた文学仲間であった[200]。
- ^ 中村稔によれば、三島はその会がお開きになるまで居て、帰りは三島と渋谷駅まで一緒に帰ったと回想している[200]。
- ^ 三島の日記では「住友」とだけになっているが、佐藤秀明は住友銀行と推測している[69]。
- ^ 大蔵省時代のことを題材にした作品には、『大臣』『訃音』『鍵のかかる部屋』『日曜日』などがある[220][221][230][231]。
- ^ 『序曲』は、河出書房の杉森久英が企画し、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三、佐沼兵助(寺田透)、船山馨、島尾敏雄、三島の10名が編集同人となった同人雑誌だが、創刊号の1号で終刊した[233]。三島は創刊号に短編「獅子」を掲載した[53]。
- ^ その後、この原稿を一旦取り戻して書き直し、4月27日に擱筆した[238]。
- ^ のちに英訳された作品集『真夏の死 その他』は、1967年(昭和42年)5月にフォルメントール国際文学賞第2位を受賞し、この時、『午後の曳航』も候補作となった[255]。
- ^ 玉利齊は、のちに社団法人日本ボディビル協会会長となった[248]。
- ^ 1958年(昭和33年)10月から建設開始し1959年(昭和34年)4月前に完成したこの大田区の家の住所表記は、1965年(昭和40年)11月の住居表示制度の実施で「南馬込四丁目32番8号」に変更されるまでの間、三島由紀夫が知人らに宛てた書簡や、贈呈本に添付した自身の名刺で「馬込東一丁目1333番地」と記載され(エアメールでは、Magome-higashi)[294][295][296]、三島研究者編纂の全集の年譜や複数の評伝でも町名を「馬込東」と記載しているが[297][298][299]、大田区の住居表示を記録した『住居表示旧新・新旧対照表. 6の2(昭和40年11月15日施行)』の300頁によると、南馬込四丁目32番8号は馬込町東一丁目1333番地に当たり、当地の居住者には平岡公威の名が記載されている[300]。なお、川端康成が書いた三島宛の書簡では1962年(昭和37年)以降に「馬込東」と「馬込町東」の両方の表記が見られる[301]。
- ^ ジョン・ネイスンは、この時の右翼に対する恐怖感により、三島の思想が「右旋回」したと実弟・平岡千之の証言として書いているが[311]、千之はそのようなことを言った覚えはないと否定している[282]。
- ^ 実際、1961年度に川端康成が受賞する可能性もあったことも明らかになっている[331]。
- ^ 大神神社境内には、この時三島が揮毫した「清明」が刻まれた記念碑がある[352]。
- ^ なお、この刀は本物の関ノ孫六ではなく、三島は贋物をつかまされていたという疑いもあり、元の持主であった武道家・中村泰三郎はこれを神戸の刀剣店で4万円の値で買い、舩坂弘に5万円で売ったとされている[354]。三島はこの日本刀を死ぬまで本物の関ノ孫六だと信じきっていた[354]。
- ^ 前年1966年(昭和41年)に三島はマスコミからノーベル文学賞受賞の予定談話まで要望されて応えたが、実際の受賞者はシュムエル・アグノンとネリー・ザックスとなってバツの悪い思いをした教訓から、この年には記者の追跡を避けてバンコクに滞留していた[365]。
- ^ 全共闘主催の討論会で最後に三島が語った全文は、
天皇ということを口にすることも穢らわしかったような人が、この2時間半のシンポジウムの間に、あれだけ大勢の人間がたとえ悪口にしろ、天皇なんて口から言ったはずがない。言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。これも問題提起にすぎない。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。 — 三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」[382]
- ^ 辻井喬は『癩王のテラス』の中の台詞、〈そしてお寺の名も、共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様はあの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう〉という言葉には、戦後に生き残った三島の心境が吐露されていると見ている[411]。
- ^ 小島は10分ほど遅れて到着したが、三島の死後にお手伝いさんに確認したところ、三島は当日の朝、「今日は10時過ぎに出かける。そのあとで小島さんが来るからこれを渡すように」と指示して出ていったという[363]。
- ^ 武田は三島の自決2か月前から、戦中の精神病院を舞台にした長編「富士」を『海』に連載して11月20日に脱稿したが、その内容が三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決)が描写されていたため、担当編集者・村松友視は「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚きつつ刊行後は「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った[427]。
- ^ 1972年(昭和47年)4月に川端康成も自殺するが、その数日前、三島の父・梓は川端からの長文の手紙をもらったという。梓は、「川端さんのご性格のまったく意外な点が実によくあらわれていて興味をひかれました」とし、家宝として永く保存していくと語った[180]。
- ^ この理論はすでに1968年(昭和43年)11月16日に茨城大学講堂で行われた学生とのティーチ・インで明らかにされているが、その際には海上自衛隊を6:4に分割することを主張していた[482]。
- ^ 鶴田浩二との対談でも、〈広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本はよくならないぞ。「きけわだつみのこえ」なんていうのは、一つの政治戦略だ〉と述べている[487]。
- ^ 鈴木邦男は「憲法研究会」の討議がその都度テープ起しされて三島がチェックしていたかのようもミスリードしているが、実際討議がテープ起しされたのは三島の死後(楯の会解散後)であり、松藤竹二郎の著書中にある「註―三島氏加筆」という数か所の「註」(出版社の毎日ワンズ編集者によって勝手に書き込まれてもの)に関しても、三島はその時点で亡くなっているのであり得ず、草稿にチェック加筆したのは楯の会会員の山口良男である[503]。ちなみに鈴木が電話取材をしたという元楯の会会員の本多清(旧姓・倉持)や松藤は、そのような取材を受けてなく、鈴木と話もしたことがないと言っている[503]。
- ^ 「憲法研究会」のリーダーで、改正案討議の記録を保管していた班長・阿部勉の提案した「女帝を認める」(「女系」ではない)という意味についても、阿部は「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と説明しており、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている[505]。
- ^ 中上健次も対談で誤解に基づき、「たとえば三島由起夫〔ママ〕は被差別部落の血が流れてるよね」と発言している[554]。
- ^ 光文社の雑誌『光』1948年12月号に掲載予定だったが、出版社の経営悪化により11月号で休刊となったため雑誌未発表となった[562]。
- ^ 服部卓四郎大本営陸軍作戦課長による本土決戦の基本思想
出典
- ^ 「才華繚乱の文学『金閣寺』の時代」(太陽 2010, p. 50)
- ^ Alprogrammer (英語). ❞يوكيو ميشيما❝ المؤلِّف - المكتبة
- ^ HK, ELLE. “三島由紀夫只愛男人?將文學、武士精神、極右思想發揮到極致的作家 | ELLE HK”. www.elle.com.hk. 2023年7月5日閲覧。
- ^ a b c d 「第一回 三島由紀夫の誕生」(松本徹 2010, pp. 8–20)
- ^ a b 「十四 ノーベル文学賞の有力候補」(岡山 2014, pp. 83–84)
- ^ 松永尚三「ヨーロッパ・フランス語圏における三島劇」(論集III 2001, pp. 215–228)
- ^ 「三島由紀夫」(キーン 2005, pp. 70–95)
- ^ a b c d 「第六回 舞台の多彩の魅力」(松本徹 2010, pp. 76–89)
- ^ a b 「各項〈作品解説〉」(太陽 2010, pp. 27-108ff)
- ^ 「第一部 あの“狂乱”の時代を振り返って」(板坂・鈴木 2010, pp. 19–48)
- ^ 「第一章 三島の自決はどう捉えられてきたか」(柴田 2012, pp. 15–34)
- ^ 「II 構造と反復」から「II 中上健次と三島由紀夫/あるいはオリュウノオバと本多邦繁」(青海 2000, pp. 123–277)
- ^ a b 佐伯彰一「三島由紀夫 人と作品」(新潮文庫版『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』解説、1973年12月執筆)
- ^ a b c 「不思議な共感」「三島由紀夫の生まれ育った時代」(奥野 2000, pp. 9–34)
- ^ 「はじめに」(年表 1990, pp. 7–8)
- ^ a b c d e f g h i j 「第一章」(年表 1990, pp. 9–30)
- ^ a b c d 「大正14年」(日録 1996, pp. 14–15)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『仮面の告白』(河出書房、1949年7月)。1巻 2000, pp. 173–364
- ^ 「東文彦宛ての書簡」(昭和16年4月11日付)。十代 2002, pp. 38–40、38巻 2004, pp. 65–67
- ^ a b c d e f g h i j 「第二章」(梓 1996, pp. 31–47)
- ^ a b 松本徹「ミシマ万華鏡――祖父の地」(短編小説・15三島研究2015年p.15)
- ^ a b c d e 「II」(オール讀物 1987年5月号)。野坂 1991, pp. 77–154
- ^ a b c d e f 「祖先」(日録 1996, pp. 7–13)
- ^ a b c d e f g h i 「第二章 幽閉された少年」(猪瀬 1999, pp. 113–216)
- ^ a b 「わが友・平岡梓」(川島 1996, pp. 99–124)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈」(越次 1983, pp. 71–140)
- ^ a b c 「第一章 原敬暗殺の謎」(猪瀬 1999, pp. 25–111)
- ^ a b 松平家の家系図は越次 1983, pp. 137–140, 234–235
- ^ 柳田國男『故郷七十年』(のじぎく文庫 神戸新聞総合出版センター、1959年11月。1989年4月)。橋川 1998, pp. 37–38
- ^ 文献 2001, p. 442
- ^ 「III」(オール讀物 1987年6月号)。野坂 1991, pp. 155–238
- ^ a b c d e f 平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」(新潮 1976年12月号)。群像18 1990, pp. 193–204、年表 1990, pp. 17, 21, 172, 192
- ^ a b c d e f g 「平岡公威伝」(原稿用紙 昭和19年2月28日付)。26巻 2003, pp. 420–427
- ^ 「解説」(『日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花』1969年1月)。35巻 2003, pp. 323–337
- ^ 「第二部 追想のなかの三島由紀夫――(三)三島由紀夫以前」(佐伯 1988, pp. 234–307)
- ^ a b c 平岡梓・平岡倭文重「〈両親対談〉三島由紀夫は誰のものか」(文藝春秋 1973年11月号)。梓・続 1974, pp. 205–246
- ^ 田中美代子「解題――神官」(補巻 2005, p. 646)
- ^ a b 「第一章 作家の誕生まで」(佐藤 2006, pp. 23–38)
- ^ a b c d e 「わが思春期」(明星 1957年1月号-9月号)。29巻 2003, pp. 339–408
- ^ a b c d e f g h 「第一部 土曜通信」(三谷 1999, pp. 11–133)
- ^ 「東文彦宛ての書簡」(昭和16年1月21日付)。十代 2002, pp. 17–20、38巻 2004, pp. 49–50
- ^ a b 「ラディゲに憑かれて――私の読書遍歴」(日本読書新聞、1956年2月20日号)。29巻 2003, pp. 146–149
- ^ 「年譜」(昭和8年)(42巻 2005, pp. 27–32)
- ^ a b c d e f g h i 「第二部 平岡公威君の思い出」(三谷 1999, pp. 135–188)
- ^ 「昭和11年月日不詳」(日録 1996, p. 33)
- ^ a b 「第一章 黄金の王国」(生涯 1998, pp. 5–98)
- ^ a b c 「二・二六事件と私」(『英霊の聲』河出書房新社、1966年6月)。34巻 2003, pp. 107–119
- ^ 「我が国旗」(昭和11年6月16日付)。36巻 2003, p. 466
- ^ 岸田今日子との対談「岸田今日子さんと恋愛を語る」(主婦の友 1954年9月号)。彼女 2020, pp. 52–59
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「第二章」(年表 1990, pp. 31–52)
- ^ a b c 「『詩を書く少年』のころ」(坊城 1971)。年表 1990, p. 26
- ^ a b 「詩を書く少年」(文學界 1954年8月号)pp.8-15。19巻 2002, pp. 283–300
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「作品目録」(42巻 2005, pp. 377–462)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「第三章」(梓 1996, pp. 48–102)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 「私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。32巻 2003, pp. 271–323
- ^ 「悪の華――歌舞伎」(国立劇場歌舞伎俳優養成所での特別講演 1970年7月3日。新潮 1988年1月号)。36巻 2003, pp. 216–241
- ^ 「芝居日記」(1942年1月1日-1944年12月23日。1945年2月18日-1947年11月23日執筆。マリ・クレール 1989年10月号-1990年2月号)。26巻 2003, pp. 94–264
- ^ 「師弟」(青年 1948年4月号)pp.31-34。27巻 2003, pp. 40–45
- ^ 「凶ごと」(昭和15年1月15日付)。橋川 1998, pp. 41–42、37巻 2004, pp. 400–401
- ^ 「母を語る――私の最上の読者」(婦人生活 1958年10月号)pp.126-131。30巻 2003, pp. 648–661
- ^ 「川路柳虹先生の思ひ出」(西条八十の詩誌のため、1966年執筆)。(京都語文 1998年10月号)。34巻 2003, pp. 280–282
- ^ 「『恥』」(青 1953年10月号)。28巻 2003, pp. 198–200
- ^ a b c 十代 2002
- ^ a b 「あとがき――戯曲」(『三島由紀夫作品集6』新潮社、1954年3月)。28巻 2003, pp. 119–121
- ^ a b c 「戯曲の誘惑」(東京新聞夕刊 1955年9月6日、7日号)。28巻 2003, pp. 538–543
- ^ 「清水文雄宛ての書簡」(昭和16年9月17日付)。38巻 2004, pp. 542–547
- ^ 「年譜」(昭和16年1月21日)(42巻 2005, p. 63)
- ^ 工藤正義(三島由紀夫文学館)「三島由紀夫の原稿用紙」(15巻 2002月報)
- ^ a b c d e f g h i j k 「第二章 戦中・戦後の苦闘」(佐藤 2006, pp. 39–72)
- ^ 「清水文雄宛ての書簡」(昭和16年7月28日付)。38巻 2004, pp. 540–541
- ^ a b c d e f 清水文雄「『花ざかりの森』をめぐって」(『三島由紀夫全集1』月報 新潮社、1975年1月)。新読本 1990, pp. 22–24
- ^ a b c 「私のペンネーム」(東京新聞夕刊 1953年11月8日号)。28巻 2003, p. 210
- ^ a b c d 「あとがき――『花ざかりの森』」(『三島由紀夫作品集4』新潮社、1953年11月)。28巻 2003, pp. 112–115
- ^ a b 「ペンネーム『三島』生まれた臨場感」(朝日新聞 2016年11月12日号・34面)
- ^ a b 「花ざかりの森」熊本で発見 三島デビュー作直筆原稿「作家誕生語る一級資料」(三島由紀夫の総合研究、2016年11月13日・通巻第996号)
- ^ 井上隆史「ペンネームの由来」(太陽 2010, p. 19)
- ^ a b 「東文彦宛ての書簡」(昭和16年11月10日付)。十代 2002, pp. 83–86、38巻 2004, pp. 98–101
- ^ 蓮田善明「編集後記」(文藝文化 1941年9月号)。福島鋳 2005, p. 116、群像18 1990, p. 76
- ^ 「惟神之道」(昭和16年9月22日付)。26巻 2003, pp. 88–90
- ^ 「大東亜戦争か 太平洋戦争か――歴史的事実なんだ」(サンデー毎日 1970年11月29日号)。36巻 2003, p. 658
- ^ 「東文彦宛ての書簡」(昭和18年1月11日付)。十代 2002, pp. 147–150、38巻 2004, pp. 135–137
- ^ 「年譜」(昭和17年3月)(42巻 2005, p. 73)
- ^ 「年譜」(昭和18年-昭和19年)(42巻 2005, pp. 79–98)
- ^ 「ドイツ語の思ひ出」(ドイツ語 1957年5月号)。29巻 2003, pp. 521–526
- ^ 対談「平野啓一郎が聞くドナルド・キーンの世界」(読売新聞 2007年7月31日、8月1日号)
- ^ 「大詔」(文藝文化 1942年4月号)pp.14-15。37巻 2004, pp. 708–709
- ^ 高橋新太郎「赤絵」(事典 2000, p. 441)
- ^ a b c 「序」(1970年10月25日執筆。『東文彦作品集』講談社、1971年3月。講談社文芸文庫、2007年4月)。36巻 2003, pp. 363–368
- ^ 「挽歌一篇」(昭和17年8月26日付)。37巻 2004, pp. 710–711
- ^ 「東文彦宛ての書簡」(昭和17年11月15日付)。十代 2002, pp. 136–141、38巻 2004, pp. 129–133
- ^ a b 保田與重郎「天の時雨」(臨時 1971)。福田 1996, pp. 167–192
- ^ 「『文芸文化』のころ」(『昭和批評大系2 昭和10年代』月報 番町書房、1968年1月)。34巻 2003, pp. 644–646
- ^ a b 荒木 1971。西法太郎「三島由紀夫と神風連(壱)」(三島由紀夫の総合研究、2007年5月7日・通巻第143号)
- ^ a b 「第二章 学習院という湖」(島内 2010, pp. 57–92)
- ^ a b 「序章――雅の棘」(村松剛 1990, pp. 9–27)
- ^ 「東文彦宛ての書簡」(昭和16年9月25日付)。十代 2002, pp. 80–82、38巻 2004, pp. 97–98
- ^ 「年譜」(昭和17年4月4日)(42巻 2005, p. 74)
- ^ 「総務幹事日記」(昭和18年2月24日-8月2日)。補巻 2005, pp. 497–507, 676–680
- ^ 「神崎陽宛ての書簡」(昭和21年2月10日付)。38巻 2004, pp. 313–318
- ^ a b 富士正晴「蓮田善明宛ての書簡」(昭和18年5月3日付)。日録 1996, pp. 56–57
- ^ a b c d 林富士馬「死首の咲顔――三島由紀夫君追悼」(諸君! 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 312–318
- ^ a b c 「跋に代へて」(『花ざかりの森』七丈書院、1944年10月)。26巻 2003, pp. 440–444
- ^ 富士正晴「林富士馬の詩」(文藝文化 1943年8月号)。日録 1996, p. 57
- ^ 蓮田善明「古典の教育」(文學 1943年8月号)。日録 1996, pp. 57–58、北影 2006, pp. 49、橋川 1998, p. 45
- ^ 蓮田善明「平岡公威宛ての葉書」(昭和18年8月16日付)。日録 1996, p. 58、猪瀬 1999, p. 226、佐藤 2006, p. 45
- ^ 「東文彦宛ての書簡」(昭和18年4月4日付)。十代 2002, pp. 173–175、38巻 2004, pp. 154–155
- ^ a b 「東文彦宛ての書簡」(昭和18年8月20日付)。十代 2002, pp. 201–204、38巻 2004, pp. 173–175
- ^ 「東文彦宛ての書簡」(昭和16年9月16日付)。十代 2002, pp. 77–80、38巻 2004, pp. 94–96
- ^ 「東文彦 弔詞」(昭和18年10月11日付。新潮 1998年12月号)。十代 2002, pp. 211–213。26巻 2003, pp. 411–413
- ^ 「東徤兄を哭す」(昭和18年10月9日付。輔仁会雑誌 1943年12月25日・169号)。26巻 2003, pp. 406–410
- ^ a b 「第四章 三島事件前後の真相」(持丸 2010, pp. 125–189)
- ^ a b 「II 自己改造をめざして――『仮面』の創造」(村松剛 1990, pp. 123–149)
- ^ a b c d 「『盗賊』創作ノート」(1巻 2000, pp. 605–650)
- ^ a b c 「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付)。十代 2002, pp. 227–230、38巻 2004
- ^ 「昭和18年10月25日」(日録 1996, pp. 59)
- ^ a b c d 「IV 行動者――訣別」(村松剛 1990, pp. 469–503)
- ^ a b c d 「第一章 三島由紀夫と日本浪曼派」(北影 2006, pp. 22–92)
- ^ a b c d e 小高根 1970。文學大系 1970, pp. 461–471(1968年9月号-11月号分)、福島鋳 2005, pp. 99–156、北影 2006, pp. 22–92
- ^ a b c 小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」(新潮 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 100–105
- ^ 「第六章 命を賭けたライフワーク」「第七章 自決の朝」(島内 2010, pp. 243–326)
- ^ 「富士正晴宛ての書簡」(昭和18年12月26日付)。38巻 2004, p. 852
- ^ 「年譜」(昭和19年5月16日)(42巻 2005, pp. 91–92)
- ^ a b c d e 「十一 平明な主潮と太平洋戦争――2 『春の雪』と三島由紀夫」(小高根 1971, pp. 273–285)
- ^ a b c 「第三章 三島由紀夫の青春」(福島鋳 2005, pp. 99–156)
- ^ 伊東静雄「平岡公威宛ての書簡」(昭和19年11月22日付)。42巻 2005, p. 97、アルバム 1983, p. 17(現物写真)
- ^ a b c d e f g h 「伊東静雄宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)。38巻 2004, pp. 200–202
- ^ a b c d e 「学習院の卒業式」(スタイル 1957年3月号)。29巻 2003, p. 499
- ^ a b 「年譜」(昭和19年9月9日)(42巻 2005, p. 95)
- ^ a b 「三島由紀夫と昭和の時代」(西 2020, pp. 25–30)
- ^ 陛下から拝受された恩賜の銀時計を眺めている写真はアルバム 1983, p. 18
- ^ a b 「学生の分際で小説を書いたの記」(文藝 1954年11月号)pp.13-15。28巻 2003, pp. 370–376
- ^ 「法律と文学」(東大緑会大会プログラム、1961年12月)。31巻 2003, pp. 684–686
- ^ 「私の小説作法」(毎日新聞 1964年5月10日)。33巻 2003, pp. 60–62
- ^ 「『花ざかりの森』出版のころ」(群像 1958年6月号)p.244。30巻 2003, pp. 285–286
- ^ 「『花ざかりの森』のころ」(うえの 1968年1月号)。34巻 2003, pp. 615–618
- ^ 「三島由紀夫伝」(小林秀雄編『現代日本文学館42 三島由紀夫』文藝春秋、1966年8月)。橋川 1998, pp. 36–73
- ^ a b 秋山駿「『内部の人間』から始まった」(禁色・5三島研究2008年pp.4-30)。同時代 2011, pp. 85–124
- ^ 「平岡梓・倭文重宛ての葉書」(昭和20年1月18日付)。38巻 2004, pp. 816–817
- ^ 「三谷信宛ての書簡」(昭和20年1月20日付)。三谷 1999, pp. 32–33、38巻 2004, pp. 905–906
- ^ 「中河与一宛ての書簡」(昭和20年2月23日付)。38巻 2004, p. 711
- ^ 「平岡梓・倭文重宛ての葉書」(昭和20年1月17日付)。38巻 2004, pp. 815–816
- ^ 「私の遺書」(文學界 1966年7月号)pp.7-8。34巻 2003, pp. 153–156
- ^ 平岡公威「遺言」(昭和20年2月執筆)。現物写真は、アルバム 1983, p. 21、写真集 2000、太陽 2010, p. 23
- ^ 「昭和20年1月-2月」(日録 1996, pp. 72–75)
- ^ 栗栖晋(突第10133部隊)「帰郷証明書」(昭和20年2月10日付)。三島由紀夫文学館所蔵。
- ^ a b c d e 「太陽と鉄」(批評 1965年11月号-1968年6月号)。33巻 2003, pp. 506–584
- ^ a b c d e f g h i j 古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日号)。古林尚『戦後派作家は語る』(筑摩書房、1971年)、群像18 1990, pp. 205–228、40巻 2004, pp. 739–782
- ^ a b c 「三谷信宛ての葉書」(昭和20年4月21日付)。三谷 1999, pp. 88–90、38巻 2004, pp. 917–918
- ^ a b c d 野田宇太郎『灰の季節』(修道社、1958年5月)。福島鋳 2005, pp. 141–151、村松剛 1990, pp. 72ff
- ^ a b c 川端康成「平岡公威宛ての書簡」(昭和20年3月8日付)。川端書簡 2000, p. 11
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和20年3月16日付)。川端書簡 2000, p. 12、38巻 2004, p. 236
- ^ a b c 『葉隠入門』(光文社、1967年9月)。34巻 2003, pp. 474–540
- ^ a b c d e 「民族的憤怒を思ひ起せ――私の中のヒロシマ」(週刊朝日 1967年8月11日号)pp.16-18。34巻 2003, pp. 447–449
- ^ a b 「八月十五日前後」(毎日新聞 1955年8月14日号)。読本 1983, pp. 254–255、28巻 2003, pp. 525–527
- ^ 「清水文雄宛ての葉書」(昭和20年8月16日付)。38巻 2004, p. 604
- ^ 「神崎陽宛ての葉書」(昭和20年8月16日付)。38巻 2004, p. 313
- ^ 「三谷信宛ての書簡」(昭和20年8月22日付)。三谷 1999, pp. 112–113、38巻 2004, pp. 921–922
- ^ 「戦後語録」(昭和20年9月16日)。26巻 2003, pp. 560–562
- ^ 「野田宇太郎宛ての葉書」(昭和20年9月2日付)。38巻 2004, pp. 921–922
- ^ a b c 「I 青春――恋の破局」(村松剛 1990, pp. 78–97)
- ^ a b c d e 「終末感からの出発――昭和二十年の自画像」(新潮 1955年8月号)p.69。28巻 2003, pp. 516–518
- ^ a b c d e 「三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」(湯浅 1984, pp. 105–128、彼女 2020, pp. 123–124
- ^ 「会計日記」(昭和21年9月16日付)。補巻 2005, p. 522
- ^ a b c 田中美代子「解題――仮面の告白」(1巻 2000, pp. 680–681)
- ^ a b c d e 「III 死の栄光――『優雅』をこえて」(村松剛 1990, pp. 373–395)
- ^ a b 「ある晴れた日に」(ポリタイア 1973年8月号)。小島 1996, pp. 41–60
- ^ a b 平岡公威「斎藤吉郎宛ての書簡」(昭和21年1月9日付)。村松剛 1990, p. 373、小島 1996, pp. 57–58、日録 1996, pp. 86–87
- ^ 「第三部 三島由紀夫と戦後文学」(ネイスン 2000, pp. 87–127)
- ^ 「文学者の戦争責任の問題」(本多・上 2005, pp. 70–88)
- ^ a b 「III『人間』時代――鎌倉文庫 白木屋時代」(木村 1995, pp. 247–267)
- ^ 「川端康成印象記」(レポート用紙 昭和21年1月27日付。封筒表は「はじめて川端康成に会ふの記」)。26巻 2003, pp. 563–566
- ^ a b c d e f g 「IV 川端康成と三島由紀夫」(越次 1983, pp. 173–199)
- ^ 「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」(別冊文藝春秋 1956年4月・51号)pp.13-19。29巻 2003, pp. 204–217
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和21年4月15日付)。川端書簡 2000, pp. 31–34、38巻 2004, pp. 247–249
- ^ 「川端氏の『抒情歌』について」(民生新聞 1946年4月29日号)。26巻 2003, pp. 572–576
- ^ a b 臼井吉見・中村光夫「対談・三島由紀夫」(文學界 1952年11月号)。佐藤 2006, pp. 57–58
- ^ a b c 「戦後派ならぬ戦後派三島由紀夫」(本多・中 2005, pp. 97–141)
- ^ a b c d e f 「作家白描――三島由紀夫」(木村 1995, pp. 143–168)
- ^ a b c 長谷川泉「川端康成」(旧事典 1976, pp. 101–102)
- ^ a b c d 「川端さんのこと」(梓・続 1974, pp. 115–127)
- ^ a b 「川端康成宛ての書簡」(昭和21年5月12日付)。川端書簡 2000, pp. 36–37、38巻 2004, p. 250
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和21年6月15日付)。川端書簡 2000, pp. 41–43、38巻 2004, pp. 253–254
- ^ 「第二回 果てしない試行錯誤」(松本徹 2010, pp. 21–35)
- ^ a b 「川端康成宛ての書簡」(昭和21年8月10日付)。川端書簡 2000, pp. 46–48、38巻 2004, pp. 255–257
- ^ a b c d e f 「第三章 意志的情熱」(猪瀬 1999, pp. 217–320)
- ^ 清水文雄「三島由紀夫のこと」(文學界 1971年2月号)。群像18 1990, pp. 75–77
- ^ 「会計日記」(昭和21年11月17日付)。補巻 2005, p. 531
- ^ 「故蓮田善明への献詩」(おもかげ 1946年11月17日)。浪曼 1975冒頭に現物写真、37巻 2004, p. 762、福島鋳 2005, p. 152、島内 2010, p. 262
- ^ 伊東静雄「清水文雄宛ての書簡」(昭和21年11月14日付)。松本健一 1990, pp. 156–157
- ^ 「十三 戦後から死まで」(小高根 1971, pp. 313–356)
- ^ 佐藤春夫「林富士馬宛ての書簡」。(光耀 1946年10月・第2輯)。文學大系 1970, p. 463
- ^ 「清水文雄宛ての葉書」(昭和21年11月18日付)。38巻 2004, pp. 607–608
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和21年7月6日付)。川端書簡 2000, pp. 44–45、38巻 2004, p. 255
- ^ 「初対面」(川島 1996, pp. 11–40)
- ^ a b 「会計日記」(昭和21年5月-昭和22年11月)。補巻 2005, pp. 508–630
- ^ a b c 「三島と太宰」(臨時 1971)。「第三章 その出会い」(矢代 1985, pp. 36–50)
- ^ 「会計日記」(昭和21年12月14日付)。補巻 2005, p. 538
- ^ a b c d 「III 三島由紀夫と太宰治の接点」(越次 1983, pp. 141–172)
- ^ a b c d e 「練馬の一夜」(野原 1980, pp. 47–54)。日録 1996, pp. 93–95
- ^ a b c 「三島由紀夫氏の思い出」(ユリイカ 1976, pp. 202–205)。「第八章」(中村稔 2008, pp. 170–200)
- ^ a b 高原紀一「三島由紀夫の知られざる秘密――太宰治との一夜」(問題小説 1971年2月号)。越次 1983, p. 163
- ^ a b 「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付)。川端書簡 2000, pp. 54–57、38巻 2004, pp. 261–264
- ^ 「跋」(『岬にての物語』 桜井書店、1947年11月)。26巻 2003, pp. 628–630
- ^ 「会計日記」(昭和22年6月27日付)。補巻 2005, p. 589
- ^ a b c d e 「林房雄論」(新潮 1963年2月号)。『林房雄論』(新潮社、1963年8月)。32巻 2003, pp. 337–402
- ^ 「会計日記」(昭和22年7月3日)。補巻 2005, p. 590
- ^ 「会計日記」(昭和22年7月11日付)。補巻 2005, p. 591
- ^ 「会計日記」(昭和22年7月15日付)。補巻 2005, pp. 591–592
- ^ 「会計日記」(昭和22年7月17日付)。補巻 2005, p. 592
- ^ a b 「川端康成宛ての書簡」(昭和22年7月17日付)。川端書簡 2000, pp. 50–53、38巻 2004, pp. 258–261
- ^ a b c d e 「第三章」(年表 1990, pp. 53–82)
- ^ 「あとがき」(『三島由紀夫短篇全集2 夜の仕度』講談社、1965年2月)。33巻 2003, pp. 406–407
- ^ 「I 青春――失われたものへの復讐」(村松剛 1990, pp. 98–119)
- ^ 林房雄「文芸日評」(新夕刊 1947年2月-10月)。林房雄『我が毒舌』(銀座出版社、1947年12月)。事典 2000, pp. 394
- ^ 「会計日記」(昭和22年9月13日付)。補巻 2005, pp. 606–607
- ^ 高見順・中島健蔵・豊島与志雄「創作合評」(群像 1947年11月号)。読本 1983, p. 288
- ^ 小久保実「主要参考文献の展望」(読本 1983, pp. 288–295)
- ^ a b 「林房雄宛ての書簡」(昭和22年11月4日付)。38巻 2004, pp. 773–776、太陽 2010, pp. 42–43
- ^ 「年譜」(昭和22年12月13日)(42巻 2005, p. 158)
- ^ a b c d e 和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」(18巻 2002月報)
- ^ a b 福田赳夫との対談「負けるが勝ち」(自由 1968年7月号)pp.116-127。サムライ 1996, pp. 171–204
- ^ a b c 長岡實「大蔵事務官平岡公威君」(臨時 1971)。年表 1990, pp. 63、42巻 2005, pp. 158–159
- ^ a b 「林房雄宛ての書簡」(昭和23年2月21日付)。38巻 2004, pp. 783–786
- ^ a b c d e f g 吉田満「ニューヨークの三島由紀夫」(俳句とエッセイ 1976年11月号)、下巻 1986, pp. 330–338、戦中派 1980, pp. 251–258
- ^ a b 「第二章 美神の宇宙」内(生涯 1998, p. 129)
- ^ a b 「蔵相就任の想ひ出――ボクは大蔵大臣」(明窓 1953年4月・5月)。28巻 2003, pp. 73–76
- ^ 「清水基吉宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)。38巻 2004, p. 643
- ^ 「口もとにうかぶ微笑」(野原 1980, pp. 176–196)
- ^ a b c d 坂本一亀「『仮面の告白』のこと」(現代の眼 1965年4月号。文藝 1971年2月号に再掲載)。新読本 1990, pp. 42–46
- ^ 遠藤伸治「大蔵省」(事典 2000, pp. 470–471)
- ^ 清田文武「日曜日【成立】」(事典 2000, pp. 269–270)
- ^ a b c 埴谷雄高「三島由紀夫」(新潮 1956年12月号)。『鞭と独楽』(未来社、1957年。新装版1961年8月)、エスプリ 1971, pp. 198–202、読本 1983, pp. 10–13、群像18 1990, pp. 69–74
- ^ 越次俱子「序曲」(旧事典 1976, p. 204)
- ^ a b 「坂本一亀への書簡」(昭和23年11月2日付)。38巻 2004, pp. 507–508
- ^ a b c d e f g 「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
- ^ 天野知幸「火宅【研究】」(事典 2000, pp. 66)
- ^ 「岸田国士先生」(東京タイムズ 1954年3月6日号)。28巻 2003, pp. 252–253
- ^ 「年譜」(昭和24年4月24日)(42巻 2005, p. 164)
- ^ a b c 武田泰淳「三島由紀夫氏の死ののちに」(中央公論 1971年1月号)。川西政明編『評論集 滅亡について 他三十篇』(岩波文庫、1992年6月)、読本 1983, pp. 49–53、群像18 1990, pp. 251–258
- ^ a b c d 「『仮面の告白』ノート」(『仮面の告白』月報 河出書房、1949年7月)。27巻 2003, pp. 190–191
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和23年11月2日付)。川端書簡 2000, pp. 59–61、38巻 2004, pp. 264–266
- ^ 松本徹「仮面の告白【反響】」(事典 2000, p. 70)
- ^ 「第三回 性の自己決定」(松本徹 2010, pp. 36–49)
- ^ 「あとがき――『愛の渇き』」(『三島由紀夫作品集2』新潮社、1953年8月)。28巻 2003, pp. 100–103
- ^ 「あとがき――『青の時代』」(『三島由紀夫作品集2』新潮社、1953年8月)。28巻 2003, pp. 103–106
- ^ 「『禁色』」(奥野 2000, pp. 254–279)
- ^ 高橋智子「鉢の木会」(事典 2000, pp. 562–563)
- ^ a b c d e f g h i j k l 「第三章 問題性の高い作家」(佐藤 2006, pp. 73–109)
- ^ a b 「第六章 その初演出」(矢代 1985, pp. 82–98)
- ^ 「『禁色』は廿代の総決算」(図書新聞 1951年12月17日号)。27巻 2003, pp. 474–476
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和25年3月18日付)。川端書簡 2000, pp. 65–66、38巻 2004, pp. 266–267
- ^ a b 「第五回 多面体としての性」(松本徹 2010, pp. 63–75)
- ^ a b c 『アポロの杯』(朝日新聞社、1952年10月)。27巻 2003, pp. 507–641
- ^ 「あとがき――『真夏の死』」(『三島由紀夫作品集4』新潮社、1953年11月)。28巻 2003, pp. 110–112
- ^ 「年譜」(昭和42年5月1日)(42巻 2005, pp. 289–290)
- ^ 「『潮騒』のこと」(婦人公論 1956年9月号)pp.27-35。29巻 2003, pp. 280–281
- ^ a b 「『潮騒』執筆のころ」(潮1965年7月号)pp.166-170。33巻 2003, pp. 478–480
- ^ a b c 「神島の思ひ出」(しま6号 1955年4月)pp.26-27。28巻 2003, pp. 455–457
- ^ 「あとがき」(『ラディゲの死』新潮社、1955年7月)。28巻 2003, pp. 497–498
- ^ 「解説」(『花ざかりの森・憂国――自選短編集』新潮文庫、1968年9月)。35巻 2003, pp. 172–176
- ^ a b 虫明亜呂無「『潮騒』『沈める滝』をめぐって」(『三島由紀夫全集9』月報〈同時代評から2〉1973年6月)。生涯 1998, p. 167
- ^ a b c d e 「実感的スポーツ論」(読売新聞 1964年10月5日-6日、9日-10日、12日号)。33巻 2003, pp. 157–170
- ^ 「作家の日記」(小説新潮 1955年7月号)p.59。28巻 2003, pp. 501–503
- ^ 「ゴジラの卵――余技・余暇」(中央公論 1955年12月号)。28巻 2003, p. 667
- ^ 「第1章 肉体の飢渇」(山内 2014, pp. 12–51)
- ^ a b c 「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」(文學界 1956年8月)pp.39-42。29巻 2003, pp. 241–247
- ^ a b 「第七回 美の呪縛」(松本徹 2010, pp. 90–103)
- ^ 「陶酔について」(新潮 1956年11月号)pp.66-69。29巻 2003, pp. 304–311
- ^ a b c 「私の健康」(週刊朝日 1962年7月27日号)pp.48-49。32巻 2003, p. 94
- ^ a b c d e 「裸体と衣裳――日記」(新潮 1958年4月号-1959年9月号)。30巻 2003, pp. 77–240
- ^ 「『金閣寺』の狂気と成功」(奥野 2000, pp. 317–355)
- ^ a b c d e 「十一 瑤子夫人とUFOを目撃」(岡山 2014, pp. 71–74)
- ^ 「わが人生の時の人々――第4回 三島由紀夫という存在」(文藝春秋 2000年6月号)。石原 2002, pp. 95–122
- ^ 「私のすぽーつ・セカンドウインド」(毎日新聞 1957年6月16日号)。29巻 2003, pp. 588–590
- ^ 「第4章 ボクシング――血の優雅」(山内 2014, pp. 134–211)
- ^ a b ”日本文化をハザマで考える/第12回 馬にまたがる三島由紀夫”毎日新聞(2019/10/01)
- ^ 松本徹「問いつづける声」(新読本 1990, pp. 6–19)
- ^ a b c d e 「第四章 時計と日本刀」(猪瀬 1999, pp. 321–449)
- ^ 「第六章 『和漢朗詠集』の一句」(徳岡 1999, pp. 133–156)
- ^ 「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」(週刊新潮 2009年4月2日号)。岡山 2014, p. 31
- ^ 「18 人の心」(村上 2010, pp. 109–114)
- ^ a b c 「III 死の栄光――二つの事件――脅迫と告訴」(村松剛 1990, pp. 305–324)
- ^ a b 「第八回 時代と向き合う『鏡子の家』」(松本徹 2010, pp. 104–117)
- ^ a b 『旅の絵本』(講談社、1958年3月)。29巻 2003, pp. 651–764
- ^ a b 「24 一九五七年夏、ニューヨークの三島由紀夫」(キーン 2007, pp. 184–190)
- ^ 「第三章 薔薇の痙攣」内(生涯 1998, pp. 187–188)
- ^ a b 「作中人物への傾斜」(ポリタイア 1973年10月号)。小島 1996, pp. 81–126
- ^ 「私の見合結婚」(主婦の友 1958年7月号)。30巻 2003, pp. 313–319
- ^ 「小高根二郎宛ての葉書」(昭和34年8月7日付)。38巻 2004, p. 220
- ^ a b c d e f g 「第五章」(年表 1990, pp. 117–160)
- ^ 「『鏡子の家』そこで私が書いたもの」(「鏡子の家」広告用ちらし、1959年8月)。31巻 2003, p. 242
- ^ 「『鏡子の家』――わたしの好きなわたしの小説」(毎日新聞 1967年1月3日号)。34巻 2003, pp. 292–293
- ^ 「『鏡子の家』の不思議」(奥野 2000, pp. 357–369)
- ^ 阿川弘之からGeorge H. Lynchまでの書簡・葉書(38巻 2004, pp. 33–948)
- ^ 浅野晃から平岡紀子までの書簡・葉書(補巻 2005, pp. 198–235)
- ^ 犬塚潔「三島由紀夫の名刺」(三島研究の6『三島由紀夫・金閣寺』(2008年7月)pp.166-171)
- ^ 「第五章 『鏡子の家』の時代」内(年表 1990, p. 131)
- ^ 「第三章 薔薇の痙攣」内(生涯 1998, p. 198)
- ^ 「年譜」(昭和34年5月10日)(42巻 2005, p. 231)
- ^ 住居表示旧新・新旧対照表 6の2(昭和40年11月15日施行)(国立国会図書館 Online)p.300
- ^ 川端書簡 2000, pp. 152–171
- ^ 「年譜」(昭和34年5月-6月)(42巻 2005, pp. 231–233)
- ^ 「一つの政治的意見」(毎日新聞 1960年6月25日号)。31巻 2003, pp. 433–436
- ^ 佐伯彰一・山本健吉・平野謙・江藤淳・臼井吉見の座談会「1959年の文壇総決算」(文學界 1959年12月号)。村松剛 1990, pp. 279–280、猪瀬 1999, pp. 346–347
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和34年12月18日付)。川端書簡 2000, pp. 142–143、38巻 2004, pp. 291–292
- ^ a b c d 大島渚との対談(司会:小川徹)「ファシストか革命家か」(映画芸術 No.244 1968年1月号)pp.23-24。39巻 2004, pp. 729–760
- ^ a b c d 「第四章 著名人の時代」(佐藤 2006, pp. 110–143)
- ^ a b c 「私はいかにして日本の作家となつたか」(日本外国特派員協会 1966年4月18日)。没後20 1990, pp. 88–98、41巻 2004
- ^ a b 「第四章」(梓 1996, pp. 103–164)
- ^ 「『風流夢譚』の推薦者ではない――三島由紀夫氏の声明」(週刊新潮 1961年2月27日号)p.15。31巻 2003, pp. 534–535
- ^ a b c 「第六部 三島由紀夫と六〇年安保」(ネイスン 2000, pp. 207–263)
- ^ 「第3章 肉体のゆくえ」(山内 2014, pp. 91–133)
- ^ 「不道徳教育講座――自由と恐怖」(週刊明星 1958年7月27日号-1959年11月29日号のうちの1959年7月19日号)pp.16-17。30巻 2003, pp. 546–550
- ^ 「第九回 世界の破滅に抗して」(松本徹 2010, pp. 118–131)
- ^ a b 「第十回 神への裏階段」(松本徹 2010, pp. 132–144)
- ^ a b 「『豊饒の海』について」(毎日新聞夕刊 1969年2月26日号)。35巻 2003, pp. 410–412
- ^ 「夢と人生」(『日本古典文学大系77 篁物語・平中物語・浜松中納言物語』月報 岩波書店、1964年5月)。33巻 2003, pp. 46–48
- ^ a b 「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171–174
- ^ 「秋冬随筆――歓楽果てて…」(こうさい 1964年12月号)。33巻 2003, pp. 134–136
- ^ 「年譜」(昭和39年5月4日)(42巻 2005, p. 264)
- ^ a b c d 「川端康成」(キーン 2005)
- ^ a b c 「34 葬儀委員長川端康成とノーベル文学賞」(キーン 2007, pp. 260–266)
- ^ ノーベル賞と三島、川端の死【ドナルド・キーンの東京下町日記】(東京新聞、2013年10月6日)
- ^ 「三島ノーベル賞目前だった」(読売新聞 2014年1月4日号)。
- ^ a b 大木ひさよ「川端康成とノーベル文学賞:スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料をめぐって」(佛教大学・京都語文 21 2014年11月)pp.42-64
- ^ a b c d e 大木ひさよ「日本人作家とノーベル文学賞:スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料(1958-1969)をめぐって」(佛教大学・京都語文 28 2020年11月)pp. 237-252
- ^ 川端康成 ノーベル文学賞受賞2年前の選考で高評価(2017年1月5日時点のアーカイブ) - NHK News Web、2017年1月3日。
- ^ 特集まるごと「ノーベル文学賞 明らかになる“秘話”」(2015年10月9日時点のアーカイブ) - NHK News Web、2015年3月31日。
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和36年5月30日付)。川端書簡 2000, pp. 150–151、38巻 2004, p. 294
- ^ 三島由紀夫「1961年度ノーベル文学賞に川端康成氏を推薦する」(訳・佐伯彰一)(川端書簡 2000, pp. 238–239)
- ^ 川端康成 ノーベル賞選考で新資料(2013年3月10日時点のアーカイブ) - NHK「かぶん」ブログ・NHK科学文化部、2012年9月4日。
- ^ a b 谷崎潤一郎、58年ノーベル賞候補 三島由紀夫が推薦状」(朝日新聞DIGITAL、2009年9月23日)
- ^ a b c 「製作意図及び経過」(『憂國 映画版』 新潮社、1966年4月)。34巻 2003, pp. 35–64
- ^ a b 藤井浩明「映画『憂国』の歩んだ道」(別巻 2006ブックレット内)
- ^ 「『天人五衰』の尼寺」(悼友 1973, pp. 17–35)
- ^ a b c d e f g h i 「第六章」(年表 1990, pp. 161–218)
- ^ a b c 「第五章 文と武の人」(佐藤 2006, pp. 144–205)
- ^ a b 「序文」(論集I 2006)。36巻 2003, pp. 64–65
- ^ 第1回三島文学シンポジウム(2008年5月12日時点のアーカイブ)
- ^ a b c 「『われら』からの遁走――私の文学」(『われらの文学5 三島由紀夫』講談社 1966年3月)。34巻 2003, pp. 17–27
- ^ 安部公房「“三島美学”の傲慢な挑戦――映画『憂國』のはらむ問題は何か」(週刊読書人 1966年5月2日号)。群像18 1990, pp. 153–155
- ^ 「年譜」(昭和41年5月29日)(42巻 2005, p. 281)
- ^ 「第5章 剣道・居合・空手」(山内 2014, pp. 212–246)
- ^ 「中間者の眼」(三田文学 1968年4月号)。橋川 1998, pp. 74–88
- ^ a b 「清水文雄宛ての書簡」(昭和41年6月10日付)。38巻 2004, p. 618
- ^ 秋山駿との対談「私の文学を語る」(三田文学 1968年4月号)。40巻 2004, pp. 7–42
- ^ 瀬戸内寂聴「奇妙な友情」(群像 1971, pp. 182–188)。佐藤 2006, pp. 173–174
- ^ 「瀬戸内晴美宛ての書簡」(昭和41年5月9日付)。補巻 2005, p. 217
- ^ a b c d e f g 林房雄との対談『対話・日本人論』(番町書房、1966年10月。夏目書房、2002年3月増補再刊)。39巻 2004, pp. 554–682
- ^ 「回想の三輪明神」(悼友 1973, pp. 36–49)
- ^ a b c d 「第四章 憂国の黙契」(生涯 1998, pp. 233–331)
- ^ 名作&風景(1) 三島由紀夫『奔馬』と大神神社 2015年10月18日閲覧
- ^ 「習字の伝承」(婦人生活 1968年1月号)p.172。34巻 2003, pp. 612–614
- ^ a b c 「十九 佩刀『関ノ孫六』の由来」(岡山 2014, pp. 103–108)
- ^ a b c d e f g h i j 「第一章」(梓 1996, pp. 7–30)
- ^ a b 舩坂弘『関ノ孫六――三島由紀夫、その死の秘密』(光文社カッパ・ブックス、1973年)
- ^ a b c 「青年について」(論争ジャーナル 1967年10月号)。34巻 2003, pp. 561–564
- ^ a b 「第十七章」(林 1972, pp. 233–247)
- ^ a b c d 「第二章 ノサップ」(中村彰 2015, pp. 71–136)
- ^ 「年頭の迷ひ」(読売新聞 1967年1月1日号)。34巻 2003, pp. 284–287
- ^ a b c 「奔馬」(新潮 1967年2月号-1968年8月号)。13巻 2001, pp. 397-
- ^ 「IV 行動者――『狂気』の翼」(村松剛 1990, pp. 421–442)
- ^ a b c d 「最後の電話」(ポリタイア 1973年6月号)。小島 1996, pp. 8–24、群像18 1990, pp. 78–88
- ^ a b 「インドの印象」(毎日新聞 1967年10月20日-21日号)。34巻 2003, pp. 585–594
- ^ a b 「第四章 バンコクでの再会」(徳岡 1999, pp. 86–107)
- ^ a b 「『朱雀家の滅亡』の三島由紀夫――著者との対話」(名古屋タイムズ 1967年11月13日号)。24巻 2002解題内
- ^ a b c d 「文化防衛論」(中央公論 1968年7月号)。防衛論 2006, pp. 33–80、35巻 2003, pp. 15–51
- ^ a b 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」(32巻 2003月報)
- ^ a b c d 「第五章」(梓 1996, pp. 165–205)
- ^ 「三輪良雄への書簡」(昭和43年3月18日、4月17日付)。38巻 2004, pp. 927–931
- ^ a b c d 「IV 行動者――集団という橋」(村松剛 1990, pp. 443–468)
- ^ a b 「VI 民防活動の目標模索」(山本 1980, pp. 119–149
- ^ a b c d 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」(39巻 2004月報)
- ^ 高橋新太郎「楯の会」(旧事典 1976, pp. 246–247)
- ^ a b c 「VII 近目標・治安出動に燃える」(山本 1980, pp. 150–175
- ^ 「第四章 邂逅、そして離別」(保阪 2001, pp. 189–240)
- ^ 1968年ニュースハイライト (1968年(昭和43年)12月30日) (YouTube配信). 2021年9月26日. 該当時間: 34m25s. 2021年10月18日閲覧。
- ^ 川端康成 日本人初のノーベル文学賞受賞 三島由紀夫・石原慎太郎もお祝いに(TBSアーカイブ) - YouTube
- ^ 「川端康成氏にノーベル文学賞」(毎日新聞 1968年10月18日号)。三枝 1961、アルバム 1983, p. 93
- ^ 井上隆史「豊饒の海【反響】」(事典 2000, pp. 337–339)
- ^ 「若きサムラヒのために――政治について」(PocketパンチOh! 1969年5月号)。サムライ 1996, pp. 19–23、35巻 2003, pp. 58–60
- ^ a b c d e 『討論・三島由紀夫vs.東大全共闘―〈美と共同体と東大闘争〉』(新潮社、1969年6月)。40巻 2004, pp. 442–506
- ^ 仲代達矢「時代の証言者〈役者の条件20〉――三島由紀夫 肉体の美学」(読売新聞 2015年6月29日号)
- ^ a b 「VIII 遠・近目標混淆のなかで」(山本 1980, pp. 176–205
- ^ a b c 「小説とは何か 十一」(波 1970年5・6月号)。34巻 2003, pp. 737–742
- ^ a b 「第七章 神々の黄昏――『暁の寺』と国際反戦デー」(井上隆 2010, pp. 180–189)
- ^ a b c d 「檄」(市ヶ谷駐屯地にて撒布 1970年11月25日)。36巻 2003, pp. 402–406
- ^ a b 「川端康成宛ての書簡」(昭和44年8月4日付)。川端書簡 2000, pp. 196–200、38巻 2004, pp. 306–309
- ^ 「第一章 その死をめぐって」(松本健一 1990, pp. 7–58)
- ^ 「小高根二郎宛ての書簡」(昭和43年11月8日付)。38巻 2004, pp. 221–222
- ^ 「年譜」(昭和44年11月3日)。42巻 2005, pp. 313–314
- ^ 「三島の死と川端康成」(新潮 1990年12月号)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 三島の死と川端康成」(村松剛 1994, pp. 9–29)
- ^ a b c 「『英霊の声』の呪詛と『荒野より』の冷静」(奥野 2000, pp. 391–420)
- ^ a b 「三島由紀夫の手紙」(坊城 1971)
- ^ 「ドナルド・キーン宛ての書簡」(昭和45年2月27日付)。38巻 2004, pp. 447–449
- ^ a b 「独楽」(辺境 1970年9月号)pp.89-91。36巻 2003, pp. 311–315
- ^ 「狂気にあらず ■第十二回公判」(裁判 1972, pp. 215–220)
- ^ 「X 決起の黙契軋み出す」(山本 1980, pp. 223–242
- ^ a b 「国会を占拠せよ ■第二回公判」(裁判 1972, pp. 59–82)
- ^ 「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞夕刊 1970年7月7日号)。防衛論 2006, pp. 369–373、36巻 2003, pp. 212–215
- ^ a b 「山本舜勝宛ての書簡」(昭和45年8月10日付)。38巻 2004, pp. 946–947
- ^ 「川端康成宛ての書簡」(昭和45年7月6日付)。川端書簡 2000, pp. 203–204、38巻 2004, pp. 309–310
- ^ a b c 「プロローグ――個人的な記憶」(ストークス 1985, pp. 3–30)
- ^ ドナルド・リチー「三島の思い出――最後の真の侍――」(9巻 2001月報)
- ^ 「知られざる家庭人・三島由紀夫」(女性自身 1970年12月12日号)。
- ^ 「第一章 哲学者の三島由紀夫論――7 三島事件の謎をめぐって」(伊藤 2006, pp. 50–57)
- ^ a b 中山仁「三島戯曲を演じる」(英霊の聲・8三島研究2009年pp.123-148)。「三島戯曲の舞台」として同時代 2011, pp. 303–340
- ^ a b c d 「夏のある日」(村松英 2007, pp. 112–123)
- ^ a b c 「第六章」(梓 1996, pp. 206–232)
- ^ a b 「清水文雄宛ての書簡」(昭和45年11月17日付)。38巻 2004, pp. 628–630
- ^ 辻井喬「三島由紀夫の復権」(3巻 2001月報)
- ^ 藤井浩明「私の勲章」(4巻 2001月報)
- ^ a b 横尾忠則『死の向こうへ』(光文社知恵の森文庫、2008年11月)
- ^ a b c 横尾忠則「三島由紀夫氏のこと」(『横尾忠則 画境の本懐(道の手帳)』河出書房新社、2008年3月)
- ^ 「あの世からでも来るか」おかみ、三島の一言胸に―「最後の晩餐」は鳥鍋 時事通信(2020年11月24日)2020年12月30日閲覧
- ^ "「死を恐れるのは人間の本能です」10年前、立花隆が"最後のゼミ生"に伝えていたメッセージ". 文春オンライン. 2021年6月24日. 2021年7月24日閲覧。
- ^ 「第八章 〈神〉となるための決起」(柴田 2012, pp. 231–267)
- ^ 林・伊沢 1971
- ^ 「第10章 虚無の極北の小説――十一月二十五日」(井上隆 2010, pp. 245–250)
- ^ 川端康成「三島由紀夫」(臨時 1971)。群像18 1990, pp. 229–231
- ^ 川端康成(週刊サンケイ 1970年12月31号)。保阪 2001, p. 86
- ^ a b 辻井喬「辛すぎた四十五年の生涯」中条・続 2005, pp. 55–102
- ^ a b c 斎藤銀次郎教授「慶応大学病院法医学部 解剖所見」(1970年11月26日)。日録 1996, p. 423
- ^ 「没後」(日録 1996, pp. 423–426)
- ^ 「関の孫六の刃こぼれ ■第八回公判」(裁判 1972, pp. 151–156)
- ^ 武田泰淳(週刊現代 1970年12月12日号)。年表 1990, pp. 230–231、保阪 2001, p. 86
- ^ 村松友視『夢の始末書』(角川書店、1984年8月)
- ^ 「武人としての死 ■第九回公判」(裁判 1972, pp. 157–196)
- ^ a b 「『風流夢譚』事件」(奥野 2000, pp. 370–379)
- ^ 「第六章 三島由紀夫の遺言状」(小室 1985, pp. 199–230)
- ^ a b c d e f g 「第八章」(年表 1990, pp. 229–245)
- ^ 「33 三島由紀夫の自決」(キーン 2007, pp. 251–259)
- ^ 「国を思う純粋な心に ■第五回公判」(裁判 1972, pp. 109–116)
- ^ a b 川端香男里・佐伯彰一の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫」(川端書簡 2000, pp. 205–237後記)
- ^ 西法太郎「三島由紀夫と川端康成(補遺2)」(三島由紀夫の総合研究、2012年4月17日・通巻第636号)
- ^ 「第四章 その時、そしてこれから」(火群 2005, pp. 111–188)
- ^ 隠し文学館 花ざかりの森
- ^ 「昭和46年」(日録 1996, pp. 427–432)
- ^ 「年譜 昭和46年」42巻 2005, pp. 334–338
- ^ a b 「あとがき」(山本 1980, pp. 290–298)
- ^ 「昭和58年」(日録 1996, pp. 446–447)
- ^ 「年譜 平成3年」42巻 2005, pp. 358–359
- ^ a b c d 「日本とは何か」(大蔵省百年記念講演 1969年10月15日。文藝春秋 1985年12月号)。35巻 2003, pp. 678–701
- ^ 「他者の言説――中上健次と三島由紀夫/あるいはオリュウノオバと本多邦繁」(愛知短期大学 国語国文 1995年3月号)。青海 2000, pp. 264–277
- ^ 武田勝彦「谷崎潤一郎」(旧事典 1976, p. 249)
- ^ 小林秀雄(三島由紀夫との対談)「美のかたち――『金閣寺』をめぐって」(文藝 1957年1月号)。39巻 2004, pp. 277–297
- ^ 神谷忠孝「横光利一」(旧事典 1976, pp. 440–441)
- ^ a b c d 「新版への序文」(ネイスン 2000)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 「表層への回帰――三島由紀夫論」(象 1991年8月・第10号-14号)。青海 2000, pp. 9–57
- ^ a b c d 『小説家の休暇』(講談社 1955年11月)。28巻 2003, pp. 553–656
- ^ a b c 「芸術にエロスは必要か」(文藝 1955年6月号)pp.88-90。28巻 2003, pp. 481–485
- ^ a b c d e f 「古今集と新古今集」(国文学攷 1967年3月号)pp.60-68。34巻 2003, pp. 335–347
- ^ 蓮田善明「鴨長明」(文藝文化 1941年4月号-12月号〈7月号は除く〉)。『鴨長明』(八雲書林、1943年9月)
- ^ a b c 「第七章 自決の朝」(島内 2010, pp. 299–326)
- ^ 山田宗睦『危険な思想家』(光文社カッパブックス、1965年3月)。年表 1990, pp. 170
- ^ a b 「第一章『白馬の騎士』の主題」「第二章 終末感の美学」(野口 1968, pp. 7–62)
- ^ a b 「小説とは何か 七」(波 1969年9・10月号)。34巻 2003, pp. 715–721
- ^ a b 「三島由紀夫とニーチェ――悲劇的文化とイロニー」(群像 1988年6月号)。青海 1992, pp. 9–67
- ^ 「VI『太陽と鉄』」、「その死の場合」から「あとがき」(田坂 1977, pp. 243–327)
- ^ 「蘭陵王」(群像 1969年11月号)pp.6-11。20巻 2002, pp. 561–571
- ^ 「序」(小高根 1970)。36巻 2003, pp. 60–63
- ^ 「大団円『豊饒の海』」(奥野 2000, pp. 421–450)
- ^ 井上隆史「豊饒の海【研究】」(事典 2000, pp. 339–345)
- ^ a b c d 井上隆史「紙上映画『世界の驚異』」(太陽 2010, pp. 16–17)
- ^ a b c 「わが魅せられたるもの」(新女苑 1956年4月)。29巻 2003, pp. 179–187
- ^ a b 松本徹「書くことが生きることと密接につながっていた」(太陽 2010, pp. 136–139)
- ^ a b 川端康成「序」(『盗賊』真光社、1948年11月)。28巻 2003, pp. 95–97、松本徹 2010, pp. 33–34、太陽 2010, pp. 40–41
- ^ a b 「ハロルド・クラーマン氏を紹介されて」(村松英 2007, pp. 35–48)
- ^ a b 荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」(スクリーン 1956年9月号)。映画論 1999, pp. 157–173
- ^ 中村光夫との対談「対談・人間と文学――告白の形式」(講談社、1968年4月)。40巻 2004, pp. 87–88
- ^ a b 「戯曲を書きたがる小説書きのノート」(日本演劇 1949年10月号)pp.14-18。27巻 2003, pp. 222–229
- ^ 「同人雑記」(聲 1960年10月・第8号)p.200。30巻 2003, pp. 662–668
- ^ a b 中村光夫「『金閣寺』について」(文藝 1956年12月号)。新潮文庫版『金閣寺』解説(1960年9月)。『中村光夫全集第8巻』(筑摩書房、1972年)、群像18 1990, pp. 131–141
- ^ a b c d e f g h i j 「問題提起 (一)新憲法における『日本』の欠落」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年5月)。36巻 2003, pp. 118–128
- ^ a b c d e f g h i j k 「問題提起 (二)戦争の放棄」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年7月)。36巻 2003, pp. 128–132
- ^ a b c d e 「『変革の思想』とは――道理の実現」(読売新聞夕刊 1970年1月19・21・22日号)。36巻 2003, pp. 30–38、夢ムック 2012
- ^ a b c 三島由紀夫 自決9カ月前の肉声…TBSに録音テープ(毎日新聞、2017年1月12日)
- ^ 三島由紀夫「平和憲法は偽善。憲法は、日本人に死ねと言っている」TBSが未公開テープの一部を公開・放送(産経ニュース、2017年1月12日)
- ^ a b c d e f 「新発見 自決九ヵ月前の未公開インタビュー――三島由紀夫 素顔の告白」(群像 2017, pp. 119–137)
- ^ a b c 「三島由紀夫未公開インタビュー」(告白 2017, pp. 5–74)
- ^ a b c d e 「自衛隊二分論」(20世紀 1969年4月号)。35巻 2003, pp. 434–446
- ^ a b c d e 「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」(茨城大学講堂 1968年11月16日)。防衛論 2006, pp. 299–360、40巻 2004, pp. 271–307
- ^ 「武士道と軍国主義」(1970年7月。PLAYBOY 1978年8月号)。36巻 2003, pp. 247–266
- ^ a b c d e f g h i j k 「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」(一橋大学小平校舎 1968年6月16日)。防衛論 2006, pp. 181–231、40巻 2004, pp. 204–232
- ^ a b c 林房雄との対談「現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし」(流動 1969年12月号)pp.234-245。40巻 2004, pp. 567–583
- ^ a b 「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」(ニューヨーク・タイムズ 1969年11月29日号)。35巻 2003, pp. 740–743
- ^ a b 鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」(週刊プレイボーイ 1969年7月8日号)。40巻 2004, pp. 507–515
- ^ 1969年、カナダのテレビ局による、三島由紀夫の貴重なインタビュー - YouTube
- ^ a b c 西尾幹二「三島由紀夫の死と日本の核武装」(WILL 2011年2月号)西尾幹二のインターネット日録 「三島由紀夫の自決と日本の核武装(その五)」
- ^ a b 石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」(文學界 1968年9月)pp.178-191。40巻 2004, pp. 323–342
- ^ a b c 石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」(論争ジャーナル 1968年2月号)。中公編集 2010, pp. 104–124、石原対話 2020, pp. 56–105
- ^ a b 「私の聞いて欲しいこと」(済寧 1970年6月号 皇宮警察創立84周年記念講演 1970年5月28日)。36巻 2003, pp. 141–163
- ^ a b c 「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」(文藝 1967年3月号)pp.276-288。34巻 2003, pp. 348–371、防衛論 2006, pp. 87–118
- ^ 「英霊の聲」(文藝 1966年6月号)pp.10-38。『英霊の聲』(河出書房新社、1966年6月)、20巻 2002, pp. 463–516
- ^ 「三島由紀夫氏の“人間天皇”批判――小説「英霊の聲」が投げた波紋」(サンデー毎日 1966年6月5日号)pp.28-31。34巻 2003, pp. 126–129
- ^ a b c d e 福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル 1967年11月号)pp.4-19。サムライ 1996, pp. 205–266、持丸 2010、39巻 2004, pp. 696–728
- ^ a b c 「昭和廿年八月の記念に」(昭和20年8月19日付。新潮 1979年3月号)。26巻 2003, pp. 551–559
- ^ a b 磯田光一・島田雅彦「模造文化の時代」(新潮 1986年8月号)。生涯 1998, p. 308
- ^ 「第二章 たった一度の思考的対決――三島由紀夫と福田恆存」(持丸 2010, pp. 25–74)
- ^ 「終章 畏るべき天皇」(松本健一 2005, pp. 194–206)、『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社、2007年12月)
- ^ 原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年1月)
- ^ 「『女帝』を認めた三島の真意」(鈴木邦 2010)
- ^ a b c d e 篠原裕「三島由紀夫は『女系天皇』を『容認』していたか?」(三島研究の21『三島由紀夫『作家論』』(2021年4月)pp=91-104)
- ^ a b 「三島は女系天皇をみとめていなかった――男系天皇論者であることは、三島の作品を読んで、その男女観からも明らか」(三島由紀夫の総合研究、2012年6月24日・通巻第662号)
- ^ a b c 「付章」(松藤 2007, pp. 191–238)
- ^ 高橋新太郎「特攻隊」旧事典 1976, p. 283
- ^ 「栄誉の絆でつなげ菊と刀」(日本人及日本人 1968年9月・10月合併号)。35巻 2003, pp. 188–199
- ^ 「お茶漬ナショナリズム」(文藝春秋 1966年4月号)pp.94-100。サムライ 1996, pp. 101–118、34巻 2003, pp. 69–80
- ^ a b c 「『青春監獄』の序」(宮崎清隆『青春監獄』 東京ライフ社、1955年9月)。28巻 2003, pp. 532–534
- ^ a b c d 「愛国心――官製のいやなことば」(朝日新聞夕刊 1968年1月8日号)。34巻 2003, pp. 648–651
- ^ a b 「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付)。十代 2002, pp. 169–172、38巻 2004, pp. 151–153
- ^ 「革命哲学としての陽明学」(諸君! 1970年9月号)pp.22-45。行動学 1974, pp. 189–228、36巻 2003, pp. 277–310
- ^ a b c 「反革命宣言」(論争ジャーナル 1969年2月号)。35巻 2003, pp. 389–405、防衛論 2006, pp. 9–31
- ^ a b c 「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」(早稲田大学大隈講堂 1968年10月3日)。防衛論 2006, pp. 232–298、40巻 2004, pp. 232–271
- ^ a b 小汀利得との対談「放談・天に代わりて」(言論人 1968年7月16日)。40巻 2004, pp. 308–322
- ^ a b c d e f g h i j k のち『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』(日本教文社、1970年9月。1986年4月再刊)所収
- ^ a b c 「不道徳教育講座――暗殺について」(週刊明星 1958年7月27日号-1959年11月29日号のうちの1959年8月2日号)pp.16-17。30巻 2003, pp. 555–559
- ^ 武田勝彦「美」(旧事典 1976, p. 329)
- ^ a b 高橋重臣「死」(旧事典 1976, pp. 174–175)
- ^ 松本道介「小説家の休暇」(事典 2000, pp. 179–180)
- ^ 上田真「小説家の休暇」(旧事典 1976, pp. 200–201)
- ^ a b c d e 「日本の歴史と文化と伝統に立つて」(東京都学生自治体・関東学生自治体連絡協議会主催の講演 1968年12月1日) 。35巻 2003, pp. 306–318
- ^ a b c あの人 2008, pp. 13–24。DVD『NHK映像ファイル「あの人に会いたい」3』(NHKエンタープライズ・ポニーキャニオン、2008年)
- ^ a b 「日本への信条」(愛媛新聞 1967年1月1日号)。34巻 2003, pp. 288–291
- ^ 「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」(文芸朝日 1964年7月号)。33巻 2003, pp. 96–101
- ^ a b c 「発射塔 古典現代語訳絶対反対」(読売新聞夕刊コラム 1960年7月6日 - 10月26日号のうちの8月31日号)。31巻 2003, pp. 461–462
- ^ 島崎 1972
- ^ a b c d 「劇画における若者論」サンデー毎日 1970年2月1日号)pp.56-57。36巻 2003, pp. 53–56
- ^ 「わが漫画」(漫画読売 1956年3月5日号)。29巻 2003, pp. 166–169
- ^ a b 大野茂『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』(光文社新書、2009年4月)
- ^ 「現代日本100人の生活と意見」(文藝春秋 1967年4月号)pp.94-130。36巻 2003, p. 646
- ^ 輝ける先輩達 第1回戦後大衆文化の旗手(NO.1) ゴジラ(神)を放った男 映画プロデューサー田中友幸(中32回)(2014年11月29日時点のアーカイブ)(大阪府立八尾高等学校同窓会公式サイト)
- ^ 「第三章 スーパースター第一号誕生!」(椎根 2012, pp. 145–176)
- ^ 唐沢俊一『新・UFO入門』(幻冬舎新書、2007年5月)p.99
- ^ 「社会料理三島亭――宇宙食『空飛ぶ円盤』」(婦人倶楽部 1960年9月号)。31巻 2003, pp. 359–363
- ^ 「一S・Fファンのわがままな希望」(宇宙塵 1963年9月・第71号)。32巻 2003, pp. 582–583
- ^ 「小説とは何か 十」(波 1970年3・4月号)。34巻 2003, pp. 732–737
- ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)
- ^ コラム|東映任侠映画 | 合同通信オンライン楠木建 (2012年9月11日). "楠木建の「戦略読書日記」【第22回】 『映画はやくざなり』(1)". PRESIDENT Online. プレジデント社. 2012年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月21日閲覧。
- ^ a b c 笠原和夫『映画はやくざなり』新潮社、2003年、45頁。ISBN 978-4104609017。笠原和夫『鎧を着ている男たち』徳間書店、1987年、160-168頁。
- ^ a b 山平重樹『任侠映画が青春だった』徳間書店、2004年、9頁。ISBN 9784198617974。山平重樹『高倉健と任侠映画』徳間書店、2015年、11-12頁。ISBN 9784199070280。
- ^ 「扮装狂」(1944年8月。10月の回覧学芸冊子『曼荼羅』創刊号に掲載予定だった随筆)。没後30 2000, pp. 68–73。26巻 2003, pp. 445–453
- ^ 「平岡紀子宛ての葉書」(昭和35年11月11日)。補巻 2005, p. 235
- ^ 「終章」(川島 1996, pp. 231–235)
- ^ a b c d 噂 1972。板坂・鈴木 2010, pp. 78–93
- ^ a b c d e 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(三島由紀夫と編集・11三島研究2011年pp.112-127)。岡山・源流 2016, pp. 9–42
- ^ a b 岡山典弘「三島文学に先駆けた橋健行」(三島由紀夫の総合研究、2011年11月11日・通巻第579号)。「第二章 三島由紀夫の先駆――伯父・橋健行の生と死」(岡山・源流 2016, pp. 43–70)
- ^ a b 「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将三島由紀夫氏」(毎日新聞夕刊 1966年3月10日)。34巻 2003, pp. 31–34
- ^ 今村均『今村均回顧録』(芙蓉書房出版、新版1993年)
- ^ a b c 小野繁『平岡家系図解説』(1971年)。越次 1983, pp. 71–140、猪瀬 1999, pp. 113–216
- ^ a b c d e f g 「第二章 祖父・平岡定太郎」(福島鋳 2005, pp. 63–98)
- ^ a b c d e 「本籍地」「平岡家の謎」(板坂 1997, pp. 79–110)
- ^ 仲野羞々子「農民の劣等感―三島由紀夫の虚勢―」(農民文学 第93号1971年2月号)。福島鋳 2005, pp. 67–68、噂 1972
- ^ 礫川全次「厠と排泄の民俗学――補論」(『民俗とナショナリティ』批評社、2004年12月)p.35
- ^ a b c 「序章――鹿鳴館の香水」(村松剛 1990, pp. 28–50)
- ^ 「林房雄宛ての書簡」(昭和44年6月13日付)。38巻 2004, pp. 798–799
- ^ a b c 大屋敦『私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年11月)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)。越次 1983, pp. 101–140、村松剛 1990, p. 19、猪瀬 1999, pp. 140–142
- ^ a b 永井亨『永井亨博士回顧録 思い出話』。越次 1983, pp. 101–140
- ^ 「第二章 映画『人斬り』と三島由紀夫――田中新兵衛と永井尚志」(山内 2011, pp. 56–107
- ^ 「好色」(小説界 1948年7月号)pp.35-43。17巻 2002, pp. 211–230
- ^ a b c d 「特別公開 三島由紀夫未発表原稿・ノート」(没後30 2000, pp. 14–156)
- ^ 高丘卓「解説『人間喜劇』エピソード」(『終わり方の美学』徳間文庫カレッジ、2015年10月)pp.226-235
- ^ a b c d e f g h i j k l m 41巻 2004
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r のち『源泉の感情 三島由紀夫対談集』(河出書房新社、1970年10月)所収。河出文庫で再刊(2006年2月)、収録内容は少し変更している。
- ^ a b のち『夷斎座談 石川淳対談集』(中央公論社、1977年10月、中公文庫(上下)、1981年8月)所収
- ^ 高橋和巳『生涯にわたる阿修羅として』(徳間書店、1970年)所収
- ^ 小島英人「あとがき 発見のこと――燦爛へ」(告白 2017, pp. 177–206)
- ^ a b 「三島の肉声テープ、自らの文学の「欠点」語る」(讀賣新聞、2017年1月12日号・第1面)
- ^ のち読本 1983, pp. 144–166、『源泉の感情 三島由紀夫対談集』(新版・河出文庫、2006年2月)
- ^ 三島由紀夫の幻の写真集「男の死」 米出版(中日新聞 2020年10月19日)
- ^ Yukio Mishima: The Death of a Man
- ^ 「【独自】三島由紀夫が死の直前に企画、幻の写真集刊行へ…「男の死」一冊50万円」(読売新聞 2020年11月11日号)31面
- ^ 「編集協力」(太陽 2010, p. 192)
- ^ 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も(2011年2月30日時点のアーカイブ) - MSN産経ニュース、2010年11月23日。
- ^ 『戦後派作家は語る』(聞き手・古林尚、筑摩書房、1971年)収録するために行われた。
- ^ 浅野晃「虹の門」(臨時 1971, p. 192)
- ^ 浪曼 1975, pp. 32–35
- ^ ゲーメスト編集部編『ゲーメストムック Vol.8――鉄拳 完全解析マニュアル』(新声社、1995年)
- ^ 金子一馬『金子一馬画集 III』(新紀元社、2008年)
- ^ 「第三部 一九七八年――再生のとき〈六月九日 ナパ〉」(コッポラ 2002, pp. 370–372)
- ^ 「第三部 一九七八年 新しい旅立ち〈六月九日 ナパ〉」(コッポラ 1992, pp. 288–289
- ^ 「第三部 一九七八年――再生のとき〈十月十九日 ナパ〉〈十月二九日 ナパ〉」(コッポラ 2002, pp. 381, 387–388)
- ^ 「第三部 一九七八年 新しい旅立ち〈十月十九日 ナパ〉〈十月二九日 ナパ〉」(コッポラ 1992, pp. 296, 302–303
- ^ a b 『ユリイカ 特集 攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(青土社、2005年10月号)pp.46-47
- ^ 「エピローグ “増殖”する三島由紀夫」(岡山 2014, pp. 168–170)
- ^ 松田和彦「肉体で描かれた三島由紀夫へのオマージュ――ベジャールの『M』」(論集III 2001, pp. 241–256)
- ^ 「年譜 昭和45年」(42巻 2005, pp. 315–334)
- ^ a b 芥川瑠璃子「鮮やかに甦るあの頃」(8巻 2001月報)
- ^ 安部公房「前回の最後にかかげておいた応用問題――周辺飛行19」(波 1973年5月号)。『安部公房全集 24 1973.03-1974.02』(新潮社、1999年9月)
- ^ 安部公房「反政治的な、あまりにも反政治的な……」(『三島由紀夫全集33』月報 新潮社、1976年1月)。事典 2000, pp. 443–444
- ^ 「ドナルド・キーン宛ての書簡」(昭和43年9月24日付)。38巻 2004, pp. 440–441
- ^ 安部譲二「解説」(文庫版『複雑な彼』角川文庫、2009年11月)
- ^ a b 村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命」(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号)。40巻 2004, pp. 608–621
- ^ 石原慎太郎「三島由紀夫への弔辞」(週刊現代 1970年12月10日号)。追悼文 1999, pp. 2–3
- ^ a b 石原慎太郎「三島由紀夫の日蝕――その栄光と陶酔の虚構」(没後20 1990, pp. 116–181)。石原 1991
- ^ 石原慎太郎「今、蘇る危うい予告」(太陽 2010, p. 167)
- ^ 石原慎太郎「没後50年 三島由紀夫と私―文学の天才 肉体に劣等感 闊達な論客『知的刺激受けた』」(産経新聞、2020年11月5日号)17面
- ^ 柳瀬善治「磯田光一」(事典 2000, pp. 449–451)
- ^ 「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死」(文學界 1971年3月号)。磯田 1979, pp. 434–445
- ^ 「伊東静雄全集推薦の辞」(果樹園 1960年10月号)。31巻 2003, p. 496
- ^ 桶谷秀昭「三島由紀夫『春の雪』」(日本経済新聞 1969年1月12日号)。福島鋳 2005, p. 129、小高根 1971, p. 281
- ^ 「清水文雄宛ての書簡」(昭和17年7月23日付)。38巻 2004, pp. 557–560
- ^ 「雷蔵丈のこと」(日生劇場プログラム 1964年1月)。32巻 2003, pp. 653–654
- ^ 梅田晴夫「紅茶の〈はしご〉」(『三島由紀夫全集20』月報 新潮社、1975年2月)。新読本 1990, pp. 38–39
- ^ a b 「第六章 ベナレス」(宮崎 2006, pp. 85–99)
- ^ 遠藤周作(朝日新聞夕刊 1970年11月25日号)。井上豊 2006, p. 113
- ^ 「資料編」(憂国忌 2010, pp. 261–304)
- ^ a b 柴田勝二「大江健三郎」(事典 2000, pp. 468–467)
- ^ 大江健三郎との対談「現代作家はかく考える」(群像 1964年9月号)。39巻 2004, pp. 425–448
- ^ a b 「すばらしい技倆、しかし…―大江健三郎氏の書下し『個人的な体験』」(週刊読書人 1964年9月14日号)。33巻 2003, pp. 120–122
- ^ 神谷忠孝「大江健三郎」(旧事典 1976, p. 61)
- ^ 「澁澤龍彦宛ての書簡」(昭和42年12月25日付)。38巻 2004, pp. 535–536
- ^ イルメラ・日地谷・キルシュネライト「世界の文学と三島」(日地谷 2010, pp. 125–152)
- ^ 「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」(裁判 1972, pp. 123–150)
- ^ 「加藤道夫氏のこと」(毎日マンスリー 1955年9月号)。28巻 2003, pp. 535–537
- ^ 「楽屋で書かれた演劇論」(芸術新潮 1957年1月号)pp.176-183。29巻 2003, pp. 417–431
- ^ 「第十四章 その鎮魂」(矢代 1985, pp. 211–228)
- ^ 「昭和28年12月28日」(日録 1996, p. 163)
- ^ 「天狗道」(文學界 1964年7月号)pp.10-11。33巻 2003, pp. 92–95
- ^ a b 川端秀子「続・川端康成の思い出(二)」(川端補巻2 1984月報)
- ^ 今東光「本当の自殺をした男」(文藝春秋 1972年6月号)
- ^ 「第五章 自決の背景」(小室 1985, pp. 121–198)
- ^ 「三十二 三島の霊と話をしていた川端康成」(岡山 2014, pp. 159–163)
- ^ 猪瀬直樹・岸田今日子との対話「25周年 最後の秘話」(オール讀物 1995年12月号)。猪瀬 2001, pp. 402–416
- ^ 「八 岸田今日子の半裸の『サロメ』」(岡山 2014, pp. 52–58)
- ^ 「空飛ぶ円盤と人間通――北村小松氏追悼」(朝日新聞 1964年4月30日号)。33巻 2003, pp. 31–33
- ^ 「表面的な思い出など――三島由紀夫」(北 2022, pp. 13–34)
- ^ 「あとがき(「夜の向日葵」)」(群像 1953年4月号)。28巻 2003, pp. 64–65
- ^ a b c 「断雲」(木下 1987, pp. 5–11)
- ^ 森 1995, p. 54
- ^ 紀平悌子「三島由紀夫の手紙」(週刊朝日 1974年12月13日号-1975年4月18日号)。日録 1996, pp. 96–97
- ^ 神津カンナ『長女が読む本』(三笠書房、1988年7月)。井上豊 2006, pp. 54–56
- ^ a b 神津カンナ「おじさんはもうすぐ死ぬけれど……」(中条・続 2005, pp. 213–232)
- ^ 「第四章 その時、そしてこれから―― 一期 伊藤邦典」(火群 2005, pp. 177–180)
- ^ 「『天皇中心の国家を』■第十五回公判」(裁判 1972, pp. 233–244)
- ^ 「現代女優論――越路吹雪」(朝日新聞 1961年7月15日号)。31巻 2003, pp. 604–606
- ^ 「六 越路吹雪とのロマンスの行方」(岡山 2014, pp. 42–45)
- ^ 越路吹雪との対談「ミュージカルみやげ話」(中央公論 1958年3月号)pp.150-159。彼女 2020, pp. 90–101
- ^ 「第二章 『楯の会』入会」(井上豊 2006, pp. 17–24)
- ^ 「清水文雄宛ての葉書」(昭和21年10月12日付)。38巻 2004, pp. 606–607
- ^ 「清水文雄宛ての書簡」(昭和18年7月29日付)。38巻 2004, pp. 576–577
- ^ a b c 島尾敏雄「多少の縁」(『三島由紀夫全集27』月報 新潮社、1975年7月)。新読本 1990, pp. 30–31
- ^ 「三島由紀夫氏を悼む」(ユリイカ 1971年1月号)。澁澤 1986, pp. 67–74
- ^ 宮崎正弘「書評」(三島由紀夫の総合研究、2006年12月18日・通巻第106号)。澁澤龍彦・澁澤龍子『澁澤龍彦の古寺巡礼』(平凡社コロナ・ブックス、2006年11月)
- ^ 「最新版 三島由紀夫と記憶と精霊たち」(椎根 2012, pp. 5–74)
- ^ a b 「第十章 白い錬金術師の家」(椎根 2012, pp. 309–344)
- ^ 庄野潤三「昔の友」(『三島由紀夫全集24』月報 新潮社、1975年4月)。新読本 1990, pp. 26–27
- ^ 高橋和巳「果敢な敵の死悲し」(サンケイ新聞 1970年11月26日号)。新読本 1990, pp. 130–131
- ^ 高橋和巳「自殺の形而上学」(談話筆記 1971年2月)。読本 1983, pp. 87–95
- ^ 高橋和巳・野間宏・秋山駿の座談会「文学者の生きかたと死にかた」(群像 1971, pp. 152–173)。高橋和巳『自立の思想』(文和書房、1971年)
- ^ a b c 高橋睦郎「存在感獲得への熟望」中条・続 2005, pp. 145–192
- ^ 花崎育代「武田泰淳」(事典 2000, pp. 520–521)
- ^ 武田泰淳との対談「文学は空虚か」(文藝 1970年11月号)。読本 1983, pp. 144–166、40巻 2004, pp. 689–722
- ^ a b 安藤宏「太宰治」(事典 2000, pp. 522–523)
- ^ 「『仮面の告白』」(奥野 2000, pp. 223–253)
- ^ 野口武彦「『道化』と『仮面』の双曲線」(ユリイカ 1975年3・4月合併号)。事典 2000, pp. 523
- ^ 「谷崎潤一郎宛ての書簡」(昭和38年1月3日付)。38巻 2004, p. 684
- ^ 「『国を守る』とは何か」(朝日新聞 1969年11月3日号)。35巻 2003, pp. 714–719
- ^ 団藤重光「三島由紀夫と刑事訴訟法」(日本法律家協会「窓」3号 1971年)。『この一筋につながる』(岩波書店、1986年4月)、『わが心の旅路』(有斐閣、追補版1993年6月)。事典 2000, p. 430
- ^ a b 「三島の理解者 堤清二氏が死去」(三島由紀夫の総合研究、2013年11月29日・通巻第773号)
- ^ 椿實「三島由紀夫の未発表原稿」(『椿實全作品』立風書房、1982年)。新読本 1990, pp. 42–43
- ^ a b 「十七 『憂国』の妻・鶴岡淑子のその後」(岡山 2014, pp. 93–97)
- ^ 佐渡谷重信「貴顕」(旧事典 1976, pp. 105–106)
- ^ 「第六章 『豊饒の海』の北白川祥子」(岡山 2016, pp. 211–217)
- ^ 中井英夫「ケンタウロスの嘆き」(潮 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 302–311
- ^ 田中美代子「解題――愛の処刑」(補巻 2005, p. 646)
- ^ 千谷道雄「中村歌右衛門」(旧事典 1976, p. 287)
- ^ a b 中村歌右衛門(聞き手:織田紘二)「『三島歌舞伎』の世界」(マリ・クレール 1989年10月号-1990年2月号)。芝居 1991, pp. 186–199に所収
- ^ 三好行雄との対談「三島文学の背景」「(国文学 解釈と教材の研究 1970年5月25日号)。40巻 2004, pp. 622–652
- ^ a b 西尾幹二「たった一度だけの出会い」(『三島由紀夫全集3』月報 新潮社、1973年11月)。(西尾 2008, pp. 47–54)
- ^ a b 吉田昌志「野坂昭如」(事典 2000, pp. 557–558)
- ^ 野坂昭如「ただ喪に服するのみ」(週刊現代 1970年12月12日号)。年表 1990, pp. 230–231
- ^ a b 「I」(オール讀物 1987年1月号)。野坂 1991, pp. 5–76
- ^ 「橋川文三への公開状」(中央公論 1968年10月号)pp.204-205。35巻 2003, pp. 205–209、防衛論 2006, pp. 81–86
- ^ 「狂い死の思想」(朝日新聞 1970年11月26日号)。橋川 1998, pp. 132–134
- ^ 川端康成「『悲しみの琴』に献辞」(林 1972, pp. 1–5)
- ^ 「『薔薇刑』体験記」(芸術生活 1963年7月号)。32巻 2003, pp. 475–478
- ^ 日沼倫太郎「三島由紀夫への予言」(読売新聞 1968年7月7日号)。旧事典 1976, p. 336
- ^ a b 「日沼氏と死」(批評 1968年9月号)pp.141-142。35巻 2003, pp. 184–185
- ^ 深沢七郎「三島由紀夫論」(若い女性 1960年4月号)。岡山 2014, pp. 60–61
- ^ 「九 『風流夢譚』事件の余波」(岡山 2014, pp. 59–65)
- ^ 「第三章 『奔馬』への旅」(福島次 1998, pp. 137–232)
- ^ 岸田今日子「わたしの中の三島さん」(22巻 2002月報)
- ^ 「富士正晴宛ての書簡」(昭和22年11月19日付)。38巻 2004, pp. 858–859
- ^ 舟橋聖一「三島君の精神と裸体」(群像 1971, pp. 174–178)
- ^ 舟橋聖一「壮烈な憤死」(東京新聞 1970年11月26日号)。進藤 1976, p. 507
- ^ 「坊城俊民宛ての書簡」(昭和45年11月19日付)。38巻 2004, pp. 875–876
- ^ 細江英公「誠実なる警告」(中条・続 2005, pp. 103–124)
- ^ a b 「七 西にコクトー、東に三島『からっ風野郎』」(岡山 2014, pp. 46–51)
- ^ 「『からっ風野郎』」(川島 1996, pp. 149–170)
- ^ 藤井浩明「原作から主演・監督まで」(三島由紀夫と映画・2三島研究2006年pp.4-38)。「映画製作の現場から」として同時代 2011, pp. 209–262
- ^ 「第二章 第一回パリ憂国忌」(竹本 1998, pp. 45–72)
- ^ 「第六章 追悼二十年目の高揚」(憂国忌 2010, pp. 193–212)
- ^ a b 「わたしが愛した人々 美輪明宏をもっと理解するための4人」(美輪 2002, pp. 242–245)
- ^ a b 「第二章 天上界の麗人 美輪明宏」(岡山 2016, pp. 55–94)
- ^ 「希――青い花々」(美輪 1992, pp. 250–281)
- ^ 高橋智子「丸山(美輪)明宏」(事典 2000, p. 603)
- ^ 三島由紀夫 没後50年 生前最後の手紙につづられた言葉 /Mishima pondered on the Socrates’ death before Harakiri suicide. - YouTube
- ^ a b 「出逢いから傍に落ち着くまで」(村松英 2007, pp. 12–28)
- ^ 「第一章 曙」(火群 2005, pp. 9–80)
- ^ a b 「第三章 惜別の時」(中村彰 2015, pp. 137–198)
- ^ 宮崎正弘「そして三十三年が経った」(必勝 2002, pp. 263–276)
- ^ 金子國義「優しく澄んだ眼差し」(20巻 2002月報)
- ^ a b 「第三章 青い華――絶対への回帰」(鈴木ふさ 2015, pp. 179–250)
- ^ 「第十一章 その夜の宴」(矢代 1985, pp. 164–178)
- ^ 「デカダンス意識と生死観」(批評 1968年6月号)pp.64-82。40巻 2004, pp. 176–203
- ^ a b 「十二 男性ヌードへの挑戦『薔薇刑』」(岡山 2014, pp. 75–79)
- ^ 「終章 誰が三島を殺したのか」(山本 2001, pp. 192–237
- ^ 横尾忠則『インドへ』(文藝春秋、1977年6月、文春文庫、1983年1月)
- ^ 高橋智子「吉田健一」(事典 2000, pp. 621–622)
- ^ 吉田健一「三島さんのこと」(新潮 1971年2月号)。『詩と近代』(小澤書店、1975年7月)、事典 2000, p. 622
- ^ a b c 吉田満「三島由紀夫の苦悩」(ユリイカ 1976, pp. 56–64)、下巻 1986, pp. 127–143、戦中派 1980, pp. 60–76、中公編集 2010, pp. 136–146
- ^ (同時代 2011) 『「サロメ」上演を託されて』に収録された座談より。
- ^ 「ロンドン通信」(毎日新聞 1965年3月25日号)。33巻 2003, pp. 435–438
- ^ ドナルド・キーンと辻井喬の対談「伝説から実像へ」(没後20 1990, pp. 100–115)
- ^ 矢内裕子 (2019年3月6日). "日本を愛したドナルド・キーンさん 原点は源氏物語と兵士の日記〈AERA〉". AERA dot. (アエラドット). 2022年12月25日閲覧。
- ^ 「第十一章 死後」(徳岡 1999, pp. 238–269)
- ^ a b 「三島由紀夫と『黒船』」(ストークス 2012, pp. 168–170)
参考文献
三島の著作・全集
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集1巻 長編1』新潮社、2000年11月。ISBN 978-4106425417。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集3巻 長編3』新潮社、2001年2月。ISBN 978-4106425431。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集4巻 長編4』新潮社、2001年3月。ISBN 978-4106425448。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集5巻 長編5』新潮社、2001年4月。ISBN 978-4106425455。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集8巻 長編8』新潮社、2001年7月。ISBN 978-4106425486。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集9巻 長編9』新潮社、2001年8月。ISBN 978-4106425493。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集13巻 長編13』新潮社、2001年12月。ISBN 978-4106425530。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集15巻 短編』新潮社、2002年2月。ISBN 978-4106425554。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集17巻 短編3』新潮社、2002年4月。ISBN 978-4106425578。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集18巻 短編4』新潮社、2002年5月。ISBN 978-4106425585。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集19巻 短編5』新潮社、2002年6月。ISBN 978-4106425592。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集20巻 短編6』新潮社、2002年7月。ISBN 978-4106425608。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集22巻 戯曲2』新潮社、2002年9月。ISBN 978-4106425622。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集24巻 戯曲4』新潮社、2002年11月。ISBN 978-4106425646。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集26巻 評論1』新潮社、2003年1月。ISBN 978-4106425660。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集27巻 評論2』新潮社、2003年2月。ISBN 978-4106425677。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集28巻 評論3』新潮社、2003年3月。ISBN 978-4106425684。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集29巻 評論4』新潮社、2003年4月。ISBN 978-4106425691。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集30巻 評論5』新潮社、2003年5月。ISBN 978-4106425707。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集31巻 評論6』新潮社、2003年6月。ISBN 978-4106425714。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集32巻 評論7』新潮社、2003年7月。ISBN 978-4106425721。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8』新潮社、2003年8月。ISBN 978-4106425738。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集34巻 評論9』新潮社、2003年9月。ISBN 978-4106425745。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集35巻 評論10』新潮社、2003年10月。ISBN 978-4106425752。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集36巻 評論11』新潮社、2003年11月。ISBN 978-4106425769。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集37巻 詩歌』新潮社、2004年1月。ISBN 978-4106425776。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集38巻 書簡』新潮社、2004年3月。ISBN 978-4106425783。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集39巻 対談1』新潮社、2004年5月。ISBN 978-4106425790。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集40巻 対談2』新潮社、2004年7月。ISBN 978-4106425806。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集41巻 音声(CD)』新潮社、2004年9月。ISBN 978-4106425813。
- 佐藤秀明; 井上隆史; 山中剛史 編『決定版 三島由紀夫全集42巻 年譜・書誌』新潮社、2005年8月。ISBN 978-4106425820。
- 田中美代子; 佐藤秀明; 井上隆史 編『決定版 三島由紀夫全集補巻 補遺・索引』新潮社、2005年12月。ISBN 978-4106425837。
- 三島由紀夫『決定版 三島由紀夫全集別巻 映画「憂国」(DVD)』新潮社、2006年4月。ISBN 978-4106425844。
- 三島由紀夫『行動学入門』文藝春秋社〈文春文庫〉、1974年10月。ISBN 978-4167124014。初刊版は1970年10月 ASIN B000J9A9MQ
- 三島由紀夫『芝居日記』中央公論新社、1991年7月。ISBN 978-4120020230。
- 三島由紀夫『若きサムライのために』文藝春秋社〈文春文庫〉、1996年11月。ISBN 978-4167124038。初刊原版(日本教文社)は1969年7月 ISBN 978-4531060191
- 三島由紀夫『文化防衛論』筑摩書房〈ちくま文庫〉、2006年11月。ISBN 978-4480422835。初刊原版(新潮社)は1969年4月25日 ASIN B000J9OTR2
- 三島由紀夫、川端康成『川端康成・三島由紀夫往復書簡』新潮社〈新潮文庫〉、2000年11月。ISBN 978-4101001265。
- 三島由紀夫『三島由紀夫十代書簡集』新潮社〈新潮文庫〉、2002年10月。ISBN 978-4101050386。
- 三島由紀夫、石原慎太郎『三島由紀夫 石原慎太郎 全対話』中央公論新社〈中公文庫〉、2020年7月。ISBN 978-4122069121。
- 三島由紀夫 著、虫明亜呂無 編『三島由紀夫文学論集I』講談社〈講談社文芸文庫〉、2006年4月。ISBN 978-4061984394。
- 三島由紀夫 著、山内由紀人; 平岡威一郎監修; 藤井浩明監修 編『三島由紀夫映画論集成』ワイズ出版、1999年12月。ISBN 978-4898300138。
- 三島由紀夫 著、TBSヴィンテージ・クラシックス 編『告白――三島由紀夫未公開インタビュー』講談社、2017年8月。ISBN 978-4062206549。文庫版(講談社文庫)は2019年11月 ISBN 978-4065173855
事典・資料・アルバム系
- 安藤武 編『三島由紀夫「日録」』未知谷、1996年4月。ISBN 978-4915841392。
- 安藤武『三島由紀夫の生涯』夏目書房、1998年9月。ISBN 978-4931391390。
- 安藤武 編『三島由紀夫全文献目録』夏目書房、2001年12月。ISBN 978-4931391819。
- 磯田光一 編『新潮日本文学アルバム20 三島由紀夫』新潮社、1983年12月。ISBN 978-4106206207。
- 松本徹; 佐藤秀明; 井上隆史 編『三島由紀夫事典』勉誠出版、2000年11月。ISBN 978-4585060185。
- 大場啓志『三島由紀夫 古本屋の書誌学』ワイズ出版、1998年11月。ISBN 978-4948735989。 - 著者は古書店「龍生書林」店主。
- 長谷川泉; 武田勝彦 編『三島由紀夫事典』明治書院、1976年1月。 NCID BN01686605。
- 篠山紀信『三島由紀夫の家』(普及版)美術出版社、2000年11月。ISBN 978-4568120639。初刊版は1995年10月 ISBN 978-4568120554
- 島崎博; 三島瑤子 編『定本三島由紀夫書誌』薔薇十字社、1972年1月。 NCID BN01686252。 - 自決前に出版社の内藤三津子から依頼を受け編まれた。生前までの著書・作品・上演目録・年譜、他に蔵書目録(一部)を収録。序文は瑤子夫人。
- 伊達宗克『裁判記録 「三島由紀夫事件」』講談社、1972年5月。 NCID BN0140450X。
- 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(増補再訂版)朝文社、2005年9月。ISBN 978-4886951809。初刊版は『資料総集・三島由紀夫』(新人物往来社、1975年6月)NCID BN06124544。再訂版の初版は1989年6月 ISBN 978-4886950130
- 松本徹 編『三島由紀夫――年表作家読本』河出書房新社、1990年4月。ISBN 978-4309700526。
- 松本徹 監修『別冊太陽 日本のこころ175――三島由紀夫』平凡社、2010年10月。ISBN 978-4582921755。
- 三島瑤子・藤田三男 編『写真集 三島由紀夫'25〜'70』新潮社〈新潮文庫〉、2000年11月。ISBN 978-4101050911。
- 山口基 編『三島由紀夫研究文献総覧』出版ニュース社、2009年11月。ISBN 978-4785201265。 - 編者は三島と親しかった古書店「山口書店」店主。
- 「NHKあの人に会いたい」刊行委員会 編『あの人に会いたい』新潮社〈新潮文庫〉、2008年11月。ISBN 978-4101362717。
論考・評伝・研究
- 秋山駿; 江藤淳ほか『三島由紀夫――群像日本の作家18』小学館、1990年9月。ISBN 978-4095670188。
- 磯田光一『殉教の美学』(新装版)冬樹社、1979年6月。 NCID BN07704732。改訂版は『磯田光一著作集1 三島由紀夫全論考 比較転向論序説』(小沢書店、1990年6月)に収録。
- 板坂剛『極説・三島由紀夫――切腹とフラメンコ』夏目書房、1997年6月。ISBN 978-4931391284。
- 板坂剛『真説・三島由紀夫――謎の原郷』夏目書房、1998年8月。ISBN 978-4931391444。
- 板坂剛; 鈴木邦男『三島由紀夫と一九七〇年』鹿砦社、2010年11月。ISBN 978-4846307721。
- 伊藤勝彦『最後のロマンティーク 三島由紀夫』新曜社、2006年3月。ISBN 978-4788509818。
- 井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』試論社、2006年12月。ISBN 978-4903122069。
- 井上隆史『三島由紀夫 幻の遺作を読む―もう一つの『豊饒の海』』光文社〈光文社新書〉、2010年11月。ISBN 978-4334035945。
- 井上隆史『「もう一つの日本」を求めて―三島由紀夫『豊饒の海』を読み直す』現代書館〈いま読む!名著〉、2018年2月。ISBN 978-4768410127。
- 松本徹; 佐藤秀明; 井上隆史 ほか 編『三島由紀夫研究』鼎書房、2005年11月-刊行中。23冊刊(2023年現在)
- 松本徹; 佐藤秀明; 井上隆史 編『世界の中の三島由紀夫』勉誠出版〈三島由紀夫論集III〉、2001年3月。ISBN 978-4585040439。
- 猪瀬直樹『ペルソナ――三島由紀夫伝』文藝春秋社〈文春文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4167431099。初刊版は1995年11月 NCID BN13365755
- 『ペルソナ――三島由紀夫伝』小学館〈日本の近代 猪瀬直樹著作集2〉、2001年11月。 NCID BA5430726X。 - 解説・付録が増補。
- 岩下尚史『ヒタメン――三島由紀夫が女に逢う時…』雄山閣、2011年12月。ISBN 978-4639021971。文庫版(文春文庫)は2016年11月 ISBN 978-4167907358
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年11月。 NCID BN00378721。
- 奥野健男『三島由紀夫伝説』新潮社〈新潮文庫〉、2000年11月。ISBN 978-4101356020。初刊版は1993年2月 ISBN 978-4103908012。文庫版は一部省略あり。
- 岡山典弘『三島由紀夫外伝』彩流社、2014年11月。ISBN 978-4779170225。
- 岡山典弘『三島由紀夫が愛した美女たち』啓文社書房、2016年10月。ISBN 978-4899920205。
- 岡山典弘『三島由紀夫の源流』新典社〈新典社選書 78〉、2016年3月。ISBN 978-4787968289。
- 北影雄幸『三島由紀夫と葉隠武士道』白亜書房、2006年11月。ISBN 978-4891726836。
- 小室直樹『三島由紀夫が復活する』毎日コミュニケーションズ、1985年4月。ISBN 4895639010。再版(毎日ワンズ)は2002年11月 ISBN 978-4901622011
- 佐伯彰一『評伝 三島由紀夫』中央公論新社〈中公文庫〉、1988年11月。ISBN 978-4122015678。初刊原版(新潮社)は1978年3月 NCID BN00243857
- 佐藤秀明『三島由紀夫――人と文学』勉誠出版〈日本の作家100人〉、2006年2月。ISBN 978-4585051848。
- 柴田勝二『三島由紀夫 作品に隠された自決への道』祥伝社〈祥伝社新書〉、2012年11月。ISBN 978-4396113001。
- 島内景二『三島由紀夫――豊饒の海へ注ぐ』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2010年12月。ISBN 978-4623059126。
- 鈴木邦男『遺魂――三島由紀夫と野村秋介の軌跡』無双舎、2010年9月。ISBN 978-4864084390。
- 鈴木ふさ子『三島由紀夫 悪の華へ』アーツアンドクラフツ、2015年11月。ISBN 978-4908028106。
- 青海健『三島由紀夫とニーチェ――悲劇的文化とイロニー』青弓社、1992年9月。ISBN 978-4787290663。
- 青海健『三島由紀夫の帰還――青海健評論集』小沢書店、2000年1月。ISBN 978-4755103933。
- 竹本忠雄『パリ憂国忌――三島由紀夫VSヨーロッパ』(再版)日本教文社、1998年12月。ISBN 978-4531061167。初版は1981年11月
- 田坂昂『増補 三島由紀夫論』風濤社、1977年5月。ISBN 978-4892190643。新装版は2007年5月 ISBN 978-4892192913
- 田中美代子『三島由紀夫 神の影法師』新潮社、2006年10月。ISBN 978-4103029717。
- 豊田穣『寂光の人』文藝春秋、1973-。改題版は『順逆の人――小説・三島由紀夫』(勁文社、1985年7月) ISBN 978-4766902358
- 中条省平 編『三島由紀夫が死んだ日――あの日、何が終り何が始まったのか』実業之日本社、2005年4月。ISBN 978-4408534725。
- 中条省平 編『続・三島由紀夫が死んだ日――あの日は、どうしていまも生々しいのか』実業之日本社、2005年11月。ISBN 978-4408534824。
- 長野祐二『小説 三島由紀夫』幻冬舎、2019年11月。ISBN 978-4344925298。
- 中村彰彦『三島事件 もう一人の主役――烈士と呼ばれた森田必勝』ワック、2015年11月。ISBN 978-4898317297。初刊原版は『烈士と呼ばれる男――森田必勝の物語』(文藝春秋、2000年5月。文春文庫、2003年6月)ISBN 978-4163562605。ISBN 978-4167567071
- 西法太郎『三島由紀夫事件 50年目の証言――警察と自衛隊は何を知っていたか』新潮社、2020年9月。ISBN 978-4103535812。
- 西部邁『ニヒリズムを超えて』角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉、1997年11月。ISBN 978-4894563629。初刊原版(日本文芸社)は1989年7月 ISBN 978-4537049862
- 野口武彦『三島由紀夫の世界』講談社、1968年12月。 NCID BN03570022。
- 野口武彦『三島由紀夫と北一輝』福村出版、1985年10月。 NCID BN01070867。
- 野坂昭如『赫奕たる逆光――私説・三島由紀夫』文藝春秋社〈文春文庫〉、1991年4月。ISBN 978-4167119126。初刊版は1987年11月 ISBN 978-4163100500
- 橋川文三『三島由紀夫論集成』深夜叢書社、1998年12月。ISBN 978-4880322261。
- 保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』角川書店〈角川文庫〉、2001年4月。ISBN 978-4043556021。初刊原版は『憂国の論理――三島由紀夫と楯の会事件』(講談社、1980年11月)NCID BN0927574X。再刊(ちくま文庫)は2018年1月
- 松藤竹二郎『三島由紀夫「残された手帳」』毎日ワンズ、2007年7月。ISBN 978-4901622240。
- 松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』文藝春秋社〈文春新書〉、2005年11月。ISBN 978-4166604753。
- 松本健一『三島由紀夫亡命伝説』(増補・新版)辺境社〈松本健一伝説シリーズ〉、2007年3月。ISBN 978-4326950393。初刊原版(河出書房新社)は1987年11月 ISBN 978-4309004884
- 松本徹『三島由紀夫を読み解く』NHK出版〈NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界〉、2010年7月。ISBN 978-4149107462。
- 宮崎正弘『三島由紀夫の現場』並木書房、2006年11月。ISBN 978-4890632077。
- 村松剛『三島由紀夫の世界』新潮社、1990年9月。ISBN 978-4103214021。文庫版(新潮文庫)は1996年10月 ISBN 978-4101497112
- 村松剛『西欧との対決――漱石から三島、遠藤まで』新潮社、1994年2月。ISBN 978-4103214038。
- 山内由紀人『三島由紀夫vs 司馬遼太郎――戦後精神と近代』河出書房新社、2011年7月。ISBN 978-4309020518。
- 山内由紀人『三島由紀夫の肉体』河出書房新社、2014年8月。ISBN 978-4309023182。
- 梶尾文武『否定の文体――三島由紀夫と昭和批評』鼎書房、2015年12月。ISBN 978-4907282233。
- 吉田和明『三島由紀夫』現代書館〈フォー・ビギナーズ・シリーズ 35〉、1985年11月。ISBN 978-4768400357。
親族・学友・私人の追想
- 井上豊夫『果し得ていない約束――三島由紀夫が遺せしもの』コスモの本、2006年10月。ISBN 978-4906380800。 - 著者は元楯の会会員。
- 鈴木亜繪美、監修・田村司『火群のゆくへ――元楯の会会員たちの心の軌跡』柏艪舎、2005年11月。ISBN 978-4434070662。
- 西村繁樹『三島由紀夫と最後に会った青年将校』並木書房、2019年10月。ISBN 978-489063-3913。
- 平岡梓『伜・三島由紀夫』文藝春秋社〈文春文庫〉、1996年11月。ISBN 978-4167162047。初刊版は1972年5月 NCID BN04224118。月刊誌『諸君!』1971年12月号-1972年4月号に連載されたもの。
- 平岡梓『伜・三島由紀夫(没後)』文藝春秋、1974年6月。 NCID BN03950861。 - 絶版
- 坊城俊民『焔の幻影――回想三島由紀夫』角川書店、1971年11月。 NCID BN09275670。 - 絶版
- 松浦芳子、監修・松浦博『今よみがえる三島由紀夫――自決より四十年』高木書房、2010年12月。ISBN 978-4884710866。増補版(高木書房)は2020年11月
- 三谷信『級友 三島由紀夫』(再刊版)中央公論新社〈中公文庫〉、1999年12月。ISBN 978-4122035577。初刊原版(笠間書院)は1985年7月 NCID BN01049725 – 絶版
- 村上建夫『君たちには分からない――「楯の會」で見た三島由紀夫』新潮社、2010年10月。ISBN 978-4103278511。
- 村田春樹『三島由紀夫が生きた時代――楯の会と森田必勝』青林堂、2015年10月。ISBN 978-4792605322。
- 持丸博; 佐藤松男『証言 三島由紀夫・福田恆存―たった一度の対決』文藝春秋、2010年10月。ISBN 978-4163732503。
- 森田必勝『わが思想と行動――遺稿集』(新装版)日新報道、2002年11月。ISBN 978-4817405289。初版は1971年 NCID BA51175945
- 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』日本文芸社、1980年6月。 NCID BN10688248。
- 山本舜勝『自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白』講談社、2001年6月。ISBN 978-4062107815。
- 湯浅あつ子『ロイと鏡子』中央公論社、1984年3月。ISBN 978-4120012761。 - 著者は幼馴染で、ロイ・ジェームス夫人。
- 三島由紀夫研究会 編『「憂国忌」の四十年――三島由紀夫氏追悼の記録と証言』並木書房、2010年10月。ISBN 978-4890632626。
- 三島由紀夫研究会 編『「憂国忌」の五十年』啓文社書房、2020年10月。ISBN 978-4899920717。
編集者・公人の追想
- 荒木精之『初霜の記――三島由紀夫と神風連』日本談義社、1971年11月。
- 石原慎太郎『三島由紀夫の日蝕』新潮社、1991年3月。ISBN 978-4103015079。
- 石原慎太郎『わが人生の時の人々』文藝春秋、2002年1月。ISBN 978-4163580906。
- 井上隆史; 佐藤秀明; 松本徹 編『同時代の証言 三島由紀夫』鼎書房、2011年5月。ISBN 978-4907846770。 - 編者らによる関係者への聞き書き(上記『三島由紀夫研究』に連載)
- 川島勝『三島由紀夫』文藝春秋、1996年2月。ISBN 978-4163512808。 - 著者は講談社での三島担当編集者。
- 北杜夫『人間とマンボウ』中央公論新社〈中公文庫〉、2022年4月。ISBN 978-4122071971。 初刊版は1976年9月 ISBN 978-4120004940
- 木下恵介『戦場の固き約束』主婦の友社、1987年8月。ISBN 978-4079265133。
- 木村徳三『文芸編集者の戦中戦後』大空社、1995年7月。ISBN 978-4756800077。初刊原版は『文芸編集者 その跫音』(TBSブリタニカ、1982年6月)NCID BN05251513
- 小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』筑摩書房〈ちくま文庫〉、1996年4月。ISBN 978-4480031822。初刊原版(構想社)は1980年5月 NCID BN05256969
- 櫻井秀勲『三島由紀夫は何を遺したか』きずな出版、2020年11月。ISBN 978-4866631288。
- 椎根和『完全版 平凡パンチの三島由紀夫』茉莉花社(河出書房新社)、2012年10月。ISBN 978-4309909639。初刊原版(新潮社)は2007年3月 ISBN 978-4103041511。新訂版(茉莉花社)は2020年12月 ISBN 978-4309922195。著者は平凡パンチの元編集者。
- 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』中央公論新社〈中公文庫〉、1986年11月。ISBN 978-4122013773。初刊原版(立風書房)は1983年12月 NCID BN02999027
- 堂本正樹『回想回転扉の三島由紀夫』文藝春秋〈文春新書〉、2005年11月。ISBN 978-4166604777。
- 徳岡孝夫; ドナルド・キーン『悼友紀行――三島由紀夫の作品風土』中央公論社、1973年7月。 NCID BN05300550。文庫版(中公文庫)は1981年11月 NCID BN06844951。改題の再刊版は『三島由紀夫を巡る旅:悼友紀行』(新潮文庫、2020年2月 ISBN 978-4101313566
- 徳岡孝夫『五衰の人――三島由紀夫私記』文藝春秋社〈文春文庫〉、1999年11月。ISBN 978-4167449032。初刊版は1996年11月。再刊版(文春学藝ライブラリー)は2015年10月 ISBN 978-4168130533
- ドナルド・キーン『思い出の作家たち――谷崎・川端・三島・安部・司馬』新潮社、2005年11月。ISBN 978-4103317067。文庫版(新潮文庫)は2019年4月 ISBN 978-4101313559
- ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』中央公論新社、2007年7月。ISBN 978-4120038457。改訂再刊版は『ドナルド・キーン自伝』(中公文庫、2011年)ISBN 978-4122054394
- 西尾幹二『三島由紀夫の死と私』PHP研究所、2008年11月。ISBN 978-4569705378。増補版(戎光祥出版)は2020年12月 ISBN 978-4864033732
- 林房雄『悲しみの琴――三島由紀夫への鎮魂歌』文藝春秋、1972年3月。 NCID BN08146344。 - 『対話・日本人論』(夏目書房、2002年3月)新版に抜粋収録。
- 林房雄; 伊澤甲子麿『歴史への証言――三島由紀夫・鮮血の遺訓』恒友出版、1971年。 NCID BN06124759。 – 絶版
- 福島次郎『三島由紀夫――剣と寒紅』文藝春秋、1998年3月。ISBN 978-4163176307。 - 著作権の無断転載で回収・絶版
- 美輪明宏『紫の履歴書』水書房、1992年11月。ISBN 978-4943843641。初刊版(大光社)は1968年9月 NCID BN15222464
- 美輪明宏『愛の話 幸福の話』集英社、2002年6月。ISBN 978-4087803570。
- 村松英子『三島由紀夫 追想のうた ――女優として育てられて』阪急コミュニケーションズ、2007年10月。ISBN 978-4484072050。
- 矢代静一『旗手たちの青春――あの頃の加藤道夫・三島由紀夫・芥川比呂志』新潮社、1985年2月。ISBN 978-4103257042。
- 『近代作家追悼文集成〈42〉三島由紀夫』ゆまに書房、1999年4月。ISBN 978-4897146454。
雑誌系の特集本
- 『新潮 臨時増刊 三島由紀夫読本』、新潮社、1971年1月。ASIN B00QRZ32NO。
- 小野好恵 編『ユリイカ 詩と批評 特集・三島由紀夫――傷つける美意識の系譜』第11巻、第8号、青土社、1976年10月。ASIN B00UYW77RS。
- 梶山季之 編「〈特別レポート〉三島由紀夫の無視された家系」『月刊噂 八月号』第2巻、第8号、噂発行所、48-62頁、1972年8月。
- 坂本忠雄 編『新潮 12月特大号 没後二十年 三島由紀夫特集』第12巻、第87号、新潮社、1990年12月。
- 佐藤辰宣 編『群像』第3巻、第72号、講談社、2017年3月。ASIN B01NH2WT0X。
- 中島和夫 編『群像 二月特大号 特集・三島由紀夫 死と芸術』第2巻、第26号、講談社、1971年2月。
- 長谷川泉 編『現代のエスプリ 三島由紀夫』至文堂、1971年3月。NCID BN09636225。
- 藤島泰輔 編『浪曼 特集・三島由紀夫の不在 新年号(12・1月合併)』第4巻、第1号、株式会社浪曼、1975年1月。
- 山川みどり 編『芸術新潮 【没後25年記念特集】 三島由紀夫の耽美世界』第12巻、第46号、新潮社、1995年12月。
- 前田速夫 編『新潮 11月臨時増刊 三島由紀夫没後三十年』、新潮社、2000年11月。NCID BA49508943。
- 『新装版 文芸読本 三島由紀夫』河出書房新社、1983年12月。NCID BA35307535。 - 初版は1975年8月
- 『新文芸読本 三島由紀夫』河出書房新社、1990年11月。ISBN 978-4309701554。
- 『中央公論特別編集 三島由紀夫と戦後』中央公論新社、2010年10月。ISBN 978-4120041617。
- 『文藝別冊 増補新版 三島由紀夫――死にいたるまで魂は叫びつづけよ』河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2012年4月。NCID BA75322341。 - 元版は『文藝別冊 永久保存版 三島由紀夫 没後35年・生誕80年』2005年11月
- 『中央公論特別編集 彼女たちの三島由紀夫』中央公論新社、2020年10月。ISBN 978-4120053474。
他作家関連・その他
- 川端康成『川端康成全集 補巻2 書簡来簡抄』新潮社、1984年5月。ISBN 978-4106438370。
- 『現代日本文學大系61 林房雄・保田與重郎・亀井勝一郎・蓮田善明集』筑摩書房、1970年12月。NCID 000023838識別子"000023838"は正しくありません。。
- 荻原雄一『もうひとつの憂國』夏目書房、2000年10月。ISBN 978-4931391789。
- 小高根二郎『蓮田善明とその死』筑摩書房、1970年3月。NCID BN0507419X。新版(島津書房)は1979年8月 NCID BN04092651。雑誌『果樹園』1959年8月-1968年11月号に連載されたもの(全55回)。
- 小高根二郎『詩人 伊東静雄』新潮社〈新潮選書〉、1971年5月。NCID BN05040030。
- 加賀乙彦『帰らざる夏』講談社〈講談社文芸文庫〉、1993年8月。ISBN 978-4061962354。初刊版は1973年7月 ISBN 978-4061126534
- 三枝康高『川端康成』有信堂〈文化新書〉、1961年1月。NCID BN03239878。増補版は1968年11月。
- 進藤純孝『伝記 川端康成』六興出版、1976年8月。NCID BN00959203。
- 中村稔『私の昭和史 戦後編上』青土社、2008年10月。ISBN 978-4791764365。
- 野原一夫『回想 太宰治』新潮社、1980年5月。NCID BN03570678。
- 本多秋五『物語 戦後文学史(上)』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2005年8月。ISBN 978-4006020910。
- 本多秋五『物語 戦後文学史(中)』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2005年9月。ISBN 978-4006020927。
- 福田和也『保田與重郎と昭和の御代』文藝春秋、1996年6月。ISBN 978-4163516905。
- 松本健一『蓮田善明 日本伝説』河出書房新社、1990年11月。ISBN 978-4309006574。
- 吉田満『戦中派の死生観』文藝春秋、1980年2月。NCID BN02481255。文庫版(文春文庫)は1984年8月、文春学藝ライブラリーは2015年8月 ISBN 978-4168130519
- 吉田満『吉田満著作集 下巻』文藝春秋、1986年9月。ISBN 4163408908。
- 森卓也『ニッポン映画戦後50年――1945〜1995 映画と風俗でたどる昭和-平成の時代』朝日ソノラマ、1995年8月。ISBN 978-4257034469。
外国人による三島研究書など
- ヘンリー・スコット=ストークス 著、徳岡孝夫 訳『三島由紀夫─死と真実』ダイヤモンド社、1985年11月。ISBN 978-4478940563。改訂版『三島由紀夫 生と死』(清流出版)は1998年11月 ISBN 978-4916028525
- 英書の原題は、"The Life and Death of Yukio Mishima"(1974年)
- ヘンリー・スコット・ストークス; 加瀬英明『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社〈祥伝社新書〉、2012年8月。ISBN 978-4396112875。
- ジョン・ネイスン 著、野口武彦 訳『新版 三島由紀夫─ある評伝』(改訂版)新潮社、2000年8月。ISBN 978-4864100281。初刊版は1976年6月 NCID BN05986010絶版
- 英書の原題は、"Mishima: A Biography"(1974年)
- マルグリット・ユルスナール 著、澁澤龍彦 訳『三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン』河出書房新社〈河出文庫〉、1995年12月。ISBN 978-4309461434。初刊版は1982年5月。他に『澁澤龍彦翻訳全集15』(同、1998年)にも収録、ISBN 978-4309707457
- フランス書の原題は、"Mishima ou la vision du vide"(1981年)
- ヘンリー・ミラー 著、松田憲次郎ほか 訳『ヘンリー・ミラー・コレクション15 三島由紀夫の死』水声社、2017年12月。ISBN 978-4801000049。 - エッセイ集10編の1つ
- イルメラ・日地谷・キルシュネライト 編『MISHIMA!――三島由紀夫の知的ルーツと国際的インパクト』昭和堂、2010年11月。ISBN 978-4812210642。
- エレノア・コッポラ『ノーツ―コッポラの黙示録』マガジンハウス、1992年8月。ISBN 978-4838703944。 英語版の原書(改版)は1991年に出版(初版は1980年)。
- エレノア・コッポラ 著、岡山徹 訳『『地獄の黙示録』撮影全記録(ノーツ)』(新訳版)小学館〈小学館文庫〉、2002年1月。ISBN 978-4094025668。
関連項目
外部リンク
- 三島由紀夫 - 歴史が眠る多磨霊園
- 三島由紀夫研究会
- 三島由紀夫研究会 (@yukokuki) - X(旧Twitter)
- 三島由紀夫電子博物館 - ウェイバックマシン(2007年7月3日アーカイブ分)
- 三島由紀夫文学館
- 三島由紀夫 - IMDb
- 三島由紀夫研究会メールマガジン
- 隠し文学館 花ざかりの森
- Nomination Database Yukio Mishima(2017年現在、1966年分まで公開). ノーベル賞公式サイト.
- 三島由紀夫 - NHK人物録
- 『三島由紀夫』 - コトバンク
- 『三島 由紀夫』 - コトバンク