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柘枝仙媛

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柘枝仙媛(つみのえのやまひめ)は、奈良時代平安時代大和国(現在の奈良県)の吉野川に伝わっていた伝説上の人物・仙女。『万葉集』や『懐風藻』、『続日本後紀』などに見える。

概要

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契沖の『万葉代匠記』や鹿持雅澄の『万葉集古義』などによると、柘枝仙媛伝説は以下の通りである。

むかし吉野川で味美稲(うましね、熊志禰(くましね)とも[1])という男が、簗をかけて魚をとっていると、柘(ヤマグワ[2])の枝が流れてきたので拾いあげたところ、その枝が女になった。味稲と女は結ばれたが、しかし後に女は天にとび去ってしまった[3]

この話は、本来は神婚説話(丹塗矢型、または羽衣型とも[注 1])であったのが[4]、丹塗矢については諸説あるが、日本に遺物もないため古代中国の王政の朱矢のモチーフが伝搬したものかとも考察され、神仙思想と混ざり合った結果生まれたものであるとされる[5]

万葉集

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万葉集』に見える柘枝仙媛に関する和歌は以下の通りである[6]

  • 霰降り 吉志美が岳を さがしみと 草取りはなち 妹が手を取る
    • 右の一首は、或は云はく、吉野の人味稲の柘枝仙媛に与へし歌そといへり。但し、柘枝伝を見るに、この歌あることなし。
  • この夕 柘のさ枝の 流れ来ば 梁は打たずて 取らずかもあらむ
  • 古に梁打つ人の無かりせば此処もあらまし柘の枝はも–

懐風藻

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懐風藻』においては、紀男人の漢詩に、 万丈崇巌削成秀 千尋素濤逆折流 欲訪鍾池越潭跡 留連美稲逢槎洲 とあり[5]、他にも藤原麻呂多治比広成高向諸足藤原不比等らの詩に同じような話が見える[5]

続日本後紀

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平安時代の『続日本後紀』には、嘉祥2年3月26日条に、興福寺の大法師等が仁明天皇が40歳になったこと際に献じた長歌の中に「三吉野爾有志熊志禰、天女、来通弖其後波、蒙譴天、毗礼衣、着弖飛爾支度云」とみえる[5]。すなわち毗礼(ひれ)とは、肩巾や領巾のことであり、その「ひれ衣」を着て天に上ったとあり、羽衣型とされるゆえんである。

注釈

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 堅田 (1980), pp. 8–9.
  2. ^ 堅田 (1980), p. 7.
  3. ^ 堅田 (1980), p. 1.
  4. ^ 堅田 (1980), pp. 1, 3–5.
  5. ^ a b c d 堅田 (1980), p. 8.
  6. ^ 堅田 (1980), p. 2.
参照文献
  • 堅田修「柘枝仙媛伝承の原像」『大谷学報』第60巻第3号、大谷学会、1980年11月、1–13頁、CRID 1050001201665435904ISSN 0287-6027NAID 120005768647 

外部リンク

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