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内田正洋

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内田正洋(うちだ まさひろ)Masahiro Uchida

1956年(昭和31年)1月8日生まれ(出生地:長崎県大村市)

内田 正洋(うちだ まさひろ) 1956年1月8日生まれ(長崎県大村市出身)は、日本のジャーナリスト、冒険家、そしてシーカヤックの第一人者として国際的に活躍する。数十年にわたって冒険と自然保護活動に情熱を注ぎ、パリ・ダカール・ラリーでの輝かしい実績や、シーカヤックの普及を通じて海洋文化の発展に貢献している。

若年期と教育

内田正洋は、幼少期から自然や海に深い興味を持って育ち、その情熱は学業においても顕著だった。1978年、日本大学農獣医学部水産学科を卒業し、遠洋漁業学を専攻。在学中、マグロ漁の実習で半年にわたる航海を経験し、海洋探検家としての基礎を築いた。高校時代にはラグビー部に所属し、全国大会(花園)への出場も果たすなど、アスリートとしても卓越した活躍を見せている。

ジャーナリストから冒険家へ

内田のキャリアは、1979年に株式会社ACPに入社し、TBSの海外取材番組「キャラバンⅡ」でのスタッフドライバーとして始まった。アメリカを横断し、壮大なロケに参加した経験は、彼の冒険家としてのスタート地点となる。その後、日本テレビの「世界の道」で中東を取材し、イラン・イラク戦争の勃発時に貴重な映像を撮影するなど、瞬く間に注目を集める存在となった。

パリ・ダカール・ラリーでの栄光

内田正洋の名を世界に知らしめたのは、1981年から参加したパリ・ダカール・ラリーである。彼はナビゲーターとして参加し、1982年には市販無改造クラス、二輪駆動総合クラス、マラソンクラスの3部門で優勝という偉業を成し遂げた。この大会は、砂漠を駆け抜けるだけでなく、極限状態での判断力とリーダーシップが試される過酷な競技であり、内田の挑戦精神を象徴するものだった。しかし、1983年の大会では、テネレ砂漠での事故により大けがを負い、一時撤退を余儀なくされた。それでも内田は復帰し、以後もラリー界での挑戦を続け、冒険家としての地位を確立した。

海洋冒険家としての転機

1987年、内田はシーカヤックに出会い、ここから彼の冒険のフィールドは海洋へと広がっていく。彼は、日本国内外でシーカヤックの探検を行い、その活動を通じてシーカヤックを広めることに尽力した。1992年には「黒潮エクスペディション」で西表島から東京湾までの航海を成し遂げ、シーカヤックによる長距離探検の先駆者となった。また、シーカヤックアカデミーを主催し、日本全国でシーカヤックの技術と精神を伝えていった。

教育と自然保護活動

内田は、単なる冒険家に留まらず、教育者としても多大な影響を与えている。東京海洋大学、横浜市立大学、神奈川大学などの非常勤講師として、シーカヤックや海洋文化を後進に伝えるだけでなく、環境保護の大切さも啓発している。彼は、海上保安庁の海の安全推進アドバイザーとしても活動し、海洋環境の保全や安全な航海の普及にも努めている。

最新の活動

内田の情熱は現在も衰えることなく、2016年には国立科学博物館の「3万年前の航海プロジェクト」に参加し、太古の航海術を再現する試みに挑んだ。さらに、アウトドアブランド「mont-bell」と協力し、自然環境保護や冒険活動のサポートにも携わっている。また、内閣府の総合海洋政策本部にて「海洋状況表示システム(海しる)」の構築に助言するなど、現代における海洋環境問題にも積極的に取り組んでいる。

代表的な著作

『JAPS WANT DESERT』 (1985年、永岡書店) – 砂漠レースへの情熱を描いた記念碑的作品。『BAJA 1000』 (1989年、CBSソニー出版) – バハ1000レースの挑戦を綴った著作。『シーカヤッキング・イン・ジャパン』 (1990年、CBSソニー出版) – 日本におけるシーカヤックの可能性を示した作品。『祝星ホクレア号がやって来た』 (2007年、枻出版社) – ホクレア号の歴史と航海を振り返る一冊。『海とオートバイ』 (2008年、枻出版社) – 海と冒険心を融合させた内田の哲学が詰まった作品。[1][2]

主な役職と関連組織

海上保安庁 海の安全推進アドバイザー/一般社団法人「海洋緑化協会」設立者/ジャパンエコトラック推進協議会 理事/東京海洋大学、横浜市立大学、神奈川大学、三重大学 非常勤講師/アウトドアブランド「mont-bell」 業務委託

学歴

1962年 長崎県佐世保市立黒髪小学校入学

1968年 山口県長門市立仙崎小学校卒

1971年 山口県長門市立仙崎中学校卒

1974年 山口県立大津高等学校卒 * ラグビー部所属

第52回全国高等学校ラグビーフットボール大会(花園)出場(同校初出場) 第27回国民体育大会ラグビー高校男子にオール山口選抜として出場

1978年 日本大学農獣医学部水産学科遠洋漁業学専攻卒 * 短艇(カッター)部所属 * マグロ延縄漁実習船日本大学号にて半年に及ぶ航海を経験

職歴

1979年 株式会社ACP(Adventurous Creative Pearsons) 入社。 東京放送(TBS)報道制作部海外取材番組「キャラバンⅡ」スタッフドライバーとしてアメリカに派遣。10ヶ月で8万マイルを走破。(1980年7月まで) 1980年 日本テレビ海外取材番組「世界の道」スタッフドライバー兼アシスタントカメラマンとしてクウェート、イラク、ヨルダン、シリア、レバノンへ派遣。9月22日のイラン・イラク戦争勃発時の瞬間的映像(ミサイル発射シーン)を撮影。以後、ジャーナリストの道へ。 自動車雑誌への寄稿、連載を始める。

1981年 第4回パリ・ダカール・ラリー出場(チームACP)準備のため、渡仏。

1982年 第4回パリ・ダカール・ラリーのスタート。ナビゲーター担当。 第4回パリ・ダカール・ラリーのゴール。市販無改造クラス、二輪駆動総合クラス、マラソンクラスの3部門で優勝。

1983年 第5回パリ・ダカール・ラリー出場。ナビゲーター担当。 テネレ砂漠において砂嵐のため、砂丘から落ち重症を負う。1週間後にようやくパリに移送され入院。

1984年 第6回パリ・ダカール・ラリー出場。ナビゲーター担当。 アルジェリア〜ニジェールの国境付近にてリタイア。 株式会社ドライワークスを設立。副社長就任。

1985年 チーム・ドライワークスとして第7回パリ・ダカール・ラリーに出場。オートバイ部門。 マシントラブルのためリタイア。以後ジャーナリストとしてダカールへ。 著作『JAPS WANT DESERT』(永岡書店)を刊行。 ドライワークス退職。 株式会社ACPに再入社。ドキュメンタリー映画の制作に入る。

1986年 第8回パリ・ダカール・ラリー出場。チームACPのナビゲーター担当。映画「栄光への挑戦」(監督、原田真人)の撮影クルー。チームはリタイアしたが、その模様を多くの雑誌にも寄稿。パリ・ダカールの主催者がラリー中に死亡。転機となる。映画は松竹富士系列で上映。写真集『褐色の無』(永岡書店)を出版。 株式会社ACP退社。フリー・ジャーナリストに。アメリカのオートバイ雑誌の日本版『サイクルワールド』のコントリビューター(寄稿者)となる。 メキシコのバハ・カリフォルニア州で開催されるデザートレース、バハ1000へのオートバイでの出場のため渡米。レポートを『サイクルワールド』誌にて特集する。 第9回パリ・ダカール・ラリーの準備のため渡仏。三菱自動車とフランスの女性誌『マリ・クレール』によるチーム・ユーミン・マリ・クレールのナビゲーター担当。

1987年 第9回パリ・ダカール・ラリーのスタート。リタイアするもダカールまで走る。 アメリカのアウトドア雑誌の日本版『フィールド&ストリーム』が創刊され、コントリビューター(寄稿者)となり、シーカヤックに関する寄稿を始める。シーカヤックの連載『トランス・ジャパン・カヤッキング』を始める。 日本テレビ開局35周年記念番組のスタッフとなり、アラスカ州の北端からオートバイによる北南米縦断ツーリングをスタート。 ツーリングの途上、バハ1000に出場。

1988年 南米大陸のさらに南にあるナバリノ島まで走る。 南米大陸を一周するトランス・アマゾン・ラリーを取材するも、主催者が破綻し、ラリー・サウス・アメリカとなり、コロンビアのカルタヘナからスタート。アルゼンチンのブエノスアイレスまでを取材しながら走破。 有限会社サンドウォーカーズ設立。 北南米大陸縦断ツーリングの記録『風を超えて』(CBSソニー出版)を出版。 アメリカ、ワシントン州で開催されたシーカヤック・シンポジウムに取材(フィールド&ストリーム誌)として参加。 バハ1000出場のため渡米。

1989年 著作『BAJA 1000』(CBSソニー出版)を出版。 バハ1000出場とビデオ制作のために渡米。ビデオ作品『BAJA1000』を制作。 第11回パリ・ダカール・ラリー出場のため、渡仏。日産自動車の協力を得て、チーム・デザートレイダーズを結成。

1990年 第11回パリ・ダカール・ラリー。 ヤマハ発動機広報誌『55mph』の取材のため、バハ・カリフォルニアへ。1ヶ月の取材を経て帰国。 第12回パリ・ダカール・ラリー出場のため渡仏。チーム・デザートレイダーズ。 フィールド&ストリーム誌の連載をまとめた写真集『シーカヤッキング・イン・ジャパン』(CBSソニー出版)を出版。

1991年 第12回パリ・ダカール・ラリー。フジテレビの海外クイズ番組『なるほど・ザ・ワールド』の協賛を受けての出場。 台湾(花蓮港)から九州(鹿児島県山川港)まで、シーカヤックによる「黒潮漕破遠征隊」のに同行取材するも、遠征隊員となってしまう。TBSテレビ『ニュースの森』での放映と雑誌『フライデー』に寄稿。 パリからユーラシア大陸を横断して北京までを走破するパリ・北京・ラリーが開催されることになり、渡仏。しかし、ソ連8月クーデターの影響で中止となり帰国。

1992年 西表島へ。西表島から東京湾を目指す遠征『黒潮エクスペディション』へ。30日後に東京湾奥、千葉稲毛海岸に到達。 パリ・北京・ラリーが開催されることになり、ジャーナリスト(フライデー特派員)兼プレスカーのドライバーとして参加。

1993年 イワタニリゾート株式会社よりカヌーカタログ『パドルウォーカー』を制作。 モーターマガジン社より『PARIS DAKARサハラ自動車探検隊』を執筆。 探検家、関野吉晴が企画したグレートジャーニーのサポートクルーとして南米チリへ遠征。シーカヤックでマゼラン海峡を横断のため。

1994年 マゼラン海峡を関野吉晴氏と横断。フジテレビ番組『グレートジャーニー』の始まり。

1995年 ネコパブリッシングよりアウトドア雑誌『アウトドア・イクイップメント』を創刊。アドバイザー兼ライターとして活動を始める。

1996年 ヨットによる「海から見よう日本」というキャンペーンに参加し、唐津から那覇へと航海。艇長は南波誠氏だった。その後、アメリカズカップ挑戦のためのシンジケート作りに南波氏に誘われる。

1997年 本邦初となるシーカヤックのマニュアル書『シーカヤッカーズ・ハンドブック』(マリン企画)を出版。

1998年 マリン企画より『シーカヤッカーズ・マガジン』を出版 枻出版社より『ザ・シーカヤッキング・マニュアル』を出版

1999年 枻出版社よりシーカヤック専門誌『SEA Kayaker 1号』を出版。 『SEA Kayaker 2号』を出版。 『SEA Kayaker 3号』を出版。 シーカヤックの勉強会「シーカヤックアカデミー」を主催し、伊豆半島外浦にて初開催。 ムック本『オートバイの旅』(枻出版社)を出版。 『SEA Kayaker 4号』を出版。

2000年 『SEA Kayaker オールカタログ』を出版。 ハワイ州宝の航海カヌー「ホクレア号」の25年記念行事に参加。ハワイ〜ラパヌイ(イースター島)の往復航海の成功も記念する行事でもあり、2007年に日本への航海を宣言する機会にもなった。日本航海についてのファシリテーターを託される。 シーカヤックアカデミー開催

2001年 雑誌『ターザン』(マガジンハウス)に月2回の連載を始める。ホクレア号の広報活動。 雑誌『ボクサージャーナル』(枻出版社)でオートバイツーリングの連載を始める。 雑誌『アウトドア』(山と溪谷社)でシーカヤックに関する連載を始める。

2002年 翻訳本『Sea Kayaking』の出版。プロデューサー兼監修者として関わる。 沖縄の座間味島〜那覇港までの「サバニ帆漕レース」に初出場。 シーカヤックアカデミーを開催。 こども夢基金より『小さなカヌーの大いなる世界』DVDを制作。

2003年 マガジンハウスよりターザン別冊『ホクレア号について語ろう』の制作を始める。 冬の瀬戸内海を7日間で横断する「瀬戸内カヤック横断隊」の第1次隊を結成し、以後10年間継続する。

2004年 『ホクレア号について語ろう』出版。 シーカヤックアカデミーを伊豆半島から山口県油谷町に移動して開催。 第2次瀬戸内カヤック横断隊。

2005年 日本カヌー連盟(JCF)傘下の日本レクリエーショナルカヌー協会(JRCA)が設立され理事に就任。 日本カヌー連盟地域公認指導員(イグザミナー)資格取得。 神奈川テレビ(TVK)毎週日曜日8時55分からの番組『湘南』のホスト役を1年間務める。 フジテレビ子供番組『ポンキッキーズ』のコーナー番組『不思議の島、ヤッポー!』の企画を務める。

2006年 東京都の運河ルネッサンス天王洲のアドバイザー就任。 カロリン諸島ポロワット島でカヌー航海師「ポ」を認定する伝統儀式に参加。 世界自然遺産になった知床半島で「知床シーカヤック・シンポジウム」の開催に協力。 ホクレア号日本航海のクルーに指名される。 神奈川新聞日曜版に『神奈川沖浪裏二十一世紀』の連載開始(1年間)。

2007年 ホクレア号日本航海の出航に立ち会い、6月9日の横浜港到着までサポートを行う。 文庫本『祝星ホクレア号がやって来た』(枻出版社)を出版。

2008年 文庫本『海とオートバイ』(枻出版社)を出版。 東京海洋大学非常勤講師となる。

2009年 一般社団法人「海洋緑化協会」設立(2015年まで)。 東京海洋大学のための教科書『シーカヤック教書』(海文堂)を出版。

2010年 一般社団法人「横浜水辺のまちづくり協議会」副理事長(2011年まで)。 東京海洋大学他、横浜市立大学、横浜国立大学非常勤講師となる。

2011年 東京海洋大学他、横浜市立大学、横浜国立大学、さらに神奈川大学でも講師となる。

2012年 東京海洋大学他、横浜市立大学、横浜国立大学、神奈川大学講師。

2013年 東京海洋大学、横浜市立大学、横浜国立大学、神奈川大学、東海大学海洋学部非常勤講師。 日本カヌー連盟公認指導員向け教科書『カヌースポーツ基礎』(海文堂)執筆。

2014年 東京海洋大学、横浜市立大学、横浜国立大学、神奈川大学非常勤講師。

2015年 東京海洋大学、横浜市立大学、横浜国立大学、神奈川大学非常勤講師。 ジャパンエコトラック推進協議会理事。

2016年 東京海洋大学、横浜市立大学、神奈川大学非常勤講師。 国立科学博物館3万年前の航海プロジェクトに参加。 海上保安庁海の安全推進アドバイザーとなる。 アウトドアブランド「mont-bell」から業務委託。

2017年 東京海洋大学非常勤講師。横浜市立大学非常勤講師。横浜国立大学非常勤講師。神奈川大学、三重大学非常勤講師。 海上保安庁海の安全推進アドバイザー。 アウトドアブランド「mont-bell」業務委託。

2018年 東京海洋大学、横浜市立大学、神奈川大学、東海大学海洋学部、三重大学非常勤講師。 国立科学博物館3万年前の航海プロジェクト。 海上保安庁海の安全推進アドバイザー。 アウトドアブランド「mont-bell」業務委託。

2019年 東京海洋大学、横浜市立大学、神奈川大学、三重大学非常勤講師。 国立科学博物館3万年前の航海プロジェクト。 海上保安庁海の安全推進アドバイザー。 アウトドアブランド「mont-bell」業務委託。 内閣府総合海洋政策本部 有識者として「海しる(海洋状況表示システム」構築への助言。

2020年 東京海洋大学、横浜国立大学、神奈川大学非常勤講師。 海上保安庁海の安全推進アドバイザー。 アウトドアブランド「mont-bell」業務委託。

2021年 東京海洋大学、横浜市立大学、神奈川大学非常勤講師。 海上保安庁安全推進アドバイザー。 神奈川県葉山町にあるホールスクール「旅する小学校」特別講師。 アウトドアブランド「mont-bell」業務委託。

2022年 東京海洋大学、横浜市立大学、神奈川大学非常勤講師。 海上保安庁海の安全推進アドバイザー。 「旅する小学校」特別講師。 アウトドアブランド「mont-bell」業務委託。

2023年 東京海洋大学、横浜市立大学、神奈川大学非常勤講師。 海上保安庁海の安全推進アドバイザー。 アウトドアブランド「mont-bell」業務委託。 「旅する小学校」特別講師。

  1. ^ “ANATOMICAL ADAPTATIONS OF TOLERANCE TO SALT STRESS IN CENCHRUSCILIARIS L., A SALINE DESERT GRASS”. The Journal of Animal and Plant Sciences 30 (6). (2020-08-03). doi:10.36899/japs.2020.6.0176. ISSN 1018-7081. http://dx.doi.org/10.36899/japs.2020.6.0176. 
  2. ^ JAPAN TAPPI JOURNAL 64 (10): 1211–1211. (2010). doi:10.2524/jtappij.64.1211. ISSN 0022-815X. http://dx.doi.org/10.2524/jtappij.64.1211.