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相模が丘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2024年11月20日 (水) 17:09; Gs194619671969z (会話 | 投稿記録) による版 (歴史の詳細)(日時は個人設定で未設定ならUTC

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日本 > 神奈川県 > 座間市 > 相模が丘
相模が丘
町丁
地図北緯35度30分33秒 東経139度25分26秒 / 北緯35.509269度 東経139.423817度 / 35.509269; 139.423817
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川
市町村 座間市
人口情報2023年令和5年)8月1日現在[1]
 人口 23,202 人
 世帯数 12,483 世帯
面積[2]
  1.365015691 km²
人口密度 16997.61 人/km²
設置日 当該地域各大字小字を統合・地番整理を施行し 1959年昭和34年)4月20日高座郡座間町相模台起立。<1981年(昭和56年)6月1日座間市相模が丘と町名変更し住居表示施行>
郵便番号 252-0001[3]
市外局番 042(相模原MA)(一、二、三丁目の相模が丘仲よし小道さくら百華の道以北と五丁目全域。)[4]
046(厚木MA)(上記以外)[5][6]
ナンバープレート 相模
ウィキポータル 日本の町・字
神奈川県の旗 ウィキポータル 神奈川県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市町名。現行行政地名は相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。

地理

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神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し街路網自体は直線的である。

概略

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終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間北広野、大字新田宿飛び地である現地域での市街地化[7]の進行とともに救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。

地籍高座郡座間町大字座間北広野・中広野の各小字全域と南広野・元広野元広野窪座間街道以北(現・相模が丘一丁目〜四丁目)、辰街道[8]を境界に大字新田宿飛び地見分塚の大部分(現・相模が丘五丁目)、江戸街道[9]を境に飛び地見分塚の残り部分と新畑全域・大字四ツ谷飛び地二ツ塚の座間街道以北(現・相模が丘六丁目)の各大字小字飛び地である[10][11]

その一方で、相模原市1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台丁目〜相模台四丁目を編成し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町が編成されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台相模原市相模台とが隣接して併存することとなった[12][13]

1971年11月1日市制施行した座間市が、相模原市に遅れて1981年6月1日大字相模台地区で住居表示[14]を実施した際、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために町名を相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目とした。

歴史の詳細

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「芝原(しばあら)」と呼ばれる原野であった小田急相模原駅周辺から、現在の小松原ひばりが丘さがみ野東原あたりの区域は、元々周辺農村の入会地とされていて、それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。 江戸末期嘉永6年(1853年[15]にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、現在の小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村新戸村座間宿村新田宿村飛び地の各村が境界を接する区域となり、1877年高座郡上鶴間村(現・相模原市南区南台五丁目)に中和田新開開墾され、1880年には上鶴間村分の府中みち(現・行幸道路)沿い(現・南台丁目)には人が住み着いて耕作していたが、各村の境界域ということもあり、市街地を形成することは困難を極めた[16][17]

やがて1889年明治の大合併により同郡大野村大字上鶴間(現・相模原市南区南台丁目)、新磯村大字新戸[18](現・相模原市南区相模台二丁目)、座間村大字座間北広野(現・座間市相模が丘一丁目)・大字新田宿飛び地字見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)となった。

その後、1894年になって開拓者たちは次々と府中みち(現・行幸道路)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加った。その人衆の内、中和田新開の座間分に最初に住み着いたのは座間上宿出身の耕作者たった一軒だけであった。

1919年には14戸にまでなった中和田新開は府中みち(現・行幸道路)と辰街道[19]。の交差する未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の「原点」となった[20]

1937年9月30日市ヶ谷より陸軍士官学校が現在のキャンプ座間の地に移転してくると、翌1938年から、高座郡新磯村臨時東京第三陸軍病院大野村陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・学校法人麻布獣医学園ほか)が開設され、当時陸軍小田原線江ノ島線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区上鶴間相模大野東林間旭町豊町栄町南台ほか)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台磯部(現・相模原市南区相模台相模台団地桜台)、座間町新田宿飛び地見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)・座間字北広野座間字中広野(現・座間市相模が丘一丁目~三丁目)までの地域を原町田東京府南多摩郡町田町、現在の東京都町田市)の一部としてまとめて扱うことが多く、電話が町田電報電話局管内(現・相模原MA[21])であるのはその名残である。

1937年12月20日、人口約7千人の座間村は単独で町制施行し高座郡座間町となった。1941年4月29日、この時人口7千6百人の座間町は大野村新磯村上溝町麻溝村大沢村田名村相原村と合併し、人口4万人を超える高座郡相模原町が誕生したが、1948年9月1日に、旧座間町域(現在の座間市域・この時人口約1万1千人)が相模原町から分離独立した[22]

大きな転換点となったのは、前述のとおり1938年臨時東京第三陸軍病院の進出である。高座郡新磯村磯部大野[23]同病院が開設されるのに合わせて、小田原急行鉄道が、同年3月1日に付近を通過していた小田原線上の座間町大野村との境界付近に相模原駅[24]を開業し、後に同駅同病院を結ぶ街路[25]周辺が市街化する契機となった。

そののち戦時色が濃くなった1943年座間分新田宿飛び地である、当時の高座郡相模原町大字新田宿飛び地見分塚(現・相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。大部分が東京市内から移り住んだ人たちである。皆、昭和十八年にこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った[26][27]

当時のこの地は一面、陸稲を栽培する耕作地であったが台地のため「水」がなく苦労した。太平洋戦争終戦後1949年県営相模原畑地灌漑事業が着工し[28]1953年畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始したが、相模が丘の元の大字である座間新田宿畑地灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった[29]1955年には町営水道が完成するとともに宅地化され[30]1960年には現・六丁目に小田急住宅が完成。その後も継続して戸数・人口が増加し全域が市街地化した1970年に畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え通水を終了した。

年表

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世帯数と人口

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2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
相模が丘一丁目 2,644世帯 4,529人
相模が丘二丁目 1,928世帯 3,478人
相模が丘三丁目 1,622世帯 3,033人
相模が丘四丁目 1,906世帯 3,520人
相模が丘五丁目 2,655世帯 4,822人
相模が丘六丁目 1,728世帯 3,820人
12,483世帯 23,202人

人口の変遷

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国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年(平成7年)[51]
19,766
2000年(平成12年)[52]
22,561
2005年(平成17年)[53]
22,646
2010年(平成22年)[54]
23,214
2015年(平成27年)[55]
23,298
2020年(令和2年)[56]
23,880

世帯数の変遷

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国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[51]
8,603
2000年(平成12年)[52]
10,050
2005年(平成17年)[53]
10,165
2010年(平成22年)[54]
10,838
2015年(平成27年)[55]
11,226
2020年(令和2年)[56]
12,183

学区

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市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[57]

丁目 番・番地等 小学校 中学校
相模が丘一丁目 全域 座間市立相模が丘小学校 座間市立相模中学校
相模が丘二丁目 全域
相模が丘三丁目 全域
相模が丘四丁目 全域 座間市立相模野小学校
相模が丘五丁目 全域 座間市立相模が丘小学校
相模が丘六丁目 全域 座間市立相模野小学校

事業所

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2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[58]

丁目 事業所数 従業員数
相模が丘一丁目 130事業所 1,711人
相模が丘二丁目 73事業所 420人
相模が丘三丁目 55事業所 291人
相模が丘四丁目 72事業所 642人
相模が丘五丁目 151事業所 784人
相模が丘六丁目 58事業所 1,374人
539事業所 5,222人

事業者数の変遷

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経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[59]
573
2021年(令和3年)[58]
539

従業員数の変遷

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経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[59]
5,426
2021年(令和3年)[58]
5,222

交通

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鉄道

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町内に鉄道駅はない。

バス

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道路

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施設

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その他

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日本郵便

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脚注

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  1. ^ a b 町丁字別年齢別人口統計表(令和5年)” (CSV). 座間市 (2023年8月8日). 2023年8月16日閲覧。 “(ファイル元のページ)(CC-BY-4.0)
  2. ^ 『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年8月16日閲覧。(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b 相模が丘の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月9日閲覧。
  4. ^ NTT東日本-南関東 東京事業部 東京西支店管轄
  5. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  6. ^ NTT東日本-南関東 神奈川事業部 神奈川西支店管轄
  7. ^ 1955年には座間町水道が完成。すると土地の値段が倍になったが、それでも土地を購入する者はいなかった。しかしこの水道完成でこの地域が耕地から急速に市街地化する決定的な出来事になった。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』
  8. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新五丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間市海老名市綾瀬市大和市を経て藤沢市に至る街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。
  9. ^ 相武台前駅踏切を渡り相模が丘に向かう道。相模野小学校下、元広野と元広野窪の境界道である小池窪の坂を直進し農道(現・座間街道)を渡り、相模が丘中部(三丁目と四丁目の境界道路・五丁目と六丁目の境界道路)を縦貫し、上鶴間村東海大相模高校側)と下鶴間村相模カンツリー倶楽部側)の境の道の境の道で八王子道(滝山道)を渡り鶴間村町谷原町田市南町田町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿江戸三宅坂へ向かう大山街道矢倉沢往還)に合流。
  10. ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』『座間むかしむかし第6集・夏草騒動』『座間むかしむかし第7集・冬草騒動~大字境の確定』『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり』
  11. ^ 『座間の地名・付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』
  12. ^ 同様の例はやや南の相武台についても見られ、座間市相武台は、座間市の相武台として2013年10月15日住居表示を施行した。
  13. ^ 戦時中高座郡相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅一帯を通称相模台と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』
  14. ^ 不動産登記法に基づく地番は、1959年4月20日高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設した際、新たに地番の付け直した地番のまま。
  15. ^ この年から芝原(しばあら)と呼ばれた相模が丘から小松原ひばりが丘さがみ野東原にかけて開墾がはじまり、文久年間に地割が完成し耕作が始まった。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・相模台の昔』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
  16. ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』
  17. ^ 座間分の本村である座間宿村座間入谷村新田宿村四ツ谷村栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』。中和田新開の詳細は南台の頁を参考されたし。
  18. ^ 当該地域は1951年1月に大字磯部の一部と統合され高座郡相模原町大字新磯野が起立した。
  19. ^ 高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間市海老名市綾瀬市大和市を経て藤沢市にいたる街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。
  20. ^ この頃には新開のはずれに共同墓地を建立した。
  21. ^ NTT東日本-南関東 東京事業部 東京西支店の管轄
  22. ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日市制施行して人口約8万人の相模原市が発足した。
  23. ^ 昭和4年刊行 土地宝典・高座郡新磯村地番反別入図より
  24. ^ 1941年4月5日に現在の小田急相模原駅と改称。
  25. ^ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(旧・国立病院通り)。往時は高座郡座間村大字座間北広野・大字新田宿飛び地見分塚<現・座間市相模が丘>、大野村大字上鶴間<現・相模原市南区南台>と新磯村大字新戸大字磯部<当該地域は1951年1月に統合され高座郡相模原町大字新磯野が起立した、現・相模原市南区相模台>の境界となっていた。
  26. ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子』『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり』『座間の語り伝え 外編1・軍事施設の進出』
  27. ^ 戦時中高座郡相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅一帯を通称相模台と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』
  28. ^ 1963年竣工
  29. ^ 『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』元の大字座間入谷・大字栗原であった現在の小松原ひばりが丘栗原東原さがみ野は灌漑用水を利用できた。
  30. ^ 『座間むかしむかし第25集・相模が丘(芝原)の移り変わり』『座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子』
  31. ^ 引用元:皇国地誌村誌
  32. ^ 引用元:皇国地誌村誌
  33. ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
  34. ^ 1941年4月5日に現在の小田急相模原駅と改称。
  35. ^ 『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』
  36. ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日市制施行して人口約8万人の相模原市が発足した。
  37. ^ 完成は1963年
  38. ^ 1970年通水終了。
  39. ^ 町田市柿生交換局管内の三輪町を除く)、相模原市上鶴間麻溝台鵜野森全域、大沼の大部分、磯部新磯野古淵の一部、座間町相模台の大部分※1960年6月19日当時。
  40. ^ 旧相模原電報電話局、後の橋本分局。市外局番027、市内局番7。
  41. ^ 1961年11月5日の全国ダイヤル自動即時化まで、市外局番:東京23区03、川崎04、日吉046、中原047、溝ノ口048、登戸049、横浜05、藤沢066、武蔵野三鷹022、武蔵府中0236、調布024、立川025、八王子026、青梅028,町田0274相模原(旧相模原電報電話局、後の橋本分局)027、大阪06。名古屋は交換手扱い。『日本電信電話公社関東電気通信局「関東電信電話百年史. 上」(1968年3月刊行)』より。
  42. ^ 経済復興にともない加入申し込みは増加する一方で、電話の架設が追いつかない状況、すなわち〈積滞〉が深刻化していた。この時町田局管内は1000回線を超え、小田急相模原駅周辺には既に1000番台が割り当てられており新たに4000番台が、原町田区域・相模大野駅周辺区域には2000番台・3000番台が割り当てられた。市外局番設定0274、市内局番なし 小田急相模原駅周辺・例①旧表記・町田1xxx番→新表記・0274-1xxx、例②旧表記・町田xxx番→新表記・0274-4xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶旧表記・町田xx番→新表記・0274-20xx、例❷旧表記・町田xxx番→新表記・0274-2xxx、例❸旧表記・町田xxx番→新表記・0274-3xxx。
  43. ^ 1961年11月5日、全国ダイヤル自動即時化に際し、都内除く南関東地区に04が当てられた。従って川崎044、日吉0446(1966年7月10日044-61に変更→1990年10月1日、現行の045-561に変更)、中原0447(1966年12月4日044-72に変更)、溝ノ口0448(1964年10月25日044-82)に変更、登戸0449(1963年12月8日044-91に変更。1965年12月12日柿生交換局は自動即時化044-98、1965年11月26日登戸局百合丘分局開設、自動即時化044-96)、横浜045、戸塚04692(手動即時、1962年3月11日自動即時化045-88に変更)、武蔵野三鷹0422、田無0421、武蔵府中04236、調布0424、八王子0426、青梅0428、町田04274、相模原(後の橋本分局)0427、小田原0465、国府津04650(※1963年10月1日、0465-47に変更)、箱根0460、湯河原04606、厚木0462(※1963年12月5日ダイヤル自動即時化)、大和0462(※1964年2月23日ダイヤル自動即時化)、煤ヶ谷046288(手動即時)、藤沢0466、鎌倉0467、茅ケ崎04670、横須賀0468、三浦04688、逗子04693、大磯・二宮・秦野0463、西秦野0463-01、平塚0463(※1964年5月31日ダイヤル自動即時化)となった。名古屋052・大阪06『日本電信電話公社関東電気通信局「関東電信電話百年史. 上」(1968年3月刊行)』より。
  44. ^ 小田急相模原駅周辺・例①04274-4xxx、例②04274-1xxx。原町田・相模大野駅周辺・例❶04274-20xx、例❷04274-2xxx、例❸04274-3xxx。
  45. ^ 特殊番号(非自動化地域への通話)103・108(受話器を取り103ないし108をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、電話を切らずに待つ・手動即時通話)、106(受話器を取り106をダイヤルし交換手に相手の電話番号を告げ、一旦電話を切って待つ・手動待機通話)
  46. ^ 例①旧表記04274-4xxx→新表記0427-22-4xxx、例②例旧表記04274-1xxx→新表記・0427-22-1xxx、例③旧表記04274-20xx→新表記0427-22-20xx、例④旧表記04274-2xxx→新表記0427-22-2xxx、例⑤旧表記04274-3xxx→新表記0427-22-3xxx。
  47. ^ 相模原市の町田局管内を除く、旧・相模原局(後の橋本分局・市外局番0427)外、各手動式交換局を統合した新・相模原電報電話局開局につき市内局番設定(52<中央、相模原、清兵衛新田、淵野辺、矢部、上溝・大沼の一部>・62<上溝、田名、大島>・72<橋本、相原、下九沢、上九沢>・78<当麻、下溝>)。同時に町田局市外局番04274を相模原局と同じ0427に変更、市内局番22を設定。相模原局‐町田局間、準市内扱いで単一料金にて通話可能となる。※1964年1月30日当時。
  48. ^ 例①0427-22-4xxx→0427-44-4xxx、例②0427-22-1xxx→0427-44-1xxx、例③0427-22-20xx→0427-42-20xx、例④0427-22-2xxx→0427-42-2xxx、例⑤0427-22-3xxx→0427-42-3xxx ※1969年2月当時。
  49. ^ 座間町相模台町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年5月30日当時
  50. ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx
  51. ^ a b 平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
  52. ^ a b 平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
  53. ^ a b 平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
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