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土曜日の夜の虐殺

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土曜日の夜の虐殺 Saturday Night Massacre)は、ウォーターゲート事件渦中の1973年10月20日の夜、ニクソン大統領が司法長官・司法次官・特別検察官を次々に辞職に追い込んだ(特別検査官は解任)出来事。

アーチボルド・コックス(ウォーターゲート事件を調査するために1972年6月17日指名された特別検察官)は、証拠として大統領執務室の中で行われた会話の録音テープの提出を求め、ニクソン大統領への召喚状を出した。ニクソンは当初、大統領特権を盾にこれを拒絶していたが、1973年10月19日には、テープの調査と要約をジョン・C・ステニス上院議員が行った上で特別検察官事務所に提出する代わりに、自身の召還を取り消すようコックスに要請した(ステニス妥協案)。 コックスは同日夜これを拒否した。

週末に入り官庁事務所が休みになるため、法的な動きはしばらく無いだろうと考えられていたが、ニクソン大統領は次の晩(土曜日の夜)からコックス解任のために行動を起こす。

まず彼は司法長官エリオット・L・リチャードソンと連絡を取り、コックスを特別検察官から解任するよう求めた。リチャードソンはこれを拒否し、抗議して辞職をした。ニクソンは次に司法次官ウィリアム・D・ラッケルズハウスに同じ要求をするが、彼もこれを拒み、ニクソンによって辞職させられた。

続いてニクソンは司法次官であったロバート・H・ボークを司法長官代理に任命し、コックスを解任するよう命じた。リチャードソンとラッケルズハウスは両人とも、上院司法委員会の任命公聴会で特別検察官の職に干渉しないという宣誓証言をしていたが、ボークは委員会へそのような証言をしておらず、命令に従ってコックスを解任した。

その後ニクソンはFBIを動員し、特別検察官事務所を閉鎖させた。その様子はテレビで放送され、国民に「警察国家の再来」「犯罪容疑者が権力でもみ消し」と受け取られたため、抗議の電報・電話がホワイトハウスに数万通押し寄せた(各議員の事務所にも殺到した)。 連邦議会もニクソンの行為を大統領の権力の乱用と批難し、ニクソンに対する多数の弾劾法案が議会に提出される事態に至る。

ニクソンは、1973年11月17日の有名な記者会見で自身の行為を次のように弁明している:

「私は公職に就いている間、司法妨害を行ったことなど一度もありません。また、私は公職にある身としてこの種の調査を歓迎します。なぜならアメリカ国民は彼らの大統領がペテン師であるのかどうかを知るべきであるからです。そして、私はペテン師ではありません!」


この「土曜日の夜の虐殺」が直接のきっかけとなり、1978年には特別検察官設置法(ワシントン連邦高裁が任命する独立機関。予算もほぼ無制限)が可決された。

その後同法はクリントン大統領に対する行き過ぎた調査(ケネス・スター特別検察官)が原因で廃止されている。