ノート:関西高等学校
「関西」の読み方について
「関西」を「かんぜい」と読むことについて、現在の記述では「かんさい」が方言風の発音からなまったものであるとされていますが、先日「関西学園百年史」(p.195)に以下の内容を見つけました。
- 昭和23年夏、昭和24年春の甲子園では、選手のユニホームには「KANSAI」とある。
- 「当時の長老連中」が、昭和35年春の甲子園から「KANZEI」と「改称」した(百年史には改称と書かれていました)。
これは、 創立ごろの明治中期の呼び方としては、「関西」は「かんさい」ではなく、「鎮西」を「ちんぜい」と言うのと同じように「かんぜい」と呼ぶのが当然であり、校歌にも「それくゎんぜいに」と読みがある以上はそう改称するべきだ、との理由からだったとのことです。そこで、
- 関西高校の戦後初めての甲子園出場である1948年夏、および1949年春のユニフォームには「KANSAI」と書かれ、一方で校歌は「かんぜい」であり、そのことから、当時は「かんさい」「かんぜい」どちらも呼称されていたと思われる。しかし、(例えば「鎮西」を「ちんぜい」と読むのと同様に)創立ごろの読みとしては「かんぜい」の方が正しかったのではないかという声が挙がり、校歌にもならって、1960年春の甲子園出場時より、「かんぜい」が正式な読みとなった。なお、カンサイを岡山弁風に発音すると「カンセー」になり、さらにそれが訛って「カンゼー」と呼んでいたことから、という説もある。
と書き換えたいのですが、いかがでしょうか。ただ、百年史に「改称」とあるのが気がかりで、私にはこれがユニホームのつづりを改称したとも、学校の呼び方そのものを改称したともどちらとも読め、もし後者ならば、そもそも当時は「かんぜい」と呼ばれていなかったことになりますが(校歌だけ「かんぜい」と歌っていた?)、、、。--Koinobori 2007年5月3日 (木) 17:01 (UTC)
- とくに異論がないようなので、これで書き換えようと思います。Koinobori 2007年5月11日 (金) 22:26 (UTC)
先日、発行されました「関税学園百二十周年」(p57)に以下の表記がありました。
- 「関西」の校名は、片平が東京で修行中、福沢諭吉が関東で慶応を始めとして教育事業を展開していることに憧れと感銘を受け、自分は関西の地でそれをやりたいと早くから心に決めていたことに由来します。片平は関西を跳び越して岡山に来たのですが、広く関西一円からも優秀な生徒を集めたいとして、初志を貫いて本校の校名としたのでした。
- 片平とは1894年の校長代行、後の2代目・5代目校長の片平周三郎のことです。
また、10月25日に行われた「学校法人関西学園創立120周年記念式典」での歴史紹介では「カンサイチュウガッコウ」と紹介されました。 これにより、「校名の由来」の
- 「関西」という名前は東の代名詞といえる「関東」に対して、西の代表という願いから名付けられた。
という部分を
- 1894年、当時校長代理をしていた片平周三郎が東京で修行中、福沢諭吉が関東での教育事業を展開していることに憧れを感銘を受け、自らも関西の地でそれを行いたいと決めたことに由来する。実際に片平が教育事業を行ったのは関西よりも西にある岡山の地であるが、「広く関西からも優秀な生徒を集めたい」として本校の校名とした。当時の読み方は「カンサイ」であった。
と書き換えたいのですが、どうでしょうか?「カンゼイ」の読み方については学校関係者の間でも意見が分かれているので正式なことは現在となってはわかりません。 ログインする前に来年度のコース編成・現在のコース編成を参考にし学科を、関西学園百二十周年を参考にし、沿革を編集しました。--島宮 2007年10月25日 (木) 14:31 (UTC)
- 異論がないようなので書き換えさせていただきます。--59.146.142.126 2007年10月28日 (日) 14:38 (UTC)
- すみません、今更の反応で大変申し訳ないのですが…。創立当初の読みが学校関係者の間でも分かれているならば、
- 当時の読み方は「カンサイ」であった。
- を、
- 当時の読み方は「カンサイ」であった可能性がある。
- とするのはどうでしょうか。明治期においては「関西」を「かんさい」以外の読みで呼んでいた固有名詞はいくつかあるようです。たとえば関西学院大学(かんせいがくいんだいがく)とか、関西鉄道(かんせいてつどう)。島宮様の書き込みを見る限り、断定するよりも可能性として記述したほうがよいように思われます。--Koinobori 2007年11月18日 (日) 16:39 (UTC)
- すみません、今更の反応で大変申し訳ないのですが…。創立当初の読みが学校関係者の間でも分かれているならば、