水俣病
水俣病(みなまたびょう)は、公害病の一つでチッソ株式会社が海に流した廃液により引き起こされた。世界最大の水銀公害病と言われる[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。1956年に熊本県水俣市で発生が確認されたことがこの病名の由来であり、英語ではMinamata diseaseと呼ばれる。この後新潟県で昭和電工が起こした同様の公害病の病名も水俣病であることから、これを区別するために前者を熊本水俣病、後者を第二水俣病または新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)と呼称する。ただし、単に「水俣病」と言われる場合には前者を指す。
この二つの水俣病とイタイイタイ病、四日市ぜんそくは四大公害病とされ、日本における高度経済成長の影の面となった。
症状
水俣病は、メチル水銀による中毒性中枢神経疾患であり、その主要な症状としては、四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、振戦(手足の震え)等がある。患者には重症例から軽症例まで多様な形態が見られ、症状が重篤なときは、狂騒状態から意識不明をきたしたりさらには死亡する[1]。一方、比較的軽症の場合には、頭痛、疲労感、味覚・臭覚の異常、耳鳴りなども見られる。
メチル水銀で汚染されていた時期にその海域・流域で捕獲された魚介類をある程度の頻度で摂食していた場合は、上記症状があればメチル水銀の影響の可能性が考えられる。典型的な水俣病の重症例では、まず口のまわりや手足がしびれ、やがて言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などの症状が現れ、それが徐々に悪化して歩行困難などに至る例が多い。これらは、メチル水銀により脳・神経細胞が破壊された結果であるが、それのみならず、血管、臓器、その他組織等にも作用してその機能に影響する可能性も指摘されている。また、胎盤を通じて胎児の段階でメチル水銀に侵された胎児性水俣病も存在する。
上記症状のうちいくつかの症状が同時に現れるものもあるが、軽度の場合には臨床症状だけでほかの病気と識別診断するのは一般に困難である。このような様々な症状の程度は、一般にメチル水銀の曝露量に依存すると考えられるが、メチル水銀は体内に残留しないため、過去にさかのぼって曝露量を推定することは困難である。発症後急激に症状が悪化し、激しい痙攣や神経症状を呈した末に死亡する劇症型は、高濃度汚染時期に大量のメチル水銀を摂取し続けたものに見られる。この臨床症状は典型的なメチル水銀中毒であるハンター・ラッセル症候群(有機水銀を使用する労働者に見られた有機水銀中毒症)とよく一致し、これが水俣病原因物質究明の決め手となった。劇症型には至らないレベルのメチル水銀に一定期間曝露した場合には軽度の水俣病や、慢性型の水俣病を発症する可能性がある。
一方、長らくの間、ハンター・ラッセル症候群という水俣病患者中最も重篤な患者、いわば「頂点」に水俣病像を限定してしまい、その「中腹」「すそ野」である慢性型や軽症例を見逃す結果を招いてしまったとの批判がある。[2]。人体では、メチル水銀自体は比較的排泄されやすい化学物質の一つであるが、中枢神経系などに入り込みやすく、胎盤を通過しやすいという化学的な性質を有しており、その毒性作用は神経細胞に生じた障害によるものである。いったん生じた脳・神経細胞の障害の多くは不可逆的であり、完全な回復は今のところ望めないが、リハビリによりある程度症状が回復した例は多数存在する。一方で、若い頃に健康であった者が、加齢にともなう体力低下などにより水俣病が顕在化する場合も考えられる。
重症例はもちろん、軽症であっても、感覚障害のため日常生活に様々な支障が出てしまう。例えば、細かい作業が出来ず、あるいは作業のスピードが落ちる。怪我をしても気付かず、傷口が広がったり菌が侵入する原因となる。こうしたことから、「危なくて雇えない」などと言われ、職を失ったとする証言は判決文や出版物中に複数存在する。 水俣病公式発見前後、劇症型の激しい症状は、「奇病」「伝染病」などといった差別の対象となった。こうした差別のため、劇症型以外の患者が名乗り出にくい雰囲気が生まれ、熊本大学研究班に送られてくる症例は劇症患者ないしそれに近いものだけとなり、ますます水俣病像 = ハンター・ラッセル症候群という固定観念が強くなってしまった。
原因
水俣病はメチル水銀による中毒性の神経系疾患である。メチル水銀中毒のうち、環境汚染の関与が認められるものをとくに水俣病と呼ぶとされ、環境汚染によってメチル水銀が魚介類等に蓄積し、それを摂取することによって発病したものを指す。なお、有機水銀が合成された理論的メカニズムは今なお完全に明らかになっていない。(これは、製造工程の設計時点では水俣病の発生を事前に回避することが難しかったことを示している。)
日本で水俣病が集団発生した例は過去に2回ある。そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産に触媒として使用した無機水銀が触媒の反応過程でアルキル水銀化合物を副生し、それが工場排水として、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾(八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄したため、メチル水銀が魚に生体濃縮し、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等に被害が発生した。1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれる。これは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄したメチル水銀による。
メチル水銀中毒が世界ではじめて報告されたのは1940年のイギリスである。このときはアルキル水銀の農薬工場における従業員の中毒例であった。ハンターとラッセルによって、運動失調、構音障害、求心性視野狭窄がメチル水銀中毒の3つの主要な臨床症状とされたため、これをハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。
1959年に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し、さらに化学工業界をあげて有機水銀説を攻撃した。チッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的(理論的ではないことに注意)に証明されたのは1967年のことであったが、排水と水俣病との因果関係が証明されない限り工場に責任はないとする考えかたは、結果として大量の被害者を生みだし、地域社会はもとより、補償の増大など企業自身にとっても重大な損害を生むもとになった。
原因の特定が困難となった要因としては次の事実もある。それは、「水俣病の科学」でも指摘されていることであるが、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造した工場は国内に七個所、海外に二十個所以上あり、水銀を垂れ流している場所も他に存在した。しかし、これほどの被害をひき起したのは水俣一個所であり、かつ終戦後になってからである。この事実が有機水銀起源説への化学工業会の猛反発を招き、発生メカニズムの特定をとことんまで遅らせることとなる。
チッソ水俣工場では、第二次世界大戦前からアセトアルデヒドの生産を行っていたにもかかわらず、なぜ1950年過ぎから有機水銀中毒が発生したのかは、長期にわたってその原因が不明とされてきた。現在でも決定的な理論はまだ出現していない。[3]。現在では、生産量の増大ならびにチッソが1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更による助触媒の廃棄などが患者の大量発生に関係したと考えられている。チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産を開始したのは1932年からであるが、年間生産量は1954年までは209 - 9,159トンであった。しかし1950年代中頃から増産が続き、1956年には前年度の約1.5倍の15,919トンとなったのをはじめ、1960年には45,244トンで最高となった。さらに水俣工場では1951年、アセトアルデヒド合成反応器内の水銀触媒の活性維持に使用していた二酸化マンガンを硫化第二鉄に変更している。また、近年の研究で二酸化マンガンが有機水銀の中間体の精製を抑える事が明らかになりつつある。また、当時の生産設備は老朽化が進んでいたが経費削減で更新を怠ったために廃液の流出が年々加速度的に増えつつあったことが当時の薬剤購入量から示されている。[4]このように、この時期の生産量の急激な増大や、老朽設備運転による廃液量の増加に代表される利益至上主義による化学プラントプロセス管理の無視、助触媒の変更等が組み合わさった結果、大量のメチル水銀の生成につながったと考えられている。最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0.6 - 6トンに達したと推定されている。
なお、自然の海域には無機水銀をメチル水銀に変換する細菌が存在するが、それらが生成するメチル水銀はごく微量であると熊本県は主張している。(実際には、誰も研究しておらず、現在水俣湾の有機水銀濃度が増えたというデータは存在しないだけである。)水俣病発生当時、工場はメチル水銀を流していなかったとか、自然の海域で無機水銀から生成した有機水銀が水俣病の原因となったなどとする主張には根拠はない。
なお、そもそもの遠因として当時世界中で採用されていたアセチレン法アセトアルデヒド工法は、あくまでも経験的に効率がよく水銀が安定して回収できるが故に広く使われていたものであるが、実は有機水銀の中間体が出来ていたことを誰も気づかなかったことが挙げられる。
経過
既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされるが、顕在化したのは1953年頃からである。この頃より、水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)[5]。1956年になって、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。
当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。その事が現在も差別や風評被害につながっている。
水俣近海産の魚介類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに食糧を魚介類によらざるをえなかった為、被害が拡大されていくことになった。
水俣市では新日本窒素肥料に勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの中傷や新日本窒素肥料に同情的見方もあった[6]。
1959年、熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表し、水銀は新日本窒素肥料水俣工場から排出されたものである疑いが濃くなった。同年11月には厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因は有機水銀化合物であると厚生大臣に答申したが、その発生源については新日窒水俣工場が疑われるとの談話を残すに止まった。有機水銀説が出されると、新日本窒素肥料および日本化学工業協会などはこれに強硬に反論した。
1960年、政府は経済企画庁、通産省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させて原因究明にあたらせたが、何の成果も出すことなく協議会は翌年には消滅している。 このころ、東京工業大学清浦雷作教授はわずか5日の調査で「有毒アミン説」を提唱し、東邦大学戸木田菊次教授は現地調査も実施せず「腐敗アミン説」を発表するなど、非水銀説を唱える学者評論家が出現し、マスコミや世論も混乱させられた。
一方、1959年12月30日には、新日本窒素肥料は水俣病患者・遺族らの団体と見舞金契約を結んで少額の見舞金を支払ったが、会社は汚染や被害についての責任は認めず、将来水俣病の原因が工場排水であることがわかっても新たな補償要求は行わないものとされた。同時に工場は、汚水処理装置「サイクレーター」を設置し、工場排水による汚染の問題はなくなったと宣伝したが、のちに「サイクレーター」は水の汚濁を低下させるだけで、排水に溶けているメチル水銀の除去にはまったく効果がないことが明らかにされた。このほかこの年には、新日本窒素肥料は、排水停止を求めていた漁業組合とも漁業補償協定を締結した。これらの一連の動きは、少なくとも当時、社会的には問題の沈静化をもたらし、水俣病は終結したとの印象が生まれた。実際には、それまで水俣湾周辺に限られていた患者の発生も、1959年始めころから地理的な広がりを見せており、このあとも根本的な対策が取られないままに被害はさらに拡大していった。その一方、声を上げることのできない患者たちの困窮はさらに深まっていった。
なお、2004年10月の水俣病関西訴訟における最高裁判決は、1960年以降の患者の発生について、国および熊本県にも責任があることを認めている。
1956年頃から、水俣周辺では脳性麻痺の子どもの発生率が上昇していたが、1961年、胎児性水俣病患者が初めて確認された。水俣ではその後、合わせて少なくとも16例の胎児性患者が確認されている。水俣病の原因物質であるメチル水銀は胎盤からも吸収されやすいため、母体から胎児に移行しやすい。さらに、発達途中にある胎児の神経系は、大人よりもメチル水銀の影響を受けやすいことが今日では明らかになっている。
1965年、新潟大学は、新潟県阿賀野川流域において有機水銀中毒と見られる患者が発生していると発表した。これはのちに新潟水俣病あるいは第二水俣病と呼ばれるようになる。
政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。この2つを政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。なお、厚生省の発表においては、熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立しているなどとして、水俣病問題はすでに終結したものとしていたが、その後の展開から見てもこれは妥当な判断であったとは言い難い。
公害裁判
1967年、新潟水俣病の患者は昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第一次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。政府統一見解後の1969年には、熊本水俣病患者の一部らがチッソ株式会社を被告として、熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)を提起した。
1971年、新潟水俣病一次訴訟の判決があり、昭和電工は有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して、住民にメチル水銀中毒を発生させた過失責任があるとして、原告勝訴の判決が下された。これは、公害による住民の健康被害の発生に対して、企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。
1973年3月20日には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。すでに熊本県で水俣病が発生したあとに起きた新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でもはじめての出来事であった。そのため、熊本第一次訴訟で被告のチッソ株式会社は「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。
補償と救済
水俣病として認定された患者は原因企業であるチッソおよび昭和電工からの補償を受ける。補償内容は1973年に患者と原因企業間で締結された補償協定により、一時金一人1,600万~1,800万円、年金、医療費の支給などで、認定患者の数は約3,000人(死者含む)である。公害健康被害の補償等に関する法律(公健法)による水俣病の認定は、国(環境省)の認定基準にしたがって、国からの委託を受けた熊本県・鹿児島県および新潟市が行う。現在の認定基準は1977年に「後天性水俣病の判断条件」として公表された判断条件(昭和52年判断条件とも言われる)で、汚染地区の魚介類の摂取などメチル水銀への曝露歴があって感覚障害が認められることに加え、運動障害・平衡機能障害・求心性視野狭窄・中枢性の眼科または耳鼻科の症状などの一部が組み合わさって出現することとされている。
一方、この水俣病認定基準が医学的ではなく政治的で不十分であるとの批判があり、この認定から外れた住民(未認定被害者)の救済が今日まで続く補償・救済の主要な問題となってきた。国や原因企業などを相手に損害賠償請求訴訟を起こしていた未認定被害者らは、1995年、自民党・社会党・新党さきがけの連立与党三党による調停を受け入れ、これら訴訟の大半が取り下げられた。このときの政治解決により、被害者には一時金260万円などが原因企業から支払われたほか、医療費の自己負担分などが国や県から支給されており、その対象者は約12,700人に上る。この政治解決を受け入れずに、訴訟を継続したのが水俣病関西訴訟である。2004年、最高裁判所は関西訴訟に対する判決で、水俣病の被害拡大について、排水規制など十分な防止策を怠ったとして、国および熊本県の責任を認めた。また認定基準については、昭和52年判断条件は補償協定に定めた補償内容を受るにたる要件として限定的に解釈すべきであるとし、その症状の一部しか有しないものについてもメチル水銀の健康影響を認め、チッソなどに600万円~850万円などの賠償の支払いを命じた。
この判決の後、それまで補償を求めてこなかった住民からも被害の訴えや救済を求める声が急増した。国は医療費の支給などが受けられる新保健手帳の受付を再開したが、この受給者は2006年11月末までに6,500名を超えている。このほかに公健法による患者認定のあらたな申請者も4,600人にのぼっている。さらに1,000人以上を原告として、国や原因企業などを相手取った新たな損害賠償請求訴訟も提起されるなど、救済と補償問題は未だに解決には至っていない。
2007年11月19日チッソの後藤舜吉会長は救済問題で、新救済策について、「(チッソの負担分は)株主や従業員、金融機関などへの説明がつかない」として受入拒否を意向を正式表明[7]したが、鴨下一郎環境大臣は、チッソに負担を求めていく考えを明らかにした。
原因物質の名称
当初、熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った。これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。しかし、すぐにこの物質がメチル水銀であったことが判明した。しかし、初期のその曖昧な内容が、東大医学部などの反論を招き、それに対する反論作成の必要に迫られるなど、原因特定の遅れを招くことになった。
ただし当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は有機水銀と表記されていることがある。
水俣病発生地域
水俣市周辺(八代海沿岸)、新潟県阿賀野川流域以外では、1970年代前後に中国の吉林省から黒竜江省にかけての松花江流域で、メチル水銀および無機水銀による土壌汚染が明らかになった。1990年代になってアマゾン川流域でも水銀による住民の健康被害が確認された。中国のものは、吉林省吉林市にある化学工場の、チッソ水俣工場と同様の工程が原因。アマゾン川流域のものは金採鉱で利用した金属水銀が環境中に放出され,一部は有機水銀に変換されて魚介類にも蓄積されていることが明らかになっている。
水俣病と行政
1987年3月30日熊本水俣病の第三次訴訟(熊本地裁)で、相良甲子彦裁判長(当時)は原告勝訴の判決を下し、国と県の責任を認めた。
2004年10月、熊本水俣病についての政府の責任を認める判決が最高裁においてなされた。公害に対する政府の責任を明確にしたという意味では画期的な判決ではあるが、被害者の立場からすればあまりにも遅すぎる判決であった。
後藤田正晴は徳仁親王と小和田雅子の結婚については雅子が水俣病を引き起こしたチッソの江頭豊の孫にあたることから、患者の憎悪や国民の不満が皇室に向くことを危惧し、「皇居にむしろ旗が立つ」と反対した。水俣病患者から皇室に抗議行動がされたことはない。
慰霊
水俣病公式確認から40年目に当たる1996年、水俣市立水俣病資料館に水俣メモリアルが完成した。その後、水俣病公式確認から50年目に当たる2006年4月30日、水俣湾親水緑地に水俣病慰霊の碑が完成した。碑には認定された犠牲者314名の名簿が納められた。毎日新聞社の記事によると名簿に名を刻まれた犠牲者は、未だ絶えない差別を恐れた遺族の意向で全体の2割にとどまった。これは水俣病が与えた社会的影響が未だ解決には程遠い事を示している。
政府は水俣病に対して積極的な解決を図るとしているが、認定基準を改めないなど実質的な進展は見られない。
水俣病を描いた作品
- 武田泰淳 - 『鶴のドン・キホーテ』1957年(水俣病に言及した最初の小説だろう。すでにチッソが原因企業であることを会社も地域住民も知りつつ隠している地域事情が描かれている)
- 水上勉 - 『不知火海沿岸』1959年12月(『別冊文藝春秋』(70号)に掲載。事件の舞台を水潟市とし、新潟水俣病の発生を予見している)
- 水上勉 - 『海の牙』1960年(『不知火海沿岸』を大幅に加筆し改題)
- 石牟礼道子 - 『苦海浄土 わが水俣病』1969年(この作品によって日本中に水俣病が知られるようになった)
- 石牟礼道子ほか - 『みなまた 海のこえ』1982年(絵本)
- 荻久保和明 - 『しゅうりりえんえん - みなまた海のこえ - 』(上記を元にした合唱組曲)
- 土本典昭 - 『実録 公調委・勧進・死民の道』
- 土本典昭 - 『水俣一揆−一生を問う人びと』1973年
- 土本典昭 - 『水俣 患者さんとその世界』 1970年(ドキュメンタリー)
- 土本典昭 - 『回想 川本輝夫 ミナマタ 井戸を掘ったひと』1999年(ドキュメンタリー)
- 土本典昭 - 『みなまた日記 甦える魂を訪ねて』 2004年(ドキュメンタリー)
- 佐藤真 - 『阿賀に生きる』1992年(新潟水俣病を題材にしたドキュメンタリー)
- ユージン・スミス - 『MINAMATA』1991年(邦題:写真集 水俣)
- ジョージ秋山 - 『銭ゲバ』
- 手塚治虫の「ブラック・ジャック」にも水俣病を題材にしたと思われる作品が複数ある。
- 海援隊 - 『水俣の青い空』(石牟礼道子著「苦海浄土-わが水俣病 第三章 ゆき女きき書」から抜粋した詩に曲をつけたもの)
- 上条恒彦 - 『花あかり』(石牟礼道子著「苦海浄土」から詩をとり曲をつけたもの。宮崎駿企画によるCD『お母さんの写真』に収録されている)
- 丸木位里+丸木俊 - 『水俣の図』1980年(270×1490(cm):丸木美術館所蔵)
脚注
- ^ 劇症型患者の場合、直接の死因としては、大人では、食物の誤嚥によって引き起こされる肺炎が多く、幼児及び胎児性患者では、痙攣によるショック死、食物をのどに詰まらせたことによる窒息死が多く見られた。
- ^ 関礼子『新潟水俣病をめぐる制度・表象・地域』(東信堂、2003)などに詳しい
- ^ 1957年から1960年まで水俣工場長だった西田栄一は当初、アセトアルデヒドを疑ったが、戦後の生産量が戦前のピーク期(1940年頃)に達していなかったことから、工場排水が原因ではありえないと結論付けた。
- ^ 「水俣病の科学」参照。
- ^ 日時が特定できた最古の症例は、1953年当時、5歳だった女児の例である。1953年11月28日、両親が女児の異変(よだれを垂らす・食べた物を吐き出す・歩行時に足がもつれる・言葉を喋れなくなる)に気づいた。両親は小児麻痺を疑い、近隣の医師に見せて回ったが、原因は全く特定できなかった。日に日に衰弱していく娘の栄養補給のために、両親が水俣湾で採れた魚介類を食べさせたことにより、症状は更に悪化していった。1956年3月15日に女児は死亡した。後にこの女児は、最初の水俣病患者として認定された。
- ^ 水俣市はチッソによって発展した、いわゆる企業城下町である。当時も住民の約7割が、チッソと何らかの関係を持っていたといわれている。
- ^ チッソ株式会社は同社ウェブサイトの「水俣病問題への取り組みについて」と題するページにおいて、新救済策受入拒否の理由を説明している。「1.これまでの経緯について 1)補償協定の成立」の項では、1973年7月に患者各派との間に締結された協定について「その成立過程においては、一部の派との間に極めて苛烈な交渉が行われました。それは、多数の暴力的支援者の座り込みによる会場封鎖の下で、威圧的言動や行動により応諾を迫られ、果ては社長以下の会社代表が88時間にわたり監禁状態に置かれるなど、交渉と言うにはほど遠いものでありました。そればかりか、多くの社員が警備中や出勤途上でしばしば暴行を受け、けが人が絶えない有様でした」と述べるなど、これまでの補償すら同社にとっては不当あるいは過大なものであったかのごとき印象操作を行っている。
参考文献
- 水俣病(赤本):(1966年 熊本大学医学部水俣病研究班):医学論文集。水俣病医学研究者の最初のバイブル。表紙が赤いことから関係者の間では「赤本」と呼ばれる
- 水俣病−水俣病研究会資料:(1969年 富田八郎=宇井純/水俣病を告発する会):宇井純が富田八郎(とんだやろう)のペンネームで著した水俣病の古典的科学論文集。
- 水俣病に対する企業の責任-チッソの不法行為:(1970年 水俣病研究会):水俣病裁判を患者勝利に導いた名著
- 認定制度への挑戦 水俣病に対するチッソ・行政・医学の責任:(1972年 水俣病研究会):認定制度の問題点を明らかにした名著
- 講座 地域開発と自治体2 公害都市の再生・水俣:(1972年 宮本憲一編):最初の社会科学論文集
- 水俣病−20年の研究と今日の課題(青本):(1979年 有馬澄雄 編集/青林舎 発行):医学論文集。水俣病研究者のバイブル。表紙が青いことから関係者の間では「青本」と呼ばれる
- 水俣の啓示(上・下)不知火海総合調査報告:(1983年 色川大吉他)
- 新編 水俣の啓示 不知火海総合調査報告:(1995年 色川大吉他):水俣の啓示 上・下を編集して1冊にしたもの
- 水俣病事件資料集(上・下巻):(1996年 水俣病研究会):上・下巻合わせて2700頁に及ぶ資料集。1926年から1968年までの水俣病関連重要資料を水俣病研究会が20年余にわたって編集。
- 水俣病研究(1)--(4):(1999--2006 水俣病研究会):水俣病研究会が編集した水俣病関連重要論文集・資料集。
- 縮刷版「告発」・縮刷版「告発」 続編(1971年・1974年 「告発」縮刷版刊行委員会):1969年から1973年まで発行された水俣病を告発する会の機関紙「告発」の縮刷版。
- 縮刷版「水俣」(1986年 水俣病を告発する会):1973年に「告発」から「水俣 患者とともに」に名を改めた水俣病を告発する会の機関紙の縮刷版
- 水俣病関連資料データベース
関連項目
外部リンク
- 環境省(環境庁)
- 国立水俣病総合研究センター(環境省)
- 水俣病対策(環境省)
- 水俣病問題に係る懇談会 議事次第・会議録・提言書(環境省)
- 環境基準について(環境省)
- 熊本大学
- 地元自治体
- 水俣病について(熊本県)
- 水俣病公式確認50年事業実行委員会(水俣市)
- 地元マスコミ
- 水俣病百科(熊本日日新聞)
- 支援団体
- 水俣病センター相思社(被害者・支援団体)
- ノーモア・ミナマタ国賠等請求訴訟弁護団
- 水俣・反農薬連
- 関連訴訟