斎藤氏
斎藤氏(さいとうし)は、日本の姓氏のひとつ。現代日本の苗字別ランキングにおいて20位以内に入る大姓である。「斉藤」と合わせるとだいたい10位以内に入るようである。
平安時代中頃の鎮守府将軍藤原利仁の子叙用が斎宮頭であったことに由来する苗字とされる.藤原利仁の後裔は越前・加賀をはじめ、北陸各地に武家として発展した。斎藤氏は平安時代末から武蔵国など各地に移住して繁栄した。 後世、斎藤姓は関東・東北に多くみられ、特に山形県、秋田県、福島県に多いようである。しかし、旧家でも明確な系図を伝える家系はあまりみられず、地方の土豪で利仁将軍の武名にあやかり、斎藤氏を称した例も多かったものと推測される。家紋は下がり藤等の藤系のものが多い。 なお「斉藤」は「斎藤」を略記したものであり、実質的に差違はないものと考えられる。
斎藤氏から出た苗字は大変多いが、有力なものとして、加藤、富樫、林等が挙げられる。
美濃斎藤氏
美濃の斎藤氏は、利仁流(越前藤原氏)・藤原吉信(利仁の次男・叙用の長男)を開祖とし、その後裔が美濃国目代として越前から移り住んだのに始まるという。室町時代に美濃国守護土岐氏に仕え、その守護代となって勢力を揮った。斎藤妙椿は応仁の乱の混乱に乗じて美濃の実権を掌握する。しかし妙椿の後継者である斎藤利国(妙純)は近江で戦死、その後も土岐氏を巻き込んだ同族争いが続き、勢力は徐々に衰えを見せる。
戦国時代に至り、その名跡を斎藤道三が継承した。道三は稲葉山城を築き、さらに守護土岐頼芸を追い、下克上によって美濃国を押領したが、嫡子斎藤義龍に殺された。義龍の早世後、その子斎藤龍興は1567年、本拠地稲葉山城を織田信長に攻略され、美濃を追放されて越前国の朝倉義景を頼った。龍興は1573年朝倉が織田に滅ぼされたとき運命をともにし、美濃斎藤氏は滅亡した。なお、道三の子とされる斎藤長龍は父の死後に信長に仕えていたが本能寺の変で戦死。文人として知られていた道三曽孫の斎藤徳元も関ヶ原の合戦後に主君・織田秀信(信長の孫・三法師)の改易によって浪人し、以降は俳人として暮らしている。
明智光秀の重臣で春日局の父として知られる斎藤利三は、美濃斎藤氏の出自とみられる。
系譜
┃ 祐具1 ┃ 宗円2 ┣━━━┓ 利永3 妙椿 ┣━━━┳━━━━━━━━━━━━┳━━━┓ 利藤4 妙純 利安 利隆 ∥ ┣━━━┳━━━┓ ┃ ┃ 利為 利親 又四郎 彦四郎5 利賢 長弘 ┃ ┃ ┃ 利茂7 利良6 利三 ∥ ┃ 道三8 春日局 ┣━━━┳━━━┓ 義龍9 利治 濃姫 ┃ 龍興10
越後斎藤氏
越後の斎藤氏は、越後守護上杉氏の被官。系譜と越後に土着した時期については詳らかではないが、室町時代から戦国時代にかけて越後赤田城(現新潟県刈羽村)に居住していた。守護上杉氏の没落後は守護代長尾氏に仕え、斎藤朝信は長尾景虎(上杉謙信)の重臣として有名。子孫は米沢藩に仕えた。
豊後斎藤氏
豊後の斎藤氏は、大友氏に重臣として仕えた。斎藤長実は大友氏の家督問題で大友義鑑と対立し殺害され、これが原因で二階崩れの変が勃発する。その子である斎藤鎮実は大友宗麟に重用されたが、耳川の戦いにおいて戦死した。だが、その血筋は外孫の立花宗茂・直次兄弟に継承されて外様大名として後世に残った。