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熊谷直実

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熊谷直実(菊池容斎・画、明治時代) - 「行住座臥、西方に背を向けず」

熊谷 直実(くまがい なおざね、永治元年2月15日1141年3月24日) - 承元2年10月25日1207年12月4日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士。熊谷直貞の次男。次郎(じろう)である。熊谷次郎直実あるいは単に直実と呼ぶ。『平家物語』に述べられる一ノ谷の戦いでの平敦盛との一騎打ちは有名である。

直実は、若い敦盛を討ったことで、有名であるが、それから約10年後に出家し、蓮生(れんせい)となったとされる(建久4年ごろ)。法然との面談を弟子に求めた直実は、弟子の前で、いきなり刀を研ぎ始めた。驚いた弟子が法然にとりつぐと、直実は「後生」について、真剣にたずねたという。法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」(井川定慶集「法然上人伝全集」より:参考文献)と答えたという。その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという。

経歴

幼少時

武蔵大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市(くまがや))の出身。幼い時に父を失い、母方の叔父の久下直光に養われた。保元元年(1156年)7月の保元の乱源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)12月の平治の乱源義平の指揮下で働く。その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。

源平の戦い

源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いでは平家側に属していたが、のちに頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。

治承8年(1184年)の一ノ谷の戦いに参加。この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、名将の源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、父と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。しかし平家の武者に囲まれ、同僚の平山季重ともども討死しかけている。

この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、逃げようとした平家の公達平敦盛と一騎打ちをする。剛力の直実は平敦盛を組み伏せ、首を取ろうとするが、敦盛の顔の幼さと心意気に打たれて、敦盛を逃がそうとしたが、最早果たせる状況にはなく、涙ながらにその首を取った話は有名である。

伯父との相続争い

文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮放生会流鏑馬の的を立てる役を命ぜられた直実は「鎌倉の御家人はみな同輩の身分のはず。流鏑馬の射ては騎馬、的立ては徒歩。これは不平等であり、納得できません」と断固的立てを拒否し、頼朝がいくら的立て役の名誉な事を説いても承知しなかったため、所領の一部を没収されている。(鎌倉の中を騎馬で通行できるのは武士身分だけの特権であり、下人・所従以下は徒歩だった)

建久3年(1192年)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で両者の口頭弁論が行われることになった。武勇にはすぐれていても口べたな直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになる。直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられた。というのが直実出家の真相である。(『吾妻鏡』)

(ただし、『熊谷家文書』所蔵の建久2年(1191年)3月1日付け直実譲状には「地頭僧蓮生」とあり、この書状が正しければこの年にはすでに出家していた事になる。)[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

出家

家督を嫡子直家に譲った後、法然の弟子となり出家した。法名は法力房 蓮生 “ほうりきぼう れんせい/れんしょう”[1]である。出家後は東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。また、建久4年(1193年)に美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立した。建久6年(1195年)8月10日、京から鎌倉へ下る。泣いて懐かしんで頼朝と対面し、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させる。出家しても心はなお真俗を兼ねていた。武蔵国へ下向するため退出する際、頼朝にしきりに引き留められている。建久9年(1198年)、西山浄土宗総本山 光明寺を開基する。本領の熊谷郷に帰った後は庵(後の熊谷寺)を建て、そこで念仏三昧の生活を送り、承元元年(1206年)往生したと伝えられてる。京都から関東にもどるとき、西を背にすると、浄土の阿弥陀仏に背を向けると、鞍をさかさまにおいて、西に背を向けずに関東に下ったという。「浄土にも剛のものとや沙汰すらん、西にむかいてうしろみせねば」(直実の歌:参考文献)


平成19年(2007年)10月、蓮生法師800年忌が熊谷寺で催された。

京都東京の和文具・香道具屋「鳩居堂」の店主は熊谷次郎直実の子孫と称している。

銅像

関連項目

参考文献


外部リンク

脚注

  1. ^ 埼玉県の熊谷寺や東日本では“れんせい”(宇都宮頼綱が実信房 蓮生 “じっしんぼう れんしょう”と名乗っているため)、西日本では“れんしょう”と呼ばれている。因みに人形浄瑠璃歌舞伎一谷嫩軍記では“れんしょう”と発音している。