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浦和レッドダイヤモンズ

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浦和レッドダイヤモンズ
原語表記 浦和レッドダイヤモンズ
愛称 レッズ、赤き血のイレブン
クラブカラー
創設年 1950年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン J1
ホームタウン 埼玉県さいたま市
ホームスタジアム 埼玉スタジアム2002
さいたま市駒場スタジアム
収容人数 63,700(埼玉スタジアム2002
21,500(さいたま市駒場スタジアム
代表者 藤口光紀
監督 フォルカー・フィンケ
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ Urawa Red Diamonds)は、日本埼玉県さいたま市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。愛称は「浦和レッズ」。

選手についてはCategory:浦和レッドダイヤモンズの選手浦和レッドダイヤモンズの選手一覧を、また女子については浦和レッドダイヤモンズ・レディース日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)加盟)を参照。

概要

  • Jリーグ発足時より参加している10クラブの1つ(オリジナル10)。ホームタウン埼玉県さいたま市(旧浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002および駒場スタジアム、練習グラウンドは大原サッカー場が使用されている。Jリーグ開幕時から熱烈なサポーターの支持を受けるチームで、後述するようにJリーグではトップクラスの観客動員・営業収入を誇る。かつては人気に成績が伴わず、1999年にはJ2降格という屈辱を味わった事もあるが、21世紀に入ってからは潤沢な資金を活かして戦力や環境の整備を図った。
    • 近年は、その人気や営業力を見習おうと外国のサッカークラブ(ソウルFCなど)や野球(巨人、千葉ロッテなど)など他スポーツの球団からも視察が訪れるほど、その地元密着を礎とした経営方針はプロスポーツ経営の成功モデルとなっている。
  • 熱狂的ファンが多いとされる理由には諸説あるが、元来浦和市がサッカーの街として知られていた事も起因する。過去には全国高等学校サッカー選手権大会だけでも埼玉県師範学校が1度、県立浦和高校が3度、市立浦和高校が4度、浦和西高校が1度、浦和南高校が3度と、合計12回の全国制覇を遂げている[1]。しかし、1980年代からは優勝はおろか県代表として全国大会出場を逃すことも多く、アマチュアの低迷が逆にプロサッカークラブの待望論や熱狂的なファンの獲得にも繋がったといわれる。
  • その他の理由として、埼玉県はJリーグ発足時にも多くの人口(約600万人以上)を抱えていたが、当時の県内のプロスポーツ事情は県南西部の所沢市西武ライオンズがあるものの、必ずしも県全体から支持を得ているチームとは言いがたい状況が挙げられる[2]

経営母体・来歴

三菱自動車フットボールクラブは、当初三菱自動車工業の完全出資(100%)子会社として発足したが、以後、地元自治体・企業の資本参加を受け入れている。1996年12月、埼玉県および浦和市(当時)が増資を引き受け(第3セクター化)、2000年12月の増資では地元企業の埼玉縣信用金庫、藤島建設、藤島住宅、エコ計画などが新たな出資者に加わる。地元企業以外では三菱グループ7社とトーシンパートナーズなどが出資している。
現在の出資比率は三菱自工が50.625%で筆頭株主であることに変わりはないが、三菱グループ7社を除くその他の出資者で40%強を占めている。[3][4]。クラブ側は更に自治体、地元企業を対象にした第3者割当増資を希望している。さいたま市などがいち早く引き受けを表明したものの三菱自工が難色を示したたため、2005年末にワーキンググループを設置したが、現在まで大きな進展は報告されていない。
「レッドダイヤモンズ」の由来は、三菱グループのコーポレートマークである「スリーダイヤモンド」と、イメージカラーの「赤」をベースにしている。ダイヤモンドには最高の輝きと強さ、固い結束力がイメージされており、またレッドにはホームタウンである浦和が舞台の漫画「赤き血のイレブン」のチームカラー、および前身の三菱自工サッカー部のチームカラーと共通する。

クラブの経営状況

営業収支

  • 営業収入(2007年度実績、79億6,400万円)は、Jリーグ全31クラブの中でトップ。(2位横浜M:約49.1億円、J1平均:約32.7億円)。
内訳は、入場料収入(同年度30億800万円)が最も大きな割合を占める。(入場料収入2位新潟:約9.1億円、J1平均:約6.9億円)。
次点は、広告料収入(同年度23億8,400万円)である(1位横浜M:約26.3億円、3位名古屋:約22.5億円)。グッズ販売収入(同年度12億4,600万円)がこれに続き、他クラブを大きく引き離す売上高を記録している(2007年度Jクラブ個別経営情報開示資料ではその他収入に編入)。[5] [6]

背景・分析

  • Jリーグクラブトップの営業収益を上げる背景に、以下の点が挙げられる。
    • クラブの観客動員数はJリーグで常に1、2を争っている(2007年度動員数793,347人、Jリーグ史上最高動員記録)。この他に過去10シーズン(1996年-1999年、2001年-2003年、2006-2008年)でJリーグの年間最多観客数を記録している。また、カップ戦(ナビスコ杯4試合、ACL6試合)を含めると年間観客動員数は100万人を超える。
    • 1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%[7])、割引率10%未満にも関わらず、シーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2,000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。
    • サポーター観客のアウェイゲーム動員数が他クラブと比較しても多い。
    • ユニフォーム・ウェアは過去一貫してプーマ社であったが、2004年よりナイキ社(日本のクラブチームでは東京ヴェルディ鹿島アントラーズに次いで3クラブ目)が独占供給契約を結んでおり、2007年からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている。

地域への貢献

  • 営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費33億200万円)。2004年には4億5,000万円をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・特別支援学校に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、日本女子サッカーリーグさいたまレイナスFCを統合し、浦和レッズ・レディースを設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。
  • 特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「ハートフルクラブ」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の落合弘がキャプテンを務め、コーチはOBの杉山弘一土橋正樹ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園、小学校などを巡回している。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。
  • Jリーグ百年構想の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地(元東京農業大学グラウンド)にサッカー場(天然芝2面・人工芝1面)、フットサル場(人工芝8面)、テニス場(全天候型など9面)、野球場(天然芝1面)、ラグビー場(天然芝1面)、サイクリングコース、キャンプ場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設をレッズランドとして一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、伊達公子がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する浦和西体育館の指定管理者となり、徐々に整備がすすめられるものと思われる。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。

国際交流

  • Jリーグが理念に掲げる国際交流に関しても積極的に取り組みがなされている。2006年1月、ドイツの名門バイエルン・ミュンヘンとパートナーシップを締結し、同年7月2日、ドイツでバイエルン・ミュンヘン2と練習試合を行ない、同年7月31日には埼玉スタジアムで両クラブの親善試合を開催した。このパートナーシップは、継続的に協力関係を築いていくことを目的に締結されたため契約期間を特に設定していない。また、親善試合の出場料などを除き契約に伴う金銭のやり取りもない。契約内容には親善試合開催の他にもマーチャンダイジングの相互協力や戦力補強に利用する選手情報の相互提供等が盛り込まれている。
  • アジアサッカー連盟が主催する2007年のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」(藤口社長)という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催。[8]予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。また、ACLの海外遠征時には、「ハートフルクラブ」の活動を遠征地でも実施し、草の根レベルでの国際交流・サッカーの普及をはかった。2008年には、前年のACL決勝の際にUAEのドバイで事前合宿をした縁で、中東では初となる「ハートフルクラブ」の活動を同地で実施した。
  • 浦和レッズは、2006年にイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによる、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他にレアル・マドリードスペインの旗 スペイン)、チェルシーイングランドの旗 イングランド)、ACミランイタリアの旗 イタリア)、ボカ・ジュニアーズアルゼンチンの旗 アルゼンチン)など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送されている。
  1. ^ 「埼玉を制するものは全国を制す」と言われていたほどだった。
  2. ^ 当時の西武ライオンズは日本シリーズ優勝を重ねた「常勝球団」であったが、球団本拠地の西武ドーム(旧西武球場)は東京都との境にあり、西武鉄道の路線がない県央・県東部からの交通の便は悪かった。また、球団保有を西武グループのイメージ戦略の一環と考え、東京都内の西武鉄道沿線での球団宣伝や北海道や長野県(系列のプリンスホテルが多く存在する地域)での主催試合開催を優先させていた堤義明オーナーの意向もあった。その後、Jリーグ型の地域密着理念がプロ野球関係者の多くに支持され、西武グループの経営が堤から西武ホールディングスを中核とした新経営陣に移された事もあり、西武ライオンズは2008年よりチーム名を「埼玉西武ライオンズ」に改称し、さいたま市大宮区の埼玉県営大宮公園野球場パシフィック・リーグの公式戦を行うことになった。
  3. ^ 浦和レッズ会社概況
  4. ^ 株式市場への上場も可能。
  5. ^ 浦和レッズ経営情報
  6. ^ 日本プロサッカーリーグ 2007年度(平成19年度)Jクラブ個別経営情報開示資料(PDF)
  7. ^ 2005Jリーグ スタジアム観戦者調査報告書
  8. ^ 「ACLに挑むJクラブ」Jリーグファンズガイド2007年版(Jリーグ発行・コナミデジタルエンタテインメント発売)。同書で藤口社長は「ホーム不敗の埼玉スタジアムでの開催をすることによって、多くのファン・サポーターの方に来てもらって、絶対に勝つという姿勢でACLを戦う」と話している。
さいたま市浦和区に位置するオフィシャルショップ「RED VOLTAGE」。2005年5月29日撮影

歴代本拠地

歴史

浦和レッドダイヤモンズ発足まで

浦和市(当時)側は、当初、日本サッカーリーグの強豪本田技研サッカー部を母体にし、本田技研狭山サッカー部と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研本社がJリーグ不参加を表明したために、同リーグ2部の中堅NTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県には日本サッカーリーグに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため川淵三郎に相談したところ三菱自工を紹介された。

三菱自工はサッカー部の活動の中心であり本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(後のベルマーレ平塚、現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。

こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した。前述の通り、クラブ名に三菱グループのコーポレートマークであるダイヤモンドを入れ、クラブの運営会社名にも三菱を冠するなど、Jリーグのクラブの中でも比較的地域色を前面に出さず、企業色を強く打ち出す体制であったが、浦和市側は本命と考えていた本田技研に一度断られているために、Jリーグ発足時に浦和市をホームにしてくれるチームの確保が最重要課題であったので、譲歩に大きな抵抗がなかった。また、埼玉県・旧浦和市は高校サッカーこそ強豪地域ではあったが社会人レベルでは前述のチームを除くと全国的に有力なチームがないことを自覚していたためにクラブ名称などについても、天皇杯や日本サッカーリーグなどの優勝経験もある伝統の三菱重工サッカー部のイメージを印象づけることはJリーグ参加へはプラスになると考え、肯定的な意見が多かった。そして1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の1つに選出され、翌年秋のJリーグナビスコ杯に出場し、記念すべきJリーグ公式戦の初陣を大宮公園サッカー場で飾った。

1992年 - 1994年

レッズの本拠地のひとつ(創設期のメイン)・浦和駒場スタジアム(バックスタンド)
浦和駒場スタジアム(メインスタンド)
  • 1992年 - Jリーグ開幕前に開催された最初のナビスコ杯では5勝4敗と勝ち越したが、予選5位となり惜しくも上位4クラブによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯も準決勝まで進出し、翌年から開催されるJリーグでは優勝候補と挙げる解説者が現れるほどの期待感を持つようになる。
  • しかし、この時期クラブが世代交代期に掛かったが新戦力の補充に手間取り、戦力がどんどん低下していった。また、Jリーグ開幕で急激に進化しつつあった日本サッカー界の技術研究や革新にも出遅れる。特に守備面は事実上の壊滅状態であった。1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、ガンバ大阪名古屋グランパスとともに、「Jリーグのお荷物」などと呼ばれてしまう。なお、Jリーグ初勝利はヴェルディ戦でPKだった。サポーターの熱狂的な応援はこの時期から有名で、試合前にサポーターが肩を組んでチームの歌を歌う姿、敗戦を目の当たりにした彼らが激怒する様などもワイドショーなどでよく報道された。また1993年シーズンは、両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ、ニコスシリーズ:ヴェルディ川崎)の優勝を目の前で決められる屈辱を味わった。
  • 1994年には、ヴェルディでベンチを暖めていた元日本代表の菊原志郎をレンタル移籍で獲得する。このとき菊原は入団会見で「読売と比べればまだまだレベルが低い」と発言しているが、周囲も納得してしまうほど、当時のレッズは低迷していた。
  • 1993年最下位でシーズンを終了し当時の森孝慈監督は「3年間分負けた」と発言した。
  • 1993年、1994年のリーグ戦用のセカンドユニフォームのカラーは水色であったのだが、このユニフォームを使用した試合では、2年間で1勝もすることができなかった。
  • ちなみに、当時同じく低迷していた日本プロ野球阪神タイガースと比較され、「Jリーグの阪神」と揶揄されたこともある。2000年代に入り現在は阪神、浦和とも戦力を上げ、両チームとも常に優勝候補と呼ばれており、不思議な因縁がある。
  • 当時の補強方針にも疑問がついた。センターフォワードのヴィクトール・ウーゴ・フェレイラが出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待されたウーベ・ラーンが結果を残せず、センターバックにコンバートされた事はクラブの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKのミロを獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの、肝心のDFは補強されておらず、サポーターや解説者からは「GKを獲得する前に、DF陣を補強したほうがいいのでは」、「外国人枠の無駄遣い」と揶揄され、ミロ自身も出場3試合目の名古屋グランパス戦に大敗し、3連敗を喫した後、報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」、「もう帰りたい」と思わず漏らすほどだった。結局、この時期に外国人選手で活躍したのはミヒャエル・ルンメニゲだけであった。しかし、94年セカンドステージからギド・ブッフバルトウーベ・バインが加入すると、徐々に改善の兆しを見せていった。

1995年 - 1998年

  • 1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で躍進を遂げる。前年に入団した元ドイツ代表のDFギド・ブッフバルト(04-06年監督)の活躍によって守備が安定し、1995年の第1ステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。
  • その後は中位にとどまることが多くなる。三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。通年シーズンであった1996年は、第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず、雨の中国立競技場を超満員にした第28節の鹿島戦にPK負けを喫したことで望みがなくなり、最終的には6位に終わった。1997年、ブッフバルトが退団・帰国。高額報酬の選手を獲得できない状態だったが、1998年は三菱OBの原博実監督の下、新加入の小野伸二を擁して第2ステージで3位となった。

1999年 - 2000年

  • しかし、1999年には小野や外国人選手の故障、選手補強が引き続き厳しい環境だった経営的要因等のために成績は再び低迷。シーズン途中で経営陣は原監督を更迭し(後にFC東京の監督となる)、後任にア・デモスを迎えるが、ついに年間順位で15位となり、J2へ降格した。この時は最終戦で福田がVゴールを決めて勝利したにもかかわらず得失点差1で降格となり「世界で一番悲しいVゴール」と呼ばれた。Jリーグトップクラスの人気チームがJ2降格という出来事は、世間にも衝撃を与え、テレビや新聞、雑誌等でも特集された。また、浦和のJ2降格は翌2000年のJリーグ全体、とりわけJ1リーグ関係の経営収支にも潜在的に僅かながらだが悪影響を与えたとも言われている。一方でJ2の試合では多くのレッズサポーターが遠征を行ったことで観客動員数が増加し、各J2クラブに大きな刺激を与えた。
  • 2000年シーズンも苦戦が続いたがJ2の2位となり、J1へ復帰。3位大分との勝ち点差はわずか1点だった。最終節のサガン鳥栖戦の延長前半5分に土橋正樹のVゴールでようやく勝利するという際どさであった(「2000年J2最終節」を参照)。

2001年

レッズのメインホームスタジアム・埼玉スタジアム2002
  • 2001年 - それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更。しかしブラジルに強力なコネクションがあるはずもなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノが全く機能せず、結果は失敗に終わる。第1ステージ終了後に小野伸二がオランダフェイエノールトへ移籍。その後、2000年は札幌に在籍し、2001年に川崎へ移籍したエメルソンを獲得した。10月13日埼玉スタジアム2002でのこけら落し横浜F・マリノス戦)に60,553人の観客を集め、リーグ戦初の6万人試合となった。
  • 埼玉スタジアム2002は2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムとの併用の形で正式な本拠地として登録され、現在は観客数の増大に対応するためリーグ戦の殆どの試合で使用されている。なお、これに伴い駒場スタジアムはリーグ戦では年間1~2試合程度の開催に減少したが、カップ戦などでは現在もメインで使用されている。

2002年

  • 2002年 - 日本代表や磐田京都で指揮を執ったハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し、再度ヨーロッパ・サッカー路線へ戻る。第2ステージは第9節まで無敗(8勝1分)で首位に立っていたが、その後6連敗で中位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島アントラーズに敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たした。また、苦難の時代を長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
  • この年、森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再スタートし、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。

2003年

  • 2003年 - 福田正博の引退試合が埼玉スタジアム2002に5万人以上もの観客を集めて行なわれた。11月、再びナビスコ杯の決勝で鹿島アントラーズと対戦。前年の雪辱を果たして初タイトルを獲得した。なおその直後、J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。
  • 前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。

2004年

2004年ヤマザキナビスコカップ決勝
  • 2004年 - オフトに代わってブッフバルトが監督として復帰し、ヘッドコーチに横浜F市原京都の監督を務めたゲルト・エンゲルスを迎える。選手の大幅補強を実施し、ナビスコ杯の連覇は浦和OBの原監督率いるFC東京に阻まれてしまったが、J1リーグ第2ステージでは首位を快走。11月20日の試合では名古屋に1-2で敗れたものの、ガンバ大阪が0-2で横浜F・マリノスに敗れたため、2試合を残して地元・駒場で悲願のステージ優勝を決め、翌年より1シーズン制となるためこの年が最後となるサントリーチャンピオンシップ出場権を獲得した。ステージ勝ち点37は、15試合制ステージにおけるJリーグ最多勝ち点記録であった。
  • 駒場スタジアムで開かれたこの試合では、新聞紙290年相当分(約20トン)の紙吹雪を試合開始前に散らすという「史上最大の紙吹雪作戦」が展開された。また優勝決定直後には浦和駅周辺などで熱狂的サポーターが発煙筒を炊いたり、バイクでパレードをするといった愚挙に出るなど、過熱化した大騒ぎとなったが、幸いにも怪我人や逮捕者は出なかった。
  • 12月5、12日に開かれたサントリーチャンピオンシップでは、第2戦にアレックスのFKにより1-0で勝利したが、2試合通算スコアで同点だったためVゴール延長→PK戦の末惜敗。初の年間優勝を逃したが、1st・2ndステージを合わせたリーグ戦、年間総合成績では初めて1位になった。
  • 入場料収入が19億5800万円と20億円に迫る拡大を見せる中で、クラブはグッズの開発に取り組み始めた。 グッズの売り上げは、初のステージ優勝効果もあって2002年の4億4100万円が、10億8600万円と2.5倍まで急増した。

2005年

  • 2005年 - J1リーグ最初の8試合でわずか1勝(4分3敗)しか出来ず、最下位も経験してスタートダッシュに失敗した。また、開幕直前で山瀬功治が横浜F・マリノスへ移籍、そしてシーズンの前半でエメルソンがカタールリーグのアル・サードへ完全移籍したことや、アルパイの退場劇、主力選手の故障が相次いだことなどから苦戦を強いられていたが、途中からMFポンテや元クロアチア代表FWマリッチを補強し、最終節までもつれた優勝争いを演じた。優勝したガンバ大阪、ジェフ千葉などの上位チームに勝てなかったこともあり、勝ち点59でシーズンを終えたが、ガンバ大阪とはわずか勝ち点差1であった。レッズ以外に3チームが勝ち点59で並んだが、得失点差で結局2年連続の年間2位になった。得点力は、ガンバ大阪に次ぐ65得点、さらに、リハビリから復帰した坪井慶介、2年連続Jリーグベストイレブンに選ばれた闘莉王、さらに、05シーズン絶好調だった内舘秀樹、急成長した堀之内聖らの活躍で、リーグ最小失点の37失点と、トラブルが多かったチーム事情を考えれば健闘と言える結果を残した。そして天皇杯では、マリッチが全試合で得点(5試合6得点)をあげる活躍などにより、Jリーグ発足後初(前身の三菱重工時代を含めると25年ぶり5回目)の優勝を飾った。これにより、2007年AFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。なおこの年には香港で行われたフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会で優勝を果たしている。
  • 2006年シーズンにさきがけ、東京ヴェルディ1969を契約満了となったFWワシントンおよびMF相馬崇人を完全移籍で、セレッソ大阪からFW黒部光昭2007年1月1日までの期限付き移籍(レンタル元は京都)で獲得、さらに小野伸二の復帰と大規模な戦力補強を行った。
  • 2005年2月にはさいたまレイナスFCを統合する形で女子チームを発足させたり、7月には総合スポーツランド・レッズランドを仮オープンさせるなど地域での活動を一気に展開させた年でもあった。また、2005年度から損失の補填を補償する三菱自工との契約を解消して自立経営が始まったほか、地域との結びつきを強めるための増資計画が公表された(三菱自工が消極姿勢を示したことから実現には至っていない)。

2006年

浦和レッズのホームゲーム
2006年8月12日FC東京戦(GFDL資料)
  • 2006年 - 2月25日、国立競技場で行われたシーズン最初の公式戦・ゼロックス・スーパーカップでガンバ大阪に3-1で勝ち、浦和レッズとなってはじめて同タイトルを獲得し(旧日本サッカーリーグ時代には、前身の三菱重工時代にスーパーカップ3度優勝している)、幸先のよいスタートを切った。また、2006年J1第2節のジュビロ磐田戦に勝利したことによりクラブ史上初めてリーグ戦の通算成績が勝ち越しとなった。5月には、香港におけるフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会に全勝で優勝、前年に続く2連覇を達成した。
  • 2006年J1第2節で、レッズはJ1(初期のJリーグを含む)主催試合観客動員数500万人を突破した。これはJリーグ加盟31クラブを通しても初めての快挙であり、またJ1在籍年数が1年少ないにもかかわらず、2位の横浜F・マリノス以下を大きく引き離す数字である。またこの年度の観客動員数は774,749人でこの数字もJリーグ歴代最高年間観客動員数である。
  • この年は開幕ダッシュに成功。その後も着実に勝ち点を延ばし、第3節以降は常に3位以内を保ち、さらに第22節から6連勝して第25節に首位を奪い、以降は一度も首位の座を明け渡さなかった。そして12月2日、シーズン最終節を首位で迎えたレッズは、2位のガンバ大阪との直接対決に臨んだ。この試合結果が「勝ち又は引き分け、若しくは得失点差が2点差以内の負け」で優勝という条件の下、先制されながらもポンテの同点ゴールとワシントンの2ゴールの活躍でこの直接対決を3-2で制し、初のJリーグ年間王者に輝いた(ワシントンはこの2得点で自身初となるJリーグ得点王のタイトルを獲得)。
  • J2降格経験チームのJリーグ年間王者は浦和が初めてである。最終節ではリーグ戦史上最多観客動員となる62,241人を記録した。
  • 天皇杯では、ガンバ大阪を1-0で三たび破り2年連続優勝(Jリーグ開幕後の天皇杯連覇チームは初めて)、リーグ優勝と天皇杯優勝の2冠を達成。同時に2008年度のAFCチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
  • 選手、監督としてレッズの発展に貢献したブッフバルト監督は2006年の天皇杯を最後に退任し、2007年シーズンは国際サッカー連盟の技術部長となっていたオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰した。
  • クラブとファンが一緒になって優勝を目指す「ALL COME TOGETHER! 共に闘い、共に頂点へ」の活動が2006年10月にスタート。社長は藤口光紀に交代した。

2007年

  • 2007年 - 2月13日オーストリアザルツブルクで行われたBulls Cupに出場した。これは現地のオーストリア・ブンデスリーガに属するレッドブル・ザルツブルク主催によるイベント色が濃い国際大会であり、ドイツバイエルン・ミュンヘンも出場した。45分の試合を総当りで3試合行う形式で実施され、浦和レッズはザルツブルクには1-3、バイエルンには0-3と大敗した。この結果によりJリーグのレベルが欧州標準からはかなり劣っているとの指摘を日本国内のみではなく、オーストリアやドイツのメディアからも受けた。また、日本代表のオシム監督からレッズ所属の代表選手に対して、プレー内容の苦言を呈された。
  • 2007年 - 2月24日、国立競技場で行われたゼロックス・スーパーカップでガンバ大阪に0-4と惨敗し、連覇を逃した。
  • 3月3日の開幕戦、前年J2優勝の横浜FCと対戦、苦しみながらも2-1で勝利し、2001年のJ1復帰以降1度も勝っていなかった開幕戦で勝利した。
  • 三連覇を目指した5月のフィリップス・ライティング国際7人制サッカー大会は準々決勝で敗退し、連覇記録は途切れることとなった。
  • 5月23日AFCチャンピオンズリーグのグループリーグでシドニーFCとホームでの対戦で0-0で引分け、E組のグループ1位となり、同時に出場したF組のグループ1位の川崎フロンターレと共に決勝トーナメントに進出した。
  • 決勝トーナメントでは準々決勝で全北現代と対戦し2戦2勝、準決勝で城南一和と対戦し、2試合とも2-2の後PK戦で勝利、また決勝でセパハンと対戦し1勝1分けで日本のクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグを制覇した(欧州に倣ってACLの前身アジアクラブ選手権を含めて換算すると、1999年のジュビロ磐田に続き2クラブ目となる)。グループリーグから決勝まで1度も負けなしで優勝したことは大会始まって以来の快挙であった。
  • この結果、12月7日から始まるFIFAクラブワールドカップにアジア代表として参戦することが決定した。
  • Jリーグでは2位以下に最大勝ち点差10をつけて首位にいたが、ACLセパハン戦後に失速。33節には2位鹿島アントラーズとの直接対決にも敗れ、勝ち点差1の首位で最終戦を迎える。
  • 天皇杯では2日後にJリーグ優勝をかけた最終戦を控え、ワシントン、ポンテ、阿部などをベンチなどにおいて愛媛FCと初戦を戦ったが0-2で敗れ、天皇杯3連覇はなくなった。
  • その2日後の12月1日のJリーグ最終戦対横浜FC戦。最下位の横浜FC相手とあって勝利は確実と言われていたが、0-1と敗戦。勝ち点差1の2位につけていた鹿島アントラーズが勝利したため、逆転優勝を許した。連覇を逃し2位で終了した。
  • FIFAクラブワールドカップ2007では、2007年12月16日のアフリカ代表のエトワール・サヘルとの3位決定戦でPK戦の末に勝利した。
  • 12月22日にACL優勝パレードが予定されていたが、Jリーグ連覇を逃したこともあり中止になった。

2008年

  • 2008年シーズンに向けて、オフにはブンデスリーガフランクフルト高原直泰大分トリニータから梅崎司アルビレックス新潟からエジミウソン、レッドブル・ザルツブルクからアレックスが復帰と大型補強を敢行し、「ミスター・レッズ」福田正博がコーチとして復帰した。
  • 3月16日、リーグ戦開幕2連敗を受けて監督ホルガー・オジェックを解任。コーチだったゲルト・エンゲルスが監督に昇格し、チームと複数年契約を締結する。
  • J1第13節 ガンバ大阪戦において、相手サポーターに端を発するサポーター同士が衝突。また、試合においても不可解な判定から失点するなど、後味の悪いものとなった。
  • また、J1第18節 川崎フロンターレ戦でもサポーターの問題行動が起き、これを受け下記のACL ガンバ大阪戦では埼玉スタジアムの観客席に防護ネットが張られた。
  • 10月22日、埼玉スタジアムで行われたガンバ大阪戦で、逆転負けを喫し、ACL連覇の夢が消滅した。
  • 11月26日、11月23日に行われたJ1第32節 清水エスパルス戦で黒星を喫し、リーグ戦制覇が絶望的となった。これによりチームは5年ぶりの無冠危機に陥り、シーズン途中からチームを率いていたエンゲルス監督に対し、成績不振との理由で契約を1年残しながらも2008年限りでの解任を通告した。
  • 11月29日、J1第33節 ガンバ大阪戦で黒星を喫し、5年ぶりに無冠でシーズンを終えることが確定した。
  • 11月30日、J1第33節 名古屋グランパスがコンサドーレ札幌に勝利したため、シーズン4位以下が確定し、同時にACLの出場権も逃した。
  • 12月6日、J1第34節 横浜F・マリノスに1-6と惨敗してシーズンを7位で終えた。試合後、新しいチーム統括責任者として元横浜FC監督の信藤健仁氏のチームダイレクター(TD)就任と、エンゲルス監督の今季限りでの退任を正式に発表した。また、信藤TDの就任会見の中でエンゲルス監督の後任としてフォルカー・フィンケ氏と基本合意に達したことが発表された。
  • 選手同士、あるいは選手とサポーターで騒ぎをおこすなど、マイナスイメージに事欠かないシーズンだった。
  • 永井の一連の移籍騒動や相馬の退団、その他の選手の移籍を前提とした契約保留など、チームとしてのまとまりを欠いていることが露呈された。

レッズランド

  • 浦和レッズはより地域文化に根ざした総合型スポーツクラブ作りに着手するための一貫として以前から浦和市(現・さいたま市)内に建設する構想を暖めていた。
  • そんななか東京農業大学が、練習場として借用していた桜区荒川河川敷のグラウンドから撤退することが決まり、それに代わる借主を探していることを聞いて情報収集に努めた結果、構想の実現が可能と判断。2004年3月の開幕前に開かれた「レッズ2004年シーズンを語る会」で「レッズランド計画」が初めて公表された。
  • 目標はスポーツを通しての健全な育成と健康増進で、これまで学校や企業が中心だったそれらの育成に地域コミュニティーが加わって三位一体の運営に取り組む。市民は会員登録(有料。2005年7月現在入会金一律3000円と年会費(一般)8400円。その他は外部リンクのレッズランドのページ参照)を行えば、優先的に施設を利用できる(会員でない一般市民も利用可だが、割り増しになる)。
  • 施設は2005年7月のオープン時は暫定でサッカーグラウンドと野球場、並びにサッカーとラグビーを併設したグラウンド等が設けられているが、今後はサッカーグラウンド4面、フットサルコート8面、ラグビーグラウンド1面、野球場1面、テニス場11面、レンタルサイクルコース、野外活動拠点としてのキャンプ場などを向こう3年間かけて整備していく予定となっている。また浦和レッズの下部組織の練習拠点としても使用される予定である(トップチームはさいたま市大原サッカー場も併用している)。
  • 2006年1月1日、犬飼代表が「2006年の早い時期に独立させる計画である」と声明を発表している。3月9日より、二次会員の募集を開始、また会員種類に「法人会員」が新たに加わった。
  • 2006年4月1日から、公的施設の管理・運営を民間に委ねる指定管理者制度に基づき、近隣にあるさいたま市浦和西体育館の管理・運営を開始した。
  • 現在は浦和レッズ・レディースの練習場ともなっている。また、2006年は下部組織の公式戦会場としても多く使用されている。
  • 2006年7月1日より、人工芝サッカー場1面およびフットサルコート4面がオープンした。同時に、金~日曜日、祝日と祝前日に限り夜間営業も開始している。

獲得タイトル

国内タイトル

国際タイトル

個人別タイトル

AFCチャンピオンズリーグ
Jリーグ
ナビスコ杯

その他受賞

  • 1996年 フェアプレー個人賞(岡野雅行)
  • 1999年 Join賞(浦和レッズ、浦和市、レッズファン・サポーター)
  • 2002年 フェアプレー個人賞(坪井慶介)、Join賞(浦和レッズ)
  • 2003年 功労選手賞(福田正博、井原正巳
  • 2004年 Join賞(浦和レッズ)
  • 2005年 Jリーグベストピッチ賞(埼玉スタジアム2002)
  • 2007年 特別賞(浦和レッズ)
  • 2007年 AFC最優秀クラブ(浦和レッズ)
  • 2007年 AFCチャンピオンズリーグ フェアプレー賞(浦和レッズ)
  • 2007年 FIFAクラブワールドカップ FIFAフェアプレー賞(浦和レッズ)

歴代監督と成績

年度 所属 試合 勝点 順位 年間順位
(クラブ数)
ナビスコ杯 天皇杯 他公式戦 監督
1992年 - - - - - - - - 予選リーグ敗退 ベスト4 - 日本の旗 森孝慈
1993年 J・1st 18 - 3 15 - 10位 10位(10) 予選リーグ敗退 2回戦敗退 -
J・2nd 18 - 5 13 - 10位
1994年 J・1st 22 - 6 16 - 12位 12位(12) ベスト8
(2回戦敗退)
3回戦敗退 - 日本の旗 横山謙三
J・2nd 22 - 8 14 - 11位
1995年 J・1st 26 48 15 11 - 3位 4位(14) - ベスト8 - ドイツの旗 ホルガー・オジェック
J・2nd 26 42 14 12 - 8位
1996年 J 30 59 19 11 - - 6位(16) 予選リーグ敗退 ベスト4 -
1997年 J・1st 16 21 8 8 - 9位 10位(17) ベスト8 4回戦敗退 - ドイツの旗 ホルスト・ケッペル
J・2nd 16 26 9 7 - 7位
1998年 J・1st 17 28 11 6 - 8位 6位(18) 予選リーグ敗退 ベスト8 - 日本の旗 原博実
J・2nd 17 33 11 6 - 3位
1999年 J1・1st 15 13 3 8 4 13位 15位(16)
J2降格
ベスト8 4回戦敗退 -
J1・2nd 15 15 5 9 1 14位 オランダの旗 ア・デモス
日本の旗 吉田靖(総監督)※1
2000年 J2 40 82 28 9 3 - 2位(11)
J1昇格
1回戦敗退 4回戦敗退 - 日本の旗 斉藤和夫
日本の旗 横山謙三(総監督)※2
2001年 J1・1st 15 21 7 7 1 7位 10位(16) ベスト8 ベスト4 - ブラジルの旗 チッタ
J1・2nd 15 15 4 8 3 12位
ブラジルの旗 ピッタ※3
2002年 J1・1st 15 14 5 9 1 11位 11位(16) 準優勝 3回戦敗退 - オランダの旗 ハンス・オフト
J1・2nd 15 21 8 6 1 8位
2003年 J1・1st 15 24 7 5 3 6位 6位(16) 優勝 3回戦敗退 -
J1・2nd 15 23 6 4 5 6位
2004年 J1・1st 15 25 7 4 4 3位 2位(16) 準優勝 ベスト4 - ドイツの旗 ギド・ブッフバルト
J1・2nd 15 37 12 2 1 優勝
2005年 J1 34 59 17 9 8 - 2位(18) ベスト4 優勝 -
2006年 J1 34 72 22 6 6 - 優勝(18) ベスト8 優勝 スーパーカップ
2007年 J1 34 70 20 4 10 - 2位(18) ベスト8 4回戦敗退 ACL2007 優勝 ドイツの旗 ホルガー・オジェック
FCWC2007 3位
A3 2007 3位
2008年 J1 34 53 15 11 8 - 7位(18) 予選リーグ敗退 5回戦敗退 ACL2008 ベスト4 ドイツの旗 ゲルト・エンゲルス※4
  • 1993年から1995年まで、第1ステージは「サントリーシリーズ」、第2ステージは「ニコスシリーズ」という呼称であった。
  • ※1 天皇杯のみ
  • ※2 J2第37節以降(指揮権交代のみで斉藤監督自身は残留)
  • ※3 J1・2ndステージ第4節以降
  • ※4 ナビスコ杯予選第1節以降(リーグ戦はJ1第3節以降)

公式戦対戦通算成績

対戦通算成績と得失点

2008年シーズン終了時

対戦クラブ
(対戦経験のある前身のクラブ名)
J1 J2 ナビスコ杯 天皇杯 その他公式戦
コンサドーレ札幌 6 1 1 15 9 0 1 3 3 6 - - - - - - - - - - - - - -
鹿島アントラーズ 9 4 23 41 61 - - - - - 7 2 3 19 14 2 0 4 2 - - - - -
大宮アルディージャ(←NTT関東) 4 2 2 10 5 3 0 1 8 1 2 0 0 5 2 3 0 9 3 - - - - -
ジェフ千葉(←ジェフ市原) 17 5 14 58 46 - - - - - 2 1 2 9 10 1 0 2 1 - - - - -
柏レイソル 12 6 8 56 36 - - - - - 1 0 2 2 5 2 1 4 3 - - - - -
FC東京 8 2 6 22 15 - - - - - 2 2 1 6 2 2 0 4 1 - - - - -
東京ヴェルディ(←ヴェルディ川崎) 16 3 13 59 50 - - - - - 0 2 2 2 4 0 2 2 5 - - - - -
川崎フロンターレ(←富士通 3 3 2 14 13 - - - - - 2 0 2 7 9 3 0 7 0 - - - - -
横浜F・マリノス(←横浜マリノス) 14 4 18 37 57 - - - - - 5 0 2 14 11 0 1 2 2 1 0 1 1 1
アルビレックス新潟 8 1 1 24 7 2 0 2 11 12 1 0 1 2 4 2 0 7 2 - - - - -
清水エスパルス 14 3 19 46 56 - - - - - 4 0 4 14 11 1 1 2 2 - - - - -
ジュビロ磐田 14 1 17 43 47 - - - - - 1 3 4 7 14 1 1 4 5 - - - - -
名古屋グランパス 10 4 22 39 72 - - - - - 3 0 4 13 18 - - - - - - - - -
京都サンガF.C.(←京都パープルサンガ) 10 2 4 33 15 - - - - - 0 3 1 5 6 - - - - - - - - -
ガンバ大阪 16 6 14 55 52 - - - - - 5 2 2 18 16 1 2 3 4 1 1 2 5 9
ヴィッセル神戸 13 3 4 36 19 - - - - - 4 0 2 7 5 1 0 4 1 - - - - -
大分トリニータ 6 2 4 20 14 3 1 0 9 3 2 0 2 8 5 - - - - - - - - -
ベガルタ仙台(←ブランメル仙台) 4 0 0 12 4 3 1 0 9 5 1 0 0 6 0 - - - - - - - - -
モンテディオ山形 - - - - - 2 0 2 5 4 1 0 1 3 2 1 0 2 1 - - - - -
水戸ホーリーホック - - - - - 4 0 0 8 3 - - - - - - - - - - - - - -
ザスパ草津 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
横浜FC 1 0 1 2 2 - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
湘南ベルマーレ(←ベルマーレ平塚) 10 0 6 36 28 4 0 0 7 1 1 1 0 2 1 2 1 7 2 - - - - -
ヴァンフォーレ甲府 3 1 0 10 2 4 0 0 10 1 - - - - - 1 0 2 0 - - - - -
FC岐阜 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
セレッソ大阪 10 1 11 39 36 - - - - - 1 1 0 4 2 1 3 5 6 - - - - -
サンフレッチェ広島 20 1 11 56 39 - - - - - 3 2 1 10 8 - - - - - - - - -
徳島ヴォルティス(←大塚製薬 - - - - - - - - - - - - - - - 1 0 3 0 - - - - -
愛媛FC - - - - - - - - - - - - - - - 1 1 1 2 - - - - -
アビスパ福岡 8 1 3 20 13 - - - - - 2 0 0 6 2 2 1 7 3 - - - - -
サガン鳥栖 - - - - - 3 0 1 12 4 1 1 0 4 0 - - - - - - - - -
ロアッソ熊本 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
横浜フリューゲルス 11 0 7 36 20 - - - - - 1 0 1 3 2 1 1 5 4 - - - - -
(Jリーグクラブ)計 247 56 211 819 718 28 3 9 82 40 52 20 37 176 153 29 15 86 49 2 1 3 6 10
サンクFCくりやま(←アンフィニ札幌)   1 0 2 1  
専修大学   1 0 3 1  
札幌大学   1 0 2 0  
埼玉SC   1 0 2 0  
ホンダロック   1 0 9 0  
静岡FC   1 0 5 0  
35 15 109 51

J1

  • 鹿島アントラーズ清水エスパルスジュビロ磐田名古屋グランパスエイトの4チームには大きく負け越している。特に名古屋戦のアウェーの相性は悪く、大量失点を喫することも多く、事実、1999年の名古屋戦アウェーは1-8と大敗し、J2降格の要因の一つになってしまった。2006年もこの東海アウェー3戦は全て敗戦。また、2006年はリーグ戦で対戦したクラブのうち唯一名古屋からはホーム・アウェーを通じ無得点に終わり、勝ち星を挙げることが出来なかった。しかし2007年は逆に、豊田スタジアムの名古屋戦では2-1、日本平スタジアムでの清水戦は1-0、エコパスタジアムでの磐田戦は2-0で3連勝し、この年に限っては東海地区アウェーゲームの鬼門のジンクスは破ったと言える。2008年は、名古屋とリーグ・ナビスコカップ計4回対戦したが、一度も勝つことが出来ず、惨敗が続き、ジンクス復活となってしまった。
  • カシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦が特に鬼門で、2004年第2ステージでようやく2勝目を挙げた。この試合が同ステージ最大の難関とみられていたが、3-2で勝利をおさめたことにより、ステージ優勝に大きな弾みがついた。年間優勝した2006年は0-2の劣勢から追いつく粘りを見せ、貴重な勝ち点1をあげた。2007年は、アウェーで1-0とJリーグ開幕後初めて完封勝ちをおさめるも、優勝がかかった最終節直前にホームで逆に0-1で敗戦し結果優勝を逃すなど、鹿島戦は優勝の懸かった時期によく当たる、非常に因縁深いカードととなっている。
  • FC東京には2004年の第1ステージで勝つまで3年間、リーグ戦では1度も勝ったことが無かった。ただし、2004年天皇杯以降は逆に負けておらず、特に2006年のJリーグ第17節では4-0で圧勝、2007年シーズンからこのカードを4連勝し、対戦成績をひっくり返した。
  • 東京ヴェルディも当初は苦手クラブであり、クラブの同一カード最多連敗の記録も作っていたほどだったが、近年の戦績は完全に逆転しており、J1リーグ戦においては3年連続(6試合連続)でホーム・アウェーともに大勝、逆に同一カード最多連勝記録を作っている。なお、かつて弱小チームであった浦和がJリーグ初勝利を飾った相手は、当時強豪であったヴェルディであった。
  • サンフレッチェ広島には1999年のリーグ最終戦にVゴール勝ちしてから、ナビスコ杯での対戦を含めて2引き分けを挟んで12連勝と圧倒している。しかし、皮肉にもこのVゴール勝ちというのはすでにJ2への降格が決まっていてからのVゴール(決めたのは当時のエース福田正博)である「世界で一番悲しいVゴール」であった。
  • 大分トリニータには、2004年までJ1・J2の公式戦での対戦を含めて1度も負けず、J1では全て勝っていた。しかし、2005年以降は2勝5敗1分で、このうちアウェーで4敗1分(2008年第16節時点)と分が悪い。大分のシャムスカ監督就任後は苦戦を強いられているが、そのシャムスカ監督の初陣となった2005年のホームゲームで、当時17位だった大分に敗れたことで大ブーイングを浴びた(「シャムスカ・マジック」と呼ばれる発端の試合といわれる)。しかし、駒場では現在も負けなし、ナビスコ杯では五分五分の成績である。
  • コンサドーレ札幌にはJ2では、1度も勝てなかった。だが、共に昇格して2001年以降の対戦では、逆に1度も負けていない。
  • ガンバ大阪にはリーグ戦では2001年以降3勝しか挙げていない(勝利を収めた2004年第2ステージではステージ優勝、2006年ではリーグ優勝を飾っている)。2007年にも1勝し、通算成績では勝ち越している。
  • ベガルタ仙台やヴァンフォーレ甲府、水戸ホーリーホックとは、J1・J2、ナビスコ杯等全ての公式戦での対戦を通じてまだ1度も負けていない。

J2

  • J2の成績は2000年のみ。
  • この年はJ1昇格のライバルで優勝したコンサドーレ札幌に1試合も勝てなかった事が苦戦の要因となった。逆に3位大分トリニータには1つも負けなかったのが2位ながら昇格できた大きな要因となった。
  • アルビレックス新潟戦はホームでは2試合とも大量得点(5-1、3-1)で勝利している一方、アウェーでは逆に2試合とも大量失点(1-6、2-4)で敗れている。
  • 驚くことに2000年に下位に低迷していたモンテディオ山形にも2勝2敗と互角の成績である。その他ナビスコ杯も互角である。
  • 現在のJリーグクラブの中で公式戦での対戦経験がないのはザスパ草津、FC岐阜、ロアッソ熊本の3チーム(徳島ヴォルティスとは前身の大塚製薬時代に対戦)。

ナビスコ杯

  • リーグ戦では非常に分が悪い鹿島戦であるが、ナビスコ杯では五分である。また、同様にリーグ戦では分が悪い名古屋戦に関してもナビスコ杯の通算対戦成績は持ち直している。

天皇杯(クラブ発足後の1992年以降)

  • 東京ヴェルディにはヴェルディ川崎時代に2度(1992年、1996年)準決勝で敗れており、これまで天皇杯で対戦したチームの中で唯一勝ち星を挙げられていない。また、ガンバ大阪・セレッソ大阪の大阪勢には相性が悪い。
  • 初戦で敗退したのは2002年(対アビスパ福岡)、2003年(対湘南ベルマーレ)、2007年(対愛媛FC)の3度。シーズン終盤でのモチベーション維持が課題である。

その他公式戦

リーグ戦の主な記録(2008年シーズン終了時まで)

クラブ記録

最多得点試合

J1

  • ホーム
    • 7-2(2004年2nd第2節(8月21日)・対東京ヴェルディ1969、埼玉スタジアム2002)
    • 7-0(2005年J1第27節(10月15日)・対柏レイソル、駒場スタジアム)
  • アウェー
    • 7-0(1996年J第20節(9月21日)・対柏レイソル、国立競技場
    • 7-0(2005年J1第14節(7月6日)・対東京ヴェルディ1969、国立競技場)

J2

(参考:リーグ戦以外の記録)

  • 9-0(2000年天皇杯2回戦(12月3日)・対ホンダロック、駒場スタジアム)

最多失点試合

J1

J2

最多失点勝利試合

最多得点敗戦試合

最多得点(失点)引分試合

  • 4-4(2003年1st第9節(5月17日)・対ガンバ大阪、駒場スタジアム)

最多連続無敗試合

  • 16試合(2007年J1第8節(4月29日)から第23節(8月29日) - 11勝5分)
    ※J1史上最多記録タイ

(参考:他の公式戦込み)

  • 17試合(リーグ戦2005年J1第33節(11月26日)から2006年J1第8節(4月15日)10試合、天皇杯2005年5回戦(12月10日)から決勝(1月1日)4試合、スーパー杯2006年(2月25日)1試合、ナビスコ杯2006年予選第1日(3月29日)から予選第2日(4月12日)2試合 - 15勝2分)

ホーム無敗記録

  • 25試合(2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日) - 22勝3分)
    ※J1史上最多記録タイ

(参考:他の公式戦込み)※埼玉スタジアム、駒場スタジアムでの試合

  • 37試合(リーグ戦2005年J1第25節(9月24日)から2007年J1第5節(4月7日)25試合、大宮アルディージャのホームゲーム1試合、2006年ナビスコ杯予選3試合、準々決勝1試合(3月29日、4月12日、5月21日、6月3日)、2005年天皇杯2試合(11月3日、12月24日)、2006年天皇杯3試合(11月4日、12月16日、12月23日)、2007年ACL2試合(3月7日、4月11日)- 34勝3分)

アウェー無敗記録

  • 17試合(2006年J1第33節(11月26日)から2007年J1第31節(11月11日) - 12勝5分)

最多連勝

  • 8連勝(1998年1st第16節(8月5日)から2nd第6節(9月18日)) - PK勝ち1試合含む
    • 7連勝(1998年1st第17節(8月8日)から2nd第6節(9月18日)) - 90分勝ちのみ

ホーム連勝記録

  • 10連勝(2006年J1第8節(4月15日)から第27節(10月15日))

アウェー連勝記録

  • 10連勝(2007年J1第12節(5月19日)から第29節(10月20日))

最多連敗

  • 9連敗(1993年2nd第4節(8月7日)から第12節(11月13日)) - Vゴール負け1試合含む
    • 6連敗(1993年2nd第4節(8月7日)から第9節(9月3日)) - 90分負けのみ

ホーム連敗記録

  • 6連敗(1993年2nd第5節(8月14日)から第15節(11月27日))

アウェー連敗記録

  • 10連敗(1993年1st第1節(5月16日)から2nd第1節(7月24日)) - PK負け1試合含む
  • 10連敗(1993年2nd第14節(11月20日)から1994年1st第14節(5月4日)) - Vゴール負け3試合含む
  • 10連敗(1994年2nd第8節(9月7日)から1995年1st第5節(4月1日)) - Vゴール負け1試合含む
    • 8連敗(1993年1st第1節(5月16日)から第14節(6月30日)) - 90分負けのみ

同一カード最多連勝

  • 7連勝(2003年1st第6節(4月29日)から2008年第17節(7月17日)-対東京ヴェルディ1969/東京ヴェルディ)
    • 9連勝(1997年2nd第17節(10月4日)から2000年J2第42節(11月20日)-対ベルマーレ平塚/湘南ベルマーレ)-J2リーグ戦4試合含む。Vゴール勝ち2試合含む。 2003年に天皇杯で敗れた。

同一カード最多連敗

  • 7連敗(1993年1st第2節(5月19日)から1994年2nd第5節(8月27日)-対名古屋グランパスエイト) - 90分負けのみ
    • 7連敗(1993年1st第13節(6月26日)から1994年2nd第21節(11月16日)-対ヴェルディ川崎) - Vゴール負け1試合含む
    • 7連敗(1993年2nd第1節(7月24日)から1995年1st第10節(4月22日)-対サンフレッチェ広島) - PK負け1試合含む

個人記録

通算最多試合出場

  • 402試合 - 山田暢久日本の旗 日本)(初出場1994年1st第12節(4月27日)・対清水エスパルス) ※継続中

最多連続試合出場

  • 72試合 - 坪井慶介日本の旗 日本)(2002年1st第1節(3月3日)から2004年1st第12節(6月12日))

最年少試合出場

最年長試合出場

シーズンフルタイム出場

通算最多得点

  • 91得点 - 福田正博(日本の旗 日本

最多連続得点試合

  • 7試合 - エメルソン(ブラジルの旗 ブラジル)(2002年1st第3節(3月16日)から第9節(7月20日))

シーズン最多得点

  • 32得点 - 福田正博(日本の旗 日本)(1995年)

1試合最多得点

  • 4得点 - 福田正博(日本の旗 日本)(1994年1st第9節(4月13日)・対ベルマーレ平塚)

(参考:リーグ戦以外の記録)

  • 4得点 - ワシントン(ブラジルの旗 ブラジル)(2006年ヤマザキナビスコカップ準々決勝(6月3日)・対川崎フロンターレ)
  • 4得点 - 盛田剛平日本の旗 日本)(2000年天皇杯2回戦(12月3日)・対ホンダロック

GK通算最多得点

  • 1得点 - 田北雄気(日本の旗 日本)(1996年J第30節(11月9日)・対横浜フリューゲルスで得点) ※J1記録

最年少得点

  • 18歳4ヶ月25日 - 永井雄一郎日本の旗 日本)(1997年1st第14節(7月9日)・対ヴェルディ川崎)

(参考:リーグ戦以外の記録)

  • 17歳6ヶ月28日 - セルヒオ・エスクデロ(スペインの旗 スペインアルゼンチンの旗 アルゼンチン)(2006年ナビスコ杯予選第1日(3月29日)・対FC東京)

最年長得点

  • 36歳4ヶ月4日 - ギド・ブッフバルト(ドイツの旗 ドイツ)(1997年1st第11節(5月28日)・対柏レイソル)

ハットトリック

J1
  • 4得点
    • 福田正博(日本の旗 日本)(1994年1st第9節(4月13日)・対ベルマーレ平塚)
J2
  • 3得点

(参考:リーグ戦以外の記録)

ヤマザキナビスコカップ
天皇杯

観客動員記録

最多観客動員試合

J1

  • ホーム
    • 62,241人(2006年第34節(12月2日)・対ガンバ大阪、埼玉スタジアム2002)
      ※Jリーグ史上最高観客動員
      • 9,822人(1994年1st第22節(6月15日)・対横浜マリノス、駒場競技場 - 改修前)
      • 22,150人(1995年2nd第8節(9月9日)・対ジュビロ磐田、駒場スタジアム - 改修後)
      • 10,354人(1995年1st第26節(7月22日)・対横浜フリューゲルス、大宮公園サッカー場)
      • 56,652人(1995年1st第13節(5月3日)・対ヴェルディ川崎、国立競技場)
  • アウェー
    • 61,246人(2008年J1第1節(3月8日)・対横浜F・マリノス、日産スタジアム)
  • (参考:リーグ戦以外の最高)

J2

  • ホーム
    • 20,207人(2000年J2第44節(11月19日)・対サガン鳥栖、駒場スタジアム)
  • アウェー

最少観客動員試合

J1

  • ホーム
    • 5,611人(1996年J第21節(9月28日)・対アビスパ福岡、札幌厚別公園競技場)
      • 7,854人(1994年1st第4節(3月23日)・対サンフレッチェ広島、駒場競技場 - 改修前)
      • 13,329人(1999年2nd第2節(8月14日)・対柏レイソル、駒場スタジアム - 改修後)
      • 9,168人(1995年1st第22節(7月8日)・対サンフレッチェ広島、大宮公園サッカー場)
      • 28,054人(2002年1st第9節(7月20日)・対コンサドーレ札幌、国立霞ヶ丘競技場)
      • 31,965人(2003年1st第14節(7月26日)・対ベガルタ仙台、埼玉スタジアム2002)
  • アウェー
    • 3,610人(1997年2nd第1節(7月30日)・対ジェフユナイテッド市原、市原臨海競技場)

J2

年度別観客動員記録と開催スタジアム

J1
年度 合計
動員数
最多
動員数
最少
動員数
平均
動員数
ホーム
試合数
ホームゲーム会場
(数字は試合数、太字は登録本拠地)
備考
1993年 206,265 50,348 8,258 11,459 18 駒場17、国立1
1994年 406,457 55,125 7,854 18,475 22 駒場8、大宮7、国立4、博多陸1、神戸ユ1、富山1
1995年 508,554 56,652 9,168 19,560 26 駒場12、大宮10、国立3、新潟陸1 駒場スタジアム改修
1996年 364,936 50,974 5,611 24,329 15 駒場11、国立3、札幌厚別1
1997年 328,060 38,707 14,937 20,504 16 駒場14、国立2
1998年 385,994 46,547 16,971 22,706 17 駒場14、国立3
1999年 319,146 46,401 13,329 21,276 15 駒場12、国立3 J2降格
2001年 400,799 60,553 16,808 26,720 15 駒場11、埼玉2、国立2 埼玉スタジアム開場
2002年 394,445 57,902 14,499 26,296 15 駒場9、埼玉5、国立1
2003年 432,825 51,195 18,335 28,855 15 駒場8、埼玉7
2004年 549,903 58,334 18,029 36,660 15 駒場6、埼玉9 初のステージ優勝
2005年 669,066 55,476 15,760 39,357 17 駒場4、埼玉13
2006年 774,749 62,241 16,040 45,573 17 駒場2、埼玉15 初の年間優勝
2007年 793,347 62,123 16,709 46,667 17 駒場2、埼玉15
2008年 809,353 57,050 16,225 47,609 17 駒場1、埼玉16
7,343,899 28,575 257
  • (*1)太字はJリーグ歴代最高年間観客動員数
  • (*2)かっこ内は残り試合数を表す
J2
年度 合計
動員数
最多
動員数
最少
動員数
平均
動員数
ホーム
試合数
ホームゲーム会場
(数字は試合数)
備考
2000年 338,457 20,207 13,408 16,923 20 駒場20 J1昇格
338,457 16,923 20

その他

  • ゴールキーパー初の得点
    • 1996年Jリーグ第30節(11月9日)の横浜フリューゲルス戦で、79分に味方が得たペナルティーキックをゴールキーパーの田北雄気が決め、ゴールキーパーによる初の得点を記録した(それ以降は1999年のナビスコ杯で京都パープルサンガの松永成立がクリアしたボールを、また2004年のJ2リーグで横浜FCの菅野孝憲と2006年の同リーグで東京ヴェルディ1969の高木義成フリーキックを自陣から直接ゴールに入れて得点した記録がある)。
  • 4試合連続Vゴール負け
    • 1999年2ndステージ第6節(9月4日)のジュビロ磐田戦から第9節(9月18日)の名古屋グランパスエイト戦まで、4試合連続で全て1-2のVゴール負けを喫した。なお、このステージでは第2節の柏レイソル戦でもVゴール負け(2-3)しており、勝負どころで勝ち点を奪えなかったことで同年のJ2降格を招いてしまった。2003年以降、JリーグはVゴール方式を採用しておらず、公式ルール上もVゴール方式(ゴールデンゴール方式)が認められなくなったため、この記録は今後破られることはないと思われる。

ダービーマッチ

2005年に大宮のJ1昇格により行われるようになった(2000年にもJ2でこのカードは行われているが、さいたま市の成立前であった。それ故、真の意味での「ダービーマッチ」ではないため「埼玉ダービー」と称する事がある)。悪評高い浦和サポーターが大宮のキャラクターであるリスをゴミ箱に捨てるゲーフラや大宮を揶揄する替え歌を歌う等の挑発行為を繰り返し、大宮サポーターからは極めて不評である。ホームとアウェーの2試合とも浦和レッズサポーターが約9割を占めているが、質よりも量を重視という典型的な事例である。

2008年9月21日に行われたさいたまダービー(大宮アルディージャ主催)はNACK5スタジアム大宮で開催されるが、大宮アルディージャ公式サイトで浦和レッズサポーターはビジターエリア(ゴール裏スタンド)以外での観戦を認めないほか、メイン・バックスタンドのビジター寄りでも浦和レッズのユニフォームなどの応援グッズおよびそれに類するものを身に付けての観戦した場合、退場させるなどの策を講じる表明をした。[1]

国際試合・親善試合

親善試合

開催年月日 大会名 対戦相手 開催スタジアム スコア 勝敗
92年4月4日 浦和国際親善サッカー タイ王国の旗 ポートオーソリティ 駒場スタジアム 3-0 勝利
93年4月24日 浦和国際親善サッカー イングランドの旗 マンチェスター・C 駒場スタジアム 0-2 敗戦
94年6月29日 浦和国際親善サッカー アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ 駒場スタジアム 3-5 敗戦
94年7月19日 コカコーラカップ パラグアイの旗 オリンピア 福岡ドーム 0-1 敗戦
94年10月8日 国際親善サッカー 大韓民国の旗 全北現代モータース 新潟市陸上競技場 2-1 勝利
95年8月1日 国際招待サッカー ブラジルの旗 フラメンゴ 大宮公園サッカー場 1-3 敗戦
96年3月10日 さいしん国際親善サッカー ウルグアイの旗 ペニャロール 駒場スタジアム 1-1 引分
96年12月14日 さいしん国際親善サッカー ドイツの旗 VfBシュトゥットガルト 国立競技場 5-0 勝利
97年7月22日 シャープカップ イングランドの旗 マンチェスター・U 駒場スタジアム 1-2 敗戦
00年1月23日 日蘭交流四百周年記念 オランダの旗 アヤックス アムステルダム・アレナ 1-1 引分
01年2月25日 国際親善試合 アメリカ合衆国の旗 LA・ギャラクシー 駒場スタジアム 2-1 勝利
02年5月26日 国際親善試合 パラグアイの旗 パラグアイ代表 松本平球技場 0-2 敗戦
03年6月4日 さいたまシティカップ オランダの旗 フェイエノールト 埼玉スタジアム 2-2 引分
04年7月27日 さいたまシティカップ イタリアの旗 インテル・ミラノ 埼玉スタジアム 1-0 勝利
04年8月3日 ボーダフォンカップ アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ オールド・トラフォード 2-5 敗戦
05年5月31日 国際親善試合 ドイツの旗 ハンブルガーSV 埼玉スタジアム 0-2 敗戦
05年6月15日 さいたまシティカップ スペインの旗 FCバルセロナ 埼玉スタジアム 0-3 敗戦
05年7月30日 ボーダフォンカップ イングランドの旗 マンチェスター・U 埼玉スタジアム 0-2 敗戦
06年7月31日 さいたまシティカップ ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 埼玉スタジアム 1-0 勝利
07年2月13日 ブルズカップ(45分試合) オーストリアの旗 レッドブル・ザルツブルク ザルツブルク 1-3 敗戦
ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 0-3 敗戦
07年7月17日 さいたまシティカップ イングランドの旗 マンチェスター・U 埼玉スタジアム 2-2 引分
08年7月31日 さいたまシティカップ ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 埼玉スタジアム 2-4 敗戦

その他、海外キャンプ時に現地のクラブと親善試合を数多く行っている。

国際試合

開催年月日 大会名 対戦相手 開催スタジアム スコア 勝敗
07年3月7日 ACL2007グループリーグ インドネシアの旗 ペルシク・ケディリ 埼玉スタジアム 3-0 勝利
07年3月21日 ACL2007グループリーグ オーストラリアの旗 シドニーFC オージー・スタジアム 2-2 引分
07年4月11日 ACL2007グループリーグ 中華人民共和国の旗 上海申花 埼玉スタジアム 1-0 勝利
07年4月25日 ACL2007グループリーグ 中華人民共和国の旗 上海申花 上海浦東源深体育場 0-0 引分
07年5月9日 ACL2007グループリーグ インドネシアの旗 ペルシク・ケディリ マナハン・スタジアム 3-3 引分
07年5月23日 ACL2007グループリーグ オーストラリアの旗 シドニーFC 埼玉スタジアム 0-0 引分
07年6月7日 A3チャンピオンズカップ2007 中華人民共和国の旗 山東魯能 山東省体育中心体育場 3-4 敗戦
07年6月10日 A3チャンピオンズカップ2007 大韓民国の旗 城南一和天馬 山東省体育中心体育場 1-0 勝利
07年6月13日 A3チャンピオンズカップ2007 中華人民共和国の旗 上海申花 山東省体育中心体育場 1-3 敗戦
07年9月19日 ACL2007決勝T準々決勝 大韓民国の旗 全北現代モータース 埼玉スタジアム 2-1 勝利
07年9月26日 ACL2007決勝T準々決勝 大韓民国の旗 全北現代モータース 全州ワールドカップ競技場 2-0 勝利
07年10月3日 ACL2007決勝T準決勝 大韓民国の旗 城南一和天馬 城南炭川総合運動場 2-2 引分
07年10月24日 ACL2007決勝T準決勝 大韓民国の旗 城南一和天馬 埼玉スタジアム 2-2
(PK5-3)
引分
(PK勝)
07年11月7日 ACL2007決勝T決勝 イランの旗 セパハン Foolad Shahr Stadium 1-1 引分
07年11月14日 ACL2007決勝T決勝 イランの旗 セパハン 埼玉スタジアム 2-0 勝利
07年12月10日 FCWC2007準々決勝 イランの旗 セパハン 豊田スタジアム 3-1 勝利
07年12月13日 FCWC2007準決勝 イタリアの旗 ACミラン 横浜国際総合競技場 0-1 敗戦
07年12月16日 FCWC20073位決定戦 チュニジアの旗 エトワール・サヘル 横浜国際総合競技場 2-2
(PK4-2)
引分
(PK勝)
08年9月17日 ACL2008決勝T準々決勝 クウェートの旗 アル・カーディシーヤ モハメド・アルハマド・スタジアム 2-3 敗戦
08年9月24日 ACL2008決勝T準々決勝 クウェートの旗 アル・カーディシーヤ 埼玉スタジアム 2-0 勝利
08年10月8日 ACL2008決勝T準決勝 日本の旗 ガンバ大阪 万博記念競技場 1-1 引分
08年10月22日 ACL2008決勝T準決勝 日本の旗 ガンバ大阪 埼玉スタジアム 1-3 敗戦

ユース・ジュニアユース

2008年(平成20年)DF堤俊輔がユース出身者として初めてレギュラーに定着、FWエスクデロがU-23代表入り、ジュニアユース出身のMF高橋峻希・MF山田直輝がトップチーム入りし公式戦に出場するなど、若手の台頭が活発となった。

ユース

従来は育成に長けているとは言い難かったが、ユース世代のチームとしても徐々に頭角を表してきている。エスクデロ・セルヒオ加藤順大小池純輝など、ユース出身の選手も台頭してきている。

ジュニアユース

ジュニアユース世代でも指折りの強豪チームである。ただ、トップチームへ昇格した選手こそ多いが、どちらかというと小野伸二鈴木啓太田中達也といった高校サッカー出身選手の方が活躍が多い。

アマチュアチーム

1997年に当時の横山謙三GMにより登録されたチームで、主にトップチームに昇格しなかった元レッズ・ユース選手らが進学や社会人となった際にサッカーを続けるための受け皿となっている。浦和レッズ・アマは浦和市リーグからスタートし、後には埼玉県リーグ1部にまで昇格した。

2006年度は天皇杯埼玉県予選の県1・2部リーグ予選を突破し、はじめて本予選である彩の国カップに出場したが、1回戦で城西大学サッカー部に敗退した。

初年度には横山自身や当時の岡野良定レッズ会長(当時80歳)らも選手として登録された。後にはトップチームを引退した土橋正樹渡辺隆正岩本隼児など一部の選手も登録されている他、レッズランドなどで主宰されているハートフルクラブのコーチ・スタッフも選手として参加をしている。


ユニフォーム

2007年~2008年までは国内試合用と国際試合用があったが、2009年より1つにまとめている。

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 黒(場合によって白)
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd)
GK(3rd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
GK 3rd

チームカラー

  • チームカラーは赤色、白色、黒色など。
    • 1993年、1994年のリーグ戦用セカンドユニフォームのカラーのみ水色だった。

ユニフォームスポンサー

練習用

過去のユニフォームスポンサー

ユニフォームサプライの遍歴

  • 1992年~1996年 リーグ戦はミズノ(93年、94年のリーグ戦モデル(2nd・FP用)の組み合わせは、シャツ=水色、パンツ=黒、ストッキング=水色)、カップ戦はプーマ
  • 1997年 リーグ戦はアンブロ、カップ戦はプーマ
  • 1998年~2003年 プーマ
  • 2004年~現在ナイキ

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1992 GALANT - - - PUMA
1993 MITSUBISHI MOTORS/MIRAGE - WordPerfect - Mizuno/PUMA
1994 MIRAGE/MITSUBISHI MOTORS - WordPerfect - Mizuno/PUMA
1995 MIRAGE/MITSUBISHI MOTORS - COMPAQ - Mizuno/PUMA
1996 MIRAGE/MITSUBISHI MOTORS - COMPAQ - Mizuno/PUMA
1997 MIRAGE/MITSUBISHI MOTORS - COMPAQ - UMBRO/PUMA
1998 MIRAGE/MITSUBISHI MOTORS - COMPAQ - PUMA
1999 MIRAGE Dingo/MITSUBISHI MOTORS トーシン COMPAQ - PUMA
2000 MIRAGE Dingo/MITSUBISHI MOTORS トーシン COMPAQ - PUMA
2001 PAJERO/MITSUBISHI MOTORS トーシン COMPAQ - PUMA
2002 PAJERO/MITSUBISHI MOTORS トーシン COMPAQ Smilebit PUMA
2003 COLT/MITSUBISHI MOTORS トーシン hp Smilebit PUMA
2004 MITSUBISHI MOTORS トーシン FUSO SEGA NIKE
2005 vodafone トーシン MITSUBISHI MOTORS SEGA NIKE
2006 vodafone トーシン FUSO MITSUBISHI MOTORS NIKE
2007 SAVAS/DHL トーシン/- MITSUBISHI MOTORS/- FUSO/- NIKE
2008 SAVAS/DHL トーシン/- MITSUBISHI MOTORS/- FUSO/- NIKE
2009 SAVAS トーシン MITSUBISHI MOTORS DHL NIKE

オフィシャルパートナー

メイン

サブ

ブロンズ級

★については三菱グループの一社

マスコット

  • レディア(Redia) (1992年~)
  • フレンディア(Friendia) (1997年1月26日結婚)
  • シャーレくん(Schalekun) (2006年12月2日誕生)
  • ディアラちゃん(Diarachan) (2006年12月2日誕生)

毎試合ごとに積極的なファンサービスやパフォーマンスを行う他クラブのマスコットと異なり、浦和はクラブ方針から、マスコットをほとんど露出させていない。レディアやその家族がサポーターの前に姿を現すのは、毎年1月に開催されるレッズフェスタ(ファン感謝デー)、ゴールデンウィークに開催されるファミリーJoinデイズの該当試合、J1全クラブのマスコットが集まるJリーグオールスターサッカーの余興イベント程度で、基本的に1年でこの3回しか見ることは出来ない。

エンブレム

エンブレムはクラブ発足時から2001年1月までは縦長の菱形にサッカーボールの上半分と"MITSUBISHI URAWA FC"というロゴが書かれたものであったが、2001年2月から現行のものに変更された。現行のエンブレムには埼玉県のサッカーの発祥の地である埼玉県師範学校の校舎「鳳翔閣」や埼玉県の県花であるサクラソウが描かれており、三菱色より地元に根ざしたクラブである事を表現したものになっている。

背番号について

2008年現在、サポーターのために欠番を設定していないクラブは浦和1クラブだけである。

Jリーグに所属するクラブの多くは、背番号12をサポーターズナンバー(レギュラー11人に続く12人目の意味)として永久欠番としているが、浦和レッズは背番号12を欠番にしていない。また、チームマスコット「レディア」の背番号17もサポーターズナンバー(ベンチ入り16人に続く17人目の意味だが、規約改正で2006年からはJ1では18人がベンチ入りとなっている)になっていない(なお、鳥栖はかつては背番号12をサポーターズナンバーにしていたが、2005年からは背番号17をサポーターズナンバーにしており、背番号12は選手ナンバーとして使用している)。

入場曲・ 公式ソング

メディア事情

浦和レッズの情報を知るには下記のメディアが有効である。

  • 新聞雑誌
    • 埼玉新聞地方紙
    • 月刊浦和レッズマガジンアスペクト) 浦和レッズ専門雑誌 毎月12日発売
    • 浦和フットボール通信フリーペーパー) 浦和レッズ・浦和の街の情報を集めたフリーペーパー 毎月発売
    • マッチデープログラム 今やどのチームも何らかの形で発行しているといっていいマッチデープログラム。1992年の第1回ナビスコ杯以降、全てのホームゲームにおいて発行されている(その他、カップ戦の決勝戦の際にも発行され、シーズン開幕前には増刊号が発行される)。定価は税込み300円(2005年、2006年は200円であった)。2004年までは地元の埼玉新聞が編集を行っていたが、2005年から浦和レッズが直接携わり、編集は埼玉新聞に勤務していた清尾淳が一貫して担当し続けている。略して「MDP」という呼び方は、特に浦和レッズのマッチデープログラムを呼ぶのに使われる。
    • 朝日新聞タブロイド紙レッズトゥモロー 2007年からパートナーの朝日新聞が埼玉県内限定でホームゲーム前日に発行する4ページタブロイド紙を始めた。浦和レッズが編集しており、浦和レッズに関する情報が掲載されている。1回当たりの発行部数は60万部で、年間約25回発行される。サッカー専門の紙媒体としては、日本で最大部数となっている。
    • なお、日刊スポーツとはパートナーシップを結んでいるが、同紙はどちらかというと扱いが悪く、なおかつ、サポーター感情を逆撫でるような記事も目立つ。
  • インターネット
    • 浦和レッズ・オフィシャル・ウェブサイト 浦和レッズが発信する公式ホームページ。通常のニュースや情報のほか、動画による配信もある。選手ブログ等がないためエンターテインメント性に欠けるが、多くの報道の真偽を確認する場として重宝されている。
    • 浦和レッズモバイル 浦和レッズが運営する有料の携帯サイト。2007年に本格的にスタートした。公式ならではの情報や動画の多さが特徴。
    • レッズプレス 外部メディアが運営する有料の非公式携帯サイト。ライターを起用したコラム等で、外部からの視点を取り入れた展開をしている。

浦和、浦和レッズとの関連性のある漫画

他クラブと特異な点

上記の「背番号12使用」以外にも、浦和レッズおよびサポーターは試合運営・サポート体制等において、他のクラブとは明らかに異なる点がいくつかみられるのも特徴である。

  • ゴール裏サポーターが襷を使わない(以前は使用していた)
  • ゴール裏サポーターが多くの小グループに分かれており、正確な数がわからないほどのサポーターグループがある。チーム同様、サポーターもまとまりを欠いている。
  • 試合開始前に、有名人などをピッチ上に招いてのイベントを一切と言ってよいほど行わない
  • レディア、フレンディアの着ぐるみがスタジアムに登場しない(こどもの日の前後の試合など、例外あり)
  • 得点時に、スタジアムDJが「ゴーーーール」などと叫ばない(これは鹿島アントラーズも同じ)

浦和の街(浦和地区

現在、浦和地区(旧浦和市だった地域の事)には51万人が居住している。 浦和地区は、浦和区南区緑区桜区で構成されていて各区ごとにレッズ色がある。

  • 浦和区・・・・・文字通り浦和地区の中心部。かつてクラブ事務所があった地域。あらゆる所にレッズ色が伺える。聖地駒場スタジアムやクラブのオフィシャルショップレッドボルテージ、オフィシャルのコミュニケーションスペースレッズゲート(2007年10月に浦和パルコ内にオープン)や、練習場の大原サッカー場、選手の寮「吾亦紅(われもこう)」がある。他に、サポーターの集まる酒蔵 力URAWA POINTスマグラーティナ・ラウンジクウォーターを始めとする数々のお店が集中。レッズスクエアレッズウェーブもこの区。浦和レッズに関する書物はここに来ればすべて揃うと言われる。特に書店の須原屋本店はレッドボルテージのそばであることもあり浦和レッズ関連コーナーを常設しているほどである。(逆にこのエリアで販売してない書籍はどこに行っても手に入らない)。また、「サッカーの街 浦和」としての土台を築いた県立浦和高校浦和西高校市立浦和高校の所在地でもある。浦和駅周辺では伊勢丹浦和店前でチームの軌跡や主要選手の手形や足型を展示するスペースがあり、また京浜東北線ホーム1番線の発車メロディとしてオフィシャルサポーターソング『Keep On Rising』が使われている。
  • 緑区・・・・・クラブの事務所とホーム埼玉スタジアム2002がある区。かつて、浦和美園を中心とする浦和の新総合練習場レッズタウン構想があったが、現在では構想は消滅している。埼玉スタジアムも含まれる浦和美園地区は元々の人口はほとんどないが、「サッカータウン」として開発されており、将来的には2万5000人以上の住民が居住する予定。
  • 桜区・・・・・レッズランドのある区。
  • 南区・・・・・漫画・アニメ『赤き血のイレブン』の舞台のモデルである浦和南高校がある区。
  • 番外編・・・・・隣接する川口市にはクラブ公認のショップを併設したRED GROOVEというショップ&カフェがある。また川口市も浦和に負けず劣らずJリーグ発足の以前よりサッカーの盛んな土地柄であり、過去には全国大会での優勝経験のある中学校も存在し、Jリーガーから転じて中学校教師となったサッカー指導者もいる(現在は別の市に転任)。
  • 練習グランド・・・・・さいたま市の大原サッカー場と、埼玉スタジアムサブグランドで練習を行っている。見学は自由であり、スタンドも整備されている。独身寮とは歩いても数分の距離だが多くの選手は自動車を利用しているので沿道には選手を待つファンが見られる。なお練習グランド周辺は駐車スペースがないため見学にはバスなどを利用されたい。

関連項目

  • 渡辺アナウンサーは浦和区出身。レッズファンを公言し、2008年9月からFMでサッカー番組を担当。

外部リンク

先代
WBC野球日本代表
日本プロスポーツ大賞受賞者
2007年
次代
石川遼