ドク・ウマロフ
ドク・ウマロフ(Doku Umarov, 1964年4月13日 - )は、チェチェン分離主義者の野戦指揮官、国際的に未承認のチェチェン・イチケリア共和国大統領。チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国、アチホイ・マルタン出身。チェチェン人。
1992年7月、殺人容疑で指名手配。1994年末、チェチェン分離主義者の部隊を率い、ロシア軍との戦闘行動に参加。1996年までに、准将の階級を授与。1996年末から、野戦指揮官アルビ・バラエフと共に、買収目的の誘拐に従事。
1997年6月1日、アスラン・マスハドフ大統領により、安全保障会議書記に任命。1997年11月から、犯罪対策調整本部を指揮。誘拐と検察庁職員襲撃への関与に対して、全ポストから解任。
1999年の第二次チェチェン紛争開始と共に、戦闘行動に参加。「マスハドフがモスクワと交渉に入れば、彼を射殺する」と公言していた。
2000年3月27日、ロシア当局は、ドク・ウマロフの戦死について発表したが、彼は死んでおらず、2002年8月、マスハドフにより西部戦線司令官に任命された。ヴェジェノ及びウルス・マルタン地区の居住区の奪取(2002年8月)、チェチェン検察庁職員の誘拐(2002年12月)、FSBイングーシ支局庁舎とキスロヴォーツク発電所の爆破(2003年9月)等、一連のテロ行為を行った。
2004年3月、死亡したルスラン・ゲラエフの後継者と自ら宣言し、彼の部隊を支配下に置いた。同年8月、マスハドフにより国家保安相に任命。
2005年6月16日、アブドル・ハリム大統領により、国家保安相の地位を維持したまま、副大統領に任命された。
2006年6月17日、ロシア当局によるアブドル・ハリム殺害後、法の規定に従い、チェチェン・イチケリア共和国大統領職を継承した。大統領就任後、チェチェン・イチケリア共和国軍ウラル戦線(指揮官:アミール・アサドゥラ)、沿ヴォルガ戦線(指揮官:アミール・ジュンドラ)を創設した。
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